長い平日が終わり、漸く週末がやって来た。すり減った革靴がある玄関先を、ベッドに潜り込んだまま眺める。この位置からだとどのくらい踵が擦り減っているのか解らないけれど、直しておいた方がいいだろう。毎日あれだけの距離を歩き続けていたんだ、踵が減っていないはずがない。ときわ商店街に、リペアショップはあっただろうか。頭の中で通りを思い浮かべてみたけれど、記憶に上ってこない。健さんに訊いたらわかるかもしれないな。

 何かにつけて健さんに頼る僕は、もう彼なしではこの町で暮らしていけないかもしれない。

「恋人かよっ」

 自分で自分に突っ込みを入れて、ベッドから起き上がる。シャワーを浴びてからタオルを頭に被り玄関へ行った。脱ぎ散らかした革靴を持ち上げて踵を確認すれば、思いの外軽傷で済んでいることが分かった。それでも、行ける時に直した方がいいだろうと、紙袋に革靴を突っ込む。軽く朝食を済ませてから、革靴の収まる紙袋を片手に健さんのところへ向かった。

 ときわ商店街のアーチを潜って間もなくのところには、健さんの金物屋がある。自分の頭で何も考えることなく、リペアショップの場所を健さんに訊きに行こうとしてから思いとどまった。すぐに何でもかんでも頼るんじゃなくて、時には自分で行動しようと店の前を通り過ぎる。

 越してきて以来、僕はほぼ毎日のようにこの商店街に足を運んでいた。平日に寄るのは仕事帰りばかりだけれど、週末の商店街には昼間もよく訪れる。この辺りでは一番人気のある商店街だからか、とても賑やかだ。

 源太さんのところは、店舗の横に小さいながらも甘味処の席が設けてあるのだけれど、午前中からすでに満席だった。源太さんのところのお祖母ちゃんは、茶道の師範だったらしく。茶の点て方を教わったお嫁さんが、美味しい抹茶を淹れるのだとお茶屋のおキクさんが話していた。僕はまだ甘味処に行ったことはないけれど、源太さんの繊細で美味しい和菓子は、おキクさんの出してくれた緑茶と一緒に食べたことがあるから知っている。

 お茶屋のおキクさんは、話好きだ。長年住み続けたこのときわ商店街を、お店の中からずっと見続けてきている。沢山の人がおキクさんと話をし、源太さんの和菓子とおキクさんの淹れた緑茶を店先でご馳走になったんじゃないだろうか。その仲間に入れて貰えたことは、とても光栄だ。

 幸代さんのところからは、パンの香ばしくバターの効いたいい匂いが漂っていて、朝食を食べたばかりだというのに誘われてしまいそうになる。

 肉屋の増田さんの店からは、油で揚げた香ばしい香りが漂っていた。歩きながら食べられるようにと、小売りのコロッケやメンチカツを揚げているのだろう。つい先日買ったばかりだけれど、また食べたくなるのだから魅惑の商品だ。僕は、匂いにつられるようにして増田さんの店に足を向けた。

「こんにちは」

 声をかけると、増田さんが店番をしていた。奥さんは、中で惣菜を揚げているのかもしれない。

「この前は、ありがとうございました」

 僕は、メンチとコロッケ以外に入っていた唐揚げのお礼をした。

「ああ。そんな大したことじゃねぇよ。唐揚げの一つや二つ。気にすんなって。それより、よく寝たかい? この前よりは、少し顔色がいいんじゃないか?」
「はい。昨日は、早いうちから寝てしまいました」

 木曜日や金曜日辺りになると、疲れもピークで。帰りに飲みに行くかと結城に誘われたが、それを断り帰宅した。付き合いが悪くて申し訳ないけれど、本当に疲れてクタクタだったんだ。晩飯の時、箸を持ったまま舟をこいでしまうくらいだった。

