小学校三年生の暑い夏だった。都会では味わえない自然の醍醐味を、これでもかと言うほど体に受けて、僕も双子の弟一輝もとにかくはしゃいでいた。東京よりもほんの少し涼しくて。東京よりもずっと風の通りがよくて。東京にはない、山や川がある母方の祖母の家には、毎年夏休みになると家族四人で訪れていた。

 父親の運転するファミリーワゴンに乗って、ドライブするみたいに遠い道のりを越え祖母が住む田舎へ向かうのだ。ただ、あの夏はいつもと違っていた。勉強の苦手だった僕は、通っていた塾の課題が終わらず、未だ東京の家に父と二人で残っていたのだ。母親は勉強が得意な弟の一輝を連れて新幹線に乗り、先に祖母宅へと行ってしまっていた。自分も今すぐ出発したいという逸る気持ちと、課題が終わらないもどかしい気持ちの狭間でグズグズと机に向かっていた。

「一輝、今頃何してんのかなー」

 鉛筆を指先で弄び、なかなか先に進まない算数のプリントから目を逸らす。

 僕に付き合って家に残り、リビングで新聞を広げていた父は「早く済ませてしまえよ」と何度目かの苦笑いを浮かべていた。

 漸く課題を終わらせたのは、一輝たちが発ってから二日後だった。父と二人、ファミリーワゴンに乗り込んで、一路祖母宅を目指した。

 祖母の家は、東北にあった。自然だらけの山の近くに建つ、大きな二階建ての一軒家だ。父は運転をしながら話す。

「俺がまだお前くらいの頃は、とても古い平屋だったんだそ。祖父ちゃんが死んだあとに、立派な二階建て家屋に建て替えたんだ」

 僕が生まれる前に祖父は死んでいるから、思い出は何もないし。どうして祖父が死んだあとに家を建て替えたのかも、その頃はよく解っていなかった。僕は「へぇ」とただ相槌を打ち窓の外の通り過ぎて行く景色を眺めながら、気持ちはすでに祖母の家にあった。僕がつまらなそうにしていることが分かったのか。父は、祖父が死んだことは悲しかったけれど、汲み取り式のぼっとん便所が、綺麗な水洗のトイレに変わったことは、かなり嬉しかったと白い歯を見せた。

 僕は汲み取り式のトイレなんて知らなかったし、想像もできなかったけれど。ぼっとんという擬音がおかしくて、ケタケタと声を上げて笑った。

 二日前に到着している一輝は、今頃何をしているだろう。母と祖母と三人で、裏の畑で採れた大きなスイカを食べただろうか。庭先で花火はしてしまっただろうか。祖母の作る沢山の料理に腹を膨らませて、転寝なんてしているだろうか。裏にある山に登って、カブトムシを捕まえに行っただろうか。

 自分がまだ体験できない楽しいだろう数々の出来事に悔しさを覚えるのと同時に、ワクワクとする感情が盛り上がり、目を閉じでパッと開けたら一瞬で祖母宅に到着していないだろうかと、何度も父の運転する助手席で思っていた。

 高速とは名ばかりの渋滞を乗り越え、僕と父は漸く祖母の家に辿り着いた。家の前に車が止まる音に反応したのか。玄関から顔を出しやって来た三人が出迎えた。

「いっちゃん。よく来たね」
「兄ちゃんっ」
「お疲れ様」

 割烹着を着た祖母の優しい表情。待ち焦がれていたと言わんばかりの一輝の笑顔。二人を眺める母の穏やかさ。あの頃の僕は、こんなにもたくさんの幸せな笑顔に囲まれていた。

「兄ちゃん。行こうっ」
「うんっ」

 祖母が切ってくれた冷たいスイカもそこそこに、家から持ってきた虫取り網とカゴを手に、僕たちはすぐに裏山へと駆けて行った。

 照り付ける夏の太陽は暑いけれど、気持ちいいくらいに晴れていたその日。汗に髪の毛を湿らせ、はやる気持ちを隠しもせず僕たちは山の中を駆けていった。念願のカブトムシ採りに心を奪われていたんだ。

「兄ちゃん、見て。この木だよ、この木。ほら、見て見て」

 少しだけ拓けた先に立つ大きな木を指さし、一輝はしゃぐように僕の気を引いた。
 一輝が指さす方へ視線を上げると、眩しい太陽の光が目を覆ったあと、立派な角を持つ石ころみたいな黒い塊が目に入った。東京ではペットショップくらいでしかお目にかかれないカブトムシは、木の幹にペタリと張り付きじっとしたまま動かない。

