厄咲く箱庭〜祟神と贄の花巫女


「アマリ。お前の()()()が決まりました」

 先日のある夜更けの刻。アマリの暮らす離れに、両親が揃って訪ねて来た。最後に顔を合わせたのはいつだったか覚えていない。
 次に会う時は、()()()が来た事を告げられるのだろうと、覚悟していた。幼少は神々や一族の昔話を寝物語として乳母から、物心ついてからは自分の生まれ持った責務と宿命を、礼儀作法や教養の師範に説かれている。

 どこぞの神の伴侶となるか、その一族の(にえ)となるか。(いず)れにしろ、二度とこの屋敷、(やしろ)や両親、弟妹達の元には帰って来られない。先に旅立った姉が、そうだった。

「……どちらの神の方の元へ、でしょうか?」

 姉の御相手は、確か稲荷(いなり)様だったろうか…… 幾月ぶりにアマリは回想した。『物静かだが大層な別嬪(べっぴん)で、聡明な方』とだけ聞いていた、姉の婚姻の結末を彼女は知らない。
 あえて知らされなかったのかもしれないが、哀しさを感じつつ、あまり気にならなかった。異能の力が強くなった、物心がついた頃、本堂から離れた『施し』を行う一室に一人置かれた。それから十年程、侍女が衣食住の世話に来るだけの暮らしに変わり、親姉弟と疎遠になったからだ。
 他の姉弟妹も家族の関係、情というものが希薄だったが、そんな扱いをされたのは自分だけだった。そんな処遇に戸惑い、疎外感と孤独感に(さいな)まれていた。

妖厄神(ようやくじん)(厄病神)です」

「……⁉」

 様付けすらしない、神に対する称とは思えない呼び方。両親だけではなかった。この人族の間では、皆、彼の事を似たような概念で見て、呼んでいる。
 そして今、そんな立場に置かれる者に、彼らは自分の娘を差し出そうとしている。長年隔離されていた世間知らずのアマリでも、とんでもない状況だということは判る。
 唖然とした面持ちを隠せない彼女に、今度は父が語った。

「この役目は、お前にしか果たせない。頼む」
(わか)って頂戴。これが貴女の宿命です」

 幼い頃と変わらず、形式的な言葉しか口にしない父と、神妙な形相で迫るように乞う母。自分も姉と同じ道をゆく事を予期はしていたが、さすがに両親の意図が()せず、困惑した。

「父様、母様…… ですが……何故……?」

 尊巫女(みことみこ)としての威厳を忘れ、無意識に声が震えていた。その神の元にゆく事は、伴侶にされる道は絶たれるという、酷な事実を意味していたからだ。

 妖厄神――『禍神(まががみ)』の一類とされ、他の神々とは異なる立ち位置にいた。その名の通り、人族の地に神出鬼没に現れ、疫病を主に、あらゆる不運、災厄を誘発させる力を持つ。その度に多くの人族や生物が滅しして不幸になるため、人族から当然忌み嫌われ、死神並みに恐れられていた。
 とはいえ、妖怪に値する存在ではないので、神々の間でも扱いに困り、煙たがっていたのだ。同じ種族には、疫病神、貧乏神などがいる。恐ろしい疫病を流行らせたり、獲物(ターゲット)の金品財産を奪い、徐々に貧困に陥れる力を持つ。
 それでも神の名が付く族にいるのは、彼らの能が驚異的であり、一理で(まか)り通るからなのだ。しかし、その非情で傍若無人な所業から、『人族を伴侶にするなど有り得ない』『そんな怪異な者に太刀打ちできる巫女などいない』と、今までどこの(やしろ)も、尊巫女を出さなかったのだ。

「あの一族に対抗できる尊巫女は、他におらんのだ」
「贄となり、貴女が鎮めて頂戴。この為に力を使いこなし、鍛えてきたのです」

 父母の説得は、解るようで解らない。自分の異能は、そんな脅威な力に対抗できるとは、とても思えなかった。

「そんな…… 私には、無理です……!」
「今まで人族の方々の治癒の為に使って来ましたが、本来の貴女の力は、生命萌芽(ほうが)……自然再生なのです。逆風となり相殺され、彼らの力を少なからず抑え込む事ができるでしょう」
「……‼」

 知らずにいた真実に、アマリは絶句した。ならば、何故、今まで隔離されていたのだろう。最初から贄となり死ぬしか無い宿命だったなら、独りきりでいたくなかった。
 例え希薄な家族間でも、軟禁まがいに離れに籠り、『仕事』や教養、芸事の稽古にばかり費やして暮らすよりは、ずっと良かった。少し位なら、日々の楽しみも得られたかもしれない……

 茫然自失状態になり、目を臥せて黙り込んでしまった彼女の様子に、いつも通り娘は従い、受け入れたと父母は思ったらしかった。

「神界への『輿(こし)入れ』は、次の新月の夜になります。支度はこちらで進めますから、貴女は今まで通り……頼みますね。――アマリ」

 駄々っ子を宥めるような口調の最後に、言い聞かせるよう念を込めた母の言葉が、普段動かない彼女の心を(えぐ)った。
 完全に大人しくなった娘を満足げに見やりながら、父母が離れの(ふすま)から出て行く。後を追いかけ、問いかける気力はわかなかった。

 アマリは『甘利』とも書く。利益を甘んじる、最上位にするという意味の名だ。彼女が産まれた時、祈祷師(きとうし)が重々しい口振りで、こう予言したらしい。

『この(わらべ)はやがて尊巫女となり得るが、極めて稀な力を宿している。有り余る富をもたらすか、手に余る災いをもたらすかは……貴殿方次第でございましょう』

 それを聞いた両親や親戚は、歓喜の一方、畏怖(いふ)を覚えたという。そこで決まったのが、娘を上手く飼い慣らし、一族の為に利用する事だった。
 全ての真実を知ったのは、僅か数年前。屋敷に仕える下女の立ち話を、物陰で偶然聞いた時だ。

『お気の毒よねぇ……いくら未知の能をお持ちだからって、神具(しんぐ)扱いじゃない』
『けど私、あの方が不気味だったのよ。穏やかで楚々(そそ)としていらっしゃるけど、何を考えてるのかわからなくて』
『姉の日向(ヒナタ)様も大人しい方だったけど、もっと利発でいらしたものね。あの方はお綺麗過ぎて怖かったけど』
『――しっ! 誰か……奥様の耳に入ったら……』

 会話の内容、言葉全てが芯に刺さり、アマリの視界を消した。それまでの違和感、絡まりが一気にほどけ、そのまま崖下に引き落とされ――信じてきた人、信条、自分自身……全てが壊れ、崩れ落ちた瞬間――


 ……どのくらいの時が経ったかわからないまま、ふらり、とアマリは離れの庭園に出た。深夜の初冬の空。この小さな庭が、彼女の唯一の外の世界だ。
 『施し』の仕事を始める時、依頼者にどんなに乞われても絶対に叶えてはいけない、幾つかの叶えられない事柄を、厳しく教えられた。

 『死者の生還』『心を操る』『金品財宝などの富を与える』(など)……

 どれも倫理に反していて、アマリへの負荷も多大で、命に関わるからだと聞いた。その時は、これは親の愛情なのかと嬉しくなったが、今では、それすらも信じられない……

 庭の生け垣に、ちらほらと紅白の花が咲いている。世話は庭師が行っているが、季節の花を観賞する事は、限られた中の趣味の一つでもあった。
 今は山茶花(サザンカ)が見頃で、多く植えられていた。宵闇の中、赤と白に浮き上がるように咲く、雅で艶やかな様がアマリは好きだった。