「まっ。また元気出したくなったら、うちの肉を食いなよ。なっ」
「はい。ありがとうございます」

 軽く会釈をして、そのまま先へと進む。途中の角で立ち止まり、未練がましくペットショップに視線をやった。大切にしてくださいね、と笑顔で送りだしてくれた店員の顔を思い出せばあわす顔がない。背を丸め、並ぶほかの店を通り過ぎ、商店街の端までやって来たがリペアショップはなかった。

「意外とないもんなんだな」

 これだけたくさんの店が軒を連ねているけれど、目的のリペアショップは見つからなかった。仕方なく踵を返し戻って行く途中、おキクさんが店の奥から僕を手招きしてきた。

「おはようございます」

 挨拶をして招かれるままに奥へ行くと、いつものように丸椅子を勧められた。

「仕事はどうだい」

 おキクさんは、トントンと小気味いい音を立てて急須に茶葉を入れた。近くに置かれたポットから湯を注ぐと、置かれていた湯飲み茶碗にも湯を注いで器を温める。茶碗の湯を捨てると、優しく丁寧に急須からお茶を注ぐ。

「これは源太のところの新作だ。綺麗な羊羹だろう」

 盆の上には、おキクさんの淹れてくれたお茶と、源太さんの新作羊羹が皿に乗せられていた。

「ありがとうございます。いただきます」

 革靴を足元に置いて盆を受け取り、まずはお茶を口にした。熱すぎない温度と優しい茶葉の香り。口の中に広がるまろやかさと、ほんのりする甘味。尖った感じが少しもなくて、いつ飲んでもおキクさんの淹れてくれたお茶は美味しい。

「今日も美味しいです」

 笑みを返すと、おキクさんはにこやかに頬を緩めたあと、自分もお茶を口にした。皿に乗っている源太さんの新作は、ほんのり色づいた透明な羊羹の中に、すみれ色をしたあやめが咲いていた。

「今回のも、とても綺麗ですね。水中花みたいです」
「樹は繊細な心を持っていて、私は好きだよ」

 僕の感想に満足をしたようで、おキクさんはニコニコとご機嫌だ。

「今日はどこかへ出かけるのかい」

 おキクさんは湯飲み茶碗を皴皴の手で包み込むように持ちながら訊ねる。

「靴底が減っているので、直しに行こうと思っています」
「そうかい。物を大事にするっていうのは、自分を大事にすることにも繋がるからね」

 いいことだよ。と付け加えると、おキクさんは賑やかな休日の通りに目をやりながら僕の名前を呼んだ。

「いつき」
「はい」

 長い年月をかけて沢山のことを見てきたおキクさんの目に視線を合わせる。

「足元を見て歩くのも大事なことだ。石に躓いて、転んじまうかもしれないからね。でも、たまには上を見なさい。空を見て深呼吸するんだ」

 普段からうしろ向きになってしまう僕の感情を読み取ったかのように、おキクさんが頷きを見せる。お茶を持っている両手はそのままに、深く息を吸い吐き出した。その仕種に倣い、僕も深く息を吸い吐き出す。

「自分を大切にするためにも、上を見ることを忘れちゃいけないよ」

 何もかもを心得ているようなその言葉は、おキクさんの手と同じくらい温かくて、油断していた僕の涙腺が緩みそうになる。僕の心に巣食う黒く悲しいものを見透かしながらも、全てを優しく受け止めてくれるような目をしていたからだ。

 おキクさんとは何度もこうやって会話をしてきたけれど、僕の過去について話したことはない。なのに、全部見えているみたいに、僕の心をそっと包み込むような話し方をしてくれる。

 おキクさんの広い心を前にして、今ここで自分が犯してきた過ちを洗いざらい話してしまいたい衝動に駆られた。おキクさんなら、全てを受け止めてくれると甘い考えに心が傾いていく。けれど、僕の口はなかなか開くことがなくて。心の中に蟠る思いを言葉にすることが難しくて、ただただおキクさんを見ていることしかできなかった。