「あれ。僕が採ってくるからね。兄ちゃんは、ここで待ってて」
「えっ。一輝が登るの? 大丈夫かよ。俺が採ってくるから下で待ってろよ」

 あの頃の僕はとてもやんちゃで、まだ自分のことを「俺」と言っていた。勉強が得意な一輝は、普段木登りどころかグラウンドにあるのぼり棒さえまともに登れたためしがない。いつだって、僕が登っていくのを下で眺めているばかりだった。なのにその日、一輝は胸を張って、自分が木に登るのだと宣言した。

「大丈夫だって。僕にだって捕まえられるんだから」

 興奮した笑顔を見せて一輝は僕を制した。

「僕にはね、師匠がいるんだよ」
「師匠?」

 師匠という言葉の意味は何となく理解できたけれど、それとこれがどう繋がるのか全くわからなかった。
 木に登る前、一輝はどこに手や足をかけるか吟味するように眺める。そして「よしっ」というように気合を入れると、得意気な顔をして僕を見た。

「ほんとに大丈夫かよ」
「大丈夫だよ。見ててね」

 自分が登った方が断然いいと思っても、一輝があまりに意気揚々としているから、それ以上何も言うことができなかった。一輝の足元には、祖母の家に行くからと、先週お揃いで買ってもらった真新しいスニーカーが目を惹いていた。一輝が青で、僕が赤だ。

 買って間もない僕のスニーカーはまだまだ綺麗で、汚れている個所を探す方が難しかった。片や一輝のスニーカーは、たった二日会わなかっただけでたくさんの汚れを纏い、どうだ。逞しいだろう。そう言わんばかりに誇らしさを滲ませていた。

 運動が得意ではないはずの一輝は、ゆっくりだけれど器用に木のうろなどに足をかけ確実に登っていった。

「無理すんなよ。俺が採ってやるからさ」

 心配をして声をかけても、まっすぐ上だけを見た一輝は、平気だからと笑って応える。この二日で何があったのか。いつもはやんちゃする僕を見守るようにして、不安そうな顔を向けてばかりいたのに。今日の一輝は、いつもよりずっと逞しくて頼り甲斐があった。

 あの頃、無茶をするのはいつも僕の役割だった。浅い川でザリガニを捕まえてビショ濡れになるのも。近所の公園にある枇杷の木によじ登って葉っぱや木の枝を服に引っ掛けるのも。運動場の鉄棒で、見ている方が目を回しそうなほど何度もグルングルンと体を回転させて得意気な顔をするのも。無茶をして、やんちゃをして。傷を作り笑うのは、いつも僕の役目だった。

 けれど、あの夏の一輝はそんな僕に負けじと、懸命に上を目指していた。器用に手足を木のうろや枝に引っ掛け、カブトムシのいる方へと登り近づいていったんだ。

「もう少しだからっ」

 一輝が息を切らせ、疲れを滲ませながら伸ばした手は、あとほんの十センチほど先にいる立派なカブトムシに届きそうだった。あのカブトムシは、これから自分が狭い虫カゴの中に放り込まれるなんて微塵も思っていないだろう。

 僕は首からぶら下げていた、緑色をした軽い虫採りカゴを一度見てから、再び木の上を見上げ太陽の眩しさに手を翳した。

「眩しいなぁ」

 呟いた言葉が、煩いほどに鳴くセミの声に混ざりあう。
 見上げた先で一輝の足取りを見守り、あとわずか先のカブトムシに目をやった時だった。

「あっ!」

 焦りにハッとした声とともに、足を滑らせた一輝の体が一瞬で重力に引き付けられ僕の目の前に落下してきた。ドスンという鈍い音と共に、ピクリとも動かない一輝の体を前にして足が震えだす。

「か、ずき……」

 途切れ途切れのか細い声でかけた名前に、一輝はほんの少しも反応しない。足の震えは一層ひどくなり、無言でぽたぽたと流れでる涙を止められず。僕は立ち尽くしたまま、声を上げることさえできなかった。竦んだ足は何の役にも立たず、その場に僕を縛り付けた。セミの声があの夏の僕の頭の中をただ支配していた。

◇◇◇

「深沢、一輝」

 遠くで誰かが僕の名前を呼んでいる。けれど、それは僕じゃない。僕は――――。

「深沢、いつ、き」

 そう、僕は深沢樹だ。

 誰かに呼ばれる声に意識は反応していても、覚醒するまでに至らない。唯々深い闇をさまようように、体も頭も重く、圧しつぶされるように意識が遠のいた。

 あの夏の日のように、僕の体はどうしようもなく重く。自分の身体の半分が、目の前で動かなくなったあの時と同じように、ただ息苦しさに喘ぐしかできなかった――――。