 ――せめて一度だけでも、薄紅色が観たかった……

 山茶花には桃のような薄紅色もあるが、ここは紅白のみだ。植えてもらえないかと庭師に申し出てみたが、尊巫女としての印象(イメージ)の為、巫女装束に使われる紅と白だけ植えるよう、奥方様に頼まれているから……と申し訳なさそうに言われた。
 薄紅色の山茶花の花能(はなぢから)は……『永遠の愛』。時折、特に女性の依頼者に望まれるが、アマリの異能では叶えられない事だ。

 ――そうだったわね。かなわない、のよね。何もかも
 ――『愛』が、何かもわからないまま、死ぬのだから……

 闇夜に浮き出る紅白の花の前で、()れ切っていた瑠璃の()を、独り(にじ)ませた。
 憂鬱な事柄が待ち受けていると、時が進むのが早いというが、()()()()()の多忙な暮らしを送っていたアマリには、感傷に浸る余裕すら無いまま日々が過ぎてゆく。

「アマリ様。おめでとうございます」
「尊巫女様。誠に有難うございます……!!」

 『輿(こし)入れ』が決まってから、参拝者始め、屋敷に仕える侍女や下女に至るまで、顔を合わせる度、あらゆる人間に礼を言われ続ける。ある者からは泣かれながら、ある者からは(うやうや)しく頭を下げられながら……
 いつも世話をしてくれる侍女は、少し複雑そうな眼差しで彼女を見つつも、普段通りの態度で接していた。

 ――もう、何も考えない。考えられない。考えたくない…… これが、私の生きる理由、運命、宿命……

 自身に呪文をかけるように、何度も何度も、同じ言葉を繰り返し、念じ聞かせる。

 この数年、年替わりに天変地異を始め、疫病、火災、飢饉、治安の悪化という様々な災厄が、人族の地を襲っている。原因はともかく、恐怖と絶望に陥った人々が、何かの救いを求めたがるのは無理も無いと思った。
 自分がその元凶の一つを少しでも鎮められるのなら、これが自分の役目で存在意義なのだ……と、自身に改めてアマリは(さと)した。
 拒否した時の彼らを想像すると、罪悪感で痛ましくもなる。自分の命や人生の事など、少しでも気にしたら、自身の()()が狂ってしまいそうだった。()す術が無いという以前に、そんな考えや疑問すら持つ事自体、決して赦されないのだと、生まれた瞬間から暗に()され命じられている。
 そして、初めての『仕事』の依頼者……相手は、アマリの両親だった。一番(ちか)しい者の情すら察せぬなら、花能の尊巫女など務まらないという意の試験だ。父母に認められたい一心で、不仲な二人其々(それぞれ)の情を必死に感知し、なんとか合格したのだった。


 瞬く間に、いよいよ明日が『輿入れ』の夜となった。さすがに前夜は、処刑を待つような心境になるだろうと予測していたが、心身共に疲れ切っていたアマリは、無気力……虚脱に陥っている。
 この離れに連れて来られてから、一人で夜を過ごすのは当たり前だった。寂しさと心細さで泣いても、来てくれる者は誰もいない。時に、悪夢による恐怖で助けを呼んでも『騒がしい。眠れない』と、咎められる。
 舞などの稽古(けいこ)中、厳しさに思わず涙すると師範に注意され、その後、母にきつく叱咤された。そんな日々が過ぎてゆく中、一つ、また一つと何かを諦め、気づいた時には、()()()てていた……

 ――妖厄神()…… せめて、完全に殺してから、贄にして下さらないかしら……
 ――あ……だけど彼にとって、私は毒なのよね…… 本来なら、夫になる立場の方に奇襲するなんて……嫌われてしまうわね……

 朦朧(もうろう)としたまとまりの無い脳裏に、『人族の力になって役に立つ』『神族との梯子になって支える』という、尊巫女の誇りと義務感が揺らいでは、浮かぶ。少しでも気を緩めると、(いびつ)に壊れてしまいそうな心境の中、婚礼前夜が過ぎていった。


 翌日。ほとんど眠れなかったアマリは、朝から始まった『輿入れ』の支度にも、されるがままだった。まずは(やしろ)の地下水を沸かした湯で体を清め、長い濡羽髪を結い上げ、白粉(おしろい)を施し、紅を差す。
 この役目を代々任されてきた侍女達によって全て行われ、慣れた手つきで、彼女達は順序良く事を進めていく。仕上げに白無垢……花嫁衣装を(まと)った時には、淡い瑠璃の瞳が白一色の姿に一層映え、神秘的な美しさを醸した姿になっていた。

 ――……私……死ぬのよね……? これから……

 出来上がりを姿見(すがたみ)に映され、『お美しゅうございます』『素晴らしい出来映えです』と絶賛される。そんな状況が、当人のアマリは不可思議……滑稽な思いでいた。
 相手が神族とはいえ、いつかは花嫁衣装を着るという未来は憧れだったが、上質な白無垢も丁寧に施された化粧も、今となっては()く為の死装束にしか見えない。
 それなのに……と、ぼんやりした脳内の中が、改めて空虚感で埋まる。が、今更な事だ……とも同時に思う。今までずっと、当たり前のように当人の意思や疑問は無視され、あらゆる事柄が進められていった。止める(すべ)も止められる者も無い。
 全て始めから、見知らぬ()()によって決められていた出来事……人族の為に犠牲となる尊き巫女の清く潔い姿を、民に見せつける儀式……祭典の一環なのだと、改めて思い知らされる。


 宵の(とばり)が落ち切った、新月の夜更け、(さる)の刻。真冬の夜空からは、ちらほらと粉雪が降って来ていた。
 そんな凍てついた気温の中でも(やしろ)の屋敷の入口付近には、周辺に住む人族の民が、今夜『輿入れ』する尊巫女を一目見ようと集まっている。彼女の()()()は、既に人族の間に知れ渡っていたのだ。
 自分達の為に、あえて()()妖厄神の元へ()()……何と気高く、慈悲深い尊巫女様だと、手を合わせながら崇め、(たてまつ)り、中には憐れみを含んだ眼差しを向ける者もいる。
 皆、この婚姻は尊巫女が厄神の贄となり、忌まわしい力を抑える為の儀式であり、『花嫁の死』によって終わると知っていた。昼間の明るい青天の下ではなく、宵闇に紛れながら目立たず婚儀を行う理由も、暗に了解しているので誰も不平不満を言わない。()()が主に日暮れ後に現れ、決して手放しで祝福できない婚姻……それが、亜麻璃(アマリ)という尊巫女、一人の女性の宿命という事も……

 屋敷全体の入口である、立派な門構えの近くに、一人用の駕篭(かご)(たずさ)えた、社に仕える二人の従者が待っていた。浅い烏帽子(えぼし)を被り、上質な袴姿という高貴な印象の出で立ち。暖をとる為でもある、炎の灯った松明(たいまつ)を手にしてはいるが、漆黒や鉄紺を基調にした羽織を纏い、顔の下半分を布で隠した姿は、あの世への案内人のようにも見えた。
 門から少し離れた場所を取り囲むように、人族の民が傍観する中、侍女に付き添われた白無垢姿のアマリが現れた。暗がりの中、綿帽子を深めに被り、目を伏せている彼女の表情は見えない。それでも全身から放つ、清楚で雅やかな気は隠せないでいる。
 そんな(しと)やかな出で立ちに、民も待機していた従者達も、ほうっ……と密やかに感嘆のため息をついた。

