四月も半ばを過ぎる頃。研修期間はこれにて終了となり、新入社員に付いていた教育係が外れた。これからは自分の力で進んでいかなければならない。

「肩に力を入れ過ぎず。まー、頑張れ。あと深沢は、自信なさげにごにょごにょ話す癖があるから気を付けろよ。ハッキリ自信を持って言葉にしないと相手も不安になるし。そんな会社の社員と取引なんかしてくれないぞ」

 もっともな励ましの言葉を残して、僕の教育係をしてくれていた新田さんが早々に外廻りへ出かけて行った。僕は痛いところをつかれて凹みつつ、もっともですと肯定しヘコヘコと頭を下げた。しかし落ち込んでばかりもいられない。自社の取り扱っている製品カタログが満載されているタブレットと相手に渡す陽のパンフレット。出来上がって間もない新製品のステープラーやペンの現物をバッグに入れ、スーツの内ポケットにある名刺入れの中身を確認する。

「よし。完璧」
「張り切ってんじゃんよぉ」

 隣の席の結城も同じように名刺入れの中身を確認しながら茶化してくる。

「張り切ってるわけじゃないよ。こうでもしていないと、自信の「じ」の字も出てきそうにないからさ」

 浮かぶのは苦笑いだけだ。

「相手が可愛い女性社員なら、俺はガンガン張り切るんだけどな。きっと、相手はおっさんだよな」

 セクハラめいた発言をした結城は、ケタケタと可笑しそうにしている。

「なぁ、昼飯どっかで落ち合おうぜ。今日はどの辺り廻るんだ」

 結城の冗談に笑みを浮かべながら、昼食の誘いに応じる。今日廻る予定の経路を説明して、神田で落ち合うことにした。

 新規の得意先を得るのは、並大抵の努力では無理だと新田先輩に言われていた。今のご時世、会社単位で購入してもらうのはかなり大変だという。文房具など、他の備品と一緒にネットでいくらでもまとめ買いできるし。そもそも得意先などとうに存在しているわけだから、自社が捩じ込むのは至難の業と話していた。

 それにしても、これから頑張ろうとしている新入社員に、無理だ。なんて言うか? 新田先輩は明るくていい先輩だけれど、後輩のモチベーションを上げるのはあまりうまくないようだ。

 新田先輩からの言葉を踏まえ。だったら、どこへ売り込めばいいのか。自分なりに考えた結果、新規出店予定の文房具取扱店への卸だと決めた。年内にオープン予定のショッピングモール内に出店する文具取扱店をピックアップしてタブレットに登録していく。

 事前に電話連絡を入れてある営業先もあるが、飛び込みだってやらなければいけない。突然の往訪など基本門前払いだろうから、行く前から気落ちしてしまいそうだけれどやるしかない。一人だという不安と、新規獲得をしなければいけないというプレッシャーを抱え。山手線に揺られながら、出店予定のあるメーカーの本社へと向かった。が、当然成果はでない。話を聞いてもらうのさえ大変だった。何とか粘ってパンフレットだけは受け取ってもらえたが、あちらからの連絡は期待できないだろう。二、三日時間を置いて、営業の電話をかけることにしよう。

 昼になり。神田で落ち合った結城と定食屋のテーブル席に座り、僕は生姜焼き定食を食べていた。店は長年営んでいるようで、けして綺麗とは言い難いが味はいい。ご飯の盛りも多めだし、味噌汁はしじみの赤出汁だ。この辺りにはサラリーマンが多いから、二日酔いに効く赤出汁はありがたがられるだろう。

「つーかさ。初めっから仕事が取れるなんて思っちゃいねぇけど。あんな言い方しなくてもよくねぇ」

 届いたカツ丼を前に、結城が不満を口にしながら割箸を割る。結城は一瞬、カツ丼の甘しょっぱい匂いに頬を緩めたが、またすぐに不機嫌な顔に戻した。

「カタログだけでもご覧になってみてくださいって、こっちが低姿勢で言ってんのによ。目もみず、忙しいって払い除けやがって。フロアに散らばったカタログを拾う時の情けなさったらなかったし、俺だって忙しい中きてるっつぅーの」

