サラリーマンが集う居酒屋のテーブル席で向かい合い、ジョッキのビールを前にため息を吐きつつ結城が項垂れた。

「やっぱ、商社を受けるべきだったかなー」

 つい今朝方、酒はしばらくいいと言っていたばかりなのに、結城はビールに喉を鳴らしてうまそうに顔を歪めている。僕と同じように学習能力のない結城を前に頬が緩んだ。

 晩飯も兼ねた居酒屋のテーブルには、ポテサラやメンチカツに唐揚げと。安くても腹に溜まるものが並んでいた。新卒の給料なんてたかが知れているのだ。
 結城とは別の大学だったけれど、先日の飲み会でやたらと馬が合い、席も隣同士になったせいもあって話すようになっていた。

「つーか。うちの部署、女の子少ないよな」

 結城は、不満そうに唇を尖らせる。

「営業二課は、多いみたいだよ」
「そうか。子供向けの方か。失敗したな、そっちに希望を出すべきだった」

 女の子が大好きな結城は、くっそう、なんて半ば本気で悔しがっている。明るくて話の上手い結城のことだから、女性に苦労したことはないように思えるけれど、どうやら今は彼女募集中のようだ。

「そもそも、俺。特に文房具が好きなわけでもないしな」

 ポテサラを摘まみ飲み込むと、結城は小さく息を吐く。どうやら、女の子の話から商社の話に戻ったようだ。

「けど、英語はあまり得意じゃないんだろ?」

 結城は歓迎会の席で、英語がペラペラだったら、人生違っただろうなぁ、と愚痴をこぼしていた。

「そうっ。そこなんだよっ」

 目の前の俺に指を突き付けて、結城はまた項垂れる。

「日常会話くらいなら問題ないけど、ビジネス英語となると訳が違うからな。深沢は、希望の会社だもんなぁ。羨ましいよ」
「まぁ、僕も希望はデザイン課だったから、微妙だけどね」

 パンパンになっているふくらはぎや、足の裏の痛みに苦笑いがもれる。
 僕と同じように、就職を機に結城も一人暮らしを始めていた。同じ沿線で僕の住む最寄り駅より二つほど先らしい。

「なんつーかさ。同じバリバリ働くんでも、商社の方がカッコいいじゃん」
「見た目かよ」

 クツクツと笑う僕を見て、給料だって段違いだと結城は再び唇を尖らせた。

 確かに、商社の方が給料は遥かに上だろう。ただ、あまり忙しすぎるのは僕の性に合わない。メーカーの営業でさえ足を棒のようにしているのに、商社なんかで働いたら体が持たない気がする。

 昔は運動が得意だった。一日中駆けずり回って遊んだって、体力はあり余っていたし、かけっこも速かった。グラウンドにある鉄棒やのぼり棒なんかの遊具は、まるで体の一部みたいにどんなことでもできた。けれどあの日を境に、僕は活動的な子供ではなくなった。外で遊ぶよりも、家にいることの方が増えて。身体を動かすよりも、本を読んでいることの方が多くなった。すっかり落ち込んでしまった母の様子をビクビクと窺っては、一輝が好きだった本を手にするために図書館で一人静かに過ごすことを選んでいた。そして、気がつけば「俺」と言っていたはずの名詞は、一輝と同じ「僕」に変わっていた。

 泣いてばかりいる母のために、僕はずっと心の中で自分が一輝になれたらと思っていた。代わりになんてなれないとわかっていても、そうすることしか僕にはできなかったんだ。同じ顔を持つ双子の僕が、いなくなってしまった一輝の代わりをすれば、母だっていつかは元気になる。そう思っていたし、そう信じたかった。けれど、母は未だに心を病んだままで、一緒に暮らすことさえ叶っていない。ずっと祖母のいる田舎の家に引っ込んだまま、あの日から時間を止めて生きている。父だって僕の前では笑ってくれているけれど、深夜に悲しげな表情で酒を飲んでいる姿を幾度となく見てきた。全て、あの日僕が一輝を助けられなかったせいで壊れてしまったんだ。全部、僕のせいなんだ。マシロが行方不明になってしまったのだって、こんなどうしようもない人間の傍にいることが嫌になったのかもしれない。

