自分が乙女ゲームの主人公だと気づいたのは、いつからだっただろう?
王族、貴族、平民の階級がはっきり分かれた世界で、私はどこにでも居る街娘だった。
けれど、実の両親が今は亡き子爵家の人間だと知らされのは、雪も解けて春を今か今かと待ちわびるようになった頃。
実の父親の、年のかなり離れた異母兄弟だと名乗る伯爵の訪問により、私は彼の養子となった。
ただの貧乏街娘だったアイリスが、貴族となった日、シナリオはすでに始まっていたのだ。
もうこの独白もかなり繰り返しているので簡単に端折って説明すると、私は前世の世界で発売されていたと思われる女性向け恋愛シミュレーションゲームの主人公として生まれ変わった。
プレイしたことはなかったけれど、たまたま見つけたゲーム配信で流し見をしたことがあったのである程度の内容は理解していた。
このゲームの攻略対象は、ほとんどが王族や貴族の少年である。
隠れキャラで執事、他種族の少年がいるものの、本編が学園を舞台に繰り広げられるストーリーなため、大体が貴族の殿方だった。
物語は特別壮大なストーリーというわけでもない。魔法があるわけでもないし、実は主人公が世界の命運を背負う立場にいたという設定もなかったはず……。
あくまで王族、貴族の殿方と学園を舞台にときめき合ってメモリアルするゲームだと私は認識していた。
もちろん攻略対象キャラによってトラブルだのなんだの問題が降り掛かるわけだけれど、それはよくある言わばストーリー内の山であり谷である。
それを乗り越えてキャラを落とす快感は乙女ゲームの醍醐味なのだろう。むしろ単調な日々ではゲームとして面白くない。
とはいえ、どんなストーリーにも終わりがある。
このゲームでのエンディングとは、学園の卒業パーティーで攻略対象キャラに求婚されること。好感度が足りない場合は、「いろんな人にめぐり会えて、不安もいっぱいあったけど素敵な学園生活だったな……」という主人公の独り言で物語は終了する。
とても平和な終わり方。その後の主人公の人生は、プレイした乙女の誰も知らない。
だが、ここは私にとってすでにリアルの世界。乙女ゲームの中だろうが、目の前に選択肢が出てくるわけでもないので、普通の学園生活を送ろうと思っていた。
……だってね?
前世は普通の一般市民で、今世は街娘として育った平民なのよ。それがいきなり貴族の世界に入れられて、正直恋愛してる暇ないんだよね。
乙女ゲームのヒロインなのに恋愛してる暇ないって笑えてくるけど。
語学はまだ間に合うけれど、大変なのは実技のほう。裁縫、楽器演奏、ダンス、テーブルマナー……体に叩き込まなければいけないことは沢山ある。
幸い、私を養子として引き取ってくださった伯爵は、とても優しい方だ。年もまだ二十代後半と若く、波長も合うし、父親という感覚がない。
私を気遣って養子に迎え入れてくださった伯爵のためにも、せめて標準レベルの貴族のお嬢さんとして振る舞いたい。その思いだけに尽きる。
そう、だから。ただでさえ平民が貴族に成り上がって風当たりが強いというのに、それ以外で問題を持ち込みたくなかった。私はとりあえず、ひっそり過ごしたい。
攻略対象と恋愛してる暇など──無いって言ってるのにぃ!!
「ちょっとあなた。どういうつもりですの!?」
「殿下がエリザベス様の婚約者だと知っていて、あのように近寄るなんて、さすが平民の出は違いますわ! 図々しい!」
校舎裏で私は囲まれていた。他の貴族の令嬢に呼び出しをくらってしまったのだ。
彼女たちの言うエリザベス様とは、この国の宰相を務めるエリクシア公爵のご長女エリザベス様のことである。乙女ゲームでは、いわゆる悪役令嬢で登場していた。
先日、学園の図書館にて、探している本を見つけてくれた青年がいた。
金髪がとても眩しく、綺麗な人だなという感想を持っていたけれど、彼がエリザベス様の婚約者で、この国の第一王子だったらしい。
その図書館での始終を他の生徒に見られ、また次々と色んなところで鉢合わせた結果、王子に近づいたアバズレとして呼び出しをくらってしまったのだ。
「そ、そんな……そもそも私は、初め彼が王子殿下だと知らなくて……」
学園ではあまり目立ちたくなかったため、大人しめなキャラで通していたのだけれど、それが余計に彼女たちを強気にしているようである。
「嘘をおっしゃい! 殿下のお顔を知らなかったなんて、そんな言い訳通用するとでも思っているの!」
つい先日まで平民だった私が、そうやすやすとこの国の王子様の顔を見るわけないだろーが!
突然目の前に現れたってそいつが王子様だと瞬時にわかる高スキル持ってないんだよ!!
