アルコール臭を洗い流し、キッチンにある真新しいフライパンや鍋を見て何か作ろうかとも思ったけれど気力がわかず、財布と鍵を手に部屋を出た。外は、朝と同様に心地いい空気に包まれていた。春になり、梅雨までまだ少しの猶予があるこの季節は好きだ。空には千切ったような雲が少しだけ暗い空に浮いているのが見えた。

 この町には、小さいけれど賑わいのある「ときわ商店街」があった。自転車に乗ればあっという間に端から端を行き来できる程度の通りには、笑顔の絶えない店が多く残っている。

 寂れてぼろぼろの「ときわ商店街」と書かれたアーチを潜り一番に目につくのは、金物屋の(けん)さんの店だ。シャッターの上がった先のドアはいつも全開で、雑多なものが所狭しと置かれている。店主は三十代半ばの男性で、商店街のみんなから「健さん」と呼ばれ親しまれていた。健さんは、頼れる兄貴みたいな存在で、ノリがよくて楽しい人だ。ここへ越してきた日、キッチン用品を買いに商店街に入った僕に突然声をかけてきて、自分のところの商品を売りつけてきた時はちょっと驚いたけれど。

「あのな、最近じゃあ安くて手ごろなものが溢れてっけど。俺のところで扱っているもんは、ちょーっとそういう店よりか値は張るが長持ちはするぞ。特売品によくあるだろ。目玉焼きがすぐにこびりついてはがれなくなる、手頃でやっすいフライパン。ありゃ、ダメだ。すぐに表面の加工が剥がれちまう。目玉焼きなんか焼いたらくっついちまって、皿に移したころにはボロボロだ。ところがこれは一味も二味も違う。何百回焼いたって、目玉焼きは綺麗なまんま、ツルっと取り出せる。このフライパンは、購入必須だ。そうは思わないか」

 そう言って僕に薦めてきたのは、何万回焼いてもこびりつかないと銘打っている海外の有名高級メーカー。ピーファルが作っているフライパンと片手鍋だった。それをあたかも自分が開発したみたいに自慢しながら薦めてくるものだから僕は思わず吹き出してしまったんだ。

 どうやら健さんは世話好きらしく、僕がここに越してきたばかりの独身新入社員とわかるや否や、新居に必要なものをあれこれと教えてくれて、更にはタッパーに煮物を詰めて持たせてくれた。

「なんかあったら何でも言ってくれ。金物屋だからなんて気を遣うなよ。俺はなんでもできるマルチプレーヤーなんだ」

 得意気に親指を自分に向けてポーズを決めた健さんに苦笑いを向けながらも、よろしくお願いしますと頭を下げたのはつい一ヶ月ほど前のことだ。

 ピーファルのフライパンと同じくピーファルの鍋を買って右手に持ち、左手には健さんから貰った煮物を提げた僕は、なんだかうまいこと取り込まれたような気はしたけれど、少しも嫌な気持ちにはならなかった。それどころか、初めての土地でできた、初めての友達のような。ちょっとワクワクとした楽しい気分になっていた。それに、健さんの奥さんが作ったであろう煮物はとてもうまかった。久しぶりに、誰かの手料理を口にして、涙が出そうになったくらいだ。

 そんな健さんの店に、僕は今日もやって来た。

「こんばんはー」

 夕方過ぎのこの時間に金物屋を訪れる客もいないのか、健さんはスマホをいじりながら奥のレジ前で足を組んで椅子に座っていた。

「おっ。樹か、どうした。ん? なんだか冴えない顔してないか?」

 人の感情に敏感なのか、健さんが僕の情けなくしぼんでしまった気持ちを察した。
 引っ越してから会話のできるような相手が近くにいないせいもあってか、僕は先日飼ったばかりのうさぎが、今朝行方不明になったことを健さんに話した。すると、健さんの凛々しい眉毛が、あっという間に八の字になる。

「そりゃあ、気の毒だな。うさぎは呼んでも鳴かねぇから、探すのも大変だろう」

 眉を八の字にしたまま腕を組んだ健さんは、少しの間残念そうな顔をしたあと、ぱっと気持ちを切り替えたように声を張る。

「あっ、あれだ。うさぎは、自然に還ったんだと思えっ!」

 思わず。んな、無茶な。と突っ込みそうになってしまった。マシロがいなくなって落ち込んでいたはずなのに、健さんからのまさかの返答に少しだけ頬が緩んだ。

「それで、食いちぎられた網戸の張り替えなんですが、どこかいい業者を知りませんか」
「それなら、俺に任せろ」

 どうやらここの金物屋は、網戸の張り替えもしてくれるらしい。さすがマルチプレーヤーだと豪語しただけはある。

「明日にでも、すぐに直しに行ってやるよ、あとで窓枠のサイズなんかをメールしておいてくれ」

 頼もしい顔つきを見て、健さんと知り合いになっておいてよかったと思う。
 サクサクと修理の予定を立ててくれた健さんに頭を下げ、情けない腹を満たすために商店街の先を行く。

