まさか思わなかった。
「このままでは、妻に嫌われる……」
冷酷な獣と呼ばれる公爵様が、私にそんなことを言い出すなんて。
それは、半年前。
私の生家であるオルドナー子爵家に舞い込んだ、王家からの縁談話がすべてのはじまりである。
歴史こそ古く由緒ある貴族家として領土を賜っているものの、領民からの人望はなく、金遣いが荒い子爵家は以前までは没落寸前だった。
父について褒めることがあるとすれば、下手に出るのがうまいことだ。
それにより何とか人脈を広げ、王党派である貴族と懇意にすることで、最終的には王弟殿下に目をかけてもらえるようになった。
王家と繋がりができたことで傲慢さに拍車をかけた父だったが、すべてはこの時のための駒だったのだろう。
「クラングファルベ公爵家……あの、冷酷非道な獣の元へ嫁がせろだと!!」
王家が指示したのは、北領土をすべて統治するクラングファルベ公爵家の若き当主、アーノルト・クラングファルベとの婚姻だった。
婚約期間すら吹っ飛ばして、婚姻である。
なんでも、王家にとってクラングファルベ公爵家は目の上のたんこぶのようなものらしい。
王家よりも長い歴史をもち、紛争が続いた時代では、家門による特別な力で隣に位置する大帝国からの侵略を食い止めたという。
国には絶対になくてはならない存在なのだけれど、先祖代々派閥争いを嫌い、不自由を嫌う公爵は、北の領土から王都に顔を出すことは少なく、ぶっちゃけ忠誠もないのではという話。
これではまずいと手を打った王家は、歴史深いこと以外なんの取り柄もないオルドナー子爵家の娘と婚姻させようと考えた。
あわよくば監視下に置きたいという思惑のもと出来上がったのが、今回の縁談話。そして裏事情だった。
「あたしが行くわけないでしょう!? ラシェル、あんたが行くのよ!」
「ラシェル、わかっているな? 書簡には娘としか書かれていない。つまり、決定権はこちらにあるんだ。可愛いルーチェをあんな獣の元に行かせられるか。お前が代わりに嫁ぐんだ」
私は、漂流民でメイドとして働いていた母と、節操なく手をつけた子爵との間に生まれた私生児だった。
幼い頃に母は死んでしまい、召使いとして異母姉のルーチェや子爵夫人に虐げられる日々を送っていた。
自分の生き方を見直すべきなのでは、そう考えていたときに、この縁談が持ち掛けられたのである。
逃げる暇もなかった。
書簡が届いた日から、私は地下室で軟禁状態となった。
空気穴は1センチ間隔に並んだお粗末なもの。完全に退路を断たれたのである。
真っ白な夜着は、婚姻式に着るドレスと同じ意味があるらしい。
純白の婚姻衣装が、あなたの色に染まります。
純白の夜着が、あなただけに委ねます……だとかなんとか。
貞淑を貫いた乙女が初めて「女」となる夜のために作られたこの夜着も、私では着られがいがないだろうな。かわいそうに。
「……まあ、こないわよね」
期待はしていなかったのでショックはない。
そもそも覚悟がなかった私には、むしろありがたいと思う気持ちが大半である。
しかし、明日になれば私は「夫に見向きもされない可哀想な公爵夫人」という評価を使用人たちから受けるのだろう。
真っ白なシーツ、真っ白なネグリジェ。
ついでに一時間近くかけて磨かれた全身もぴかぴかで、肌を艶やかにさせるお粉のおかげで陶器のように白くなった。
これだけの準備をしてくれた使用人には申し訳ないけれど、良い意味で汚されることはない。
「これが世に聞く、白い結婚というやつね」
寝台に後ろから倒れ込み、半笑いでつぶやく。
こうして――私、ラシェル・クラングファルベは、クラングファルベ公爵家に嫁いできたが、冷酷と噂の旦那様と何も無いまま初夜を終えたのだった。
***
ところで、私には『異形術』という能力が生まれつきある。
得意な形は、ネズミだ。
その力は遠く離れた場所にある母の故郷で、ひっそりと受け継がれていたらしい。
母が漂流民となってしまった理由はそこにあった。
なんでも風邪を引いてネズミの姿になったまま戻れず、嵐で飛ばされ、野鳥に餌として捕まり、あれよあれよと異国にたどり着いてしまったのだ。
なんという不幸。話を聞いたとき私は五歳だったけれど、さすがに同情してしまった。
言葉も通じず、自分がいる場所もいまいち特定できず、ひとまず身を置いた仕事先では子爵に目をつけられ子ができてしまうなんて。
