☆
翌日。麗は登校する生徒たちの注目を一身に集めながら、不安そうな表情をして校門の横に立っていた。そして奈都の姿を見つけるやいなや、
「おはよう奈都ちゃん。どうしよう、マスターがいなくなってしまったの」
開口一番、そう言って奈都を混乱させた。
学校から少し離れた公園へ移動した後、麗はコートのポケットから小さく折られたメモ用紙を取り出した。それは予想通り里莉からの手紙で、殴り書きでこう書いてあった。
『一週間後に戻る。充電は怠るな。何かあったら新条を頼れ』
なぜ私? という気持ちは当然芽生えたが、今はそんなことを言っている場合ではない。
「戻るって書いてあるから大丈夫だと思いますけど……何か問題でもあるんですか?」
「……マスターはメンテナンス以外でわたしの電源を切ることはしないのに、昨日の夜はわたしに黙って切ったの。タイマーで七時に目覚めた時にはもう、わたしは一人になっていた。とても嫌な予感がするの」
質問に対する答えが具体的ではないのは、今の麗が親とはぐれた子どものような不安な心境だからだろうか。それとも……。
「奈都ちゃんなら、マスターがどこに行って何をしているのかがわかるはず。だって君は人の心が読めるでしょ? そしてわたしはマスターに作られたから」
支離滅裂で意味不明な発言に、やはりバグを疑わずにはいられなかった。
今回のショックで麗の寿命が縮まったのだとしたら里莉を永遠に怨んでやろうと決めつつ、とにかく麗を落ち着かせようと奈都は拙い言葉でのメンテナンスを試みた。
「落ち着いてください。私が人の心を読めることと、有栖川の居場所を知ることは今、全く関係ないでしょう?」
「わたしの“心”というものは、残念だけど存在しない。あるのは思考ルーチンと行動パターンを計算するための、人工知能だけ。だから、それを読み取ればいい」
あまりに言葉が通じなくてもどかしい。普段他人との意思の疎通を避けてばかりいたから、伝わらないことがこんなに辛いということを忘れていた。
「言っている意味がわかりませんが……私は、人間の心じゃないと読めないんです。だから、麗さんの人工知能? を読むなんて不可能ですよ」
麗に初めて会ったとき、奈都の指先は彼女の心を読むことはできなかった。
「そう、人間の心。大袈裟でもなんでもなく、わたしのすべてはマスターが誠心誠意を込めて作ってくれた。だからわたしには、マスターの心が乗り移っている。わたしからマスターの心が読めると信じている。そしてあわよくば……本当にわたしにも心があればいいなって、してはいけない期待もしているの。今なら……奈都ちゃんと一緒に過ごした日々がある今のわたしなら、少しは人の心がわかる気がする。少しは人に近づけた気がするから」
麗は引き下がらなかったが、彼女の話はもはや根性論であった。気持ちだけで望みが叶うなら、誰だって悲しい思いをすることはない。
――それなのに、奈都は。
「……わかりました。手を出してください」
我ながら熱に浮かされていると思うが、麗の願いに心を動かされたのか、やってみようという気になっていた。
差し出された麗の細くて長い指を、奈都は手のひらで包んだ。
人を信じたいって、こういうことだろうか。
奈都は今まで、感情だけで行動する人間にはなりたくないと思っていた。
彼らは信じるという言葉を都合よく使われて、甘い言葉に、くだらない嘘に、振り回される印象しかなかったからだ。
だけど奈都は彼らを見下し、遠ざけながらも、羨ましいとも思っていた。
そして自分の気持ちを認めることができたとき、何かを手に入れるような気もしていた。
恋する女の子が彼氏を信じるように。麗が里莉を信じるように。奈都は、麗を信じる。
深呼吸する。“能力”の使用は、メロディーに合わせるような心躍る心地よさとは無縁。例えるならそれは濁流だ。飲み込まれてしまったが最後、綺麗な部分を選りすぐりすることも、自らの意思で止めることもできない。流れ込むその意思を、脳が破裂する限界値までただ受け止めていくのみである。
吐き気を催す感覚が指先から脳に到着するのを確認し、二度目の挑戦は成功したことを確信する。
里莉の記憶、思考、感情が、麗の手を通して流れ込んできた。