 健さんの店から三軒先の斜向かいには、昔ながらのおでん屋があった。創業は明治となっているから、相当な老舗だ。そこの看板娘をしているみっちゃんは、いつでもガハガハと豪快で元気に笑うお嫁さんだ。いつもお姑の喜代(きよ)さんと二人で店に顔を出している。みっちゃんの旦那さんと舅さんは、奥でおでんの具をこしらえていた。

「あっ、いっ君」

 店の前を通ると、みっちゃんに声をかけられた。

「こんばんは」

 頭を下げると、パタパタとサンダルを鳴らして店の表に出てきた。

「昨日から会社に行ってるんでしょ。どうだった? お仕事、大変そう? 先輩怖い? お友達はできた? 可愛い子いる?」

 機関銃のようにドドドドッという音が聞こえてきそうなほどに連続で訊ねられたが、どれに応える間もなくオドオドとしていたら奥から喜代さんが現れた。

「みっちゃん。そんなに勢いよく訊いたって、応えられやしないって。ねぇ、いっ君」

 喜代さんとみっちゃんは、大の仲良しだ。見ていると、もしかしたら旦那さんよりも喜代さんとの方が仲良しなんじゃないかと思うくらい、友達のように息があっている。

「でもでも、知りたいだもん。お義母さんだって、本当は知りたいでしょう?」

 みっちゃんの言葉に、ふふふなんて笑った喜代さんは、その後ニンマリとした顔をして「で、どうなの?」なんて、二人で詰め寄るように訊ねてくるものだから、似た者同士の言動に笑いそうになってしまった。まるで姉妹みたいだ。

 ワクワクするような楽しい情報が聞きだせると、過大な期待を孕んだ目を二人から向けられたが、それに反した僕の表情に気づいたみっちゃんの機関銃が鳴りを潜めた。僕は、昨日散々飲まされた挙句に、飼ったばかりのうさぎが消えてしまった話をした。すると、みっちゃんはとても驚いた顔をした。

「それ、ほんと? うさぎ、いなくなっちゃったの?」

 声を震わせたみっちゃんは、両手を口元に持っていき、今にも泣きだしそうだ。

「いっ君一人暮らしで寂しいのに、うさぎがいなくなったらもっと寂しいじゃない。うさぎは寂しいと死んじゃうってなにかで聞いたよ。いっ君、大丈夫? 寂しくない? ちゃんと眠れる? 食欲は? 一人で泣いちゃだめよ」

 僕への心配を矢継ぎ早に口にして、みっちゃんは涙を浮かべている。ありがたいけれど、、なんだか僕の方がうさぎみたいな言い方だ。

「飲み過ぎて記憶にないけど、ケージの扉が開けっ放しになっていて……。僕が悪いんです」

「いっ君のせいじゃないよ。その会社が悪いんだよ。ううん。その先輩たちが悪いんだよ。新入社員が断れないのわかっててどんどん飲ませるなんて。立派な犯罪だよ」

 うるうると涙を浮かべて話すみっちゃんを見ながら、先輩たちの犯した罪が何になるのか深く訊くのはやめておいた。

「なんにしても。気を落とさずにね」

 おでんの四角い鍋越しに、喜代さんが眉㞍を下げて慰めてくれる。

「そうだ。これ、持っていきなよ」

 喜代さんは、大きいサイズの発砲スチロールの持ち帰り用カップに、おでんをたくさん詰め込んでくれた。

「春先であったかくなって来てるけど、夜はまだ冷える日もあるから。これでも食べて、心ん中もあっためて。ねっ」

 持ちやすいようにビニールの袋に入れて僕の手に握らせてくれたおでんは、二日分はありそうだ。この厚意だけで、僕の心は充分にあったかくなった。喜代さんとのやり取りを見ていたみっちゃんは、エプロンの裾で涙を拭いながら、落ち込んじゃだめよ。元気出してね。とズビズビ鼻を鳴らしている。涙脆くて、心根の優しい人だ。

