梶さんのポーランド熱が緩やかになったタイミングを見計らうように、石川さんが話題を変える。

「そういえば、早苗のお兄さんには会った?」

 僕は頷き、結城は首を振った。

「めちゃくちゃカッコよかったでしょ」

 会ったことのある僕に向かって、意気揚々と頬を紅潮させる。さっき梶さんがポーリッシュポタリーについて話していた時と同じような恍惚とした表情だ。どうやら彼女は、梶さんのお兄さんに好意を持っているみたいだ。

「そんなにカッコいいのか?」

 会ったことのない結城が僕に訊ねる。

「うん。一瞬、モデル雑誌か何かから飛び出してきたのかと思うくらいのイケメンだった」

 物腰も柔らかく落ち着いていて、癒されるという店名を付けるのももっともだと思える人物だ。

「兄は、ダメよ。あんななりだけど、恋愛云々では抜けてるから」

 梶さんは、呆れたように肩を竦める。以前、恋愛関係で何かあったのだろうと臭わせる口ぶりだけれど、深く訊くほどの間柄にはまだなれていないので黙っていた。

「そこがまたいいんじゃない」

 梶さんの言葉にもめげす、石川さんはお兄さんのことを持ち上げる。どんなに抜けていようとも、石川さんには関係のないことなのだろう。

「兄と付き合ったら、苦労するわよ。ただのポーランドオタクだから」

 そう話す梶さんも、充分ポーランドオタクに思えるのは僕だけだろうか。

 石川さんと一緒にいる時の梶さんは、僕に接する時とは大違いによく笑った。とても楽しそうに話しをし、よく食べよく飲んでいた。普段の彼女はこんな風なのだと知り、この貴重な時間を満喫していた。

 僕たちは長いこと店に留まり、つきない話に盛り上がった。石川さんのことを気に入った結城は、一緒にいる間に連絡先を聞き出そうとあの手この手で話題を振っていたけれど、ガードの堅さにあえなく撃沈した。

「じゃあ、私はそろそろ」

 十一時を回った頃。石川さんが帰り自宅を始める。

「えぇー。帰っちゃうのかよ。二次会行こうぜぇ」

 少し酔った結城が石川さんを引き留めるのを、梶さんと二人で止めた。手の早いだろう結城に、梶さんのお友達を易々と差し出すわけにはいかない。ごめん、結城。

 三人で石川さんを駅まで送り届けたあと、結城がそっと僕に耳打ちをした。

「先に帰ってるから、部屋の鍵を寄越せ。二人きりになるチャンスだろ」

 結城からの突然のおぜん立てに、思わずハッとして見返してしまう。何も話していないというのに、結城は僕の気持ちを察していたらしい。酔っていながらも僕のことを考え、気を遣ってくれた結城を見て、石川さんの肩を持ってしまったことを少しだけ後悔する。手は早いが、結城という男はいいやつなのだ。

「早苗ちゃん。こいつ健さんの店に用事があるらしいから、一緒に行ってやって。俺は先に帰ってるぜ。じゃな。あ、明日のクロワッサンはあるか?」

 抜かりなく朝食のことを訊ねる結城に笑いながら「あるある」と返事をすると、弾むように背を向け行ってしまった。

「健さんのところって。こんな時間にやってないでしょ」

 呆れる梶さんを見てもっともだと思ったけれど、マシロのことを考え一応商店会へ足を向けた。

 二人きりになってすぐ、僕の頭にはお礼を言いたいという気持ちが現れる。

「この前は、その。マシロのこと、ありがとう」

 頭を下げる僕を見て、梶さんが息を吐く。

「病院代。あとで請求するからね」
「もちろんです」

 当然ですと真剣な顔をする。

「で、マシロちゃんは元気なの?」
「うん。今日も元気に干し草を食べて、コロコロとあちこちにウンチをしてたよ」
「最後の情報は、要らないから」

 コロコロについて話すと、ちょっとだけ笑ってくれた。

 それにしても健さんのことを親しげに呼ぶということは、梶さんも商店街の人たちと仲がいいのかもしれないな。

「商店街には、よく行くの?」

 駅からの短い距離を、酔い覚ましのように並んで歩く。

「そうね。お店に行くときには通るし。幸代さんのところのパンもよく買うよ」

 やっぱり、幸代さんのところのパンは人気なんだな。部屋に置いてきたお礼のパンをあとで渡そう。

 歩調を合わせながら、梶さんの揺れるポニーテールをそっと見る。今日は、プイッときつく揺れることがなくて、僕は少し浮かれていた。いや、こうやって一緒に飲むことができ、並んで歩くことができている現実に相当浮かれていた。結城には、マジで感謝だ。

