羽目を外せと言われた、特に何の予定もないゴールデンウイークが始まった。仕事の疲れや、昨夜結城と飲んだビールのおかげで、一度も目を覚ますことなく朝を迎える。洗面所に行き、ぼんやりとした情けない顔を水で洗った。少しシャキッとしたところで、朝飯にと幸代さんのところで買った食パンをトーストして食べた。山切りになった食パンは、店頭のプレートにイギリス食パンと書かれていた。
「この山になった感じがイギリスなのか?」
けれど、イギリスには山と呼べるほどの高いものはなかったはずだ。
どうでもいい疑問を口にして、たっぷりとマーガリンを塗った食パンに噛り付く。サクサクッとして。もちもちっとして、堪らない旨さだ。食パンを完食し、コーヒーを口にしてからふと思った。
「あのカフェに行こうかな」
初見では女性的で入りづらいなんて思ったものの、あの店員さんの物腰の柔らかさや店内の居心地の良さ。加え、食事もコーヒーも美味かったことを思い出すと、たった今朝食を済ませたというのにジワッと涎が口の中に湧き出してきた。
カフェの向かい側には、梶さんの雑貨屋があることを思うと心が動く。
「いやいやっ。それが目的じゃないからな。ぼっ、僕は借りていた文庫本を図書館に返しに行くついでにカフェに寄るんだ」
相も変わらず誰に言い訳をしているのか。声に出してはみたものの、一人暮らしの静かな狭い室内では滑稽さだけが際立つばかりだった。
借りていた文庫本と、クリーニングに出すためにスーツやネクタイを大きい袋に突っ込んで家を出た。クリーニング店は、源太さんの和菓子屋と幸代さんのパン屋の間にある。自分でシャツを洗ってアイロンをかけるなんて器用なことはできないので度々利用していた。そもそも、アイロン自体を持っていない。なんてことを健さんに話したら、「いいのがあるんだよ」と商品を勧められる気がしてクツクツと笑いがもれる。
袋を抱えて商店街に行くと、連休のせいか通りはいつにもまして賑やかだった。謎の安い衣料品が売られている店では、奥様達がひしめき合い。スポーツブランドを多く取り扱うシューズショップは大々的にセールを打ち出し。いくつかある惣菜店の店主たちも、ここぞとばかりに声を上げて、通り行く人たちに自慢の商品を売っていた。
「みんな稼ぎ時だよな」
「よぉっ。樹」
店の外を覗きに出てきた健さんが、僕を見つけて挨拶をくれた。
「こんにちは」
「樹んところの会社も休みか? サラリーマンはいいなぁ。キチッキチッと休みがもらえてよ。俺も今からサラリーマン目指すかな」
冗談を言って笑う健さんは、自分の店もセールをやってるぞと店内に僕を誘い込んだ。
「サラリーマンの朝は、時間に追われてるんだろ? そんな時は、このケトルだ。ほんのちょっと欠伸でもしてる間にお湯が沸くんだぜ。コーヒーでも紅茶でも、あっという間だ」
得意気に薦めてきたのは、以前健さんのところで買ったフライパンと同じ海外ブランドの電気ケトルだった。
「やっぱ、ピーファルは最高よっ。どうよ、樹。安くしとくぞ」
実は、健さん。ピーファルの回し者なのではないだろうか。そんな冗談が脳裡を掠めて思わず頬が緩む。
「えっと、今日は荷物になるんで」
僅かに緩ませた頬のまま、スーツの収まる大きな袋を持ち直す僕の姿を見て、健さんが納得顔をした。
「おう。そうか、残念だな。よしっ。樹用に取り置きしておくから、いつでも言えよ。大丈夫だ。値引きは任せろ」
二度目の得意気な顔を向けられると、買うことが使命のような気がしてくるから不思議だ。営業職の僕が、他の営業をされてしまう。こんな光景を結城に見られたら、大いに茶化されるだろう。それこそ、やっぱり残念なイケメンだと指をさして笑うに違いない。
「じゃあ。ボーナスが入ってから」