「尊巫女様。こちらへ」

 従者の一人が、アマリに駕篭(かご)に乗るよう、(うやうや)しく促す。無言のまま静かに会釈した後、アマリは引き込まれるように、そろり、そろり、と壇を踏み、華奢な身体を中へ押入れる。
 純白の花嫁を乗せた駕篭は、そのまま屈強な従者二人にようやっと担がれ、雪舞う道へ進み、やがて闇夜に消え入った。
 どのくらいの時が過ぎたろうか。暗がりの狭い駕籠(かご)の中、アマリの意識は寝不足と空腹で朦朧(もうろう)としていた。昨夜から今日一日、(やしろ)の地下水しか口にしていない。人族の世界――俗世の気を少しでも身体から()せさせる為と聞いた。
 窓どころか隙間も無い駕籠の中からは、外の様子は全くわからない。何処(どこ)を通っていて、どの方角に向かっているのかも、弱った頭や身体では感じ取れずにいる。万が一、尊巫女が役目を放棄し、逃亡出来ないようにする狙いでもあったのだ。
 帰り道がわからないよう、アマリは道順を教えられていない。駕籠を運ぶ従者達も、神界への行き方は途中までしか知らず、そこからは別の者が引き継ぐ、という手筈(てはず)な事は聞いていた。

 規則的に左右に揺れる駕籠の中で、懐からふと、布に包まれた一つの陶器の小瓶を手にする。今日、支度の最後に持たされたのが、これだった。いざ贄となる際、なるべく苦しまないよう、せめてものはからいだと、母から渡されたもの。強力な催眠作用の薬らしく、神界に着いたらすぐに飲むよう言われた。(しば)し後、強烈な睡魔に襲われ、意識を失うという。その間贄になり得る、という事だろう……
 そんな(いわ)く付きの代物を改めて手にしても、既に麻痺していた心は、何も感じなかった。ただ、一刻も早く()()()()ほしい、とだけは思った。
 せめて正気を保っていられるうち……恐怖や怨恨に狂い、見苦しい様を晒しながらは逝きたくない。それが、今のアマリに残っていた、唯一の自尊心だった。

 ――もう、今すぐ飲んでしまいたい……

 何に対してかもわからないまま、瓶を握りしめながら祈り、逃避するように視界を閉じた。


「尊巫女様。大変お待たせ致しました」
「通過地に到着しましたので、お降り下さいませ」

 さすがに疲労と睡魔に負け、うつらうつらと微睡(まどろ)み始めた頃。揺れが止まり不審に思った刹那、駕籠から出るよう促す声が聞こえた。寝ぼけた頭を軽く振り、眼を指で(こす)る。開かれた扉から外を覗くように、アマリは身体を押し出した。
 ぼやけた視界に映ったのは、河辺(かわべ)だった。鬱蒼(うっそう)とした竹林が背景にあるが、目を凝らさないと対岸は見えない程の雄大な河。目の前を流れ行く水の音が、未だ粉雪が舞う宵闇の中、静かに響いていた。

「ここは……?」
八百万(やおよろず)の河でございます。人族と神族の世界を隔て、また唯一の繋ぎ――聖域でもあります」

 従者の一人が、重々しい口振りで説明する。その名と存在は、尊巫女としての知識の一つとしてアマリも知っていたが、実際に目にするのは初めてだ。ごく限られた者しか行けない禁じられた聖域だとも両親から聞いていたが、どんな時に何の目的で利用するのかは、何となく察しがついていた。

「……我々は此処(ここ)まででございます。後は、()()()者達がご同行致します」

 続けて告げた従者の言葉に不安になった時、少し離れたところから、彼らとは異なる声が降ってきた。

「尊巫女様。お初に御目にかかります」

 声のした方――岸辺に二つの人影があった。藁作りの傘を深く被り、舟番の格好をした男達が、先端に純白の紙垂(しで)を幾つも吊り下げた独特の仕様の(かい)を、それぞれ手にして立っていた。すぐ傍に木製の舟が停まっている。

「……貴殿(あなた)方は?」
「厄界の(おさ)様の(めい)により、お迎えに参りました」
「我々は、この八百万の河の番人。ここから神界に行くまで、貴女様を無事にお運びするのが役目でございます」

 言葉使いや物腰は丁寧だが、その佇まいは明らかに人族では無い、独特のものだった。辺りに(うな)るように低く鳴り響く、琵琶(びわ)の音のような声色。(まと)う空気も異様で、不気味な気が交えているのが本能的に察知出来た。顔形は人族と変わらないようだが、よく見ると彼らの両耳は笹の葉のように尖っており、犬歯が突飛抜け出ている。
 ふと、彼らが手にしている(かい)の先端と同じ仕様の紙垂(しで)が付いた、注連縄(しめなわ)のような物が舟全体を護るかのように巻かれているのに気づく。この場で唯一、アマリがよく見慣れた仕様だ。

「――結界、ですか?」

 少し意外に思い、おののきながら問いかける。ここは(やしろ)でも神宮(じんぐう)でも無い、人族の住む土地の一つ……邪や(あやかし)に狙われ脅かされない、平穏であるはずの場だ。
 しかも、彼らは神界ではなく禍神(まががみ)の類……厄界の者。厄祓いの神具でもある、大幣(おおぬさ)を彷彿させる仕様の櫂を手にしている状況にも、アマリは戸惑っていた。

「左様でございます。ここは人族と神界の境目。護りが曖昧になり、道中、貴女様を狙った物怪(もののけ)(あやかし)共が襲って来ないとも限りませぬ(ゆえ)

 白地の羽織姿の彼らは、河の番人というよりは、山伏(やまぶし)のようにも見える。これから向かう見知らぬ世界の、自身の常識など全く通用しないであろう異質さを、アマリは身に沁みて感じた。本当に人族の世から去り、神の住む異界に行くのだと改めて実感する。

「……では、我々は此れにて。失礼致します」

 順々に丁寧に頭を下げ、別れの挨拶を告げた従者二人は、駕籠(かご)を軽々と担ぎ上げ、颯爽とした足取りで、来た道を戻って行く。ようやっと、様々な意味合いの()()を下ろした安堵で一杯なのだろうか……と、少し自虐的な思いで、アマリは見送る。

「「どうぞお乗り下さいませ」」

 彼らの姿が見えなくなった頃、異界の番人達が、琵琶(びわ)の低い音を鳴り揃え、彼女を促した。


 ゆらり、ゆらりと今度は不規則に全体が揺らぎながら、闇夜に染まる河をひたすら進む。

(あかつき)の刻までには到着致します故、暫しのご辛抱を」

 軽い酔いと雪降る深夜の冷え込みが(こた)え出し、気を紛らわしたくなったアマリは、近くにいた番人の一人に尋ねた。

「……貴殿方は、妖厄神()をご存知なのですか?」
「これは珍しい。あの方をそのように呼ばれる人族は、貴女様位ですぞ」

 彼は愉快そうに、軽い笑い声を上げた。

「何故ですか? 禍神といえ……神様でしょうに」
「その通り。が、大抵は『厄病神』『妖厄神』などと呼び捨てる。むしろ、我々が問いたいものだ。何故、そのように?」

 彼女の方は見ず、少し皮肉るような口振りで、番人は逆に尋ねる。アマリは返答に詰まった。無意識に口にした名称だが、今から会いに行く者は、あくまで神族の長なのだという、欠片程になっていた尊巫女の誇り(プライド)と自尊心の表れと……自覚したのだ。

「……」
「もうじきです。到着次第、長様が風の如く参られます。お覚悟を」

 うつむき、無言になったアマリを一瞥(いちべつ)し、淡々と彼は告げた。遂にその時がくる。
 懐にしまっていた()()小瓶を取り出し、密やかに栓を開けた。軽く一息ついた後、一気に液体を飲み干す。苦味があるため気をつけるよう注意されていたが、凍てつき切っていた彼女の舌は、もう、何も感じなかった。
 夜空の藍が朧気に霞み始めた頃。いつの間にか視界に映っていた、鬱蒼(うっそう)とした水草の茂みを潜るように抜けると、舟場のような入り江に到着した。
 柳らしき木々と、停留している何槽か停留している木舟に囲まれるように、鉄紺(てつこん)色の石で造られた扇状の渡り橋が、前方に少し離れた所に見えた。