私と出会えたことは何よりの幸福だと笑っていたけれど、それにしても子爵はクズだ。
出産後、母は体を壊すようになり、最後は病にかかって死んでしまった。
母の死に際の言葉は、私を案じたものだった。
『この力は、心の底から信じられる人以外に、教えてはダメよ』
異形術は、主に動物の形に体を変化させることができる力だ。
もちろん母が子爵に明かしたことはなく、私も言うつもりはなかった。
けれど、この力のおかげで私は十八まで生き延びたといっても過言ではない。
出産によって体が弱くなってしまった母が、一度だけ力を使って私に異形術を教えてくれたことがある。
動物の種類は様々だが、そのとき教えてくれたのがネズミへの変化だ。
本当はもう少し役立ちそうな鳥や猫に変化させたかったらしいが、体調のことがあり無理はできず、比較的負担がかからず母が一番やりやすかったのがネズミだった。
でも、ネズミにしたのは正解だった。
オルドナー領では、唯一の生産品がチーズで、食事を抜かれても食料庫に行けば大量のチーズが保管されていた。
体が小さく、天井穴から難なく侵入できたため、私はよくチーズでお腹を満たしていたのである。
だから、婚姻が決まったときも。
(ある意味じゃ獣同士、仲良くまでとはいかなくても普通に過ごしたい)
なんて、浅はかに考えていたわけなのだが、甘かった。
どうやら公爵様は人嫌いらしく、初めてお会いした婚姻式のときすら一度も目を合わせてはくれなかった。
***
「おはようございます、奥様」
一人の婚姻初夜が明け、私はというとふかふかで手触りの良い寝台でぐっすり眠っていた。
起こしに来てくれたのは、侍女のサナだ。
「……あ、おはよう」
「……。ご支度しますので、まずはこちらでお顔を」
ほとんど乱れもなく、あきらかに何も無かった寝台を見ても、サナは顔色ひとつ変えない。
その淡白な反応にありがたく思いながら、用意された盥に手を入れる。
ちょうど良い温度に、私はほっと息をついてサナを見た。
「お湯、とても気持ちいいわ。どうもありがとう」
そう言うと、サナはほんのりと目を開き、口を小さく動かして「いえ」とだけ答えた。
「公爵様!」
慣れない支度を済ませたあと、サナから公爵様が外出されると聞いた私は、急いでエントランスホールに向かった。
階段の下には公爵様の姿があり、そして大勢の使用人たちが見送りをしている最中だった。
「……起きたのか」
「はい、おはようございます」
挨拶したものの、公爵様はこちらを一向に見ようとはしない。
窺える横顔は、これまで出会ってきた人の中で一番綺麗だと断言できる。
そう、よく冷酷な獣と蔑称される彼だが、初めて見た時はその美貌に言葉を失ったものである。
艶のある黒髪は指通りが良さそうで、伏せられた瞳は少しだけ緑がかった黄金の色をしていた。
切れ長の目尻に、影を落とすほど長い睫毛。通った鼻筋と形の良い唇。完成された美がそこにある。
……たしかに、美しい獣のような、不思議な雰囲気が彼にはあった。近寄りがたいというか、そういう意味で獣と呼ばれているのだろうか。
毛深くて盗み食いをするような、それこそ本当に獣であるネズミ姿の私とは雲泥の差である。
こんな人の妻に私がなるなんて、思惑というのは恐ろしい。釣り合ってない、どうしよう。
付け焼き刃の礼儀作法を身に付けただけの私が、いつ粗相をしてしまうか、考えるだけで冷や汗が出る。
「……。君がこの屋敷でどう過ごそうが私は構わない、好きにすればいい。私に干渉する必要もない」
「はい……?」
なんと声をかければいいか考えているうちに、公爵様はそれだけを告げて外に出ていってしまった。
「あ……行ってらっしゃいませ……」
ほぼ反射的に出た言葉は、公爵様に届くことはなく。
しんと静まり返ったホールで、使用人たちの視線だけが痛々しく肌に刺さった。
***
その日の晩。
私はネズミの姿になって公爵邸の天井裏を駆け回っていた。
理由は色々あるけれど、一つがストレス発散である。
さすがは公爵家、私以外にネズミが一匹も見当たらない。
「ちゅー!!(いや、ここでやって行ける気がしない〜〜!!)」
公爵様は私に好きにすればいいと言った。そして、干渉する必要もないと。
それってつまり、いてもいなくてもどっちでもいいってことなんじゃ。
そりゃあこんな婚姻、公爵様も不本意だったろうと思う。
けれど、何も使用人が大勢いる前で言わなくてもよかったんじゃない!?