それでも、こうやって健さんに勧められて嫌な気がしないのはどうしてか。彼の人の好さだろうか。新田先輩も言っていたけれど、ハキハキと話すことや、明るく振る舞うというのは、大事なことなのだろう。
健さんのように振舞うことができたら、もっと仕事もはかどる気がするけれど。性格というのは、すぐに変えられるものではない。
「おおっ。ボーナスか。いいなー、ボーナス。やっぱり今からでもサラリーマン目指すかな」
真剣な顔をして悩む健さんの冗談に笑いつつ、会釈をしてクリーニング店へ足を向けた。
ボーナスが入った頃に、あのケトルは我が家にやってくるのか。鍋でコーヒーの湯を沸かすのも夏までの辛抱だ。
健さんの押しの強さに負けて、購入を前提に考えている自分が可笑しい。
源太さんの和菓子屋に併設された甘味処も満員御礼で、奥さんが忙しそうにお茶や甘味を運ぶ姿が窺えた。そこから数軒先のクリーニング店にスーツを出すと、仕上がりは三日後の土曜だと言われる。実家でのクリーニングは、父さんに任せっぱなしだったし。今までシャツを出した時は翌日に仕上がってくるから、スーツも同じだと思い込んでいた。なのに、三日もかかるなんて想定外で驚いた。急ぎで仕上げてもくれるが、割増料金がかかるという。仕方ない、明後日の平日はリクルートスーツで我慢するか。三日後に受け取る引換のレシートを貰い、踵を返して図書館へ向かった。
ゴールデンウイークの初日は好天で、ここまで歩いている間にうっすらと汗が滲んでいた。その汗が図書館の静かで適度に冷やされた空気に触れた途端、スーッと消えていく。
「涼しいな」
ほっと息を吐き、借りていた文庫を返してから棚を見て回った。好きな作家は沢山いて、作家読みをすることが多かった。新しい作家を発掘でもするように、読んだことのない名前の筆者を見つけるのも好きだ。
知っている作家の未読作品を一冊と、初めて見る作家のミステリーを一冊借りた。
カウンター席の並ぶ大きな窓に目をやると、公園の緑がここからでも窺えて爽やかな陽気が吹き込んでくるかのようだ。ここに座って本を読みふけるのもいいかもしれない。そう、思うも。既に心の大半はあのカフェに向かっているものだから、僅かな未練を残して図書館を出た。
「この山になった感じがイギリスなのか?」
けれど、イギリスには山と呼べるほどの高いものはなかったはずだ。
どうでもいい疑問を口にして、たっぷりとマーガリンを塗った食パンに噛り付く。サクサクッとして。もちもちっとして、堪らない旨さだ。食パンを完食し、コーヒーを口にしてからふと思った。
「あのカフェに行こうかな」
初見では女性的で入りづらいなんて思ったものの、あの店員さんの物腰の柔らかさや店内の居心地の良さ。加え、食事もコーヒーも美味かったことを思い出すと、たった今朝食を済ませたというのにジワッと涎が口の中に湧き出してきた。
カフェの向かい側には、梶さんの雑貨屋があることを思うと心が動く。
「いやいやっ。それが目的じゃないからな。ぼっ、僕は借りていた文庫本を図書館に返しに行くついでにカフェに寄るんだ」
相も変わらず誰に言い訳をしているのか。声に出してはみたものの、一人暮らしの静かな狭い室内では滑稽さだけが際立つばかりだった。
借りていた文庫本と、クリーニングに出すためにスーツやネクタイを大きい袋に突っ込んで家を出た。クリーニング店は、源太さんの和菓子屋と幸代さんのパン屋の間にある。自分でシャツを洗ってアイロンをかけるなんて器用なことはできないので度々利用していた。そもそも、アイロン自体を持っていない。なんてことを健さんに話したら、「いいのがあるんだよ」と商品を勧められる気がしてクツクツと笑いがもれる。
袋を抱えて商店街に行くと、連休のせいか通りはいつにもまして賑やかだった。謎の安い衣料品が売られている店では、奥様達がひしめき合い。スポーツブランドを多く取り扱うシューズショップは大々的にセールを打ち出し。いくつかある惣菜店の店主たちも、ここぞとばかりに声を上げて、通り行く人たちに自慢の商品を売っていた。
