岸田青年が事故に遭った夜。僕の失態を気にする人などいなかったのか。それとも、見ていて気づかないふりをしてくれているのか。商店街に顔を出す僕に、問いただす人は一人もいなかった。

 健さんからは、岸田青年が腕を骨折し、脳震盪を起こしただけで問題なかったことをメールで知らせてくれた。もう一人の青年を連れて病院へ駈けつけただろう源太さんは、後日健さんと協力して、あの夜取り付けられなかった提灯を飾り付けた。

 みっちゃんと喜代さんは、大事に至らなくて本当によかったという言葉を繰り返し。幸代さんはキクさんを連れて、岸田青年のお見舞いに行ったという。

「とても元気だったわよ。大袈裟になってしまったことに、申し訳ないって。寧ろ恐縮してたわ」

 幸代さんは肩を竦めながら、僕の買ったクロワッサンを袋に詰めてくれた。

「で。早苗ちゃんとは、どうなってるの?」

 どうして幸代さんが、梶さんとのことを訊くのかと驚いたけれど。きっとあの夜一緒にいたことを健さんから聞いたのだろうとすぐに納得した。

「どうにもなっていないですよ」

 そうなのだ。あれ以来、梶さんとはまともに話す機会がないままでいた。そもそも生活時間帯が違うから、いくら隣に住んでいるとはいえ見かけることもない。

 長いようで短かったゴールデンウイークは、岸田青年の事故以来羽目を外すなんて気も起らず。SAKURAで静かに本を読みながらコーヒーを飲み静かに過ぎていった。休みを貰っている梶さんがSAKURAに現れることはなく。僕は、次々と図書館で借りた本を消化し、残りの連休を終えた。

 あの日の翌朝。何も知らない結城に、梶さんとはどうなったのかと訊かれたけれど、曖昧な笑みを浮かべることしかできなかった。梶さんと一輝の繋がりを知ったばかりだった僕は、結城に巧く説明することができなかったんだ。勘のいい結城は気遣いもできるから、それ以上訊ねては来なかった。きっと、明るくない何かがあったのだろうと思っているに違いない。羽目を外すのが得意の賑やかな結城だけれど、人への気遣いにも長けていると改めて感じた。

 そうやって月日は過ぎていき、何か起こるわけでもない穏やかな毎日を過ごしていた。あれから、週末にはSAKURAに行くこともあって。梶さんが昼を食べにやってくると、軽く会釈するくらいはしていた。けれど、それだけだった。あの日のことを話すでもなく、ただ顔見知りの隣人として、あいさつを交わすだけだった。

 SAKURAの店員さんは、僕たちのやり取りを見て不思議そうに小首をかしげていたけれど、結城同様気づかいに長けているようで深く訊ねてくることもない。

 この期間にマシロは随分と成長し、今日も元気にコロコロと黒いものをそこら中に落として歩いている。

「マシロ~。そろそろウンチを覚えてくれないか?」

 あとを追うように拾い集めながら言うと、ピタッと動きを止めて可愛い顔を向けてくるものだから。つい、まーいっか。なんて思ってしまう。

 秋が来て、金木犀が香りを振り撒きその花を散らす頃。仕事にもだいぶ慣れ、小さいけれど契約を決められそうな案件もあった。結城は相変わらず明るくて。しょっちゅう色んな女の子に声をかけたり、飲みに行ったりしている。社内では話が面白いと評判で、結城一人に女の子三人なんて飲み会もあるらしく。ハーレム状態を羨ましく思う反面、自分にそういった状況は向かないだろうなと苦笑いも浮かんだ。

 週末。いつものように幸代さんのところでパンを買っていると、レジに来た僕に向かって幸代さんがとても真剣な顔を向けてきた。

「いっ君、聞いた?」

 いつも朗らかな表情を浮かべている幸代さんの、思いつめたような顔は初めて見た気がして、僕の心臓はよからぬ予感に鼓動を速める。

「早苗ちゃん。お店辞めるんだって」
「えっ……」

 警戒心に強張っていた僕の顔は、幸代さんからの情報に動揺しまくりで、口をパクパクとさせ驚いてしまった。何をどう訊ねていいのか、言葉がなにも浮かばなかった。

 あまりのことに呆然としている僕に、幸代さんが話を続ける。

「お店自体は続けるらしいのよ。ほら、イケメンのお兄さんがいるでしょ。彼がこの町に戻ってくるらしいの。この前のゴールデンウイークに一時帰国したのは、その辺りのことも話し合うためだったみたい」

 待って、待って。えっと、頭を整理させてくれ。雑貨屋自体をたたむわけではないってことだよな。要は、お兄さんが帰ってくるから、早苗さんはあの店にいられなくなるってことなのか?