「婚約者のいる殿方に、あんなに近づくなんてどうかしてますわ!」
気配なく背後に立たれて「どの本をお探しですか?」と言われたあの状況をどう回避しろと?
彼が王子様でなくても、話しかけられたら返答するのが常識である。無視するほうがどうかしている。
「殿下に親切にされたのをいいことに、ちょこまかとちょこまかと付き纏うなんて、この泥棒猫!!」
いやそれも訂正させて?
付きまとっていたわけじゃないんだ。
たぶんだけど、今現在攻略対象キャラが王子様しか出ていないから、色んなところでばったり会ってしまうんですよね。
さすがに休日に久しぶりに街に出かけてお忍びを装った王子に鉢合わせたときはヒロイン補正を呪ったけれど。
不可抗力なんですってば!!!
だが、逆上した彼女たちの言葉は一方通行のみ。私の声なんか聞いちゃいねぇ。
「こんなところで、何をなさっているの?」
どうしようかと本気で迷っていた時、助け舟が現れた。
「……え、エリザベス様っ」
現れたのは、エリザベス・エリクシア公爵令嬢その人である。
彼女はプラチナブロンドの長髪を流麗に靡かせ、綺麗な立ち姿のままゆったりとこちらに歩いてきた。
初めてお顔を拝見したエリザベス様はとても美しく、思わず息を呑む。
あれ? そういえば……王子殿下が登場したのなら、婚約者であるエリザベス様が悪役キャラとして邪魔をしてくるはずなのだが。
思い返せば、それが一回もなかったことに気がつく。おかしい。なぜ。
「エリザベス様、わたくしたちはただ……この者に立場というものを……」
先ほどとは打って変わり、私をシメていたご令嬢たちは顔を青くさせて口ごもっている。
エリザベス様の迫力に気圧されているのだろう。たしかに美し過ぎて圧倒されてしまうよね。
「あなた方の気遣いは大変嬉しいけれど、ご心配には及ばなくてよ。それよりも……このような場所で多勢に無勢で囲い込むなんて、あなた方の品位に欠けます」
「も、申し訳ございませんでしたっ!!」
ぐうの音も出ない彼女たちは、エリザベス様に深くお辞儀をして逃げるように去っていってしまった。
「わたくしに謝ってどうするの……」
エリザベス様の呆れた声を耳にしながら、私は胸をほっと撫で下ろす。
今回はエリザベス様が出てきてくれたけど、そう何回も都合よく現れてくれない。今度からは自分で対処するようにしなくては。
「ありがとうございました、エリザベス様」
「いえ、いいのよ。ごめんなさい。巻き込んでしまって」
「そんな、エリザベス様が謝る必要はございません! あの、私は、アイリス・ペテンシアと申します。このたびは本当にありがとうございました」
深々と頭を下げると、エリザベス様はきょとんとした様子で私を見つめていた。
けれど、気を取り直したように表情を変えると、彼女はにっこりと微笑みを浮かべる。
「彼女たちが言ったことは気にしないで貰えると嬉しいわ。でも、わたくしが婚約者だということで気が立っているみたい。殿下は分け隔てなく誰にでもお優しいけれど、アイリス様を気にかけているのは事実ですからね」
「いえ、そんなこと……」
「……でも、それでいいと思うの」
「え……?」
エリザベス様の声が変わったような気がして、パッと顔を正面に向けると、それと同時にエリザベス様が私の両手を包み込んできた。
「婚約者といっても、幼い頃に交わした約束ごと。わたくしは殿下が幸せならばそれでいいの! だから、アイリス様、いつまでも末永く殿下のお傍にいてくださいまし」
いやいや、末永くって。私は婚約者でもなんでもないんですが。
そんなに瞳を輝かされても、私は王子殿下とどうこうなる気はさらさらない。
それに、たしか王子殿下ルートだと、悪行を働いたエリザベス様は卒業パーティーの日に断罪されてしまう。そんな展開は胸糞悪いから私が阻止したい。
「……エリザベス様、一言申し上げたいのですが」
「? なにかしら」
エリザベス様は勘違いされている。どうにかしてオブラートに包んで説明したいと思い口を開いたところで、
「エリザベス!」
またもや、乱入者が現れた。
あ、噂をすれば王子殿下だ。
「フィリップ様!」
「君の姿を見かけたから、つい声をかけたくなってしまってね」
エリザベス様に向けられた甘い声に、こっちまで恥ずかしくなってくる。
「ここで一体何をしていたんだい? そちらにいるのは、アイリス嬢? エリザベスと知り合いだったのだね」
エリザベスの前に「うちの」が付きそうなほど、フィリップ殿下が彼女に向ける眼差しは優しい。完全にうちのエリザベスって言ってるようなもんじゃないか。
「ごきげんよう、殿下。たった今、エリザベス様に助けていただいたのです」
挨拶は大切。スカートの裾を摘んでゆったりとお辞儀をする。挨拶ならもう完璧ですわ。
「エリザベスがあなたを? エリザベス、何があったんだい?」
「そ、そそれは……ええと。そんなことより、殿下! アイリス様を医務室に連れて行ってくださいませんかっ。腕から血が出ていて……」
おっと、エリザベス様の口調が少し変わってきた。王子殿下の前だとそうなのだろうか。
にしても血って……ああ、さっき私を呼び出したご令嬢の爪が当たったからか。
「怪我……? 本当だね、傷が残ったら大変だ」
「でしょう? 大変なのです。ですので殿下……」
「それでは、私の従者が責任を持って医務室までお連れしようか」
「え?」
そう言うと、どこからともなく現れたのは、王子殿下の側近と思われる青年だった。
「アイリス嬢を医務室まで」
「かしこまりました、殿下」
「で、殿下!?」
「ねぇ、エリー。私は君の婚約者なんだ。君の怪我を見抜けないわけないだろう?」
「怪我って、なんのことですの」
「アイリス嬢が呼び出されたと知って、慌ててこちらに向かっただろう。その際に足首を挫いたように見えたんだけど、気の所為だったかい?」
「え、え? 殿下……ここには通りかかったと仰っていたではありませんか。ま、まさか全部見て!?」
顔を赤くさせたエリザベス様に、王子殿下はふんわりと微笑みかけた。
エリザベス様、足を挫いたの?