「あの橋を渡った先が我々の地――厄界になります」
「あちらに(おさ)様が参られます。暫しお待ちを」

 河はまだ先に続いているが、どうやらここが彼らの終着点らしい。特に変わった場所を通った様子はなかったが、いつの間にか神界への()()を抜けて来たようだった。

「私達が到着した事……どうやってお分かりに?」
「長様が従えておられる伝達役の(たか)を、今から呼び寄せます」
「到着した旨を知らせる印を届けさせるのですよ。なあに、奴もあの方も突風の(ごと)く飛んで来られるので、あっという間です」

 舟を停め、下りる準備を始めながら番人の一人が説明する。『そう……ようやく……』と、疲労困憊状態のアマリは思った。――瞬間。背後にぞわり、とした至極不気味な気配を感じた。何事かと振り向く間際、両手首を掴まれ、あっという間に羽交い締めにされる。

「な、に……⁉」

 困惑する彼女を捕らえたのは、先程まで同行していた番人の一人だった。

「貴女様こそ、先程密かに飲まれていたのは何でございますかねぇ?」

 思いがけない問いに、アマリの心臓が、ぎくり、と恐怖で絞られた。彼らが自分の方を見ていない隙に急いで飲んだが、ばれていたのかと冷や汗が吹き出す。

「何かの薬……まあ臭いから毒の類いでは無いとお見受けしますが……(いささ)か感心できませんなぁ」
「わ、私は……」
「隠さなくともよろしいですよ。人族が何か良からぬ(はかりごと)を企み、貴女を我々に差し出した事など、既にお見通しでございます。――あの方も」
「……‼」

 番人の言葉に意識が遠退(とおの)き、さあっ、と血の気が引いた。こちらの策略は、とうに見透かされている。贄にすらされない尊巫女の末路がどうなるのか知らない。拷問されて機密を全て吐かされた後、殺されるのだろうか……
 伴侶にも贄にもされず、ただ無意味に折檻(せっかん)されて終わるなど……いくら何でも惨めで――(むご)すぎる。

 麻痺していた心が動き、焦ったアマリは逃げようとした。捕まれた手首を必死に振りほどこうとするが、例の薬が効いてきた身体は力が入らず、思うように抵抗できない。頭にふらつきを感じ、眩暈(めまい)まで起こり始めている。

「ああ……やはり、催眠剤でございますか。贄となられる為の積極的な心構え……健気でなんともお痛わしい」

 そんな彼女の状態を愉快そうに眺めている、もう一人の番人が、嘲笑混じりの皮肉を言う。

「い、嫌……‼ お止め下さい……」
「ご心配なさらずとも、命はお助けしますよ。少しばかり、その清いお身体で楽しませて頂けたら」
「左様。勿論、純潔を奪うなどという、鬼畜な所業は致しませんよ。我々に何かしらの影響が起こり得るかもしれないと、あの方も仰いましたしねぇ」

 能面の笑みの二人は、琵琶の重い声色を震わせ、そんな恐ろしい思案を言う。背後で手首を掴んでいた方の番人が、白無垢姿のアマリを強引に抱え、乗っていた舟底に無理矢理横倒した。そのまま覆い被さると、年季の入った木舟が揺れ、ギギイッ、と軋む音が耳障りに鳴る。

「痛っ……!」
「ふむ、白無垢の花嫁の柔肌を曝すというのは、なかなか興奮しますな。あの方が実に羨ましいが、尊巫女とあっては迂闊(うかつ)に手出しできない……なんとも口惜しい事で」

 顔形は人族と変わらないが、ぎょろり、と見下ろす吊り上がった()は、黄金(こがね)色にぎらついている。飢えた(けだもの)――化け物の目だ。吐く息も荒くなっている。彼らは本気で自分に無体をはたらく気だと、アマリは本能で危険を察知した。

「止め、て‼」

 助けが欲しかったが、今のアマリに味方は皆無だ。絶望的な状況だが、いくら何でもこんな目にまで遭うのは御免だと、必死に渇いた口を開く。

「間もなく……妖厄神様が、いらっしゃるのでしょう? このような、勝手な仕打ちが……赦される訳……」

 震える声で絞り出した切り札だったが、能面から下卑(げひ)た笑みに変わったもう一人の番人が、そんな彼女を更に蹴り落とす事実を告げる。

「案ずる必要はございません。あの方には、雪の為、到着は明日になると伝えております。折角ではございませんか。貴女も尊巫女の務めなど忘れ、我々と楽しみましょうや……」

 信じたくない、恐ろしい返答が飛び込んできた瞬間、押し倒していた方の番人の手が、乱暴に白無垢の襟元を引き下げる。(けだもの)のように鋭く伸びた爪が、上質な絹生地をビッ、と裂き、切れ目を入れた。
 もう完全に逃げ場は無いのだと、映る闇が更に濃くなり、無力感に(おちい)る。

 ――また、こうなるの……? 嫌でも抵抗出来なくて、騙されて、利用されて……
 ――……ああ、そうだった。始まりも、終わりも…… それが『私』の、元々の在り方で……宿命……

 『諦め』『自棄』という類いの思いが、疲労と薬で朦朧(もうろう)とした脳裏に、再び(よぎ)った――刹那。
 ヒュ――シュッ――‼ という、かまいたちのような鋭利な音が、その場を切り裂くように、駆けた。

「早い仕事だったな。ご苦労」

 ずっと緊迫していた場に初めて響く、抑揚の無い冷淡な音で発された声が、明け出した宵空から降ってきた。途端、番人達がみるみる青ざめ意気消沈し、ガチガチ震え出す。ごく、と密かに息を呑む音が、どちらかともなく鳴る。
 聞こえた賞賛の言葉に反し、今にも斬りかからんばかりの重圧が、周囲に放たれている。眼前の番人の首元に当てられた、ギラリ、と鈍く冴える刃先が、アマリにも向かっている。
 だが、今の彼女には救いの天啓、天明のように聞こえ――映った。
「けっ、荊祟(ケイスイ)、様……⁉」

 アマリと襲いかかっていた番人から、少し離れた場所にいたもう一人の番人が、幻でも見たような間の抜けた声色で叫ぶ。
 その声に合わせるように、荊祟と呼ばれた青年らしき男は、首元に当てていた刃先を、今度は彼の額ぎりぎりのところに移動させ、そのまま追い立てるようにアマリから離れさせた。一呼吸する間の、ほんの一瞬の出来事だった。
 壁になっていたものが無くなり、ようやく開けたアマリの視界に、震え上がってへたり込んでいる番人の額に、日本刀らしき刀を突き付けている黒っぽい長い人影が映った。
 明らんできた暁の逆光でよく見えないが、濃灰の硬質な長めの前髪は非対称(アシンメトリー)に分けられ、短い方と襟足は後方に雑に流している。ほのかな光に当たった部分は月白(げっぱく)に透け、銀糸の(ごと)く煌めいていた。
 漆黒の羽織に藍鼠(あいねず)色の長着物の下は、(しのび)装束のような漆黒の履き物と草履。細身の腰には革紐がきつく巻かれ、刀の鞘と小ぶりの巾着袋、数珠玉(じゅずだま)がぶら下がっている。
 人族の世界だと、野武士か忍と判別するような出で立ちだが、耳はやはり笹のように尖っていた。顔下半分を被い隠した、黒地の布で表情は分からない。が、髪の隙間から見え隠れする、黄金(こがね)色に鋭く光る切れ長の眼を、より一層、印象的に魅せている。
 やはり人族とは違う異界の者なのだと、安堵から再び朦朧(もうろう)とし始めた脳で、アマリは思った。