「やっぱり旦那様は、奥様のことを疎ましく思っているのよ」
「それに知ってる? 昨日は初夜だったっていうのに、執務室の灯りがずっとついていたの。徹底しているわよね」
「ねえ、それより聞いた? 奥様って、ご実家では相当わがままで、姉に酷く当たっていたらしいわよ」
「その話、知ってるわ! 姉が私生児で気に食わないからって、召使いのようにこき使っていたって」
「そんな人が公爵家に嫁いでくるなんて……」
「でも、今日は一日大人しかったみたいよ?」
「そんなの、旦那様が朝はっきり伝えたからでしょ。しばらくして下っ端のわたし達に当たり散らしてきたらどうしましょう」
天井裏を駆け回り、通りかかった厨房から聞こえたメイドの話し声に、ため息がこぼれた。
「ちゅう……(話が混ざっておかしなことに……)」
オルドナー子爵家でも、メイドは揃って噂好きだった。
あることないこと好きに言って、事実とは関係なく様々な憶測が広まっていく。
王家の命令とはいえ、私生児を公爵家に嫁がせれば醜聞が立つ。そのため子爵は事実と嘘を織り交ぜて好きなように話を作ったようだ。
どうりで今日一日、周囲からの視線が心地悪かったはずだ。
皆その話を信じているから、私をそういう目で見ていたのだろう。
「ちゅちゅー!(違うのに〜!)」
今の私は白ネズミ。彼女たちに弁解できるわけもなく、その場を後にした。
柱を伝って外に出ると、丸く大きな満月が浮かんでいた。
しばらく眺めたあと、ぼんやりと地面を歩く。
今日は夜風に当たりたい気分だ。
身代わりとして強引に嫁がされたけど、公爵様が言うように無干渉で暮らすことは可能なのだろうか。
一応、公爵夫人という立場なのに、それってむしろ難しいのでは。
ずっと召使いとしていた私が、屋敷や財産管理ができるとは思わないけれど。
「ちゅ?(あれ?)」
考え込んでいたら、いつの間にかガゼボの前にたどり着いた。
人間の姿であったとしても、かなりの大きさがあると思われるガゼボの中からは、人の気配がする。
くんくん、と鼻を嗅ぐ。
独特のこの香り――お酒と、チーズの匂いだ。
身を潜めながらガゼボの柱を登り、うつばりから下を見下ろす。
するとそこには、今朝方ぶりの公爵様の姿があった。
予想外の人がいたことにより、私は驚いて小さく声をあげる。
「ちゅっ(わっ)」
驚きのあまり、足を滑らせてしまう。
危ないと思ったときにはすでに落下中で、私は真っ逆さまに公爵様のほうへと落ちていった。
「ぢゅっ……(ぐっ……)」
運がいいのか悪いのか、公爵様の膝の上で強く背中を打ちつける。
硬い地面じゃなくてよかった。
でも、公爵様の膝に落ちるなんてどうすればいいの。まずは早く逃げないと。
「……なんだ? 白い……ネズミ……?」
冷ややかな眼差しで見下ろされ、酷い金縛りにあったように動けなくなってしまった。
人間のときはそれほどでもないけれど、ネズミとして前にするとちょっと恐ろしい。なんだか食べられてしまいそうだ。
「なぜ、ネズミが……。まあいい、酒の肴にでもするか」
「ちゅう!?(はあ!?)」
仰天の声が出た。
えっ、この人、ネズミを食べるの!?