それは大変。私の引っかき傷なんかより明らかに重症じゃないか。
「さて、どうかな。それよりも、足首に負荷をかけてはいけないよ。少し失礼するね」
「きゃっ、殿下!?」
目の前で何が起こったかと言いますと、王子がエリザベス様を横抱きにしたのです。世にいうお姫様抱っこですね。
あわあわと慌てるエリザベス様を見て愛おしそうにする王子。私はピーンときた。
……これは、もう、惚れてますね?
「アイリス嬢。騒がしくさせてしまったね。私の従者が医務室まで案内する。……さて、エリー。少し大人しくしているんだよ」
「ちょっ、殿下! わたくしのことよりアイリス様を気にしてください! わたくしに気を遣わず、殿下のお心を最優先に!」
「……心の通りにしているというのに、君はまだ気づいてくれないんだね」
フィリップ殿下は、若干黒い笑みを浮かべながらエリザベス様を見つめた。
まじ? エリザベス様、これでも王子様の気持ちに気づいていないのか。この鈍感具合、むしろあんたが物語の主人公なんじゃない?
ここまで対応の差を突きつけられると逆に清々しい。お姫様抱っこをされながら、エリザベス様は最後までこちらを気にしていたけれど、私は笑顔で見送った。
「アイリス嬢、医務室はこちらになります」
「いえ、ただの引っかき傷です。大したことありませんので、お気になさらず」
「しかし……」
王子殿下の従者は、私の言葉に驚いた様子だった。また王子様からの言いつけなので、私が医務室に行こうとしないことに困っている。
「殿下とエリザベス様は、どちらに向かわれたのでしょうか」
「……」
従者はなにも答えない。何か思うことがあるのだろうか。彼はほんのりと切なそうな顔をして、二人が歩いて行った通りに視線を向けている。
この従者、モブ顔でもなく顔が整ってるとは思ったけれど、もしかしてエリザベス様が好きなのかな。めっちゃ切なそう。
「……やっぱり、医務室までお願いできますか?」
「ええ、もちろん」
こうしていても埒があかないので、私は形だけでも医務室に向かうことにした。
私よりも足首を捻って重症だと思われるエリザベス様のほうが、医務室を必要としている気がするのだが。おそらく二人は別の場所に行ったのだろう。
……さて、どこへ行ったのでしょうねぇ。
次にエリザベス様にお会いしたら、是非とも物申したい。
なぜ自分の婚約者を推してくるのか知らないが、私はそんなつもり全くありませんと。
むしろフィリップ殿下はすでにエリザベス様に気があるように見える。お二人の仲を裂きたくない(イベント面倒くさい)。
とってもお似合いですよ。
フィリップとエリザベスなんて、もう結ばれることを前提に付けられた名前ではなかろうか。知らんけど。
それにフィリップ殿下は、実は腹黒だったはず。彼の腹黒が表立って出てしまう前に、彼の気持ちに気づいて欲しい。
私は鈍感そうなエリザベス様に切に願う。
「それに私、タイプは伯爵様だし」
「何か仰いましたか?」
「いいえ、なにも」
私が好きなのは、糸目設定のわりによく開眼する、優男な伯爵なのです。
シナリオが用意された乙女ゲームの主人公ちゃんをしている暇などない。
だから私は、今日も彼に恩を返せるように、恋愛そっちのけで勉学に励むのだ。
なので悪役令嬢エリザベス様、どうか王子を私に押し付けないでください。切実に。