おでん屋に近づくと、店先の四角い鍋から出汁のいい香りがしてきた。鍋の前に立つみっちゃんは、中の具を優しくひっくり返しているところだった。
「こんにちは」
「あっ、いっ君。いらっしゃい」
僕の顔を見てすぐに満面の笑みを向けてくれる。
「喜代さんは、奥ですか?」
一緒に心配してくれた喜代さんにも直接報告がしたくて訊ねると「はいはい。いますよ~」とにこやかな表情で顔を出した。
「あの、少し前に話したうさぎが見つかりまして」
僕が口にした瞬間、みっちゃんが悲鳴のような歓喜の声を上げた。あまりのボリュームに驚いて、持っていた電気ケトルの収まる袋が僕の手に握られたまま一瞬空を踊った。
「よかったっ。よかったね。いっ君。これでもう、寂しくないねっ。うっうぅっ」
みっちゃんは、エプロンの裾を持ち上げると、流れ出る涙を拭きながら喜んでくれる。
「うさぎは、元気にしていたのかい?」
喜代さんは見つかったマシロの体調を気にしてくれた。
「はい。預かってくれていた人が、面倒を見ていてくれて。本当によかったです」
「預かってた? 迷子になっていたのを見つけてくれていたってことかい?」
「えっとぉ。そんなところです」
酔った僕の下敷きになったマシロを救出し、病院にまで連れて行ってくれたことを端折って説明したのは、みっちゃんの反応が更に大袈裟になるからというだけではない。自分の責任感のなさを二人に話すことが怖かったからだ。どうしようもない僕に優しくしてくれるなんてと言いながら。結局僕は周囲の優しさを求め、マイナスになるイメージを隠そうとしている狡い奴だ。
「優しい人に見つけて貰えてよかったじゃないか。ちゃんとお礼は言ったのかい?」
まるで母親のように僕のことを考え、心配してくれる喜代さんに頷きを返す。僕の仕出かしたことに怒っているだろう梶さんに頭を下げた昨夜。情けなさと、マシロが見つかった嬉しさで心の中がグチャグチャになり涙を流してしまった。梶さんは、こんな僕と二度と関わりたくないと思っているかもしれない。けれど、この感謝の気持ちは、これからもずっと持ち続けていきたいし。話す機会があるなら、何度でもお礼を言いたい。
「なんにしても、いっ君の安心した顔を見られて嬉しいよ」
みっちゃんは、グズグズと鼻を鳴らしながら、僕のことを本気で心配してくれる。みっちゃんの純粋でまっすぐな気持ちは、僕にはもったいないくらいで。彼女の涙に釣られて、僕の瞳も潤んでいく。喜代さんの見守るような表情と、みっちゃんのあったかい気持ちに感謝をし、頭を下げて店をあとにした。
幸代さんのところに寄って、結城がうまいと言って食べまくったクロワッサンを買いに行こうとしていたら、お茶屋の店先におキクさんが出てきて僕を手招きした。呼ばれるままに傍へ行くと、お茶を淹れるから飲んでいきなさいと店の中へ招かれる。
「うさぎが見つかったんだって?」
奥で湯を急須に注ぎながら、おキクさんが僕にいつもの丸椅子を勧めた。
なんて情報が速いんだ。この商店街の連携プレーは光の速度だ。きっと、健さんだろうな。自分のことのように嬉しそうな顔をしておキクさんに報告をしているだろう姿がリアルに想像できた。
「動物を飼うっていうのは、大変なことだよ」
湯飲み茶わんに注がれた緑茶を受け取り、小さく頭を下げて一口頂いた。丁度いい熱さで、ほんのりと舌に感じる甘味と香りが鼻腔を抜ける。今日もとても美味しい。
「ペットなんて横文字を使うから、軽く感じてしまうのかもしれないがね。言葉を話さなくても、命は命だ」
おキクさんは、通りを眺めながらゆっくりとかみ砕くように話した。僕は「はい」と返事をする。
本当にその通りだ。言葉を話せないからこそ、寄り添って大切にしなくてはいけない。
「無事に帰ってきて、本当によかった」
おキクさんがそこで僕の顔を見た。
