あの日。櫻子さんの気遣いに助けられ、僕は梶さんの連絡先を手に入れることができた。彼女とメッセージアプリのIDを交換した僕は、これでいつでも連絡を取り合うことができるとほくそ笑む。梶さんに会えるのは、あと二ヶ月。その中で互いに仕事もあるから、ちゃんと顔を見て話せる機会は少ない。この短い時間を有意義に過ごすべく、僕はマメにメッセージを送っていた。

「で、明日は早苗ちゃんと飯を食うわけだ」

 昼時の蕎麦屋で向かい合った結城が、カレー蕎麦を豪快にすするから、あちこちに黄色い飛沫が飛んでくる。スーツのシャツに染みがつかないかと気にしながら、僕はかき揚を頬張った。

「なんだかんだで、結局巧くいってんじゃん」
「うまくいってるわけじゃないよ。今は逢って貰えるし、逢える距離にいるけど。年が明ければ、気軽に逢える距離からは程遠くなる」

 その時のことを考えれば、ため息しか出ない。汁に浸ったかき揚が、僕の感情を表すようにクタリとしていく。

「相変わらずのネガティブ思考だなぁ、深沢は」

 残念な奴だぜと付け加え、結城はまたズルズルと豪快に蕎麦をすする。

「結城だって、好きな相手が海外なんてことになったら、どうしようもないって思うだろう」
「どうしようもなくはないだろ。俺なら、休みを利用して逢いに行く」
「ポーランドだぞ」
「おう。ポーランドだろうが、裏っかわのブラジルだろうが、逢いたいもんは逢いたいんだから、行くに決まってんだろ」

 鼻の穴を膨らませ、結城が言い切った。実際に行動するかどうかは別として。さすがとしか言いようのない発言に、僕の残念さが増した。

「俺はさ。お前ら二人の関係がなんなのかよく知らない。ただ、複雑なんだろうってことくらいは、見ていてわかんだよ」

 結城は麺を完食したあと、丼の中にあるスープもズズズズと音を立てて飲み切った。

「ああ、うめえ。これを見ろ、深沢」

 結城は、空っぽになった丼の底を僕に見せる。

「物事なんてーのは、複雑だって思ったその瞬間に複雑になるし。面倒だと感じたその瞬間にも、面倒事に変わっちまうんだよ。だから、こうやって底の底までさらってみる。そうしてみるとあら不思議。複雑なことも面倒なことも、なーんにもありはしない。複雑や面倒なんて、全部、美味い、最高って思って飲み込んだやつの勝ちなんだ」

 得意気に胸を張る結城の口の周りが黄色くて。説得力がありそうでなさそうな気持ちになり笑ってしまった。

「そうそう。全部そうやって、笑って楽しめ。笑う門には福来るってな」

 ケタケタと笑った結城は、受講料だ、奢れ。とどこの詐欺師だというくらいの言葉を置いて席を立ってしまった。

 奢り云々は置いといて。結城の話したことは、全くその通りだと感心した。全てにおいて後ろ向きに考えてしまう僕とは違い、結城という男はどうやって前に進むかばかりを見ている気がする。結城という男の前向きさは、見習うに値する。ただ、折角いいことを言っても、口の周りについたカレー蕎麦の黄色い染みは、僕同様にとても残念過ぎて、テーブルにあった紙ナプキンを渡した。

 平日休みの梶さんに会わせて、水曜と隔週の火曜は定時ダッシュで帰宅と決めた。僕の教育係だった新井先輩が、定時きっかりに上がる僕の行動を見て少し咎めるような表情をしたけれど関係ない。僕は仕事よりも、今目の前にいて触れることのできる梶さんを選ぶ。あとたったの二ヶ月しかないんだ。長い人生の中の二ヶ月のうちの、更に水曜と隔週の火曜だ。そのくらい、自由にさせてもらう。