「なぁ。うさぎって、どのくらいの生命力があるんだろう」

 マシロがいなくなって、三日経つ。あんなに小さな生き物が、外で長く生きられるかなんて、少し考えればわかることだった。それをわざわざ訊ねたのは、ほんの少しでもいいから希望が欲しかったからだ。いくら僕のそばにいることが嫌になったとしても、せめて生きていて欲しい。これ以上、命が消えるのは辛すぎる。都合の良すぎる考えだけれど、そう願わずにはいられない。

「は? なんだよ、急に。動物学者にでも転向しようってのか?」

 酔ってきた結城は、僕に希望なんて与えることもなく、質問を笑い飛ばしてジョッキを傾けた。

 動物学者なら、もっとちゃんと面倒を見ただろうし。酔ってケージのドアなんて開けっ放しになどしなかっただろう。

 都会の空の下、小動物がいつまでも元気でいるとは考えにくい。けれど、最悪の事態はできるだけ想像したくない。最悪な事態は、もう、たくさんだ。

 いつかひょっこりと帰ってこないだろうかと、能天気な考えを無理やり引っ張り出し思ってさえいた。

 希望を見いだせないまま、ジョッキのビールを二杯ずつと、テーブルにあった食べ物をすべて完食しお開きとなった。始まって間もない社会人生活に対し、結城は既に嫌気がさしているのか「明日も仕事かよっ」と愚痴っている。そんな結城の肩を叩きながら駅前で別れ、僕は自宅マンションへ向かった。

 この町に住み、健さんに会ってから、ときわ商店街には知り合いが増えた。おでん屋のみっちゃんや喜代さんもそうだけれど、他にもたくさんいる。

 お茶屋のおキクさんは、お茶を売っているのか、お茶を飲ませたいのか解らないくらいで。僕が店の前を通ると奥から首を伸ばし、クイックイッと手首を柔らかく曲げて手招きをする。そうして丸いパイプ椅子と茶菓子を勧めてくれたあとは、のんびりと茶飲み話をするんだ。それはとても他愛のないものばかりで。例えば、去年の天気と今年の天気の違いであったり、商店街に新しくオープンしたお店のことであったり。静岡のお茶もいいが、実は鹿児島のお茶も有名なのだと、その場で淹れてくれたこともあった。この短い期間で、何度もお茶をご馳走になるとは思いもせず。田舎の祖母を思い出して、長生きして欲しいなと、おキクさんの筋張った細い腕や、たくさんの笑顔を浮かべてきた皴の数に心がじんわりと熱を持った。

 和菓子屋の源太さんは、とてもとても厳つい顔と体をしていて、町で会ったなら目を逸らしたくなる風貌だ。なのに作る和菓子はとても繊細で、練りきりなんて芸術作品と言っていいほどに見惚れてしまう出来なのだ。おキクさんはその練きりを、越してきたばかりの若造の僕にご馳走してくれたことがある。「源太の和菓子は、世界一だ。死ぬまでに食っとかなきゃ損だよ」そう言って、自分のところの緑茶と一緒に盆に乗せて、丸椅子に腰かけた僕の膝に乗せたのだ。

 健さん曰く、僕は昔亡くなったおキクさんの息子さんに似ているらしい。僕よりもほんの少しだけ長く生きたおキクさんの息子さんは、突発性の病気で呆気なく空へ昇ったという。その話を聞いた時、命なんて一瞬で消えてしまうんだと、あの日自分の目の前から消えてなくなった一輝を思った。

 いつか源太さんのところのあの繊細な和菓子を手土産に、祖母と母のところへ行き食べてもらいたいと思っている。あんなに美味しくて綺麗な和菓子を見たら、母も少しくらい笑みを見せてくれるような気がしていた。

 肉屋の増田さん夫婦は、店の前を通るといつも何かしらの言い合いをしているから仲が悪いのかと思っていた。けれど健さんに訊いたら、どうやら違うらしい。あれは夫婦のコミュニケーションの一つで、あの言い合いは関西で言えば芸人のノリ突込みのようなものだという。なので、寧ろその言い合いが聞こえない日の方が、みんなは心配をするらしい。数年前に、増田さんの奥さんが肺炎にかかって入院した一週間。旦那さんは、それは、それは寂しそうに背を丸めてばかりいて、売りの声も情けないほどに小さかったという。傍からは喧嘩しているように見えても、夫婦にはそれぞれの形があり、しっくりくるお互いの関係というものがあるのだろう。それこそ、入社したての僕みたいな若造には、まだまだ分からない領域だ。

