僕の情けない足取りに気を遣ってか、彼女の歩調はとてもゆっくりしたものだった。駅前を通り過ぎ、路地を行き。いつもの通りに出るひとつ前の角を彼女が曲がる。連れられている僕も曲がる。少し行くと、ベンチとトイレしかないとても小さな公園があった。

「知らなかった」

 呟く僕を殺風景な公園のベンチに座らせ、彼女は踵を返した。出てすぐのところに設置されている自販機で、ミネラルウォーターを購入して戻ると僕に手渡す。嘔吐したことで気持ちの悪くなった口内を、ミネラルウォーターでゆすぎ垣根の隅に吐き出した。

「少しは、落ち着いた」

 隣に腰かけた梶さんに訊ねられて表情を窺うと、彼女もさっきよりは蒼白さが緩和されていた。

 公園の夜は静かだった。少し出てきた風が申し訳程度に植えられた木々を揺らし、囁き声のような音を立てる。人通りのない公園前を通る人は誰もいなくて、ショートカットにもならない道路を車が通過することもない。

「迷惑かけて、ごめん」

 口の開いたペットボトルを握ったまま、隣の彼女見ることなく謝った。

「別に。今更この程度の迷惑なんて、迷惑のうちに入らないでしょ」

 サバサバとした物言いは、さっきの出来事を重く捉えないようにしようという気づかいが窺えた。

「梶さんは、平気?」

 自分のことばかりに囚われていたけれど、彼女の様子を思えばショックを受けていないはずがない。

「平気、とは言い難いかな」

 彼女は、自分のスニーカーを見るようにして下を向いた。

「そうだよね。だって、人が目の前で」

 そこまで口にしただけで、気持ちの悪さが蘇り表情が歪む。一輝の時のように、立ち尽くすことしかできなかったさっきの自分が、情けなくてどうしようもない。反面。仕方ないんだと、諦めて逃げ出そうとしてしまう感情のジレンマに圧しつぶされそうにもなっていた。

 あの日から、僕は何も変わっていない。一輝の時間を止めたのに、のうのうと今の今まで長い時間を費やしてきた。さっきの出来事に遭遇して、自分が今まで生きてきた時間の薄情さがありありとわかった。僕という人間は、何一つ変わっていない。後悔だの、たらればだの。あれこれ考えたところで、価値のない人生を送っていることに変わりはないんだ。中学の時、あんな風にからかわれたのだって、僕そのものの人生がどうしようもないものだったからだ。あのクラスメイトがイラついたのも、仕方のないことだったんだ。

 だって僕は一輝を……。

「……また、人を見殺しにした」

 俯いていても、呟いた僕の顔を梶さんが見ているのが解った。見殺しなんて言葉を聞いて、驚いているのだろう。過去に僕が殺人を犯した人物なんだと思い、怯えているかもしれない。けれど、言い訳なんて一つも浮かばないし。寧ろ、そうだと思ってくれて構わない。

 全てに投げやりな感情が纏いつく。今のこの状況も、のうのうと生きてきた自分にも。周囲に優しくされたことに、つけあがるように笑い続けてきたことも。

 一輝を助けもしなかったのに、笑って生きてきた自分を嘲笑いたい。

「なんで僕じゃなかったんだ。どうせなら、あの時一緒に死ねばよかったんだ。人を殺しておいて生き続けようなんて、所詮おかしな話だったんだ」

 口をついて出た言葉は、心の中にずっと抱え込んできた感情だった。

 あの日、僕を責める人は誰もいなかった。父さんも母さんも祖母ちゃんも。近所の噂好きな人だって、寧ろかわいそうな目に合ってしまったと涙ながらに僕を慰めた。そんな周囲の状況に落ち込んだように過ごしながらも、僕はずっと胡坐をかき続けてきたんだ。