「樹の心に、大きな傷がつかなくてよかった」
おキクさんが僕に向けた言葉は慈愛に満ちていて、包み込むような温かさを感じた。優しく背中をさすられた幼い頃を思い出させるような話し方に、涙が込み上げてきてしまい咄嗟に下を向いた。込み上げた涙は呆気なく零れ、おキクさんの店の床を濡らした。
「樹は、優しい子だから。傷は、少ない方がいい」
おキクさんは緑茶の入った湯飲み茶わんを両手で大切に包み込み、僕に優しい笑みを向け続けてくれた。
涙が落ち着き、緑茶を飲み干したあと。おキクさんは、僕の手を優しく握り撫でるようにさする。
「いつでもおいでなさいな。ここには、樹を大好きな人がたくさんいる」
田舎の祖母を思わせる皴皴の温かな手が、心も優しく撫でていく。
「若いうちは、甘えたっていいんだよ。年を取る毎に、それをまた次の若い子に向けてあげればいい。それでいいんだ」
「はい」
僕は、おキクさんに深々と頭を下げて店をあとにした。
僕が飼っているうさぎの噂は、この商店街にとってけして暇つぶしのネタではなく。同じように悲しみや喜びを感じようとするものだった。こんなに温かな人たちが集まる場所に住む僕は、とてもとても恵まれている。優しくして欲しくないなんて、本当におこがましい。僕は、みんなからの愛を大切に受け止めた。
パン屋の自動ドアを潜ると、幸代さんがレジから笑顔をくれた。
「いっ君、いらっしゃい。うさぎ、見つかったんだって。よかったね」
幸代さんが、心からの微笑みを向ける。
「健ちゃんがね、とっても嬉しそうに電話してくるものだから。私もほっとしたのよ」
やっぱり健さんからの情報だったんだ。普段なら、こんな風に自分のことを周りに吹聴されてしまえば嫌な気持ちになるのに。この商店街は特別で、あったかいみんなの心遣いが伝わり、寧ろありがたささえ感じる。
「それにしても、一体どこにいたの?」
トング片手にトレーを持って、クロワッサンをのせていると幸代さんが不思議そうに訊ねてきた。さっきみっちゃんには自分を守るために言葉を濁したけれど、そうじゃいけないと思い直し、幸代さんには正直に事の経緯を話した。梶さんの名前は出さなかったものの、隣人さんが僕の下敷きになったマシロを助け出してくれたこと。病院へ連れて行ってくれたこと。今まで預かってくれていたことを話した。
「そう。そんなことがあったのね。マシロちゃん。元気に戻って来てくれてよかったわね」
幸代さんがマシロと呼んでくれた。それがなんだかくすぐったくて嬉しい。
「そのお隣さんとその後は? お礼はした?」
ここにも母親みたいに気を利かせてくれる人がいた。
「昨日の今日で、まだ会っていなくて。というか、多分僕の仕出かしたことに怒っている気がして」
「会いづらいんだ」
幸代さんは、クスクスと笑いを零す。子供みたいだと思われているのかもしれない。
いくつになっても臆病風に吹かれている情けない男だと思われている気がして、背中が丸まっていく。
「手土産に、うちのパンでも持っていったら? そうやって真剣に怒ってくれる人なんて、なかなかいないんだから。案外、仲良くなれるかもしれないよ」
確かに、どうでもいい相手なら関知しないだろうし。あんなに必死になって怒ったりしないだろうな。
梶さんへの想いを抱えたままの僕は、一縷の望みともいうべき小さな小さな光を見た気がして、トレーに乗せた自宅用のクロワッサン以外のパンを何種類か見繕い、別の袋に詰めて貰った。
「いっ君の気持ちが届きますよーに」
幸代さんがチャーミングな笑みを浮かべて袋を手渡してくるものだから、顔が熱くなってしまった。幸代さんは、お礼の気持ちが届くようにと思って言ったのかもしれないないけれど。僕には、梶さんへの想いが届きますようにと言われた気がした。
幸代さんの店を出たその足で、まっすぐ梶さんの雑貨屋へ向かった。店が近づくにつれて、何をしに来たの? なんて冷たくあしらわれやしないかと緊張感が高まっていく。