 愚痴をこぼしながら、カツ丼のカツを豪快に口に入れて咀嚼した。

 どこも不景気でイラついているのは解るが、確かに払い除けるというのは酷いな。

「タイミングが、悪かったと思うしかないよ。もしかしたら、その人。何か緊急のトラブルがあって、急いでいたのかもしれないし」

 怒りを鎮めようと冷静に告げると、結城の動きがピタリと止まる。口に含んでいたカツをゆっくりと咀嚼してごくりと飲み込むと、割箸を丼の上に静かに置いた。ピリッとした空気が流れる。

 結城の抱える不満を煽ってしまっただろうか。こういう時は、一緒になって営業先の文句でも並べ立てた方がよかっただろうか。地雷を踏んでしまったかとドギマギし箸が止まる。内心ヒヤッとしていると、突然動き出した結城は、「ふかざわっ。お前、マジ神だな」と僕に向かってクシャリと相好を崩した。

「お前、ホントいいやつだよな。どうやったらそんな風に考えられんだよ。俺なんか文句しか出てこねぇよ。マジ神だから、カツ食うか?」

 慰める僕に向かって、箸で摘まんだカツをこちらに向けるから苦笑いで断った。

 昼飯のあとは結城と別れ、再び営業先廻りをして今日も靴底を減らした。結城は神だなんて持ち上げてくれたけれど、僕だって門前払いの数々に体だけでなく心も疲弊していた。飛び込みで訪問したところなど、居留守をつかわれたところもあったし。営業だとわかるや否や、右手でしっしと払い除けるようなしぐさまでされてしまった。まるで野良犬扱いだ。相手にしてみれば、新入社員の営業など面倒でしかないのだろう。

 肩にかけたビジネスバッグのズシリととした重さに肩も凝る。首筋に手を置き、ぐるりと頭を回し、コキコキと骨の鳴る音を聞いてからスマホを取り出した。今まで、スマホに付いているステップ機能など気にしたこともなかったけれど、今日一日歩いた歩数を確認して、疲れが余計に増した。

「三一四一六歩」

 これだけ歩いたら、山手線で何駅分なのだろう。

 一瞬調べようかとも思ったけれど、更に疲れが増しそうでやめた。

 クタクタになった足を引きずって、仕事帰りにときわ商店街に向かった。帰ってから一人分の食事を用意する気力もないから、肉屋の増田さんのところでメンチカツとコロッケでも買って帰るつもりだ。

 ネクタイの締まる首元を緩め歩いていると、健さんが店の外に出てきた。

「よう、樹。仕事帰りか?」

 相変わらずの陽気で明るい態度だ。

「えぇ、まぁ」
「なんだ、なんだ。覇気がねぇなぁ」

 疲れてクタクタの僕を見て、健さんが元気づけようと更に声をかけてくる。けれど、気力もなく、ため息まじりの返事が出るだけだ。

「今日は、何を食うんだ?」
「増田さんのところで、メンチでも買おうかと」
「なんだよ。メンチなんてケチ臭いこと言ってないで、肉の塊を食え、塊だ。若者は、肉に齧り付くんだっ」

 ケタケタと笑いながら肉を勧めてくる健さんは「俺の晩飯は、刺身で一杯だ」とグラスを持つ仕草と共に笑みを浮かべている。

「いつか樹とも飲みたいからよ。空いてる日があったら言ってくれよ。一杯くらいは奢るぞ」

 腰に手を当てて笑みを浮かべた健さんは「さっさと飯食って寝ろよ」と労わりの言葉を僕にかけ店先から見送る。

 健さんの店をあとにし、増田さんの店に向かった。途中にある、角を曲がった先に目を向ける。四軒ほど先には、マシロを買ったペットショップが見える。マシロを逃がしてしまった罪悪感と、いなくなってしまった寂しさが疲れに加わり、更にぐったりとしてしまった。

