さわやかな風が頬を撫でた。雀の鳴き声がかすかに聞こえてくる。カーテンがさわりと揺れている気配は解るが、目を開けられなかった。

 瞼を持ち上げられないまま、昨夜の記憶を辿った。

 会社の先輩たちに散々飲まされたことは覚えているけれど、どうやって家に帰ったか思い出すことができない。柔らかな布団の感触はあるから、ベッドの上にはいるのだろう。窓を開けて寝ただろうか。網戸にしていなかったら虫が入り込んでしまう。特に、あの黒光りする奴が一匹でも侵入してきたら一巻の終わりだ。夏にはまだ早いけれど、随分と気温も高くなってきているから、もしかしたら春先のこの季節でもいるかもしれない。

 昆虫は好きだけれど、あれだけは好きになれない。素早い動きで、どんなに狭い隙間でも通り抜けてきて、カサカサと嫌な音を立て室内を縦横無尽に動き回る。挙句、こっちに向かって飛んできたりするのだから始末に負えない。早いところ、やつらをこの世から抹殺してくれる殺虫剤を開発して欲しいが、氷河期さえ乗り越えてきたやつらを絶滅させるよりも、人間が先に絶滅してしまうかもしれないな。

 色々と考えていても、瞼は一向に持ち上げられなかった。

 頭が重い。身体も重い。寝返りを打つことさえしんどかった。地を這うようなうめき声を上げてから、アルコール臭漂う息を深く吐いた。

「気持ちわる……」

 うめき声と一緒に漏らした言葉が、さわやかすぎる風と共に部屋の中を漂った。接着剤で固められたように頑固な瞼を必死に持ち上げ、まだ真新しい布団を握りしめながら白い天井を見た。

 昨夜、新入社員歓迎会と称して、先輩たちに連れられ居酒屋へと赴いていた。同じ部署の先輩十数名に加え、新入社員のうち僕たち二名は、いいように酒を注がれ飲まされ続けた。今年の新入社員は、ノリが悪いと言われる中。同部署に配属された五名のうち三名は、飄々とした顔で飲みの席を断った。しかも、僕たちのための歓迎会だというのにだ。しかし、今にして思えば、その選択が大正解だったのだ。グズグズとして断り切れなかった僕と、同じ新卒の結城真也は先輩たちの標的となり、結果この有様だ。

「頭も痛い」

 情けない言葉を漏らし、飲み過ぎて渇いた喉を潤すために、なんとかベッドから這い出て立ち上がる。1Kの狭い部屋をフラフラとしながらキッチンに向かい、買ったばかりのツードアの冷蔵庫を開けると、僅かな冷気が流れ出てきた。中から冷えたペットボトルの水を取り出しキャップを捻る。勢いよく喉に流し込んだら、二日酔いに覚束ない身体がいうことを聞かず口から水があふれ出た。昨夜、着替えもせずにベッドに倒れ込んだらしく、しわくちゃのシャツが水を吸う。
 だらしなくよれたシャツはそれ以上にだらしなくなり、まるで僕自身を表しているみたいに情けない姿を増した。

「シャワー浴びようかな」

 タンと音を立ててシンクにペットボトルを置き、徐にベッドサイドを振り返ってから室内の変化に気づきハッとした。あれほど二日酔いのだるさに動きが緩慢だったというのに、目にしたものの衝撃が強すぎて一瞬ですべてが覚醒した。
 壁際に置いていた、買って間もない真新しいケージの扉が全開になっていた。中には、飼ったばかりの小さなうさぎが居るはずだった。しかし中は、もぬけの殻。牧草や給水機の陰にいて見えないのかと覗きこんでみても気配さえしない。

「うそだろ」

 気持ちの悪さもさることながら、空っぽのケージに血の気が引いた。

「おいっ。マシロっ。おーい、マシロちゃん。ましろぉー」

 無駄に猫なで声を出して、越してきてから飼い始めたうさぎの名前を連呼し、狭い部屋中を探し回った。ローテーブルの下も、ベッドの隙間も、布団の間も、デスクの足元もゴミ箱の中も。なんなら、洗濯機の蓋を開けて中だって覗いた。

「いない」

 あまりのショックにガクリと床に膝をつき、そのまま土下座でもするみたいに伏せて頭を抱える。

「なんでだ。僕、昨日どうしたっけ?」

 昨夜の記憶を辿ってみても、三次会からの記憶が全くない。徐に顔を上げ、玄関に視線を向けると、ドアは施錠されていなかった。不用心もいいところだ。酔って家に帰りついたはいいが、どうやら鍵をかけるのを忘れたようだ。

 待てよ、窓。

 未だ爽やかすぎる風を孕んだカーテンが、さわりさわりと揺れて室内に心地いい風を送り込んできている。

「まさか」

 這うようにして慌てて窓辺に近寄り、勢いよくカーテンを開けた。シャーッというカーテンレールの叫ぶ音のあと、目の前に現れた現実に鳥肌が立つ。

「うそだろ」

 二度目の同じ台詞に、血の気どころか心拍数が上がり過ぎて吐きそうになる。口元を抑え、せり上がってきた酸っぱい異物を無理矢理飲み込んだ。

 ここは三階だ。真下には申し訳程度の花壇がしつらえられていて、ツツジの木が植えられている。まだ花を咲かせるにはほんの少し早い時期のそこは綺麗に剪定され、緑色の葉が太陽の光を浴びていた。
 窓から顔を突き出し、顔面が蒼白になった。口元を抑え、その場で項垂れる。その後すぐに、震える手でローテーブルの上に投げ捨てられるようにして置かれていた鍵を手に取った。

「マシロっ」

 叫びながら玄関へ向かった。

カーテンを開けたベッド傍の窓は、網戸が閉められていた。普通なら、ゴキブリさえ入ってこないはずだった。普通なら、だ。しかし、そこには、立派な前歯で食いちぎったであろう、十センチほどの穴が開いていた。多分、マシロが食いちぎったのだろう。悔しさに顔を歪め、僕は急いで部屋を飛び出した。
 ボタンを押してものんびりとした老人みたいにすぐにやってこないエレベーターを待ちきれず、すぐそばの非常階段を駆け下りた。

「ましろっ。マシロ」

 気持ちの悪さと血の気の引いた体では足がいいようにもつれて、最後の五段程から転げ落ちた。けれど、マシロのことに気を取られて痛みなんか感じない。きっと、これでもかっていうほどドーパミンが分泌されているのだろう。
 もつれた足を前に出して立ち上がり、ツツジの花壇の前に辿り着く。自室のある三階の窓辺を見上げて真下に行く。剪定されたツツジは、何かが落ちてきて形を崩したようなところはない。周囲のコンクリートにもそれらしき痕跡はない。けれど、部屋の中で見つからなかった以上、いくら施錠されていなかったとしても、小さなうさぎが玄関ドアを開けて出ていくはずなどない。考えられるのは窓から落下した、ということだけだった。

「最低だ。最悪だ」

 朝目覚めてからの全てが悪夢のようで、僕は這いつくばるようにしてマシロの姿を探し続けた。