身の危険と驚愕が一気に押し寄せたとき、首根っこを公爵様に掴まれてしまう。
視線の先には公爵様の顔があり、そこであることに気がついた。
「ちゅちゅー?(もしかして、酔っているの?)」
「ほら、お前はこちらだ」
ぶらんぶらんと足元が揺られ、どこに置かれるのかと思えばテーブルの上にあった丸く底が深いコップに入れられる。
縁から顔を覗かせると、なんだか満足そうな表情を浮かべた公爵様が、手に持っていたグラスを一気に煽った。
空になったグラスをテーブルに戻したあと、さらにぼんやりとした様子の彼は、ぽつりとつぶやく。
「――このままでは、妻に嫌われる」
その言葉に、耳を疑った。
うつろな瞳で空のグラスを見つめた公爵様は、長いため息をついて項垂れるように体勢を前に傾かせる。
「……いや、もう嫌われているな。そもそも、初めて会った時も俺を恐れて声が出せずにいた。可哀想なことをした」
冷気を漂わせていた美しい横顔が、このときばかりは幼く感じて。
そういえば、彼はまだ二十二歳とかなり若かったことを思い出す。私よりは年上だけれど、それでも十分に若い。
……って、さっきから幻聴がやまないのだけれど。
「一体どうしたらいいんだ……しかし、無闇に近づいて怯えさせたくはない。だめだ、うまい言葉が見つからない。」
幻聴では、ない?
「……妻は、どう思っているのだろう」
「ちゅー!!(本人、目の前にいますけど!?)」
思わず彼に向かって鳴いてしまう。
すると、私を見て目を細めた公爵様は自嘲気味に微笑んでみせた。
「なに? やはり君もそう思うか。そうだろうな、誰も冷酷な獣などと言われる輩と添い遂げたくはないだろう」
「ちゅちゅ!(ちょっと、そんなこと言っていないわ)」
「まあ、獣と言われるのも仕方がない。そこら中の魔物を討伐しては血にまみれてばかりだからな。そんな男が、あれほど美しい女性に触れるわけにはいかないだろう……」
ぶつぶつと勝手に独り言を呟いては、勝手に自身の解釈で考えてしまう。彼は結構酔っていた。
「ちゅ、ちゅう?(なんて、美しい? 私が?)」
私はと言えば、思いがけない発言に戸惑いを覚える。
美しいなんて言われたことは一度もないし、公爵様の口から聞いても信じられない。
というか、彼は本当にあの公爵様なのだろうか。人間のときに見ていた彼とはあまりに違いすぎる。
ふと、横に目をやると、栓が開けられたワインボトルが二本置かれていた。二本とも空っぽ。絶対にお酒のせいだ。
「旦那様……帰宅して早々、こちらに直行するのはやめてくださいませんか」
「ヨハン……。今更だろう、いつものことだ」
「いつもお控えくださいとお伝えしているはずですが」
ガゼボの外から声が届く。
現れたのは、公爵様の従者兼補佐役のヨハンだった。
「酒に酔った旦那様のお姿を誰かに見られるわけにはいきませんから。飲まれるなら室内でと申し上げているのに……って、聞いていますか!」
「声が大きい。驚いて逃げてしまうだろう」
「逃げるってなにが――それ、ネズミではありませんか!!」
「俺の友人だ」
公爵様は得意げに笑うと、私の頭を指でつんと触った。
もう驚き疲れてしまった。いつの間に私は友人に昇格していたのだろうか。
「ネズミには病原菌がうようよいるんですよ! ものすごく汚いんですよ! 噛まれたりでもしたら……早くどこかに逃がしてください!」
「だから、友人――」
「もういいです。私がやります、失礼しますよ!!」
そう言ってヨハンは段を上がってこちらに近づいてきた。
途端に公爵様は眉根をきゅっと寄せて不機嫌そうにする。
ヨハンに捕まる前に、私は入っていたカップから出て素早く逃げ出した。
「逃げましたね……まったく、ネズミを友人とおっしゃるなんて……」