「大丈夫。いつきは、大丈夫」

 何度も頷き、言葉にできず泣きそうな顔をする僕を見て、おキクさんは優しく見守るようにしてくれた。

 源太さんの綺麗な羊羹とおキクさんの淹れてくれたお茶をしっかりと頂き、お辞儀をして店を出た。

「またおいで、いつき」

 店先に出て見送るおキクさんに、もう一度頭を下げる。滴が一粒だけ、店先の地面を濡らした。

 革靴の収まる紙袋を再び手にし、さっきおキクさんの店でしたように深呼吸をする。見上げたところには、ときわ商店街の透明な屋根が連なっていて、その向こうには青い空が窺えた。濃い青になりきれない空の色を見て、夏が来るにはまだ早いのだと気がついた。

涙のあとを拭い、心を落ち着かせながら健さんの店まで戻った。

「リペアショップ? なんだ、女に合鍵でも作んのか?」

 訊ねる僕に、健さんはからかうようにして笑う。残念だけれど、合鍵など作って渡す相手などいない。

「確か、あれだな。商店街から外れた少し先にあった気がするぞ。あっ、あれだ。さっちゃんに訊いたら知ってんじゃないか」

 さっちゃんというのは、パン屋の幸代さんのことだ。

「そこの店主が、さっちゃんの旦那の同級生だって聞いたことがあるぞ」
「わかりました。ちょっと訊きに行ってみます」
「本ばっかり読んでないで、合鍵渡せる女を作れよ~」

 健さんのちょっとばかり大きくからかう声が通りを歩く人にも聞こえてしまったようで、数人が僕を見るから恥ずかしくなってしまった。

 恋活応援で見送られる中、もう一度踵を返して幸代さんのパン屋へと向かった。店に近づくにつれ、あの香ばしいバターの香りが鼻腔をくすぐる。帰りに買おうかな。

「こんにちは」

 申し訳程度の音量で挨拶をして中に入ると、幸代さんが焼き立てのクロワッサンを並べているところだった。めちゃくちゃいい匂いだ。

「あら、いっ君。いらっしゃい」

 クロワッサンの美味しそうな姿と匂いに気を取られていたが、手にぶら下げている紙袋で本題を思い出した。

「幸代さん。この辺りにリペアショップがあるって聞いたんですけど。ご存知ですか?」

「うん。あるよ。商店街の通りを健ちゃんのところまで戻って、ほんの少し手前の角を曲がって二本目の路地を右に曲がったところに「リペア川口」っていうお店があるの。二軒隣がたこ焼き屋さんだからすぐに解ると思う。うちの旦那の同級生がやってるのよ」

 健さんが言っていた通りだ。よかった、これで靴を直せる。

「ありがとうございます」
「彼女に合鍵でも作るの?」

 どうやらここの商店街の人たちは、考えることが一緒のようだ。

「いえ。彼女なんていませんから」

 控えめに訂正すると、ちょっとだけ驚いたような顔をされた。

「そうなの? いっ君、モテそうなのに」

 そう言ってくれるのは嬉しいけれど、本当にいないのだ。

「健さんみたいに、もっと社交的だったらいいと思うんですけど」
「健ちゃんね。あそこまでいくと、社交的以上だけどね」

 幸代さんは、クスクスと可笑しそうだ。

「じゃあ。今のところ、いっ君の恋人は()ということかな」

 僕が本好きだという情報は、多分健さんから伝わっているのだろう。

「そうですね。本を読むことが、今の僕には幸せな時間です」
「あっ。知ってる? 今話したリペアショップの先に行くと図書館があるのよ。どんな恋人が棚に並んでいるのか、覗いてきたら?」