 商店街に入ると、案の定。健さんの店のシャッターは下りていた。モールを買うのはやはり明日だな。

「やっぱり閉まってるじゃん」

 呆れた息を吐いた梶さんが機嫌を損ねないようにと顔色を窺ったけれど、アルコールのおかげなのか頬がほんのり染まり表情は穏やかなままだ。

 少し行った先のおキクさんの店のある辺りで、背の高い脚立を使い提灯の取り替え作業をしている二人組が目に入った。昼間、健さんが話していた件だろう。

「ここの提灯は、カラフルで綺麗よね」

 梶さんは商店街の天井を見上げながら、ゆっくりとした足取りで作業をしている方へ向かって歩いていく。僕は、言われるままに提灯を眺めたあと、梶さんの顎のラインや、喉から鎖骨に流れる線の細さやうなじを見て。そっちのほうがよっぽど綺麗だと考えていた。お兄さんがあれだけのイケメンで、妹の梶さんも綺麗となると。ご両親は、どれほど顔の整った人たちなのだろう。僕も残念はつくけれど、結城にはイケメンだと言って貰えている。けれど、父親はごく普通の容姿で、母も整ってはいるが特別美人の部類というほどではない。いいところだけを貰ったのかもしれない。だとしたら親に感謝だ。

 取り替え作業をしている傍に近づいていくと、少し離れた場所に健さんが立っていることに気がついた。腰に手を当て、若い男性が作業しているのを見上げるようにして眺めている。近づいていくと、僕らに気づいた健さんが表情を緩めた。

「よぉっ。樹。なんだ、早苗とデートか」

 からかうようにして、梶さんをニタニタと見た。

「やめてよ、健さん」

 梶さんの表情が満更でもないように見えるのは気のせいか。

「なんだよ。別にいいじゃねぇか。樹も早苗の兄ちゃんに負けないくらい、イケメンなんだし」

 健さんは、梶さんのお兄さんのことも知っているようだ。しかし僕がお兄さんと同じくらいのイケメンだなんて、とんでもないよ。石川さんに叱られてしまう。

 健さんと話をしていると、作業をしている二人の声が聞こえてきた。

「違う、違うっ。そのコードを先に取り付けてからだって」

 脚立の下にいる青年が見上げたまま、少しイライラとしたような声音で作業をしているもう一人の青年に指示を出している。

「取り替え作業っていうのは、意外と手間のかかることなんだよ」

 腕を組んだ健さんは、訳知り顔でうんうんと頷いたあとに指をさす。

「あれ。俺んちの脚立。樹、何かあったら貸してやっから言えよ」
「はい」

 とは言ったものの、三メートルほどもある背の高い脚立を使うタイミングなどないと思う。

 僕と梶さんは遠くから見守る健さんから離れ、作業をしている青年たちへと更に近づいていった。どんな具合なのかと、取り付けのことなど少しもわからないというのに、下で脚立を支える青年と同じように提灯を見上げる。

 取り替え作業は、配線がうまくいかないのか難航していた。健さんの脚立でも微妙に高さが足りず、必死に腕を伸ばして作業に没頭している。そもそも高い位置にあるものに手を伸ばしながらの作業というのは、視界も限られるし、心臓よりも上にある腕がだるく疲れてくるので集中力も削がれてしまうものだ。あと少しというところで、うまくいかないのか、作業をしていた青年が大きな息を吐いて一旦腕をおろした。

「きっつう」

 手に交換する提灯提げたまま、だるくなった腕を揉んでいる。

「岸田、もういいよっ。かわれ。俺がやる」

 脚立を押さえていた下の青年が見かねたように声を出し、下りてくるように指示した時だった。

「うわっ!」という声とともに、足を滑らせた青年がドスッという鈍い音を立てて地面に落下した。

「岸田っ」

 下にいた青年は、落ちてきた岸田という青年の足が肩にあたり顔を顰めながらも声をかけている。
 あまりに一瞬のことで、僕は声も出ない。

「きっ、岸田っ! おい、岸田っ」

 足が当たった肩を押さえながら、苦痛に顔を歪めて倒れている岸田青年に向かって必死に声をかける。体をゆすり、声をかけ。叫ぶ。傍には、取り替えようとしていた提灯が、おもちゃのように転がっていた。