「お前のせいで逃げた。どうしてくれるんだ、クビだ」
「いじけないでください。冷酷な獣と言われるあなたが、お酒が入るとこうなってしまうなんて。これでは公爵家の威厳に関わりますよ」
「普段はそれなりにやっているだろう」
「当たり前です。いいですか、旦那様もついに妻を娶られたのです。それはとても喜ばしいことではありますが、これから奥様とより良い関係を築くにしても慎重になさってください。なんせあの方は、オルドナー子爵家の――」
ヨハンの言葉を背に、私は自室に戻るべく走る。
これが夢でなかったのだと再確認したのは、数日後の晩のことである。
***
「……今日も、嫌われた。おそらく、いや絶対に」
「ちゅう(嫌っていないけれど、もう少し会話ができればとは思っています)」
ここ数日の公爵様の予定は、執務がほとんどだった。
邪魔をしない範囲でお茶に誘っていたのだが、言葉を発したのは一言二言。
話し難い空気を放つ彼を前に、やっぱりあの晩はなにかの間違いだったのだと思い込んだ私も話すことができなかった。
あまりにも静かであったため、メイドたちには「沈黙のティータイム」と名付けられてしまった。ちょっと上手いし面白いから困る。
でも、ふと思い立ってここに来てみれば、やっぱり公爵様はこんな感じで。
お酒が入っているから素が出やすいんだろうと、ようやく理解した。
「チーズをやろう。その代わり、俺の晩酌に付き合ってくれ」
「ちゅう(ありがとうございます)」
ネズミを友人だと頑なに思い込んでいる公爵様は、快く迎え入れてくれて、また丸いコップに私を入れた。
「それにしても……やけに毛並みがいいな。ネズミにしては飼われた猫のように清潔だ。まさかお前、飼い鼠か?」
「ちゅう(飼い鼠って初めて聞くんですが)」
「俺の話も理解している節があるのも興味深い……いっそ俺の補佐になるか? ちょうど解雇を検討中の補佐がいるからな」
「ちゅちゅちゅー(それ、ヨハンのことよね。冗談だってわかります)」
「そうか、なるか。よしよし」
名案だと微笑む公爵様は、とても可愛らしい。
本人に言っては怒られてしまいそうだけれど、この人は案外お茶目な一面がある。
ネズミでないと知り得なかった、本当の彼の姿だ。
「では、名は……そうだな、ネズ……いや、チーズ……。よし、エメンタールにしよう」
ほろ酔いふんわりな公爵様に、なんだか仰々しい名を付けられたけれど、要するに穴あきチーズである。
最初のネズ、はどこにいってしまったのか。そもそもネズミにエメンタールと名付ける人がいるだなんて。
「どうだ、名は気に入ったか? ふふ、エメンタール。エメ…………。タール、こちらにこい」
しかも名付けた直後に「やっぱり少し長すぎるな」と考えて端折るのやめて。そこは頑張って、あなたの名と変わらない長さなんだから。
「怖がることない、おいで」
とても優しい声音で彼は囁く。
浮かんだ微笑みも温かいもので、これまで私にそんな顔を向けてくれたのは、母だけだった。
手を差し出され、絆された私は、素直に公爵様の手に飛び乗る。
「さて、俺の部下なら良い提案が出ることを期待する……妻が、俺を恐れないでくれるにはどうすればいい」
「ちゅう……(そもそも、恐れてはいないのに)」
どうやら公爵様は、初対面のときに私が言葉を詰まらせたのを気にしているらしい。
あの時は公爵様の美貌に慄き、加えて短期間に詰め込まれた作法がごっちゃになってしまい上手く振る舞うことができなかったのだ。
それがこんなにも気にされているなんて、申し訳ない。
また、ある晩のこと。
「にゃあ……?(うまそうなネズミだ、食ったろ)」
「ちゅうー!!(いやーー!!)」
ガゼボに向かっていたら、灰色の猫とばったり出くわした。