 近所に図書館があればいいなと思っていたから朗報だ。

「知らなかったです。そっちにも行ってみます。ありがとうございました」

 思わぬ収穫だ。越してきたばかりで、この商店街以外は他に何があるのかよく分からなかったから嬉しい。

 図書館のことを知り、弾む足取りで幸代さんに教えてもらったリペアショップへ向かった。
 リペア川口は、一坪ほどのとても小さな店で、店主は真面目そうな人だった。

「あとでまた来ますので、預けて行ってもいいですか?」
「いいですよ。夜九時までやっているので、それまでにいらしていただければ大丈夫です」

 リペアショップの川口さんは、目元に深い笑い皴を浮かべ丁寧な物腰で対応してくれた。

 靴を預けて身軽になった僕は、図書館に向かった。

 図書館は大きな公園の手前にあり、意外と大きく沢山の書物があった。図書カードを作成してもらい、文庫本を二冊借りた。それを持って公園に入る。どこかベンチでもあれば坐って読もうかとも思ったけれど、あまりにも緑や空気が気持ちよすぎて、散歩がてらそのまま歩き続けて行くと少し栄えた小さな通りに出た。レンガ敷きの道幅は、それほど広くない。

 こんな所に洒落た通りがあるんだな。

 小さなイタリアンの店にジーンズショップ。角には花屋があり、その先にはカフェや雑貨屋が見えた。

「コーヒーでも飲んでいくか」

 本を読みながら寛いで、忙しい日常のストレスを払拭したい。

 カフェに近づいていくと「SAKURA」と書かれた看板が掲げられていた。建物は木目を基調とした造りで、外壁は白くペンキで塗られている。二段ほど高くなった甲板を上がっていくと、さわやかなスカイブルーのドアがあり、少し女性的な雰囲気が強い店舗に感じた。男一人だとなんとなく入りづらいなぁと、向かい側にある雑貨屋を振り返った瞬間、僕の心臓は大きく跳ね上がった。

「梶、さん」

 小さく漏らした声に反応するように、店先に居た彼女がカフェの前に佇む僕に視線を向けた。その数秒後、彼女の目は鋭くなる。睨みつけられるように見られた僕は、思わず怯んで半歩ほどあとずさってしまった。相変わらず、快く思われていないようだ。

「えっと、こんにちは」

 知っているのに挨拶もしないとなれば、更に印象が悪くなるだろうと、梶さんの目に震えあがりながらも頭を下げたところでカフェのカウベルが鳴った。

「こんにちは。どうぞ」

 背中までの柔らかそうな髪の毛を緩くウエーブにして一つに束ねた女性が、カフェのドアを開けて現れた。開襟の真っ白なシャツの首元には、華奢で細いネックレスが鎖骨の上を飾り、黒のカフェエプロンがその柔らかそうな雰囲気をシャキッと清潔感のあるものに見せていた。

 カフェの店員さんに一度目を奪われつつも、再度雑貨屋の前にいる梶さんに視線を向ける。

「あ、早苗ちゃんも休憩?」

 早苗ちゃん?

 店員さんが親しげに呼ぶ声に両者のことを何度も行ったり来たりと見ていたら、梶さんが深く息を吐いてこちらに向かってきた。

「このタイミングには、不本意だけれど。休憩」

 通り過ぎざまに低い声で言いながら、先にカフェのドアを潜っていく。僕はタジタジになりながらも、店員さんに出迎えられた手前引き返すこともできない。

「あれ? お知り合い?」

 店員さんに訊かれて、苦い表情が浮かぶ。相当嫌われているだけの顔見知りです。という皮肉が心に浮かぶ。
 案内された奥のテーブル席に着く。梶さんは、道路側に面したカウンター席に座った。その背中を見る。さっぱりとした白のスポーツブランドTシャツに、ロールアップしたチノパン。ローカットのスニーカーから覗く踝と細く締まった足首。いつものように、頭のてっぺんでキュッと結い上げたポニーテールが、何見てんのよ。とでも言うように揺れる。