 食事へ行くと、彼女は決まってスタミナのつきそうな肉系や、ガツンと来そうなこってりしたものを選んだ。見た目のままだと思っていたら、心の声が駄々洩れだと胸に軽くグーパンチをくらった。

 それ以外では、お兄さんが行きつけだったという、ポーランド出身の奥さんがやっているカフェのようなレストランにも連れて行ってもらった。そこの料理はシェアして食べるものが多く、甲斐甲斐しくも梶さんが僕のお皿に料理を取り分けてくれるのを見た時は感動したものだ。

 デザートも好きな梶さんは、女の子ばかりが集まるようなスイーツショップにも僕を連れて行った。女子高生や女子大生の視線が痛いな、なんてことを思いながらも、目の前でめちゃくちゃ美味しそうにスイーツを頬張る顔を見られるのはこの上ない幸せだった。

 あまりに眺め続けていて僕のフォークが止まってしまうと、何? と訝しがられたけれどまったく構わない。彼女のポニーテールは、美味しさに反応するように嬉しそうに揺れていた。

 外に出かけない日は、梶さんか僕の部屋で宅飲みもした。僕は部屋に二人きりになれるというシチュエーションに妄想をフルに働かせ、一人ドキドキとしていたわけだけれど。梶さんにはまったくその気がないようで。ある時には、友達の石川さんがやってきて一緒に飲み。またある時には、結城がやってきてどんちゃん騒ぎをし。どういうわけか、健さんまでもが宅飲みメンバーに加わっていたこともあった。結城も健さんも、この状況を面白がってばかりで。僕のことを応援してくれているのか、酒の肴に茶化しに来ているのか解らない。最終的には、どうしてか結城に石川さん。健さんにお兄さん。というメンバーで飲むことになり。始まった謎の飲み会に、僕はもう笑うしかなくなっていた。そういうわけで、僕が勝手にドキドキしていた部屋で二人きりというシチュエーションになるチャンスは全くなかったけれど、それはそれで楽しい酒の席になった。

 そうやって、二ヶ月という期間はあっという間に過ぎ去った。新しく年が明けた今日、彼女はポーランドへと旅立つ。梶さんと僕はお兄さんが運転する車に乗り、成田空港にやって来ていた。年明け前にポーランドへ送っていた梶さんの荷物は、叔母さんが用意してくれたアパートメントに既に到着しているらしい。今日の荷物は、キャリーケースが一つと、ショルダーバッグだけだ。そのキャリーケースも、搭乗手続きの際に預けたので、彼女の姿はとても身軽だ。まるで、ちょっと近場へ出かけて、またすぐにでも戻ってくるくらいに見える。彼女の軽装に、未練がましくも本当にすぐに戻って来ないだろうかなどと考えてしまう。

 出国時刻までの少しの間、僕たち三人は並ぶ椅子に腰かけた。

「あまり向こうで無茶するなよ」

 お兄さんが心配をして声をかける。ポーランドに叔母さんがいるとはいえ、勝気な妹のことは気掛かりなのだろう。しかし。

「無茶って何よ」

 不満もあらわに問い返す梶さんに、お兄さんは苦笑いだ。

 あまり細々と言われることを嫌がる梶さんと別れを惜しむ僕に気を遣って、お兄さんが立ち上がる。

「向こうでコーヒーを飲んでくるよ」

 お兄さんは気を利かせ、僕たちを二人きりにしてくれた。

 ロビーを行き交う人たちを何の気なしに視線で追い。大きな窓ガラス越しに見える日本の空を、少しだけ目を細めて見る。こうして一緒に居られる時間はあとほんの僅かだとわかっていても、どういうわけか心は穏やかに凪いでいた。

「あの日、君の手を握った時から。いつかまたこうやって逢い 、同じ温もりを持つ君に触れる気がしてたよ」

 梶さんはショルダーバッグを膝の上で抱えるようにして持ち直し、隣に座る僕へと視線を向けた。

「自分のせいだと誰かに責められるかもしれないってずっと怯えながらも、理由を知っている祖母に励まされ続けてきた。何も知らずに元気づけようとしてくれる兄や叔母に助けてもらい、少しずつ前向きに生きられるように努力してきた。そして、再びこの町で君に会うことができた。出会い方は最悪だったし。何より、君が覚えていなかったことに、私はショックを受けたけどね」