猫は目をきらりと光らせ、私を食べようと追いかけてくる。
「ちゅちゅーちゅー!(公爵様、たすけてー!)」
人間に戻れば食べられることはない。
しかし、ここで戻れば全裸になる。だから人間に戻るわけにはいかなかった。
「……ん? タール?」
ガゼボに逃げ込むと、すっかり出来上がった公爵様が不思議そうに首を傾げた。
私は勢いよく公爵様へ飛びついて、無我夢中で懐に隠れる。
「……もう、いったぞ。ほら、出てくるんだ」
もぞもぞと手で探られ、公爵様は私を服の外に出す。
瞼を開けると、公爵様が目元を緩めて楽しげに私を見下ろしていた。
「危うく餌になるところだったな」
「……ちゅう(もし食べられていたら、明日からあなたの妻は一生行方不明でした)」
「しかし、まずいな。俺の部下なのだから、もう少し立ち向かえるようにしないといけない……」
何を言い出すのかと思いきや、公爵様は私をテーブルに載せると、近くにあったスプーンを渡してくる。
「十回だ」
「ちゅ?(まさか、鍛えようとしているの?)」
「……どうした。早くやらないと、今日のチーズは抜きだ」
じいっと見守るように視線はこちらに固定されたまま。
おそらく、私が腕を動かすまで注がれ続けるのだろう。
ネズミに筋肉トレーニングをさせようとするだなんて……可愛げが強すぎておそろしい。しかも狙っているわけじゃないのがなんとも。
「ちゅう……(仕方がない……)」
「よしよし。慣れてきたら、次は二十回だな」
そこまで食い意地は張っていないけれど、結局は公爵様の圧に負けてスプーン筋トレを始めることになってしまった。
どうしてこんなことに……このままじゃ、筋肉ネズミになってしまう!
まさか公爵様とこんな関係になるとは思わなかったが、案外楽しくて通ってしまう私がいる。
こうしてネズミとしての交流が数日続き、少しずつだが公爵様の事情も知ることになった。
公爵様は、今は亡き前公爵夫人……つまり私の義母とは仲良くなかったらしい。
公爵様は歴代の公爵家当主と比べても凄まじい力を持って生まれたらしく、その力を前公爵夫人は恐れたのだ。
公爵家の力……それは異能力というもので、この力があるから公爵様は獰猛な魔物や魔獣を最前線に立って退治できる。
そして、攻撃には一切の容赦を知らず、すべての領民のためを思って非情になることから、冷酷な獣という蔑称がついたのだという。
大きな力を持った人を恐れる心理はわかるけれど、公爵様が北の領地を守っているから、魔物や魔獣の侵攻が防がれている。
領地は安定し、飢えがなく人々が暮らしていける。
けれど功績に反して王都での公爵様の評判は、あまりいいものとは思えなかった。
なんだかそれが、私の中で納得いかなくて、やるせない気持ちになった。
よく彼が言っている、妻に嫌われる、という言葉は、公爵様のこういった事情が関係しているのかもしれない。
そして、嫌われたくないから遠ざける。嫌われたくないから、最初から線を引く。
でも私は、最初からあなたを嫌ってなかったんですけどね。
やっぱり、言葉でしっかりと伝えなければ。
おこがましいかもしれないが、考えてしまう。
野良ネズミに話しかけては部下にすると笑う、本当は温情に溢れるこの人に寄り添うことができるのならば、と。
「……ちゅちゅ、ちゅう?(次に人間の姿で会った時、私の言葉を、聞いてくれますか?)」
「うん? 腹が減ったか、ほら、チーズだ」
「ちゅう!!(違う!)」
やきもきしながら渡されたチーズの欠片を受け取る。
チーズなんてたくさん食べて来たのに、公爵様から貰ったチーズが今までで一番美味しく感じた。
***
公爵様と面と向かって話そうと決意した次の日。