 情けなさと後悔を振り切るようにして、ペットショップから視線を外して先を行った。

「こんばんは」

 源太さんの働く和菓子屋の斜向かいに、増田さん夫婦の精肉店がある。ここでは、扱っている肉を使ってメンチカツやコロッケ。鶏の唐揚げやトンカツなど、色々な総菜が売られていた。そして、七時を過ぎるとそれらの総菜が値引きされ始めるのだ。何度も言うが、新入社員はけして裕福ではない。寧ろ貧乏と言っていいくらいだ。そんな僕が、なけなしの金でマシロを買い、たくさんの飼育セットを無理してでも購入したのは、一輝のことがあったからだった。なのに、僕ときたら。

 何度でも訪れる後悔は、自身のふがいなさに拍車をかけ、情けない気持ちを増幅させていくばかりだった。

「おうっ。いっ君。今帰りかい?」

 閉店時間が近づいているからか、増田さんの旦那さんが店に出ていた。奥さんの姿が見えないのは、晩飯の支度で奥に引っ込んでいるからだろう。

「メンチカツとコロッケ貰えますか」
「あいよっ」

 増田さんは、威勢のいい掛け声と共に、二十パーセント引きになっているメンチとコロッケを袋に詰めてくれる。

「どうだい。仕事はって、その顔は相当疲れてんな。新入社員なんて、雑用ばかりで気も使うし。疲れるよな」

 わかる、わかる。とでも言うようにうんうんと首を動かす増田さんに、いえ、まぁ。なんて気の利かない返しをする。

「ほらよっ。俺んちのメンチカツを食って、元気出しなよ」

 増田さんは、満面の笑顔で袋を差し出す。

「はい。ありがとうございます」

 頭を下げて袋を受け取り、ゆっくりと踵を返した。

 自宅マンションへ帰るために、来た道を戻る。どこか路地を抜ければ近道になりそうな気はしているのだけれど、今はそんなことを考える気力も体力もない。足かせみたいな革靴を引きずって、とにかく足を前に出すのが精いっぱいだった。

 マンションに戻り鍵を開けて中に入る時、隣の玄関先を見たけれど、今日も静かで在宅しているのかどうかもわからない。一体、梶さんは何をしている人なのだろう。

 同じように、自室も静かで。少し前まであったマシロの息遣いが聞こえない空間は、暗くて寒い穴蔵みたいだ。うさぎが鳴くことはないから、静かなことは同じだ。それでも、一輝に話しかけるみたいにマシロに向かって言葉をかけていた頃と、この部屋の雰囲気は雲泥の差だ。ケージを開けてやれば、嬉しそうに中から飛び出してきて、僕の周りをちょこちょこ動いていた姿が今はもうない。自ら手放してしまった命はこれで二つ目だと思うと、自分のしている罪の重さに圧しつぶされそうになる。ベッドわきに飾ってある写真に視線を向ければ、幼いままの一輝の笑顔が僕を見ている。二度と会うことの叶わない一輝に向かってごめんと呟けば、鼻の奥がつんとなり情けなさに溜息しか出てこない。背を丸めて肩を落とし、キッチンで増田さんのところで買ったメンチとコロッケを袋から出したら、買っていない唐揚げが三つ入っていた。無垢な親切心が嬉しい反面、自分の犯した罪を知らない増田さんを思うと心が痛んだ。目の前の命を見捨てた罪悪感に苛まれ、苦しさに喉の奥がキュッと締まり目頭が熱くなる。

「僕は、こんなに親切にしてもらえるような人間なんかじゃない」

 呟きは、涙と共に冷たい床に零れ落ちた。