「……(おさ)様、何故……こんな、早く……?」

 先程までとは別人のように狼狽(うろた)え、刀を向けられた番人が、情けない声色で問いかけた。

黎玄(れいげん)を飛ばし、密かに様子を伺わせていた。……念のためだったが、我ながら賢明だったな」

 淡々とした抑揚のない物言いだったが、その声色は重く、静かな怒りが含まれているのがアマリにもわかった。威厳という冴えた圧を感じさせるのは、彼が一族の長だからだろうか。
 ギャア、と高らかな鳴き声を上げ、朱色の眼光を放つ(たか)が、バサッ、と焦茶の翼を羽ばたかせ、布が厚く巻かれた彼の腕に止まる。「よくやった」と荊祟は呟き、懐に下げた袋から木の実のような物を左手で取り出し、指の空いた漆黒の手袋越しに渡した。
 以前、実家の屋敷に都の遣いで来られた鷹匠(たかじょう)のようだと、アマリは思った。彼の長く伸びた指先には、黎玄と呼ばれた鷹とさして変わらない、鋭く伸びた爪が光っている。

「……この女を喰うなり犯すなりすると、我ら一族の力が失墜するやも知れぬ。その事はお前達も知っているはず」

 眼光だけで斬られるのでは、と錯覚するような鋭利な黄金(こがね)の眼差しで、顔面蒼白の番人二人を交互に睨み付けた。一人には刀を突き付けたまま、じりじり、と詰める。

「長である俺に逆らってまで、珍しい女が欲しかったのか……? 反逆か?」
「……とんでもございませぬ!! 我々はそのような謀反(むほん)(くわだ)てたのではございません!」

 赦しを乞おうと、刀を向けられた番人がまくし立て、慌てふためきながら弁解する。

「左様でございます! 人族とはいえ……女でございましょう? 折角の厄界にいない種……見栄えも悪くない。少しばかり()()をしても良いのではないかと伺いました」
如何(いか)にも。要は、契りを交わさなければ良いのですから…… 何なら荊祟様が楽しまれた後でも構いません」

 この言葉で、ざわり、と周囲に烈な殺気が満ち、荊祟の眉が吊り上がった。こめかみに青い血管が浮かび上がり、発した眼光が稲妻のそれに変わった。

「……貴様()()、俺を色狂いの(けだもの)とでも思っているのか……?」
「い、いえ‼ 決してそのような事は……‼ 私共は、ただ……」

 完全に長の怒りを買ってしまった事を認識し、番人二人は急いで土下座しようとした。

「もう()い。粛清(しゅくせい)する」

 チャキ、と(つば)を整える音が鳴る。と同時に、へたり込んでいる方の番人の首元に、再び刃を強く押し付けた。彼の汗ばんだ皮膚から、今度は一筋の赤い滴が流れる。

 ――私達と同じ、色……

 そんな至極緊迫した状況だったが、完全に茫然としていたアマリの脳は、そんな唐突な感想を浮かび出す。

「戻って仕置きを受けるか、この場で俺に斬られるか、とっとと選ぶが良い。どうする」

 残酷で容赦のない最終警告に、今では哀れに見える位に縮み込んだ番人が、涙声で答えた。

「――仕置きの程を……」
「……この女の処分は、俺が決める。早まった事はするな」

 ようやっと気が鎮まったらしい彼は、ゆらり、と刀を下げて鞘に収めた。そして、すっかり茫然自失状態、死んだ魚の目に変わった番人二人を、木船に備えていた縄で、そのまま易々(やすやす)と合わせ縛り上げる。

「……あ、ありがとう、ござい……ました。助け、て頂……」

 此処(ここ)に現れてから、一度も自分の方を見ない彼に対し、反射的に呂律(ろれつ)の回らぬ口で、アマリは礼の言葉を発していた。ようやく、荊祟は彼女の方を向いたが、冷ややかな眼差しでそんな様子を凝視している。
 次第に思考が曖昧になり、目の前が揺らいでふらつき出した。ゆるゆる、と力が抜けていくにつれ、彼女の身体はうつ伏せに倒れ込む。もう、限界だった。
 このまま眠り込んでしまったら、長である彼に殺されるかもしれない。とは言うもの、抵抗する力はもう無かった。どうせ全てばれている。今更、彼が自分を贄として一族に渡す事も、伴侶にする事もないだろう……と薄らぐ意識の中、アマリは考えた。
 尊巫女の責務は果たせないが、人族……女の尊厳だけは、どうにか守れたようだ。それだけでも幸いだったと思うしか、無い……
 自分の人生とは何だったのか……と、一瞬思ったが、次を考える間もなく、アマリの思考には(もや)がかかり、視界には蓋がされ……やがて、意識は彼方に消えた。

 ――…………

 ふわり、ふわり、と身体が妙に軽い。どうやら宙に浮かび、飛んでいるらしい。心地好い風に流されているようだ。そんな(おぼろ)な感覚が、彼女が最後に覚えていた事だった。

 ――嗚呼(ああ)……冥土(めいど)に向かっているのね……? どなたかお迎えにいらしたのかしら……

 そんな疑問がぼんやりと(よぎ)ったが、間もなく襲った突風と強烈な閃光により――消え失せた。

 ――…………

 ……遠い、遠い彼方から、何か……聞こえる。

 キャン、キャン、と悲鳴のような子犬の鳴き声。『かえして。おねがい。しんじゃうわ』と必死に乞う自分の弱々しい叫び声。その場に座り込んで、ひっく、ひっく……としゃくりあげる。
 涙と鼻水で濡れた顔がみっともなくなり、慌てて拭おうとした瞬間――自分と変わらない大きさの柔らかな手が、その手を包んだ。
 続いて、ぶたれた痛みがまだ残る額を、ぎこちなく撫でてくれた大きく固い指……二種の淡い温もり……

『ねえさま…… じいさま……』

 見上げた二人の顔は、其々(それぞれ)霞みがかかっていて判らない。けれど、静かに、哀しく、優しく微笑んでいた気がした――

 ――…………


 霧が薄らいだように朧気な脳裏が覚醒していく。頭は鉛のように重い。ぼやけた視界に、見慣れない木目調の天井が映る。身体は柔らかな布団と寝具に包まれ、白無垢は襦袢(じゅばん)らしき寝間着に変わっていた。髪もほどかれている。
 布の柔らかな感触。軽い頭痛に喉の渇き……暗がりだが冥土ではなさそうな事、どうやら自分はまだ生きているらしい事にアマリは戸惑い、動揺する。

 ――どうして……?

 ふと、強烈な視線を感じ、反射的に眼球をぐるり、と動かす。朱の瞳と目が合いおののいた。()()()妖厄神(ようやくじん)の青年が連れ、黎玄(れいげん)と呼んでいた(たか)がいたのだ。
 あの時は、怪しげな眼光を放っていたが、今は(べに)珊瑚のように澄んでいる。半分が障子で閉じられた円形の窓の縁に留まり、じっ、と観察するように、アマリを見ていた。

「……?」

 困惑する彼女を確認すると、焦茶の翼をバサッ、と羽ばたかせ、外へ飛び立って行った。後に見える空は宵闇に染まっている。細々とした上弦の月が浮かんでいた。
 あれから何日経ったのか、今いる場所はどこだろう……と不安に駆られる。八畳程の畳部屋……という事位しか判らない。


「失礼致します」

 暫し後、突然、凛とした女性の声が(ふすま)の向こうから聞こえた。

「お身体の具合はいかがですか?」

 すっ、と襖を開けて入って来たのは、菖蒲(ショウブ)のような青紫色をした、忍装束の若い女性だった。濡羽玉(ぬばたま)の艶やかな黒髪を後ろに束ね、団子状にして銀の(かんざし)を挿している。琥珀(こはく)色の猫目に笹形に尖った耳が、涼やかな顔立ちを一層映えさせているのが、暗がりでもわかった。
 小鍋や急須などを乗せた盆を手に、無表情に佇んでいる。……何故だろうか。どこかで会ったような、懐かしく温かい思いが、アマリの胸の中にわき上がった。