翌日。麗は登校する生徒たちの注目を一身に集めながら、不安そうな表情をして校門の横に立っていた。そして奈都の姿を見つけるやいなや、
「おはよう奈都ちゃん。どうしよう、マスターがいなくなってしまったの」
開口一番、そう言って奈都を混乱させた。
学校から少し離れた公園へ移動した後、麗はコートのポケットから小さく折られたメモ用紙を取り出した。それは予想通り里莉からの手紙で、殴り書きでこう書いてあった。
『一週間後に戻る。充電は怠るな。何かあったら新条を頼れ』
なぜ私? という気持ちは当然芽生えたが、今はそんなことを言っている場合ではない。
「戻るって書いてあるから大丈夫だと思いますけど……何か問題でもあるんですか?」
「……マスターはメンテナンス以外でわたしの電源を切ることはしないのに、昨日の夜はわたしに黙って切ったの。タイマーで七時に目覚めた時にはもう、わたしは一人になっていた。とても嫌な予感がするの」
質問に対する答えが具体的ではないのは、今の麗が親とはぐれた子どものような不安な心境だからだろうか。それとも……。
「奈都ちゃんなら、マスターがどこに行って何をしているのかがわかるはず。だって君は人の心が読めるでしょ? そしてわたしはマスターに作られたから」
支離滅裂で意味不明な発言に、やはりバグを疑わずにはいられなかった。
今回のショックで麗の寿命が縮まったのだとしたら里莉を永遠に怨んでやろうと決めつつ、とにかく麗を落ち着かせようと奈都は拙い言葉でのメンテナンスを試みた。
「落ち着いてください。私が人の心を読めることと、有栖川の居場所を知ることは今、全く関係ないでしょう?」
「わたしの“心”というものは、残念だけど存在しない。あるのは思考ルーチンと行動パターンを計算するための、人工知能だけ。だから、それを読み取ればいい」
あまりに言葉が通じなくてもどかしい。普段他人との意思の疎通を避けてばかりいたから、伝わらないことがこんなに辛いということを忘れていた。
「言っている意味がわかりませんが……私は、人間の心じゃないと読めないんです。だから、麗さんの人工知能? を読むなんて不可能ですよ」
麗に初めて会ったとき、奈都の指先は彼女の心を読むことはできなかった。
「そう、人間の心。大袈裟でもなんでもなく、わたしのすべてはマスターが誠心誠意を込めて作ってくれた。だからわたしには、マスターの心が乗り移っている。わたしからマスターの心が読めると信じている。そしてあわよくば……本当にわたしにも心があればいいなって、してはいけない期待もしているの。今なら……奈都ちゃんと一緒に過ごした日々がある今のわたしなら、少しは人の心がわかる気がする。少しは人に近づけた気がするから」
麗は引き下がらなかったが、彼女の話はもはや根性論であった。気持ちだけで望みが叶うなら、誰だって悲しい思いをすることはない。
――それなのに、奈都は。
「……わかりました。手を出してください」
我ながら熱に浮かされていると思うが、麗の願いに心を動かされたのか、やってみようという気になっていた。
差し出された麗の細くて長い指を、奈都は手のひらで包んだ。
人を信じたいって、こういうことだろうか。
奈都は今まで、感情だけで行動する人間にはなりたくないと思っていた。
彼らは信じるという言葉を都合よく使われて、甘い言葉に、くだらない嘘に、振り回される印象しかなかったからだ。
だけど奈都は彼らを見下し、遠ざけながらも、羨ましいとも思っていた。
そして自分の気持ちを認めることができたとき、何かを手に入れるような気もしていた。
恋する女の子が彼氏を信じるように。麗が里莉を信じるように。奈都は、麗を信じる。
深呼吸する。“能力”の使用は、メロディーに合わせるような心躍る心地よさとは無縁。例えるならそれは濁流だ。飲み込まれてしまったが最後、綺麗な部分を選りすぐりすることも、自らの意思で止めることもできない。流れ込むその意思を、脳が破裂する限界値までただ受け止めていくのみである。
吐き気を催す感覚が指先から脳に到着するのを確認し、二度目の挑戦は成功したことを確信する。
里莉の記憶、思考、感情が、麗の手を通して流れ込んできた。