 結局、腹が減って何か食べようと外出してきた僕の手には、喜代さんから貰ったあったかいおでんの袋が握られていた。僕はお礼を言って踵を返し、マンションへとひき返す。

 おでん片手にマンションへ戻ると、一階のエレベーター前で隣人の梶さんと出くわした。梶さんは、多分僕と同じくらいの年齢の女性で、引っ越しの挨拶でタオルを持っていったときはわりと好意的によろしくと挨拶を交わしていたのだが、何故だか今日は違った。

「こんばんは」

 軽く会釈をしながらほんのり笑みを浮かべたら、どうしてか睨みつけるような目を向けられた。そのうえ、キュッと結い上げた彼女のポニーテールが、ビュンッと揺れるほどにぷいっとされてしまう。

 あれ、なんかご機嫌が悪いみたいだ。今は春だけれど、女心と秋の空というし。もしかしたら、月に一度のあの日なのかもしれない。

 触らぬ神に祟りなしというように、僕は降りてきたエレベーターに梶さんと乗り込んだあと、できるだけ距離を置いて奥の壁に寄りかかるようにして立った。そして、余計な口はきかない方がいいだろうと黙っていた。

 たった三階まで上る短い時間の間も、階数ボタンの前に立っている梶さんの背中からはただならぬ殺気のようなものを感じて、僕は心の中で呪文のように沈黙は金、沈黙は金と何度も唱えていた。

 箱の中の重たい空気に反して、ポンッという軽い音を立ててドアが開いた。こちらを振り返ることもなく、梶さんがさっさと降りていく。半拍ほど置いて僕もエレベーターを降りて、そそくさと部屋の鍵を取り出しドアを開けてから「失礼します」と声をかけて中に入った。

 僕の挨拶に梶さんはやっぱりツンとした顔を向け、ポニーテールがビュンッと勢い良く揺れていた。

「僕、何かしたのかな」

 不安を覚えながらも特に身に覚えなど全くない僕は、喜代さんにもらったおでんを健さんのところで買ったピーファルの鍋に移して火にかけた。

 越してきたとき隣に住む梶さんのところへ挨拶に行った時は、お互いによろしくお願いしますと笑顔で言葉を交わし合っていた。ネコみたいにしなやかそうな体で、大きな瞳を持つ梶さんが笑顔になるととても魅力的だった。頭の上で結い上げたポニーテールは、快活そうな彼女にとても似合っていて。こんな女性が隣人なんて、僕の新生活はついていると思ったほどだ。なのに、さっきのあの態度は一体どういうことなのだろう。僕が何かしたとでもいうのだろうか。

 不愛想な梶さんに理不尽さを覚え、キッチンに立ったまま温まってくるおでんを眺めていると、不意に嫌な仮説を思いついた。
 もしかしたら、酔った勢いで何かしらの迷惑な行為をしたのではないだろうか。ケージの扉を開けっぱなしにしていたことも、部屋の鍵を閉め忘れていたことも、まるっきり記憶にない。となれば、他に何かしらの失敗をしていないとも限らない。途端に血の気が引いていった。
 もしも迷惑行為をしていたなら、引っ越し当初とは全く違う梶さんの冷たい態度にも納得がいく。

「襲い掛かったりはしてない、はずだけど」

 僕の性格上、女性を押し倒す度胸はないはずだから、それはない、はず。多分。酔った勢いで、隣の壁を叩いたり蹴飛ばしたり、大きな物音でも立てただろうか。それとも大声や奇声を発しただろうか。どれも、普段の僕では考えられない奇行だけれど、記憶にないので否定しきれない。

「まいったなぁ」

 越してきたばかりで隣人と険悪になるなんて最悪だ。みっちゃんじゃないが、会社の先輩たちを恨みたくなる。
 シンクに両手をついて深くため息を吐いたところで、汁がグツグツと騒ぎ出しおでんが温まった。冷蔵庫からチューブの練りからしと、食器棚から深めの皿と箸を出しローテーブルに着いた。

 皿におでんを取りテーブルに置いてから、部屋の隅にあるケージに視線をやる。当然のように空っぽのケージの中では、干し草だけがこんもりとしていてマシロの姿はどこにも見当たらない。シンクでついた溜息とは別の深いため息を零しながら、よく味の染みた大根を口にした。創業明治という老舗のおでんがあんまりに美味くてアルコールが欲しくなる。

「ビールくらい買って来ればよかった」

 二日酔いに苦しみ失態を犯したばかりだというのに、学習能力の欠片もない。再びケージを振り返り、責任能力もない奴が何を言っているんだと深く息を吐いた。