「こんにちは」
「あっ、いっ君。いらっしゃい」
僕の顔を見てすぐに満面の笑みを向けてくれる。
「喜代さんは、奥ですか?」
一緒に心配してくれた喜代さんにも直接報告がしたくて訊ねると「はいはい。いますよ~」とにこやかな表情で顔を出した。
「あの、少し前に話したうさぎが見つかりまして」
僕が口にした瞬間、みっちゃんが悲鳴のような歓喜の声を上げた。あまりのボリュームに驚いて、持っていた電気ケトルの収まる袋が僕の手に握られたまま一瞬空を踊った。
「よかったっ。よかったね。いっ君。これでもう、寂しくないねっ。うっうぅっ」
みっちゃんは、エプロンの裾を持ち上げると、流れ出る涙を拭きながら喜んでくれる。
「うさぎは、元気にしていたのかい?」
喜代さんは見つかったマシロの体調を気にしてくれた。
「はい。預かってくれていた人が、面倒を見ていてくれて。本当によかったです」
「預かってた? 迷子になっていたのを見つけてくれていたってことかい?」
「えっとぉ。そんなところです」
酔った僕の下敷きになったマシロを救出し、病院にまで連れて行ってくれたことを端折って説明したのは、みっちゃんの反応が更に大袈裟になるからというだけではない。自分の責任感のなさを二人に話すことが怖かったからだ。どうしようもない僕に優しくしてくれるなんてと言いながら。結局僕は周囲の優しさを求め、マイナスになるイメージを隠そうとしている狡い奴だ。
「優しい人に見つけて貰えてよかったじゃないか。ちゃんとお礼は言ったのかい?」
まるで母親のように僕のことを考え、心配してくれる喜代さんに頷きを返す。僕の仕出かしたことに怒っているだろう梶さんに頭を下げた昨夜。情けなさと、マシロが見つかった嬉しさで心の中がグチャグチャになり涙を流してしまった。梶さんは、こんな僕と二度と関わりたくないと思っているかもしれない。けれど、この感謝の気持ちは、これからもずっと持ち続けていきたいし。話す機会があるなら、何度でもお礼を言いたい。
「なんにしても、いっ君の安心した顔を見られて嬉しいよ」
みっちゃんは、グズグズと鼻を鳴らしながら、僕のことを本気で心配してくれる。みっちゃんの純粋でまっすぐな気持ちは、僕にはもったいないくらいで。彼女の涙に釣られて、僕の瞳も潤んでいく。喜代さんの見守るような表情と、みっちゃんのあったかい気持ちに感謝をし、頭を下げて店をあとにした。
幸代さんのところに寄って、結城がうまいと言って食べまくったクロワッサンを買いに行こうとしていたら、お茶屋の店先におキクさんが出てきて僕を手招きした。呼ばれるままに傍へ行くと、お茶を淹れるから飲んでいきなさいと店の中へ招かれる。
「うさぎが見つかったんだって?」
奥で湯を急須に注ぎながら、おキクさんが僕にいつもの丸椅子を勧めた。
なんて情報が速いんだ。この商店街の連携プレーは光の速度だ。きっと、健さんだろうな。自分のことのように嬉しそうな顔をしておキクさんに報告をしているだろう姿がリアルに想像できた。
「動物を飼うっていうのは、大変なことだよ」
湯飲み茶わんに注がれた緑茶を受け取り、小さく頭を下げて一口頂いた。丁度いい熱さで、ほんのりと舌に感じる甘味と香りが鼻腔を抜ける。今日もとても美味しい。
「ペットなんて横文字を使うから、軽く感じてしまうのかもしれないがね。言葉を話さなくても、命は命だ」
おキクさんは、通りを眺めながらゆっくりとかみ砕くように話した。僕は「はい」と返事をする。
本当にその通りだ。言葉を話せないからこそ、寄り添って大切にしなくてはいけない。
「無事に帰ってきて、本当によかった」
おキクさんがそこで僕の顔を見た。
「樹の心に、大きな傷がつかなくてよかった」