北の国境で魔物よりもさらに凶暴な魔獣が出現したという報せを受け、公爵様は夜が明ける前に屋敷を出発した。
それから数日、公爵様は帰って来なかった。
次にヨハンから伝えられたのは、公爵様が部下を庇って重傷を負ったという凶報である。
「奥様、これより先はいけません! 旦那様から奥様をお通しするなと言われて――」
「では、部下として会いに行くなら構わないでしょう」
「は、はい?」
ヨハンの制止を振り切って、私は帰ってきた公爵様の寝室の扉を開ける。
「……なぜ、ここに」
寝台に横になっていた公爵様は、私が入ってくると瞠目し、すぐにふいっと顔を横に向けた。
本当に、酷い怪我。
体のほとんどは包帯で覆われていて、顔にも擦り傷がたくさんある。
痛いだろうに、公爵様はなんでもないような顔を崩そうとはしない。
「ヨハンに、通すなと言ったはずだ」
「はい、でも無理を言ってしまいました」
「簡単な命令も遂行できないとは……」
もしかして今も、素が出せずに思ったことが言えないのだろうか。
「では、クビにしますか?」
「……は?」
「クビにして、新しく補佐を立てましょうか。たとえば、白いネズミですとか」
「ネズミ……?」
「ああ、だけど……ある意味ヨハンは命令を守っていますよ。だって、私は部下として見舞いに来たんですもの」
突拍子のない私の言葉に、公爵様は目を丸めた。
心当たりのある顔をして、それでも理解が追いつかず黙り込んでいる。
「…………君は、なにを言っているんだ?」
「知っていますか? ネズミでも筋肉痛になることを。おかげで両腕ともしばらく痛くて大変でした」
「…………いや、なにを言っているんだ?」
「何ってだから……私とあなたの話です」
そこからしばらく、無言の時が続いた。
けれど、それもすぐに公爵様によって破られる。
「………………、…………、………………タール?」
「ええ、タールです。エメンタールの、タール」
ものすっごく溜めたあと、公爵様はその名をつぶやく。
私は頷き、ゆっくりと公爵様のそばに近寄った。
「私は……あなたのことをまだよく知らないけれど、あなたが怪我をしたと聞いて心臓が凍てついたように痛くなりました。もうお顔を見ることができなくなるのではと、怖かった」
「いや、タールが、君で、君がタール……」
「だから、話しましょう。何時間でも。お互いの不安をすべて取り除けるまで。だって私たち、他人の干渉で出来上がった関係だとしても、もう夫婦なんですから」
「……」
公爵様が怪我を負って危ないと、使用人たちがざわついていたせいか、私の焦りも大きくなっていた。
思っていたことを脈略もなく吐き出す形になってしまったけれど、もう公爵様は、私から目を逸らさない。
「……つまり君は、ネズミだったということか?」
まじまじと私を上から下まで確認する公爵様は、考えた末にそう言った。
「半分くらいは、正解です……」
出会って日は浅いけれど、彼を信じていきたいと心が告げていた。
あれから私たちは、お互いを理解し合えるように少しずつ会話を増やしていった。
異形術については驚いていたけれど、それよりもネズミだった私にしていた数々の失言のほうが気になるらしい。
お茶も楽しく過ごせるようになり、もう沈黙のティータイムとは言われなくなった。
「アーノルト様、今度一緒にお酒を飲みませんか?」
「……いやだ」
「ええ、残念……」
もう酔った姿は十分に知っているのに、彼は頑なに断る。
「……酔って、」
「はい?」
「君に、嫌われたくない」
「もう、今さら嫌いになるわけないじゃないですか」
「そういう意味じゃない」
はあ、と横でため息をつかれる。
あの晩の寂しく憂いだ表情とは違って、アーノルト様の横顔は違った意味で憂いでいた。