 見ていたことを咎められた気がして慌てて視線を外し、置かれていたメニューに手を伸ばす。

「早苗ちゃんのお知り合い?」

 さっきドアを開けて迎え入れてくれた店員さんが、レモン水とおしぼりを手に現れ、同じことをそっと訊ねてきた。

「えっと、お隣さんです」

 お知り合い、というほどの間柄でもなく。単に隣の部屋に住んでいるだけの者だと応えた。

「そう。お隣さんなの。早苗ちゃん、なんだか不機嫌そうよね。どうしたのかしら」

 それは、僕も知りたいところなのです。

 不思議そうに首を傾げながら、店員さんは本日のおススメランチとデザートメニューを説明してくれた。ランチまでには少し時間はあるものの、商店街を行ったり来たりしたせいか。幸代さんのところで芳しいパンの匂いをかいで食欲が湧いたせいか。それとも源太さんの綺麗な羊羹が美味しくて引き金になっているのか。なんにしろ、小腹が空いていた。せっかくなので、おススメと説明された中からボリュームのありそうなポークDONと書かれた、スタミナ丼らしきものを頼んだ。サイドメニューにサラダと飲み物がついてくる。別料金を足すとデザートもつくらしいが、甘いものはすでに羊羹で満たされているからやめた。

 僕のところで注文を聞いたあと、店員さんはカウンター席に座る梶さんのところへも向かった。

「早苗ちゃん、今日は何にする?」

 そうだ。さっきも早苗ちゃんと呼んでいた。梶さんの下の名前は、早苗というのか。初めて知った。

 そう思ってから。初めてもなにも、挨拶の際に言葉を交わした程度の相手なのだから当然だろう。まるで以前からの知り合いみたいに梶さんのことを見ていた自分に気づき、僅かな羞恥心が掠める。

「オムライス大盛に、デザートを付けてください。チョコレートのロールケーキで」
「了解。飲み物は、いつものアイスティーでいいのかな」

 訊かれた質問に、梶さんの首が縦に動いた。

 あんなに細いのに、よく食べるんだな。

 セクハラに値しそうな思考を慌てて払い除ける。その後、店員さんと二人で何やらこそこそと話したあと、梶さんがクスクスと笑った。ほんの少し斜に構えて座っていたから、緩んだ口元と頬が確認できた。その笑顔はとても愛らしくて好感の持てるものだったけれど。自分が快く思われていないせいか、もしかして僕の噂でもして笑っているのではないかと、ネガティブなことを考えてしまう。

 何をやらかして梶さんが怒っているのか解らないままだけれど、確実に僕に対して良い印象がないのは確かだ。おかげで、梶さんが他の誰かと笑みを交わし合うと、僕のやらかした何かについて噂されている気がしてならない。そもそも、梶さんの注文したものがオムライスの大盛にロールケーキという豪快さも、単によく食べる女性ではなく。僕がいるせいで苛立ちが募っての自棄食いかもしれないと、更なるマイナス感情に支配されていた。考えれば考えるほど、自らを貶める思考に心がずんと重くなっていく。

 さっきまで小腹が空いていたはずなのに、自ら肩身の狭くなるような思考に囚われてしまったせいで空腹の影が薄れてしまった。そもそも生活に余裕などないのだから、丼なんて頼まず、大人しくコーヒーだけにすればよかったんだ。

 ため息を吐き、さっき図書館で借りた文庫本を取り出した。ページを捲ってみたが、梶さんが自分のことをどれほど悪く思っているのかばかりが気になって少しも頭に入ってこない。読むのを諦め、こちらに背を向け坐っている梶さんを窺い見る。頬杖をついて外を眺める背は華奢で線の細さがよく分かる。Tシャツから伸びた二の腕は細いけれど、触れたら柔らかそうだ。うなじも綺麗で、空調に少しばかり揺れる後れ毛に目を奪われる。

「お待たせしました」

 突然の声に、ビクリと体が反応してしまった。まるで、悪いことをしている瞬間を目撃された子供みたいだ。

「あら、ごめんなさい。驚かせてしまった?」
「あ、いえ」

 ぼんやりと梶さんに目を奪われていたことに動揺を隠し切れずにいると、注文したポークDONが目の前に現れた。

「お好みでこのソースをかけ足してお召し上がりくださいね」

 削がれたはずの食欲が丼の香りをかいだ瞬間に、再び威力を振るいだした。早速口にすると、豚肉は柔らかく口の中で溶けいくようで、味付けもめちゃくちゃうまい。かき込むように腹に収めていたら、あっという間に食べ終わってしまった。