 しょうがないじゃないか。あんなの、助けられるはずがないじゃないか。僕が悪いんじゃない。僕のせいじゃない。

 懺悔の気持ちを抱えながらも、何とか正当性を盾にして、責任逃れをし続けてきた。

 誰も責めないのなら、僕が悪いわけじゃない。僕のせいじゃない。僕が殺したんじゃない。

 頭の中で蠢く訳の分からない軟体動物が、ナメクジのように這いずり回り、悪くないという感情を気持ちの悪い滑りを含んで体中に塗り込んでいく。

 本当はそんなこと思いたくもないのに。僕だったらよかったのに。どうして僕が登らなかったんだ。どうしてすぐに止めなかったんだ。

 後悔ばかりで気が変になりそうになって。でも、それよりも早く母の精神が病んで、僕は平気なふりをして、元気なふりをして、家族を笑顔にしなくちゃって、泣いてちゃダメなんだって。そうやって生きるしかできなかった。

 放心したように項垂れる僕に向かって、梶さんが静かに息を吐く。

「それ。今までずっと、そう思って生きてきたの?」

 さっきまで感傷的で、気遣いを見せるように静かだった梶さんの声音が鋭利なものに変わった。今話したことで、スイッチが入ったみたいだ。切り裂くような言葉に、僕ははっとして隣の彼女を見た。きっと、情けない言葉を口にする僕に嫌気がさしてしまったか。もしくは、あまりの不甲斐なさに以前のように怒っているはずだ。

 けれど、僕が目にした梶さんは、口元を震わせて瞳一杯に涙をため込み、今にも零れだすその雫を必死に堪えているとても悲しい表情をしていた。

「かじ、さん」

 予想外の反応に戸惑い、どんな言葉をかけていいのか浮かばず、僕はただ彼女の名前を途切れるように呟くしかできなかった。

「ずっとそうやって。あの頃からそうやって」

 大粒の涙が梶さんのズボンの上に黒い染みを作った。零れてしまった雫を払い除けるようにして頬を拭った梶さんは、僕の着ているシャツを鷲掴みにして睨みつけてくる。

「誰もあんたを責めなかったし、誰もあなたのせいだなんて思っていない。どうしてそれを解ってあげないの。あなたがそう思わなかったら、周りの人はもっと傷つくのよ。違うっ?」

 吐き捨てるような言葉に、岸田青年の落下事故との繋がりが見つけられない反面。過去の出来事には符合していく。

「梶さん。どうして」

 何をどう訊ねたらいいのか。あの日の出来事と、彼女がどう関係しているのか。何か訊くべきなのに、混乱した頭は言葉を口から出すことを拒絶してでもいるみたいだった。

 僕は、どんな顔をしていただろう。涙ながらに僕を睨みつけていた梶さんは、掴んでいたシャツを悔し気にゆっくり放すと項垂れてしまった。そのまま泣き崩れてしまうんじゃないかと思えるほど、肩を落としてしまっている。僕はどんな言葉をかければいいのかもわからず、ただ時間が過ぎていくままに任せていた。

 下を向いたまま、梶さんは気持ちを抑え込むように何度か呼吸を繰り返す。そうやって時間をかけて心を落ち着かせると、ポツリポツリと話し出した。

「暑い夏だった……。田舎は虫が多くてあまり好きじゃなかったけど、毎年決まったように訪れる祖父母の家は好きだった。都会にはない木の滑らかさや畳の感触。どこまでが家の庭なのかわからないくらい自然に溢れた土地。柿の木があってね、渋柿だったんだけど。祖母がそれを干し柿にしていてね。子供の頃はあまり好きではなかったけれど、今なら美味しいって思える。実家で厳しく育てられていた私たちは、田舎へ行くと祖父母にたくさん甘やかされた」

