大学卒業と就職を機に、三月から父のいる実家を出て一人暮らしを始めていた。父は、家があるのに出る必要はないだろうと言ってくれたけれど、その言葉を振り切って僕は単身者用のマンションを探した。

 幼い頃に四人で暮らしていた実家は、父と二人になった途端とても広く感じて、戸惑いと寂しさと後悔だけに満たされていた。会話という会話のない空間は、だだっ広い無機質な場所でしかない。一輝がいなくなってしまったことで、僕たち家族には心の底から笑うということがなくなっていた。僕が一輝を助けられなかったことで、母は心の病にかかってしまったし。父は僕の前では懸命に笑顔でいるようにしていたけれど、それはとても痛々しいものだった。

 家族は、誰も僕を責めようとはしなかった。それどころか、生きている僕を心配さえした。一輝を喪った悲しみにくれながら、暗く無口になっていった僕に向かって責任はないと慰めた。

 樹のせいじゃない。樹は悪くない。あれは事故で、仕方のないことだったんだ。だからそんな顔をする必要なんてない。
 何度もそう諭され慰められる度に、僕の心は軋んだ。責任はないと言われるほどに、謝っても赦してもらえないと言われている気がして恐怖にかられた。現に、僕のせいじゃないと言っていた母は、心を病んでしまったのだから。

 みんな僕のせいじゃないと口にしていても、心の底では恨んでいるに違いない。どうしてあの日、一輝を止めなかったんだと。どうして、僕が木に登らなかったんだと。どうして、僕じゃなかったんだと……。

 心を痛め自分の殻に閉じこもるようになってしまった母を、暫くは父と僕とが気にかけるようにしていた。けれど、仕事をしている父とまだ小学生だった僕に、母の症状は抱えきれないものになっていった。母が涙を流していても、一輝の名前を呼んでいても、僕にはどうすることもできなかったし。父のかける慰めも、母の心を救うには至らなかった。結局、母方の祖母の厚意に甘え、僕と父は母を生まれ育った地へと送りだした。

 この家を出る時、母は僕のことを一度も見ることはなかった。

 僕のせいで一輝はいなくなったし、家族がバラバラになってしまった。謝りたい。謝らなくちゃ。お母さん、ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。

「お母さんっ……」

 僕のかけた声に、母はピクリとも反応しなかった。僕のことなど見えていないみたいで、のど元まで出かかっていた「ごめんなさい」は消えてなくなり。僕は、謝ることさえ怖くてできなくなってしまった。力なくぼんやりとした母の目は、もういない一輝だけを見ているのだろう。

 そして、あの夏から僕は、自分のことを「俺」とは言わなくなった。
 僕が代わりにあの木に登り、カブトムシを採っていればよかったのにと今でもずっと思い続けている。もう、何百回目になるかわからない後悔は、どんなに悔いても二度と元には戻らない現実を突きつけるだけなのに、グジグジとした性根はどうにもならない。

 あの広い二階建ての家に父一人を残すことに罪悪感を覚えながらも僕が実家を出ようと思ったのは、情けない心が少しでも過去を思い出す場所から逃げ出したいと考えていたからなのかもしれない。一輝を見殺しにした自分が父のそばにいて、安穏とした生活を送り続けることは赦されないようにも感じていた。

 心の中で謝罪を繰り返しながら、どうにもならない現実から目を逸らした僕は心底情けない男だ。
 引っ越し先の町に暮らすと決めたのは、単に会社へ行く電車の乗り換えがなく、便利だからというだけの理由だった。特に何か拘りがあったわけでも、知り合いが近くに住んでいるというのでもない。便利。ただその一点に尽きた。
 利便性だけのはずだった地で、引っ越しをして直ぐに、僕は商店街にあるペットショップに目を奪われることになる。正確には、ペットショップにいた小動物に目を奪われたんだ。

 入店して直ぐ目につくところにいる子犬や子猫が戯れている姿に頬を緩め、僕はなんとなく店の奥へと進んだ。中は広く。犬や猫だけでなく、インコにカナリアに文鳥。ハムスターにモルモットにハリネズミ。爬虫類や、水槽の中をせわしなく泳ぐ金魚やメダカなどもいた。そして、僕の心を惹いたうさぎがいたんだ。

 ケージの中で干草を食んでいたうさぎは、ビー玉みたいに目が赤く。穢れを知らないほどに真っ白な毛並みをしていた。まだ性別が解ったばかりの、雌だと店員が言っていた。
 僕が自分のことを「俺」と言っていた幼い頃に、一輝が話していたことがあった。

「兄ちゃん。僕ね、お小遣いを貯めて、うさぎを飼いたいんだ。あのモグモグって餌を食べる姿をずっと眺めていたいんだ」

 キラキラと瞳を輝かせながら話す一輝に、当時の僕は一輝のために内緒で小遣いを貯めていた。一輝が欲しがるうさぎを飼うために、少ない小銭を貯金箱へと貯め込んでいたんだ。はやく一輝がうさぎを飼うことができるように、協力したかったんだ。

「一輝。頑張って貯金して、うさぎ飼おうぜ」
「うん」

 満面の笑みを見せた一輝の顔は、今でもよく覚えている。けれど、その願いは叶うことなく。中途半端に小銭の入った貯金箱は、実家にある勉強机の奥にしまったままになっている。
 僕は吸い寄せられるように、うさぎのいるケージに張り付き。気がつけば、うさぎを飼うための一式を購入していた。

「大切にしてくださいね」

 店員の優しい笑顔に頷きを返し、僕の住むマンションの部屋にやって来たうさぎは、見た目のまま「マシロ」と名付けた。
 一輝との叶えられなかった約束をやっと果たしたと、僕は一人満足してマシロを可愛がっていた。可愛がっていたのに。

「僕は何をやっているんだ」

 どこをどう探しても見つからないマシロにガックリと肩を落とし、階段から落ちた時にできた擦り傷や打撲に顔を歪ませながらズリズリと足を引きずって部屋に戻った。

「マシロ」

 静まり返っている部屋に声をかけても、マシロの姿はどこにも現れない。

「一輝。ごめんな」

 ベッド脇には、一輝と並ぶ二人の写真を飾っていた。頭を下げると、写真の中の一輝が苦笑いを浮かべているように思えた。きっと、いい加減な性格をしている僕に呆れているのだろう。扉が開け放たれたままの空っぽのケージが、僕の失態をあざ笑っているみたいだった。