頭の上でキュッと結い上げたポニーテール。目力のある強気な表情。あの時から彼女は変わっていない。僕に話しかけてきた彼女は、どこか怒っていて、とても悲しげだった。

 あの日。母を連れて葬儀の場から退席した父たちに気づきもせず。ただ膝の上で握られていた拳を睨み続けながら一輝の顔を思い出し、何もできなかった自分を責め続けていた。

 木の上から一輝が落ちた時、どうして声をかけなかったのか。一輝は死んでしまったのに、何故自分は生きているのか。どうして誰も、僕が悪いと責めないのか。

 頭の中ではそれだけがグルグルと巡っていて、祖母がかけた声に気がついた時、僕の体は強く強く抱きしめられていた。祖母からは、家に漂う独特の香りや煮物の香り。そして、線香の香りがしていた。皴皴の祖母の手は、小さな僕を抱えるようにして奥の静かな畳の間へと導いた。

「いっちゃん。辛かったね。泣いてもいいんだよ」

 二人だけの六畳間の部屋で、祖母は僕を再び抱きしめた。けれど、泣いたのは僕じゃなく祖母の方だった。

 抱き締められながらわかっていたのは、祖母が流す涙も、母や父が流す涙も。ここへ来た黒い服の人たちみんなが流す涙も。全て自分のせいだということだった。

「あったかい牛乳を持ってくるからね」

 いつもは使わないような綺麗なハンカチで涙を抑えた祖母が、優しくも切ない表情を残し部屋を出て行った。部屋からは庭が見えた。大きなカツラの木がこちらを窺い見ているような気がして、裸足のまま庭に下りていった。

 昼間の熱をため込んだ地面はほんのり温かくて、ゴツゴツとした木の肌に寄り添い膝を抱えて座り込むと、預けた背中がチクチクと痛んだ。土は僕を受け入れ、木は拒絶しているような対局の感情を覚えたそのすぐあとだった。

「ねぇ」

 声はどこか異界の場所からかけられたように、耳を素通りしてしまいそうだった。

「ねぇ」

 もう一度聞こえた声は、さっきよりも弱々しいのに、どうしてか僕の意識を現実に引き戻す。

「手、貸して」

 自分と同じくらいの、ポニーテルをきつく結い上げた女の子が、座り込んでいる僕に向かって手を差し出していた。条件反射のように手を伸ばせばぎゅっと握られ、そのまま目の前にしゃがみこんできた。

「この手でね、何度も触れたよ。君のもう一人に。私、何度も触れたよ」

 震える声で話す女の子に驚いて、言葉もないまま彼女の大きな瞳を見続けた。

「忘れないでね。私のこの手の温かさは、君と彼の温かさと同じなんだから。君の中にあるあったかい温度と同じなんだから。だから、忘れないで」

 女の子は僕の手を握り、その手の上にもう片方の手も重ね、大丈夫というように目を見続けた。重ねられた手は小さくて細いのに、頼りがいがあって心強さを感じさせた。

 この手は一輝の手の温もりと同じ。

 さっきまで一粒だって出ることのなかった涙が、女の子の温もりを認識した瞬間に止めることができないほどに溢れ出した。嗚咽を漏らし、声を上げる僕に嫌がることもなく、女の子は手を握りずっとそばにいてくれた。可哀相だとみてくる大人の目とは違う。自分と同じ感情を持ち合わせているような気がした。女の子の言葉には、泣いてもいいんだって。声を上げて辛かったんだと言ってもいいんだって。そんな気持ちが伝わってきた。

 どれくらい経っただろう。女の子のことを呼んでいるだろう女性の声が何度か聞こえてきて、彼女も僕も気にし始めた。

「君、呼ばれてる」
「うん。ねぇ、君の名前、訊いてもいい?」
「いつき」
「いつき。忘れないで。君のその手は、かず君の手の温かさだからね」
「さなえー」

 再び呼ばれた女の子は、すっくと立ちあがるとポニーテールを揺らしてその場をあとにした。

 あの日の僕を救ってくれたあの手を、あの温もりを。僕はどうして今の今まで忘れていたのだろう。同じ感情を抱え、僕に一輝の温もりを教えてくれた女の子のことを忘れてしまっていたなんて。

「手、貸して」

 梶さんがあの時と同じようにして僕の手を取る。

「大丈夫。ちゃんとあったかい。君の手は、ちゃんとあったかい」

 ただそれだけのことだった。だけど僕の涙腺は崩壊するしかなくて、止めることなどできるはずもなくて、子供のように再び情けない姿を彼女にさらした。

 涙を流し続ける僕に呆れることなく、彼女はあの時の一輝の温もりをもう一度伝えようと手を握る。しっかりと力強く。そこにはとてつもない優しさがあって、暫くの間僕は彼女の温もりを感じ続けていた。

 涙が落ち着いたころ、今思うとね、と再び梶さんが口を開いた。

「あの時。君の手を握ったあの時。きっと私自身が温もりを欲しがっていたんだと思う。彼と同じ顔をした君が、同じように冷たくなっていたらどうしようって、きっと不安だったんだと思う。君は大丈夫。ちゃんと温かい。ちゃんと生きていて目の前にいるんだって。自分が安心したかったんだと思う」

 不安な気持ちは同じだった。言葉だけじゃなく、心が壊れてしまわないよう触れあいたかったんだ。

「君のせいじゃない。そうやって、今までずっと言われ続けてきたんでしょ?」

 訊ねるようにして僕の目をのぞき込む彼女の瞳はまだ悲しげだ。

「私ね、あの日のことを祖母にだけは話したことがあるの。君の兄弟との二日間。彼に木登りを教えてしまった二日間のことを。だから、私も同じ。私のせいじゃないって、祖母に何度も何度も諭された。何度も……」

 僕はゆっくりと頷いた。

 彼女もずっと後悔し続けていたんだ。僕と同じように、あの時ああしなければよかったと、同じ感情を抱き続けていたんだ。けれど梶さんと僕の違いは明らかで。彼女は僕と違い、その現実から目を逸らし、俯き、逃げ出したりしなかったということだ。

 後悔を抱えながらも、前を向いて生きてきた。見た目は強気に見える彼女だけれど、そうなろうと努力し、前に進んできたのだろう。安穏と日々を超えて、後悔の渦に飲み込まれては暗幕の内側に隠れて生きてきた僕とは大違いだ。

 一粒の雫が梶さんの頬を濡らす。手の温かさを感じながら、僕はあの日のようにまた彼女に救われていた。忘れていた温もりを思い出させてもらい。今まで俯かずに来た彼女の生きざまを見せつけられた気がした。

 僕たちは、こんなにも悲しい現実で繋がっていた。一輝を喪ってから十年以上も経って、漸く知ることができたんだ。

 商店街であれだけの騒ぎがあっても、少し離れてしまえば町はとても静かだった。梶さんの過去を知った僕と。あの日のことを僕に伝えた梶さんは、その静かな夜の中、無言でそれぞれの部屋へと帰った。

 部屋に戻ると、待ちくたびれてしまった結城は僕のベッドを占領し爆睡していた。マシロがケージの中で元気に動き回っていた。