繁華街のすぐ真裏に、テッペン横丁がある。
22時スタートの飲み会から、既に2時間も経っていたようだ。
赤提灯を掲げる大江山の中に案内してもらい、私はいつものカウンター席に座る。
いつの間にか、この席を「いつもの」と呼んでいる自分が誇らしく思えた。
「ハイ。」
目の前に置かれたのは、いつものお通しとビール…ではなく、湯呑みの中で緩やかな湯気を纏う緑茶だった。
「…ありがとうございます。」
嬉しい。今は珍しく、お酒を飲む気分になれないから。
汁物を除けば、長らくお酒と水以外の飲み物を飲んでなかった。久々に口にした緑茶は渋みが全然無くて安心する。
ほうっと溜め息を漏らし、ようやく私の緊張もほぐれてきた。
「…あの、冬至さん…。
どうして私があのお店にいるって分かったんですか…?」
冬至さんはカウンターの向こうで何かを準備している。何かを擦り下ろす音に無意識に期待してしまう。
「君の泣き声が聞こえないほど、俺は鈍感じゃねぇよ。」
「っ。」
私の全意識が、冬至さんただ一人に向いた。
「出過ぎた真似だったらごめんな。」
「…あ、いえ。ううん…。
ありがとうございます…。」
お茶の温かさと、冬至さんの気遣いの温かさが身に沁みる。
またじんわりと目頭が熱くなってきたのを、前髪を直すフリして誤魔化した。
「………冬至さんが来てくれなかったら、どうなってたか分かりません、から。
…何より、冬至さんに会えたことが、とっても嬉しいです。」
夢なんかじゃなかった。それが分かっただけで。
涙の代わりに、私は心のままに笑顔を見せる。
「…良かった。今この席に座ってお茶飲んでる君の方が、ずっと自然体に見える。」
冬至さんの前なら、私は取り繕わなくていい。
お酒がほとんど回ってなくても、こうしてちゃんと笑えてるもの。
「宴会の途中で連れ出しちゃったから、飯あんま食べてないだろ?何か食べる?」
「えっ、あ、じゃあ…。
何かお腹に優しいものを…。」
肉バルの料理はどれもお酒に合う濃いめの味付けだった。入社すぐの頃、進藤先輩に連れて行ってもらった時は、確かに美味しかった。
…今は、その濃い味付けのいずれも覚えていないけど。
程なくして、冬至さんは小ぶりな丼を提供してくれた。
ほわほわ立つ湯気。中身を覗き込んで、私はアッと叫ぶ。
「月見うどんだ!」
真っ白ふわふわなとろろの中央に、卵の黄身が気持ち良さそうに乗っかっている。
まさか、もしかしなくとも、これって、
「そ。“月見さん”だから、月見うどん。」
「わあぁ…っ、素敵…!」
小粋な演出に、胸がドキドキする。
そうだ。次に冬至さんに会ったら私、どうしても伝えたいことがあったんだ。
「冬至さんっ、あの……!」
勢いで喉まで出かかった言葉も、冬至さんの緩やかな吊り目と、「ん?」と小首を傾げる可愛らしい仕草の前では、すっかり勢いを失ってしまう。
せっかく真っ直ぐ向けた視線は、ゆるゆると丼の中へ落ちていった。
「………い、いただきます。」
「うん。たくさん食べな。」
黄身を潰さないよう注意しながら、まずはうどんを啜る。
鰹出汁のきいたおつゆを纏った温かなうどん。喉越しの良さは、まるで飲み物みたい。
香川県民は噛まずに飲み込むというけど、香川県のあやしいひとも、やっぱり同じなのかしら。
「…ふふ、嬉しいです。
〆を食べ損ねたので…。」
「そいつは良かった。」
肉バルだから、〆のラーメンとか雑炊って雰囲気ではなかったけど。
だからなおさら、金曜日の夜を冬至さんお手製の月見うどんで〆られることが嬉しかった。
「俺は、俺の飯食べて笑ってくれる月見さんの方が好きだな。」
冬至さんの呟くような台詞に、私は思わず咽せてしまった。
「疲れたお客を癒したくて始めた居酒屋だけど、今では俺のほうが、月見さんの美味そうにしてる顔に癒されてるんだ。知ってた?」
「えっ!?
…や、そんな、お世辞お上手ですね…!」
好き、だなんて。
癒される、だなんて。
今までも充分優しくしてくれたけど、今そんな優しいことを言われたら、浮かれてしまう。
「お世辞なんかじゃねぇよ。
君のことを笑いの種にするような奴らと、君のことを大切に思ってる奴、どっちの言うことを信じたい?」
「……っ。」
もしかして冬至さんも私のことを好きなんじゃないか。
…そんな大それた勘違いをしてしまう。
「……冬至さんを信じたい…です……。
私、冬至さんが、好きなんです…。」
「うん、よく言えた。」
カウンターテーブルを挟んで、冬至さんはその大きな体を少しだけ乗り出す。
つられるように上を見上げた私のおでこに、彼の手拭い越しの小さな双角がつんと触れた。
「ん。」
同時に冬至さんの温かい唇が、私の唇に触れる。
それは軽く触れるだけの、ほんの短いキスだったけれど、
「…これも、ご褒美ですか…?」
「いいや。美郷さんが好きだから。」
私にとっては夢のようで、幸せすぎて、…いっそ死んでもいいと思えてしまうほどだった。