夜空の藍が朧気に霞み始めた頃。いつの間に視界に映っていた、水草が鬱蒼と生える茂みを潜るように抜けると、舟場のような入り江に到着した。
 柳らしき木々と、停留している何槽か停留している木舟に囲まれるように、鉄紺色の石で造られた扇状の渡り橋が、前方に少し離れた所に見えた。

「あの橋を渡った先が我々の地――厄界になります」
「あちらに(おさ)様が参られます。暫しお待ちを」

 河はまだ先に続いているが、どうやらここが彼らの終着点らしい。特に変わった場所を通った様子はなかったが、いつの間にか神界への()()を抜けて来たようだった。

「私達が到着した事……どうやってお分かりに?」
「長様が従えておられる伝達役の(たか)を、今から呼び寄せます」
「到着した旨を知らせる印を届けさせるのですよ。なあに、奴もあの方も突風の(ごと)く飛んで来られるので、あっという間です」

 舟を停め、下りる準備を始めながら番人の一人が説明する。そう……ようやく……と、疲労困憊状態のアマリは思った。
 その――瞬間。背後にぞわり、とした至極不気味な気配を感じた。何事かと振り向く刹那、両手首を掴まれ、あっという間に羽交い締めにされる。

「な、何を……!?」

 困惑する彼女を捕らえたのは、先程まで同行していた番人の一人だった。

「貴女様こそ、先程密かに飲まれていたのは何でございますかねぇ?」

 思いがけない問いに、アマリの心臓が、ぎくり、と恐怖で絞られた。彼らが自分の方を見ていない隙に急いで飲んだが、ばれていたのかと冷や汗が吹き出す。

「何かの薬……まあ臭いから毒の類いでは無いとお見受けしますが……(いささ)か感心できませんなぁ」
「わ、私は……」
「隠さなくともよろしいですよ。人族が何か良からぬ(はかりごと)を企み、貴女を我々に差し出した事など、既にお見通しでございます。――あの方も」
「……!!」

 番人の言葉に意識が遠退き、さあっ、と血の気が引いた。こちらの策略は、とうに見透かされている。贄にすらされない尊巫女の末路がどうなるのか知らない。拷問されて機密を全て吐かされた後、殺されるのだろうか……
 伴侶にも贄にもされず、ただ無意味に折檻(せっかん)されて終わるなど……いくら何でも惨めで――(むご)すぎる。

 麻痺していた心が動き、焦ったアマリは逃げようとした。捕まれた手首を必死に振りほどこうとするが、例の薬が効いてきた身体は力が入らず、思うように抵抗できない。頭にふらつきを感じ、眩暈まで起こり始めている。

「ああ……やはり、催眠剤でございますか。贄となられる為の積極的な心構え……健気でなんともお痛わしい」

 そんな彼女の状態を愉快そうに眺めている、もう一人の番人が、嘲笑混じりの皮肉を言う。

「い、嫌……!! お止め下さい……」
「ご心配なさらずとも、命はお助けしますよ。少しばかりその清いお身体で楽しませて頂けたら、お許し致します」
「左様。勿論、純潔を奪うなどという、鬼畜な所業は致しませんよ。我々に何かしらの影響が起こり得るかもしれないと、あの方も仰いましたしねぇ」

 能面の笑みの二人は、琵琶の重い声色を震わせ、そんな恐ろしい思案を言う。背後で手首を掴んでいた方の番人が、白無垢姿のアマリを強引に抱え、乗っていた舟底に無理矢理横倒した。そのまま覆い被さると、年季の入った木舟が揺れ、ギギイッ、と軋む音が耳障りに鳴る。

「痛っ……!」
「ふむ、白無垢の花嫁の柔肌を曝すというのは、なかなか興奮しますな。あの方が実に羨ましいが、尊巫女とあっては迂闊(うかつ)に手出しできない……なんとも口惜しい事で」

 顔形は人族と変わらないが、ぎょろり、と見下ろす吊り上がった()は、黄金(こがね)色にぎらついている。飢えた(けだもの)――化け物の目だ。吐く息も上がり、荒くなっている。彼らは本気で自分に無体をはたらく気だと、アマリは本能で危険を察知した。

「止め、て……!!」

 助けが欲しかったが、今のアマリに味方は皆無だ。絶望的な状況だが、いくら何でもこんな目にまで遭うのは御免だと、必死に渇いた口を開く。

「間もなく……厄病神様が、いらっしゃるのでしょう? このような、勝手な仕打ちが……赦される訳……」

 震える声で絞り出した切り札だったが、能面から下卑(げひ)た笑みに変わったもう一人の番人が、そんな彼女を更に蹴り落とす事実を告げる。

「案ずる必要はございません。あの方には、雪の為、到着は明日になると伝えております。折角ではございませんか。貴女も尊巫女の務めなど忘れ、我々と楽しみましょうや……」

 信じたくない、恐ろしい返答が飛び込んできた瞬間、押し倒していた方の番人の手が、乱暴に白無垢の襟元を引き下げる。(けだもの)のように鋭く伸びた爪が、上質な絹生地をビッ、と裂き、切れ目を入れた。
 もう完全に逃げ場は無いのだと、映る闇が更に濃くなり、無力感に(おちい)る。

 ――また、こうなるの……? 嫌でも抵抗出来なくて、騙されて、利用されて……
 ――……ああ……そうだった。始まりも、終わりも…… それが『私』の、元々の在り方で……宿命……

 『諦め』『自棄』という類いの思いが、疲労と薬で朦朧(もうろう)とした脳裏に、再び(よぎ)った――刹那。
 ヒュン――シュッ――!! というかまいたちのような鋭利な音が、その場を切り裂くように――駆けた。

「早い仕事だったな。ご苦労」

 ずっと緊迫していた場に初めて響く、抑揚の無い冷淡な音で発された声が、明け出した宵空から降ってきた。途端、番人達がみるみる青ざめ意気消沈し、ガチガチ震え出す。ごく、と密かに息を呑む音が、どちらかともなく鳴る。
 聞こえた賞賛の言葉に反し、今にも斬りかからんばかりの重圧が、周囲に放たれている。眼前の番人の首元に当てられた、ギラリ、と鈍く冴える刃先が、アマリにも向かっている。
 だが、今の彼女には救いの天啓、天明のように聞こえ――映った。