 それから、パン屋の幸代(さちよ)さんだ。いつも朗らかで癒し系の微笑みは、パンの香りと相まってふわふわっとした安らぎの心地をくれる。奥でパンを焼いている夫の智雄(ともお)さんは、確か幸代さんより三つ年上の三十二歳と健さんが言っていた。健さんが三十五歳だから、年も近くて話しやすいのだろう。智雄さんとは、一緒に飲むこともあるらしい。

 因みに、智雄さんの焼くパンはどれも絶品だけれど、僕が好んで買うのはイギリス食パンとクロワッサンだ。食パンは、トーストしても美味しいけれど、そのまま食べてももっちりふわふわで自然な甘みが堪能できる。クロワッサンは、サクサクッとしていて芳醇なバターの香りがたまらない。ドリップで淹れたコーヒーと一緒に食べると、贅沢な気分になる。ただ、家にはまだポットも薬缶もないので、湯を沸かす時はピーファルの鍋を使っていた。それを目にしてしまえば雰囲気は台無しだけれど、今はまだ贅沢を言っている時期ではないから我慢だ。

 この町に越してきたばかりで何にもわからない僕に、商店街の人たちはとても親切にしてくれていた。特にコミュニケーション能力が高いわけてもないのに、こうやって気にかけてくれて親身になってくれるのは、僕とは対照的な雰囲気を持つ人気者の健さんのおかげだろう。

 健さんがみんなに僕を紹介してくれたから、気さくに話しかけてもらえる存在になっている。ここに越してきてからの楽しみは、ときわ商店街に行くことになったくらいだ。

 ただ僕は、いつも心の奥底で思っていた。僕が弟を見殺しにしていたと知ったら、きっとみんな引き潮の如く離れていってしまうんだろうと。僕がこの商店街に踏み込むことすら嫌がるのではないかと。いつかそのことが明るみに出た時、僕はどうするだろう。みんなから嫌われるとわかっていてこの町には住み続けられないだろうから、逃げるようにまた別の町へと越していくことになるのだろうな。次の町に移り住んだとして、健さんのような人に出会える確率は低いだろうから、一人きりで鬱々とした毎日を過ごすことになるだろうな。背を丸めて逃げ出す自分の情けない姿が容易に想像できてしまう。

 自宅マンションに着き、エレベーターに乗って三階へ行く。エレベーターを降りてほぼ目の前にあるのが僕の借りている部屋だ。角部屋だから窓も多くて気に入っている。鍵穴に鍵を差し込みドアノブに手をかけたところで、なんとなく隣に住む梶さんのことが気になった。

 酔って記憶をなくした僕が、梶さんに対してどんなことをしてしまったのか。警察沙汰になるようなことが起きていないことを願いながら、できればその時の話を聞いて謝罪したいと考えていた。しかし、梶さんとの生活サイクルが違うのか、僕が彼女に会うことはほとんどない。一見同じくらいの年齢に見えるけれど、彼女はまだ大学生なのかもしれない。だとしたら、講義の時間によっては、会う確率は少ないだろうな。出勤時に会ったことはないし。彼女の暮らしぶりが、少しも見えなくてミステリアスだ。梶さんの存在が余計に気になってくる。

 僕が仕事を終えて家にいる間や週末にも、物音らしい物音は聞こえてこない。見た目ハキハキとした物怖じしないイメージを持つ梶さんだけれど、実はとても物静かな女性なのかもしれない。

 家にいる梶さんを想像してみた。いつもはキュッと結い上げたポニーテールを下ろし、サラサラと綺麗な黒髪が肩のあたりを滑らかに流れる様が悩ましい。

「髪の毛。綺麗だったよな」

 エレベーターに乗った時に後ろから見ていた髪は、艶々としていて張りのある綺麗なストレートだった。
 梶さんも、ときわ商店街を訪れることはあるのだろうか。健さんに訊いたら知ってると言いそうな気もするが、そんな話をしているのをみっちゃんに聞かれたら冷やかされそうな気もするから、もう少し様子を見よう。

「下の名前、なんていうのかな」

 シャワーを浴びたあと、ベッドに寝転がりながら梶さんのことを考えていたら、いつの間にかうとうととしてしまった。気がつけば、また一日が始まっていた。