おキクさんが僕に向けた言葉は慈愛に満ちていて、包み込むような温かさを感じた。優しく背中をさすられた幼い頃を思い出させるような話し方に、涙が込み上げてきてしまい咄嗟に下を向いた。込み上げた涙は呆気なく零れ、おキクさんの店の床を濡らした。
「樹は、優しい子だから。傷は、少ない方がいい」
おキクさんは緑茶の入った湯飲み茶わんを両手で大切に包み込み、僕に優しい笑みを向け続けてくれた。
涙が落ち着き、緑茶を飲み干したあと。おキクさんは、僕の手を優しく握り撫でるようにさする。
「いつでもおいでなさいな。ここには、樹を大好きな人がたくさんいる」
田舎の祖母を思わせる皴皴の温かな手が、心も優しく撫でていく。
「若いうちは、甘えたっていいんだよ。年を取る毎に、それをまた次の若い子に向けてあげればいい。それでいいんだ」
「はい」
僕は、おキクさんに深々と頭を下げて店をあとにした。
僕が飼っているうさぎの噂は、この商店街にとってけして暇つぶしのネタではなく。同じように悲しみや喜びを感じようとするものだった。こんなに温かな人たちが集まる場所に住む僕は、とてもとても恵まれている。優しくして欲しくないなんて、本当におこがましい。僕は、みんなからの愛を大切に受け止めた。
パン屋の自動ドアを潜ると、幸代さんがレジから笑顔をくれた。
「いっ君、いらっしゃい。うさぎ、見つかったんだって。よかったね」
幸代さんが、心からの微笑みを向ける。
「健ちゃんがね、とっても嬉しそうに電話してくるものだから。私もほっとしたのよ」
やっぱり健さんからの情報だったんだ。普段なら、こんな風に自分のことを周りに吹聴されてしまえば嫌な気持ちになるのに。この商店街は特別で、あったかいみんなの心遣いが伝わり、寧ろありがたささえ感じる。
「それにしても、一体どこにいたの?」
トング片手にトレーを持って、クロワッサンをのせていると幸代さんが不思議そうに訊ねてきた。さっきみっちゃんには自分を守るために言葉を濁したけれど、そうじゃいけないと思い直し、幸代さんには正直に事の経緯を話した。梶さんの名前は出さなかったものの、隣人さんが僕の下敷きになったマシロを助け出してくれたこと。病院へ連れて行ってくれたこと。今まで預かってくれていたことを話した。
「そう。そんなことがあったのね。マシロちゃん。元気に戻って来てくれてよかったわね」
幸代さんがマシロと呼んでくれた。それがなんだかくすぐったくて嬉しい。
「そのお隣さんとその後は? お礼はした?」
ここにも母親みたいに気を利かせてくれる人がいた。
「昨日の今日で、まだ会っていなくて。というか、多分僕の仕出かしたことに怒っている気がして」
「会いづらいんだ」
幸代さんは、クスクスと笑いを零す。子供みたいだと思われているのかもしれない。
いくつになっても臆病風に吹かれている情けない男だと思われている気がして、背中が丸まっていく。
「手土産に、うちのパンでも持っていったら? そうやって真剣に怒ってくれる人なんて、なかなかいないんだから。案外、仲良くなれるかもしれないよ」
確かに、どうでもいい相手なら関知しないだろうし。あんなに必死になって怒ったりしないだろうな。
梶さんへの想いを抱えたままの僕は、一縷の望みともいうべき小さな小さな光を見た気がして、トレーに乗せた自宅用のクロワッサン以外のパンを何種類か見繕い、別の袋に詰めて貰った。
「いっ君の気持ちが届きますよーに」
幸代さんがチャーミングな笑みを浮かべて袋を手渡してくるものだから、顔が熱くなってしまった。幸代さんは、お礼の気持ちが届くようにと思って言ったのかもしれないないけれど。僕には、梶さんへの想いが届きますようにと言われた気がした。
幸代さんの店を出たその足で、まっすぐ梶さんの雑貨屋へ向かった。店が近づくにつれて、何をしに来たの? なんて冷たくあしらわれやしないかと緊張感が高まっていく。