 昔話のように話す梶さんの言葉を、聞き逃してはならないと僕は感じていた。彼女とあの日の出来事とが、きっと何かしらで関連しているはずだから。

 けれど、知りたいと思う好奇心よりも、知ってしまうことの不安が大きく幅をきかせているのも事実だった。

 今ならまだ止められる。すべて話を聞いてしまったら、もっと大きな不安に圧し潰されるかもしれない。想像が先走り、不安の渦に飲み込まれ。僕の心臓は、無駄に大きく音を立てて警戒する。けれど、頭の片隅では、今彼女の話を聞かなければいけない。これを逃したら、僕はこの先もずっと背を丸め、後悔し続け生きていくことになるだろうと感じていた。

 ペットボトルを握る手に力が入る。耳を塞ぎ、今にも逃げ出したい感情を必死に抑えつけた。

「その日、祖父ちゃんの農作業に付き合って兄は先に出かけてしまったの。今更あとを追う気にもならなくて、私は一人近所の山に出かけて行ったわ。高い木が太陽に向かって伸びていて、セミの声が耳鳴りみたいに次から次へと響いてた。都会には殆どない草や土を踏みしめる感触は、お気に入りの靴が汚れてしまうと倦厭しそうになるのになぜか心地よくて。でも、汗で張り付くTシャツには不快感を覚えずにいられなかった。そんな私の目の前を大きなモンキチョウが飛んで行ったの。住んでいる場所で小さな蝶を見かけることはあっても、あんなに大きくて綺麗な黄色の羽を持つ蝶なんて見たことがなかったから、慌てて追いかけたわ。どうにか捕まえて兄に自慢しようって、必死になってあとを追ったの。蝶は、まるで私を導くみたいにフワフワと木の間を縫っていった。その先で、一人の男の子に出会ったの。色白で手足が細くて、頼りないというのが最初の印象だった。あのくらいの時期は、女の子の方が成長は速いから、身長も私の方が高かったしね。子供の数がとても少ない田舎で、まさか自分と同じくらいの子に出会うなんて思わなかったから、すぐに興味を抱いたの。男の子は太い木の幹の根元に立ち尽くして、首を伸ばすようにして上を見上げてた。何を見ているのかと、そっと近寄ったら悔しそうに顔を歪めて泣きそうな顔をしてた。私は、さっきまで追いかけていた蝶のことなんてあっという間に忘れてしまって、元来持つ世話焼き心が抑えられず、どうしたのかと訊ねたの。突然現れた女の子に男の子は驚いたようだったけれど、私が同じような年齢だと理解するとすぐに心を開いて言葉を交わしてくれた。彼は、この木を登りたいけれど、うまくできないんだと悔しそうに零してた」

 そこまで聞いて、益々心臓の音は焦るように大きくなっていった。僕の中ではすでに彼女との繋がりが見えてきていた。

「私、やんちゃだったからね。木登りなんて、得意中の得意だったのよ。校庭ののぼり棒なんて、あっという間に天辺まで登っちゃうくらいだった。だから、教えてあげたの。木登りの仕方を、教えてあげたの。私が彼に、教えてしまったの……」

 梶さんは、苦しそうに息を吐き出した。項垂れていた顔を上げると、まっすぐ前を見据える。まるであの日の出来事が目の前で起きているかのように、悔しそうで悲しげな表情をする。

 今の僕も同じような顔をしているんじゃないだろうか。あの時のあの瞬間に戻れるなら、僕は一輝のために助けを呼びに祖母ちゃんの家まで駆けて行ったかもしれない。落下して倒れた一輝に声をかけて、励ましてあげることだってできたかもしれない。一輝に登らせず、僕が登ることができたかもしれない。

「手足は木の棒みたいにすごく細いし、あまり筋力はなさそうだったから、うまく引っ掛けられる場所を探して登り方を教えたの。頭は良さそうだった。一度言ったことは忘れないし、理解力はあった。けど頭と体は別だから、なかなかうまく登れなくてね。その日から二日。私はその子に、猛特訓よ。泣きべそをかきながらも、彼は必死に登ろうと努力していた。悔し涙を目に浮かべて、汗だくになって、登ろうと必死になってた。二日目の陽が暮れる前に、あと少しで登れそうっていうところまできていたけれど、明日は兄ちゃんが来るからと特訓はその日で終了したの。自分は兄ちゃんみたいに運動が得意じゃないけれど、勉強の苦手な兄ちゃんが、今一生懸命に家で頑張っているから。僕も頑張ったっていうところを見せたいんだ。凄いなって、兄ちゃんに褒められたいんだって笑ってた」