「みんな稼ぎ時だよな」
「よぉっ。樹」
店の外を覗きに出てきた健さんが、僕を見つけて挨拶をくれた。
「こんにちは」
「樹んところの会社も休みか? サラリーマンはいいなぁ。キチッキチッと休みがもらえてよ。俺も今からサラリーマン目指すかな」
冗談を言って笑う健さんは、自分の店もセールをやってるぞと店内に僕を誘い込んだ。
「サラリーマンの朝は、時間に追われてるんだろ? そんな時は、このケトルだ。ほんのちょっと欠伸でもしてる間にお湯が沸くんだぜ。コーヒーでも紅茶でも、あっという間だ」
得意気に薦めてきたのは、以前健さんのところで買ったフライパンと同じ海外ブランドの電気ケトルだった。
「やっぱ、ピーファルは最高よっ。どうよ、樹。安くしとくぞ」
実は、健さん。ピーファルの回し者なのではないだろうか。そんな冗談が脳裡を掠めて思わず頬が緩む。
「えっと、今日は荷物になるんで」
僅かに緩ませた頬のまま、スーツの収まる大きな袋を持ち直す僕の姿を見て、健さんが納得顔をした。
「おう。そうか、残念だな。よしっ。樹用に取り置きしておくから、いつでも言えよ。大丈夫だ。値引きは任せろ」
二度目の得意気な顔を向けられると、買うことが使命のような気がしてくるから不思議だ。営業職の僕が、他の営業をされてしまう。こんな光景を結城に見られたら、大いに茶化されるだろう。それこそ、やっぱり残念なイケメンだと指をさして笑うに違いない。
「じゃあ。ボーナスが入ってから」
それでも、こうやって健さんに勧められて嫌な気がしないのはどうしてか。彼の人の好さだろうか。新田先輩も言っていたけれど、ハキハキと話すことや、明るく振る舞うというのは、大事なことなのだろう。
健さんのように振舞うことができたら、もっと仕事もはかどる気がするけれど。性格というのは、すぐに変えられるものではない。
「おおっ。ボーナスか。いいなー、ボーナス。やっぱり今からでもサラリーマン目指すかな」
真剣な顔をして悩む健さんの冗談に笑いつつ、会釈をしてクリーニング店へ足を向けた。
ボーナスが入った頃に、あのケトルは我が家にやってくるのか。鍋でコーヒーの湯を沸かすのも夏までの辛抱だ。
健さんの押しの強さに負けて、購入を前提に考えている自分が可笑しい。
源太さんの和菓子屋に併設された甘味処も満員御礼で、奥さんが忙しそうにお茶や甘味を運ぶ姿が窺えた。そこから数軒先のクリーニング店にスーツを出すと、仕上がりは三日後の土曜だと言われる。実家でのクリーニングは、父さんに任せっぱなしだったし。今までシャツを出した時は翌日に仕上がってくるから、スーツも同じだと思い込んでいた。なのに、三日もかかるなんて想定外で驚いた。急ぎで仕上げてもくれるが、割増料金がかかるという。仕方ない、明後日の平日はリクルートスーツで我慢するか。三日後に受け取る引換のレシートを貰い、踵を返して図書館へ向かった。
ゴールデンウイークの初日は好天で、ここまで歩いている間にうっすらと汗が滲んでいた。その汗が図書館の静かで適度に冷やされた空気に触れた途端、スーッと消えていく。
「涼しいな」
ほっと息を吐き、借りていた文庫を返してから棚を見て回った。好きな作家は沢山いて、作家読みをすることが多かった。新しい作家を発掘でもするように、読んだことのない名前の筆者を見つけるのも好きだ。
知っている作家の未読作品を一冊と、初めて見る作家のミステリーを一冊借りた。
カウンター席の並ぶ大きな窓に目をやると、公園の緑がここからでも窺えて爽やかな陽気が吹き込んでくるかのようだ。ここに座って本を読みふけるのもいいかもしれない。そう、思うも。既に心の大半はあのカフェに向かっているものだから、僅かな未練を残して図書館を出た。