貴女(あなた)は……? ここは、何処(どこ)でしょうか……?」
「厄界の(おさ)……荊祟(ケイスイ)様の御屋敷の離れでございます。私はこちらの警護などを担っている者。貴女様が目覚められたと伺い、お食事と薬をお持ちしました」

 颯爽と傍に寄って正座し、礼儀正しく頭を下げる、くノ一のようなこの女性が(まと)う冴えた空気に、アマリは圧倒された。

「長様より、貴女様の看病と身の回りの世話、そして護衛を申し付けられました。今後は私がなるべく同行させて頂きます。どうぞよろしくお願い致します」
「……せ、世話? 護衛⁉」

 予想外の単語の連続に耳を疑い、困惑する。

「……この界には、貴女様を良く思わぬ者もおります故…… どうかご容赦ください」
「そ、そうでしょう……⁉ 妖……長様は、私を生かしておかれるのですか……?」

 すっかり錯乱したアマリは、早口でまくし立てる。信じられない事態に、まだ覚醒し切っていない頭がなかなか追いつかない。

「……殺される、と思っていらしたのですか?」

 静かに頷く彼女に女性は初めて表情を崩し、()を見開いた。労りと情けの交じる複雑そうな素振りを見せる。紅の唇が一文字に結ばれ、長い睫毛が扇のように()せた。

「あの方が、そうお決めになられた事ですので……ご自分でお尋ね下さい。貴女様のお身体が回復次第、お会いされるそうです」

 そんな事があるのだろうか。何故、今更自分と対面するのか……理由が全く解らない。アマリが困惑する中、女性は部屋の行灯(あんどん)に火を(とも)した。暖かな光が、室内をほのかに包む。

「私は隣の部屋に住まいます。何か御用がありましたらお呼び下さい。……多少の異変は察知できますが」

 つまり、アマリが何か仕掛けたりしても分かるという事だ。おそらく、このくノ一の仕事は、妖厄神……荊祟への()()も兼ねてなのだろう。彼女に罪は無いが、少し悲しく思った。

 ――ここでも監視されるのね……当然だけど……

 膳を布団のすぐ側まで運び、改めて正座した女性は、小鍋の中の湯気立つ白い物を、てきぱきと椀によそい始める。

「玉子粥です。長様も召し上がっておられる、人族の身体に合わせた物です。毒などの類いは入っておりませんのでご心配なく」
「……わかりました」

 ――確かに、今更改めて……なんて無意味よね

 不可思議で複雑な思いを抱きながらも、少し安堵して頷く。()()()、彼は、確実に自分を殺せたはずなのだから。

「後程、湯浴みのお手伝いも致します」

 終始、毅然とした態度を崩さない、この礼儀正しい女性に、アマリは尊敬と感謝の意を抱き始めていた。

「何から何まで……ありがとうございます」
「務めですので。お気遣いなく。仰々しい格好で申し訳ありませんが…… いつ何が遭っても御守りできるように、なるべくこの姿でご一緒させて頂きます」

 手際よく食事の支度を進める彼女に、アマリは少し遠慮がちに申し出た。

「それは……大丈夫です。ただ、あの……」
「何か?」

 不都合な事があるのか、と言いたげな様子だ。

「お名前を……伺ってもよろしいですか?」

 手を止め、女性は驚いたように眼を見開き、戸惑いが垣間見る声色で問い返す。

「何故でしょう?」
「これからお世話になる方なのですから、知っておかなくては……と思って。その、貴女のご迷惑にならなければ、ですが」

 彼女があの冷徹非情な厄神に叱られるのなら知らなくてもいい。だが、声も顔もはっきりと覚えていないが、先に神界に旅立った、姉の雰囲気にどこか似ている気がしたのだ。一方的な思い入れだったが、彼女に親しみを感じ始めていた。
 そんなアマリの答えに、女性はまた表情を崩す。今度は、微かに和らぎを見せた。

「――カグヤ、と申します」
「まぁ、綺麗な名……お似合いだわ」

 いつか読んだ(いにしえ)のお伽噺(とぎばなし)を思い出す。彼女なら月から来た姫だと言われても納得する。それほど聡明で理知的な美しさがあった。

「……私共からしたら貴女様の方が、異星からいらしたようなものですよ」

 ――それは、違うわ……

 自虐的に哀しく思った。自分は歓迎されていないし、持て囃されている訳でもない。

「あ、申し訳ありません。私は……アマリ、と申します」

 我に返り、慌てて自分も名を告げる。

「アマリ様。了解致しました。――それから」

 律儀に復唱し、深く頷くカグヤは、また少し表情を和らげ、付け足す。

「私は貴女様と同年ですので、気負いされないで下さい」

 てっきり年上だと思っていたアマリは、不意を突かれ茫然とした。そんな彼女を他所に、カグヤはこれまた手際よく、薬膳茶を淹れ始める。
 独特の臭いが漂う湯呑みを差し出され、反射的に口を付ける。今度はしっかりと苦味を感じた。


 同刻。屋敷の主人である荊祟(ケイスイ)、側近と従者数名が、奥座敷の一室で神妙に話し合っていた。勿論、議題はアマリの件だ。
 この百年程、尊巫女(みことみこ)輿()()()が皆無だった彼らにとって、彼女が献上されるという知らせは、それこそ天変地異並みの大事件だったのだ。

「くノ一の報告ですと、随分な心身の疲労、睡眠不足で未だに衰弱しているようです。何も看病までしなくとも……」
「そうですよ。放っておけばよろしいではありませんか……そのうち死にます。厄介払いになり、結構でございましょう?」

 行灯(あんどん)の灯りに照らされた素顔の主人に、家臣達はそんな非情な行いを促す。明らかに渋い表情をしている彼らを横目に、荊祟(ケイスイ)は重く、深いため息を吐いた。

「どんなに忌み嫌われようが、汚れ腐ろうが、我らは神族の者。神々に仕える女……増して尊巫女。見殺しにする訳にはいかないだろう」
(おさ)様…… まさか、情を(いだ)かれたなんて事はあ……」

 従者の言葉は途切れた。切り裂くような黄金(こがね)の眼光がギラッ、と向けられ、ヒッ、と彼の喉奥が引きつる。

「全く……本当に面倒な事になったものだ。相も変わらず、人族共はいらぬ事ばかりする」

 心底うんざりしたように、一族の長は、鋭利な眉を思い切りしかめた。
 厄界……この屋敷の離れに住み込んでから、一週間程が過ぎた。カグヤの看病の甲斐あり、体の具合が良くなってきたアマリは、布団の中でぼんやりとする毎日だった。
 始めの数日は、体の(だる)さや苦しさにひたすら耐えるしかなかったが、回復してきた今は、落ち着かなくなっている。『無理の無い程度なら構いませんので、お好きに過ごして下さい』とカグヤに言われたが、この状況で何をどうしたら良いのかわからない。
 そもそも、この部屋には布団とちゃぶ台、衣装箪笥(だんす)以外、本当に何もなかった。自害させない為か、あらゆる物らしい物が消えている。姿見(すがたみ)や化粧道具すら無い。
 今までなら、今刻は『仕事』か、芸事の稽古の時間だった。しかし、ここには仕事を促す者も、客もいない。そんな体力はまだなかったが、よっぽど具合が悪くない限り、今までは行っていた。
 唄は軟禁されている今、目立つ事は避けたい。読み書きや勉学は、教本も師範もいない為、出来ない……
 窓から見えた池囲いの庭園に出てみようか……と少し思ったが、カグヤは別の任務で数時間不在すると聞いている。勝手に出て良いものかわからない。帰る場所も頼れるアテも無い自分には、逃げ出す事も不可能……
 途方に暮れるアマリだったが、これは厄界の長である荊祟の策略……罠だった。あえて彼女を一人きりにさせ、どう動くか試したのだ。