 褒められたいと必死になり、頑なに真っすぐ前だけを見ていただろう表情が、ありありと想像できて。僕の胸の奥は熱を持ち、苦しくて、悔しくて、涙に声がもれそうになる。

「騒ぎを聞いたのは、翌日の夕方だった。子供には知らせない方がいいと思った大人が気を遣ったのね。けど、結局。田舎の繋がりは濃いから、私も兄も通夜に参列することになったの。それに一人残された子供が可哀相だから、私たち兄妹が無垢な感情で励ますように声をかけられればいいと考えたのかもしれない。けど子供だって、流石にあの場ではしゃぐなんて、できないよね。そこまで無邪気でなんていられないよ。特に私は……」

 梶さんは、そこで一旦、言葉を止める。ため込んだ感情を穢してはいけないとでも言うように、静かにゆっくりと息を吐き出してから再び口を開いた。

「遺影の彼は、兄ちゃんと呼んでいた兄弟のことを私に話していた時と同じように、とても明るい顔をして写ってた。祭壇そばにある家族席には、彼とまったく同じ顔をしていながら、今にも死んでしまうんじゃないかというくらいの蒼白で暗い顔をしている男の子が座ってた。きゅっと唇を結び、真っ青な顔をしているのに涙は少しも浮かんでいなくて、この場から切り離されてでもいるみたいに見えた。狂ったように泣き崩れる母親を抱えるようにして退席して行った父親の背中を追うこともなく。ただじっと椅子に座り、自分の膝の上にある拳を見続けてた。まるで一緒に遠くに行ってしまったような顔つきだった。それを見て、私は怖くなったの。逃げ出したくなったの。これ以上この場所に居られない。居たくない。怖くて、苦しくて。周囲にある迫るような黒い色たちに責められている気がして、息もできなくなるくらい苦しいものに飲み込まれるような恐怖を感じた。焼香もせず、突然走り去る私を母が追いかけてきたけれど、様子がおかしいことに気がついたのか、外にいた近所のおばさんに私を預けて葬儀場に戻って行ったわ。どのくらい時間が過ぎたのか解らない。泣き崩れた母親と、連れ出した父親が通夜の席に戻ったのかどうかも知らない。私は、噂好きのおばさんがぺちゃくちゃと会話している傍からそっと離れて庭の方へ向かったの。大きな木が生えてた。なんの木だろう。思い出せないけれど、とてもどっしりとしていたその木の根元に、ポツンと坐っている彼に気がついた。膝を抱えて、さっきと同じようにどこか意識は遠くにあるような、ぼんやりした生気のない表情をして木に体を預けるように座り込んでた。私は写真の彼にかけたように、その彼にも声をかけたの。そうしなくちゃいけないって、強く思ったから」

 ずっと忘れていた。あの日のことを思い出す辛さに、僕は記憶に蓋をし続けていたんだ。一輝がいなくなってしまったことを忘れるなんてできやしなかったけれど、葬儀のことやその後の暮らし。あの頃の記憶は全てぼんやりとしていて、辛い思い出について父や祖母に訊ねる勇気もなかった。病んだ母は、田舎の祖母のところで暮らすようになっていたし。あの大きな一軒家で父と二人だけの生活を送りながら、波風が立たないよう言葉少なに暮らしてきた。そうやって僕は、今までずっと現実から目を背けて生きてきたんだ。けれど、梶さんの話を聞き思い出した。あの時、確かに僕に向かって声をかけてくれた女の子がいた。猫のように瞳が大きくて、凛としているのに僕と同じようにつらそうな表情をしていたあの女の子は。

「梶さん、だったんだね」