 イタズラな表情をし、僅かに睨みつけるようにしてからカラカラと笑う。

「ご、ごめん」

 すぐに謝る僕に、子供みたいで楽しげな表情だ。

「自分と同じように、あの日のことに負い目を持つ君に、もう一度逢いたいと願ってた。私がずっとポニーテールをしていたのは、君に見つけてもらうためだったんだと思う。短くしたこともあったけど、結局こうやって頭のてっぺんを結い上げていれば、君は私を見つけて気づいてくれると思い込んでいたのかも。私って、何気に他力本願みたい」

 呆れたように肩を竦めている。

 自分を卑下しているけれど、僕には可愛らしいとしか思えない。

 梶さんは窓の外に一度視線を向けてから、再び僕の顔を見た。

「ずっとじゃないから」

 一生ここに戻らないわけじゃない。梶さんは、そう言って僕の目を見つめてくる。

「必ず、あの町に戻るから」

 それは、約束というよりも誓いのように思えた。口に出し僕に言うことで決意する。そういった感情を読み取ることができた。

「うん」
「健さんや幸代さんやおキクさん。みっちゃんに喜代さんに源太さんに増田さん夫婦。私、あの商店街の人たちが大好きなんだよね」

 そうだね。僕もあの商店街の人たちが大好きだよ。そして、何より僕は梶さんのことが――――。

「君があの町に加わったことで、私の好きは爆発的に増えたから」

 梶さんの言い方がおかしくて僕が笑ってしまうと、これ真面目に言ってるんだけど、と唇を尖らせるから可愛くてたまらない。ひとしきりお互いに笑いあっているところで、搭乗アナウンスが流れだした。

「君があの町に来てくれてよかった。君にもう一度会えてよかった」

 梶さんは、そう言うと椅子から立ち上がる。僕もつられるように立ち上がった。すると、僕の体をそっと包み込むようにして抱きついてきた。僕の手は自然と彼女の背中に回り抱きしめ返す。

「今は、ここまで」

 抱きついたままの彼女は、僕の耳元で可笑しそうに、でも少し切なそうに呟いた。

「私が帰ってくるまでに、結城君から残念の称号を取り下げてもらえるように頑張ってよね」

 梶さんが、そっと僕から離れる。

「次に会うときは、きっと頼りがいのある男に変わってるんだろうなぁ」

 ニヤニヤとフラグを立てて笑う梶さんに苦笑いを返しながらも、彼女がもっと本音や弱音を素直に話せるような男になろうと、僕はこっそり拳を握って誓った。

 コーヒーを飲みに行っていたお兄さんが戻り、梶さんとの別れを惜しむ。

「時差ボケに気を付けて」
「お兄ちゃんは、普段でもとぼけたところがあるから気を付けて」

 何を言っても言い返されてしまうお兄さんは、肩を竦め笑ってしまっている。

 片手を上げて笑みを浮かべた梶さんは、ゲートに吸い込まれる前に僕を振り返る。

「じゃあね。いつき」

 初めて名前を呼ばれた瞬間、心の中にきれいな青空が広がった。舞い上がるような、幸せな気持ちに満たされる。

「早苗さん。いってらっしゃい」

 負けじと名前で呼んではみたけれど、流石に呼び捨てにはできなかった。

 さよならは口にしない。僕の持つ残念の称号が取れた頃に、梶さんはここへと戻ってくるのだから。お帰りを言うために、前を向いていくよ。

 梶さんを乗せた飛行機は、ほんのちょっとの遅れだけでほぼ定時に出発した。小さくなっていく飛行機を見送りながら、薄い青空に僕の白い息が追いかけるように消えていった。