 そんな裏事情はつゆ知らずの尊巫女は、ただ戸惑い、狼狽(うろた)えるしかできないでいる。だが、何もしないまま一人で過ごしているうち、今までの出来事が少しずつ(よみがえ)ってきた。
 余計な考え、良からぬ感情が身体の奥から湧き始めてしまう。痛みの治まった頭が、再び(わめ)き出した。忌まわしい(ささや)きが、耳元で聞こえる――

『――何故、生きている? お前はもう用無しだろう』
『――お前が生ける場所など、もう何処(どこら)にもない。息する理由があるのか?』
『――今更、生き長らえて何になる? お前を真に案ずる者など、誰もいない』

 振り切ろうと眼を閉じ、落ち着かせようと深呼吸を繰り返す。激しい孤独感、憤り、悲しみ……そんなどうにもならない感情が吹き出してしまいそうになった時、人族の(やしろ)に居た頃に行っていた鎮静法だった。
 だが、沈んでいる心がどんどん深みにはまり、奈落の底へ堕ちていく。止まらない。止められない……

 ――……怖い。怖くて堪らない。気を紛らわさないとおかしくなりそう…… 何か……何でもいいわ。何か……!

 すくっ、と取り敢えず立ち上がる。布団を出て、寝間着のまま手足を動かし、長年の習慣で身に染み着いた動作を始めた。ゆらり……ゆらり……と、両腕を宙に舞わす。稽古で習った舞だ。扇子の代わりに、側にあった汗拭き用の半巾(ハンカチ)咄嗟(とっさ)に掴む。
 足取りのおぼつかない踊りは思うようにいかず、すぐに手順を間違えた。師範の叱咤が飛んでくるのを察し、反射的に動きを止め、思わず身を縮めた。が、何も聞こえない。間違った足を叩く腕も伸びて来ない。何の痛みも感じない。

 ――…………?

 しん、と静まり返っている室内の中、どく、どく、という怯えた心音だけが聞こえる。至極、奇妙な感覚が襲ってきた。
 ……何だろうか。未知の状況への怖れと怯えに加えてやってくる、不思議な安堵感。自分一人しかいないという、不慣れな空気にアマリは狼狽(うろた)える。
 そんな自身の様子を、部屋の()()円い小窓から、朱の眼の鷹がまた見ていた事にも気づかなかった。


「……な、に?」

 その夜。黎玄(れいげん)が荊祟の部屋まで飛んで来た。彼らの意思疎通は言葉ではなく、所謂(いわゆる)精神感応(テレパシー)のようなもので行っている。
 定例の報告――アマリの情報を読み取った荊祟は、間の抜けた声をあげる。その後、そんな自身に戸惑い、驚いた。


 翌朝。突然、『夕刻、長様が御会いに来られるそうですので、この部屋でお待ち下さい』と、カグヤに言われたアマリは動揺した。心の準備は全く出来ていない。どんな顔をして、どのように振る舞えば良いかわからないままだ。
 恐ろしい力を持つ非情な厄神と聞いていたが、こうして何故か生かされているという不可解さ。一方、場合が場合なら、夫になるかもしれなかった相手でもある。何とも奇妙な心持ちで、時が過ぎるのを受け入れている自分が、滑稽に思えた。


「アマリ様。長様がお見えになりました」

 夕刻の黄昏時。(ふすま)越しのカグヤの声掛けに、反射的にびくつく。急いで梅鼠(うめねず)色の羽織を着込み、素顔のまま正座する。神妙な面持ちで、両手を膝に乗せた。

「は、はい」

 返答と同時に、すっ、と襖が開き、慌てて頭を下げる。視界の端に、(かしこ)まりながら膝をつくカグヤの姿が見えた。その陰から、見覚えのある漆黒の履き物が忍びやかな足取りで部屋に入って来る。

「顔は上げてよい」

 心なしか、あの夜より落ち着きある口調で、促す玲瓏(れいろう)な青年の声。その魅惑的な低音に惹かれるようにアマリは顔を上げる。瞳に映った姿に、思わず息を呑んだ。
 素顔を晒している彼の()は、澄んだ琥珀(こはく)色だった。あの夜、稲妻のような眼光を放っていた瞳と同じには見えない。だが、くすんだ藍鼠(あいねず)の長着物に鋭利な眉、笹形の耳、非対称(アシンメトリー)に分けられた濃灰の髪が、同一人物だと判別させた。
 黒地の首巻きで隠されていた肌は小麦色。すっ、と通った鼻筋、きつく結ばれた薄めの唇。腰元には日本刀らしき刀。荒く野性的な気を(まと)うが、顔立ちや眼差しは涼やかという、対称的な魅力を兼ね持っている。
 そんな妖厄神(ようやくじん)――荊祟の出で立ちに、アマリは今の状況を忘れ、見入ってしまった。

「回復したらしいな」
「は、はい…… お陰様でこの通り……」

 いつの間にか少し離れた場所に座り込み、胡座(あぐら)をかきながら淡々と、彼は声を掛けてきた。我に返ったアマリは、少し目を伏せ恐々と、だが、なるべく丁寧に応える。

「だな。この状況で踊りをする位、余裕綽々(しゃくしゃく)のようだ」

 そんな彼女に、荊祟(ケイスイ)は容赦なく皮肉を投げる。黎玄の存在には後に気づいたので、昨日の行いも知られているかもしれないとは思っていた。しかし、そんな風に改めて言われると決まりが悪くなる。悪い事をした訳ではないが、どうにも居たたまれない。

「も、申し訳ありません。いつもなら仕事か稽古の時間だったので…… どう過ごしたら良いかわからなくて……」
「……()()、か」

 しまった、とアマリは自分の迂闊(うかつ)さを呪った。この厄神は、自分に課された企てをどこまで感づいているのだろう。どう説明しようかと、瞬時に脳内を(めぐ)らせる。

「いえ、あの、大した事では……」
「よい。どうせ今回の件に関するのだろう」

 どうでもよいとばかりに、ふん、と軽く鼻を鳴らす。図星だったアマリは何と答えたら良いのか判らず、俯く。元々、上手く誤魔化すという所業は苦手な性分だったが、この神にはどんな小手先も通じない。そんなぴりつく空気が、辺りに漂っていた。

「あの…… (おさ)様」

 妖厄神とも、本名の『ケイスイ』とも、さすがに口にしづらく、アマリは無難な呼び方をした。

「何だ」

 僅かに戸惑いの色を交え、荊祟は無表情のまま問い返す。

()()()…… 助けて頂きありがとうございました」

 改めて、両手を前について頭を下げた。そんな尊巫女に、彼は胡散臭げな猜疑(さいぎ)の眼差しを向ける。

「その後も看病して、こうして生かして下さり…… 正直、驚きました」
「お前の為ではない。奴らの所業を見逃すと、界の秩序と風紀が乱れる。故に処罰したまで」
「お察ししております。ですが、そのおかげで身を守れたのは事実でございますから」

 この長にとってはあくまで義務で、不本意な行いだったのは理解していた。だが、女としての尊厳だけでも傷つけられないで済んだと考えていたアマリは、それだけは礼を言いたかった。

「めでたい頭だな。お前が厄介な存在なのも事実だ」

 ばっさりと辛辣に返し、珍妙な生物を見るような眼差しで、妖厄神はアマリを凝視する。理解不能という意思が、明らかに滲み出ていた。
 この厄神は、一族の長で神様である割に、情感豊かだとアマリは思った。長である特権と余裕もあるのだろうが、実家の主である父……両親の方が、よほど取り繕った能面の顔をしていた気がする。