「うまかった」

 ぼそりと零した言葉をたまたま聞き拾ったのか、さっきの店員さんがニコリと僕に笑みを向けた。なんか、癒し系の微笑みだな。梶さんのシャキッと鋭くスッキリとした笑みとは対照的だ。いや、別に梶さんのことをディスっているわけじゃない。確かにここの店員さんの笑顔は癒し系だし、容姿もふわっとした柔らかさを醸し出している。けれど、それは客相手というものが建前にあるせいかもしれないじゃないか。梶さんだって、僕が変なことをしなかったら、もっと素敵な笑みを向けてくれていたかもしれない。いや、変なことってなんだよ。変なこともなにも、何をやらかしたかわかってもいないじゃないか。

 誰に向かって必死に言い訳をしているのか。自分のこととなると、すぐにネガティブな思考になるのは性格上の問題だ。

 暗澹たる思考に陥っていると、早々に食べ終わった梶さんが席を立って店を出て行った。窓越しに彼女の行方を追っていると、目の前にある雑貨屋の中へ消えていく。

「何か買うのかな?」

 再び漏らした独り言に、通りすがりの店員さんが反応した。

「あそこ。早苗ちゃんのお店なのよ」
「えっ」

 突然降ってわいた特大の情報に驚き、店員さんの顔を確認するように見るとコクリと頷く。ОLでも大学生でもなく、雑貨屋の店主だなんて。想像のはるか上をいっていた。どおりで、僕との生活時間が合わないはずだ。

 会社勤めの人たちと違って、お店を経営しているとなれば週末に休むことなどないだろうし。営業時間も、サラリーマンよりは遅い時間に始まり、帰宅も遅くなるだろう。生活サイクルが全く違うのだから会うはずがないのだ。

 それにしても、自分の店を持っているなんてすごいな。

 店は輸入雑貨を扱っているようで、ヨーロッパ辺りの異国めいた雰囲気が醸し出されている。そこで初めて、店に掲げられている店名だろうものに目がいった。看板には「Uzdrowiony」と書かれていた。

「う、うず? なんだ、あれ。読めない」

 英語ではない文字に首を傾げ、諦めてコーヒーを口にすると、あまりにうまくて驚いた。まじまじとコーヒーを眺めたところで、味の良しあしが見えるわけもないのだけれど、つい黒い水面を凝視したあと顔を上げると、レジにいる店員さんと目が合い再び柔らかな笑みを向けられる。そして、どうしてか首を前に出すようにして若干の会釈をする自分は、挙動不審のおかしなやつに見られている気がしてしまうのだ。

 食事とコーヒーをゆっくりと堪能しカフェを出た。 リペアショップで靴底を直しに来ただけのつもりだったのに、よく分からない店名を掲げた雑貨屋で梶さんが働いていることを知った。ツンとした態度は相変わらずで、どう見積もっても僕の印象が変わっているわけもなく悪いままだ。けれど、得た情報の大きさに少し頬が緩む。カフェを出たあと梶さんの店を覗こうかとも思ったけれど、あの鋭い視線に怯えてそのままリペアショップへと戻ってきた。

「はい。綺麗に仕上がっていますよ」
「ありがとうございます」

 受け取った革靴の踵はすっかり元のように戻り、月曜日からまた何キロも歩くだろう自分の足を支えてくれるのだろうとシミジミ眺めた。あと何十回こうして踵を直しにこのリペアショップに通うことになるのだろう。考えれば憂鬱にもなったが、梶さんの雑貨屋がその先にあると思うと、わずかながらに気持ちが上がっていく。ついでと言ってはなんだけれど、幸代さんの店に寄ってパンを買ったら、更に気持ちが上向いた。靴底を何度も直すことは憂鬱の種だけれど、幸代さんのところのパンは何度でも買って食べたい。