「えっと、じゃあ、梶さんはどうするんですか?」
「そう。そこなのよ。私も又聞きだからはっきりとはわからないんだけどね。どうやら、今度は彼女がポーランドの叔母さんのところへ行くらしいの」

 うそ、だろ。お店をやめるのは仕方ないにしても、日本からいなくなるなんて。

 今はSAKURAに行けば、たまに顔を見ることもできるし、隣に住んでいるから僕が勇気を出せばいつだって話すことができる。けれど、日本から出てしまうんじゃ、そんなこと無理じゃないか。ちょっと顔が見たいからポーランドへなんて、気軽に飛行機に乗ることなんかできやしない。

 近くに住んでいるのだから。雑貨屋があるのだから。SAKURAに行けば。僕はそう考えて、いつだって彼女に会えると思っていた。けれど、そんなのは僕の怠慢だったんだ。いくら近くに住んでいたって、お店に行けば会えるといったって。何も行動を起こさなければ、会う気がないのと一緒なんだ。そもそも、SAKURAで見かけたところで、挨拶しかしないのだから会っているうちになど入らない。

 あんなに彼女がしてくれた沢山のことを、ただ甘えて受け入れるだけで結局僕は何も返していない。心を救ってくれた彼女に、僕は返しても返しきれないほどの恩があるのに、ぬるま湯の状況に安穏として過ごしてばかりいた。

 いや、違う。恩だけじゃない。僕はこの町に越してきて、初めて挨拶をしたその日から、ずっと彼女だけを気にかけてきた。それは、恩じゃなくて想いだ。初めからわかっていたじゃないか。ツンとポニーテルを揺らす彼女に、何をしてしまったのだろうと動揺しつつも、どうにか話しかけて仲良くなりたいと思ってきたじゃないか。あれ以来、何もなかったみたいな顔でどうして暮らしてきてしまったんだよ。

「幸代さんっ」

 突然声を上げた僕に、幸代さんは驚いた顔して何? と問う。

「梶さんが今どこにいるか知ってますか?」
「どこかな。お店には、もういないみたいなことを聞いたけど」

 店にいない? 考えてみれば、今朝も隣の部屋は静かだった。梶さんがいるような気配はなくて、僕はてっきり店に行ってるものだとばかり思っていた。まさか、もうポーランドに? いや、待てよ。もしかしたら僕が気付かなかっただけで、部屋にいたのかもしれない。

「幸代さん。ありがとうございますっ」

 僕は買ったパンの袋を受け取って、慌てて自宅マンションへととんぼ返りする。営業であちこち長い距離を歩き続けることはあっても、こんなに全速力を出して走るのは久しぶりだった。パンの入った袋が、僕の走る勢いに負けて千切れてしまうんじゃないかというくらい必死に手を振り、足を繰り出し、マンションを目指した。ほんの十分ほどの道程に息を切らし、のんびりと開くエントランスの自動ドアに苛立ちを覚える。エレベーターの前に立つと、六階に止まったままの箱はなかなか降りてきてくれず、踵を返し非常階段へ向かった。三階までの階段を勢いよく上ると、以前マシロがいなくなったときに、階段を駆け下り転げ落ちたことを思い出した。

「今度は、上りかっ」

 太ももの筋肉が、普段使わない動きに悲鳴を上げる。躓きそうになり手をばたつかせてバランスを保ち駆けあがった。全力疾走後の、上り階段のハードさにヒューヒューという喘息のような呼吸になる。声も出ないまま梶さんの部屋の前に行き、乱暴にインターホンを押した。室内で鳴る音が微かに聞こえてきても反応する様子がない。

 やっぱり留守なのかな。

 何度かしつこく押してみたけれど、結果は一緒だった。膝に手を置き、体を折り曲げて荒い呼吸を繰り返す。

「そうだ、電話」

 ポケットに収まるスマホを取り出してから、連絡先を知らないことに気づいた。一度飲んだ時に、思い切って連絡先くらい訊いておけばよかった。

 いつも今一歩足りない自分の不甲斐なさに、だから残念なんてことを言われるんだと歯ぎしりする。

「くっそ」

 吐いた悪態が、マンションの共用廊下に響いた。

 幸代さんは、梶さんは既に店にいないと言っていたけれど、万が一ってこともある。

 僕は再び踵を返して階段を駆け下りると、梶さんの雑貨屋へと走り出した。商店街の中に駈け込んでいくと、店先に出ていた健さんが声をかけてきた。

「おっ。いつき。なんだよ、血相変えて」

 話しかけてきた健さんには申し訳ないけれど、僕は足を止めることなく手だけを上げ目の前を駆け抜ける。健さんの店の先にある角をアニメみたいな駿足で曲がり、たこ焼き屋やリペアショップの前を通り過ぎる。図書館を通り過ぎ、公園を抜け花屋の角を曲がって見えてきた雑貨屋に向かって一直線だ。

「梶さんっ!」

 居るかどうかもわからないのに、叫ぶように声をかけて店内に踏み込むと、どよめくような空気になったことが分かった。店内にいた客が、何事かと僕を見る。そして、ほんのちょっとの期待は脆くも崩れ、血相を変えて現れた僕に挨拶をしたのはお兄さんの方だった。

「いらっしゃい」

 僕の勢いや必死な形相に驚きつつも、お兄さんが柔和な表情で穏やかに迎えてくれた。僕は、きょろきょろと店内中を見回し、梶さんがどこかにいやしないかと探した。けれど、彼女の姿は見当たらない。それどころか、店にいた客は訝しみ、僕のことを不審者のように見続けている。そこでようやく冷静さが芽生えた。

「す、すみません」

 慌てて謝ると、ちょっと出ようかとお兄さんが僕を促した。

(あつし)、あと頼む」
「しょーち」

 アルバイトだろうか、若い大学生風の青年に声をかけたお兄さんは、僕を連れて店の外へ出た。