「無理に動かすなっ!」

 離れて見ていた健さんが駆け寄り、必死の形相で制した。そうしながらも、素早い状況判断で、携帯を取り出し救急車を呼ぶ。

 すぐ目の前で落下した岸田青年の姿に、僕の顔面は蒼白となっていた。ガタガタと足が震え、声すら出ない。隣には梶さんもいるけれど、どんな顔をして何を言っているのか全く分からない。周りの音が聞こえてこなくなってしまったんだ。キーンという嫌な耳鳴りがし出して、目の前で起きている状況が無声映画のようだ。苦痛に顔を歪める岸田青年。叫ぶように声をかけているもう一人の青年。健さんの素早い対応。この一瞬の間に目まぐるしい状況が起きているというのに、僕の耳には何一つ音が聞こえてこない。意識が遠のいていく。目の前で起きた事故に、あの日のことがフラッシュバックする。

「かずき。かずき……」

 自分の口からそう漏れていると気がついたのは、赤いランプが商店街を照らし、救急隊員が到着した時だった。サイレンに気がついた住民が、なにごとかと次から次に顔を出す。おキクさんや幸代さんの姿が見えたけれど、それ以外の人たちを認識する余裕はなかった。

「離れてくださいっ」

 担架をおろした作業員に大きく声をかけられハッとするも、足はコンクリートで固められたように動かすことができなかった。

 脚立から落ちた青年の顔に、一輝の顔が重なる。苦悶に歪んでいる表情が僕を責め立てる。

 助けて、兄ちゃん。助けて、痛いよ。

 あの日、一輝のその声を聞いたわけではない。なのに頭の中では何度も何度も一輝の声が木霊する。助けを乞う声の裏側で、自身の声はさらに僕を責める。

 何故、声をかけない。何故、助けようとしない。どうして見殺しにする。またあの時のように、何もせずにいるつもりか。

 頭の中で自分の声が反響するのに、周囲の音はぼんやりと遠い。胃液がせりあがる。さっきまで結城や石川さんと盛り上がって楽しんでいた居酒屋の料理やビールが込み上げてくる。

「ぐぼっ」

 蹲り嘔吐する僕の腕を引き、強引に立ち上がらせる人がいた。ハンカチを差し出され条件反射のように受け取り口元を拭う。

「こっち」

 見ると、僕の腕を引いたのは梶さんだった。後方に誘導し、離れた場所へと移動する。一緒に居られることに舞い上がっていた気持ちはもうどこにも見当たらず。梶さんが存在していたことさえ分からなくなっていた。

 迅速な対応で岸田青年を担架に乗せた救急隊員は、健さんも一緒に車に乗せて走り出した。残されたもう一人の青年は、不安に顔を歪めながら立ち尽くしている。その後源太さんがやって来て「車を出すから来い」と青年を連れて行った。多分、救急車に乗った健さんと連絡を取りあって、運ばれていく病院へ向かうのだろう。

 岸田青年の家族は、どうしただろう。突然の知らせに生きた心地がしないはずだ。あの日の父と母を思えば、僕の胃液はまたポンプのように内容物を押し上げる。

「ごめん。うっ」

 吐しゃ物の上に涙を零しながら、蹲る僕の背中を梶さんが無言のままさする。

 提灯の取り替え作業は延期だろう。商店街の人たちが、脚立や道具を片付ける姿が視界の隅に入る。目の前で事故を目撃したというのに、僕はその様子を見ても何もできず、吐しゃ物と共にただ蹲ることしかできない。

「ここに居ても何もできないし、行こう」

 僕が落ち着いてきたのを見計らい、梶さんが促した。隣に立つ彼女の顔を見れば、あの日の一輝のようにとても蒼白だった。体温を失ったように真っ白な顔と紫色に近い唇。まるで気温の低い日に入った海やプールでの子供みたいだ。目の前で起きた事故に、彼女も動揺をしていたんだ。情けない僕は、そんな梶さんよりもずっと打ち震え、声をかけられてもなかなか足を動かすことができずにいた。

「行こう」

 再び声をかけられ、僕は彼女に手を引かれて足を前に出した。まるで幼い弟が姉と家路を辿る時のようだった。