「承知しております」
「……お前は、民に崇められる『尊巫女』なのだな。どこまでも」

 どこか皮肉めいた口調でぼそり、と彼は呟き、口角を僅かに歪めた。

「お前を襲った(やから)共から聞いた。あの尊巫女は俺を『妖厄神()』と呼んでいた、と」

 あの時、そして今の自分の状況を改めて思い出し、痛みの伴う複雑な思いに、再び囚われる。

「わざわざ此処(ここ)に送り込む位だ。相当、狡猾か酔狂な女を寄越(よこ)したのだろうと思っていたが……違ったようだ」

 一呼吸した後、荊祟はアマリの淡い瑠璃色の()をじっ、と凝視し、言い放った。

「『清廉な尊巫女』として、髪から爪先に至るまで培養された人族の女、だな」

 内心、密かに感じていた自身の在り方を見抜かれ、的を得られてしまった。惨めな思いが胸を締め付け、いたたまれなくなる。
 この者に遠慮は要らぬとふんだのか、煽って自分を試しているのか、彼は痛いところばかり突いてくる。きまりの悪さが一転、少し腹立たしくなったアマリは、ずっと聞きたかった事を吐き出す。

「あ、貴方こそ……変わった神様でいらっしゃいます。贄にして喰う事も、殺す事もなさらない。……私の存在など、お邪魔でしょう?」

 一寸の沈黙が流れた後、ぼそり、と荊祟は言い放った。

「どんなに忌まれようが疎まれようが、神族の長だ。無意味な殺生はしない」

 意外な彼の答えに、アマリは驚き、思わず彼の琥珀の瞳を凝視した。尊巫女として様々な人族と応対してきた彼女は、明らかに見栄を張ったり、取り繕うとする素振りや、()の色は判別出来るようになっていた。
 だが、目の前のそれは、自分に嘘偽りを()く眼差しではなかった。彼は無差別に人族の地や命を脅かす妖厄神……禍神(まががみ)の類ではなかったのか……

「厄界の者に悪影響が出るやも知れぬし、亡き者にしたところで人族共への後始末に困る。無益でしかない」

 彼女の心中を見抜いたように、ふ、と僅かに自虐的な笑みをこぼす。その瞬間、琥珀の瞳に微かな陰りが入ったのが、アマリには見えた。心の中に小さな波紋が起こる。

「なら私は、どうしたら良いのですか……?」
「とりあえず、もう暫くの間、この屋敷に身を置け。お前の処遇については、もっと家臣と話し合う必要がある」

 またアマリは少し意外に思った。この一族の長は、重要事項を独断で決めない。少なくとも、彼は暴君では無いようだという事実に、彼女の中で想像(イメージ)していた()()()の像が薄れ、崩れていく。
 再び唖然とした面持ちで彼を凝視したアマリを、また不審そうに眺めた後、荊祟は改まった厳格な口振りで告げた。

「カグヤ同伴なら、今後は屋敷内をうろついて良い。(ただ)し、妙な真似はするな。悪目立ちして、界の者の反感を買ったら面倒だぞ」

 その命令を最後に、彼は忍びやかな足取りで部屋を出て行った。残されたアマリは、変わらず魂消(たまげ)たままだ。心配してか、そっ、と傍に来てくれたカグヤに気づき、少し躊躇(ためら)った後、恐る恐る問いた。

「あの……カグヤさん」
「何か?」

 いつも同じ表情で、声色すらあまり変わらない彼女の心や真意が判らず、アマリは不安だった。だが、自分の言葉一つ一つを、こうして律儀に返答してくれる対応が、今の混乱した状態では心底ありがたいと思う。

「長様は……いつも、あのような振る舞いをされるのですか?」
「あのような、とは?」
「こう……呆れたり、苦笑したり、少し哀しまれるような素振りを、貴女や家臣の方にもされるのでしょうか」

 輿()()()の夜に出会った時は、もっと非情で義務的な言動、主らしい冴えた威厳を纏っていたが、さっきの彼は少し違う人のように感じた。何というか……人形のように生きていた自分より、よっぽど()()らしい。

「いいえ。私の知る限りですが…… 基本的に冷静沈着で、毅然とされています。動じられる事はほとんどございません」
「そう、ですか……」
「貴女様には、先程の長様がそんな風に見えられたのですか」

 アマリが静かに頷くと、カグヤは少し怪訝な素振りを見せた。彼女は少し離れた(ふすま)越しに待機していたが、くノ一の彼女なら察知出来そうな変化だ。少し考えた後、カグヤは続けた。

「確かに…… らしく無いご様子ではありましたが」

 彼女の言葉で、彼――荊祟(ケイスイ)という妖厄神の事がますます分からなくなり、アマリは混乱した。


 その夜の夕餉(ゆうげ)時。何時ものように、てきぱきとカグヤが支度を進める。自分も手伝う事をアマリは申し出たが、『長様から命じられた、私の務めですので』と丁重に断られた。
 こんなに律儀で責任感の強い女性だから、あの『ケイスイ』も信頼しているのだろう、と今までは思っていたが、先程の彼とのやり取りで、それだけでは無いような気がしていた。
 久方ぶりに誰かと食事をしているという慣れない状況で、相手は心を許している訳ではない異種族の者…… 新たに生まれた違和感を確かめたく、アマリは己を奮い立たせる。膳の皿が全て空になった頃、向かい合うカグヤに、恐る恐る切り出した。

「あの……カグヤさん」
「何か?」
「……出過ぎた問いである事を承知で、お尋ねしたいのですが」

 彼女の改まった様子に、カグヤは飲んでいた茶の湯呑みを置き、身構える。

「はい。何でしょう」
「……あの方は、人族の地に、何を……なさったのでしょう……?」

 予期せぬ問いに驚いたのか、あの厄神と同じ琥珀の眼を見開く。彼女の瞳孔は、明らかに揺らいでいた。

「……それは、あまりお知りにならない方が良いかと。貴女様にとっては気分の良い話ではありません」

 神妙な声色で律儀に返すカグヤの言葉に、ぐっ、とアマリは息を詰める。ある程度の予想は、勿論していた。今までに両親や従者から見聞きしてきた、人族を襲った数々の災厄――疫病、火災、地盤沈下、飢饉、空き巣、殺しなどの治安の悪化。
 どれが、どこまでが彼の仕業なのか知らない。(やしろ)からずっと出られなかったアマリに、外の状況はわからなかった。しかし、願掛けの為に、わざわざ遠くから訪れる悲痛な面持ちの民の姿は、数え切れない程……何度も見てきた。
 だが、何故か知りたかったのだ。あの妖厄神が、どんな事を、どんな力で今までしてきたのか。どんな風に生きてきたのか。無性に気になり、仕方なかった。

「……貴女の事を、とても信頼されているように見えました。家臣の方の事も気にかけていらっしゃるようで……」

 続ける言葉を失い、俯く。あの妖厄神は、少なくとも他者を不幸にして楽しむ邪神ではないように見えたのだ。何か致し方ない、どうにもならない理由があるのではないか、彼自身にとっても不本意な行いではないのか――あの夜、自分を助けたように。

「……以前、私はあの方に身を救われ、居場所を頂いたのです。それで勝手に恩を返しているだけの事」

 意外な事実に、はっ、とカグヤを見た。彼女の眼差しには、確固たる決意と覚悟の光が宿っている。

「アマリ様もあの方に危機を救われたからなのでしょうが…… 決して貴女様の為ではありません」
「……」
「私がこのような事を物申すのも妙ですが…… よく知らぬ他者を簡単に信用し、好意的になられるのは危険でございます。対立的な立場にある者なら(なお)の事。貴女様を油断させる策略、巧みな話術やもしれません……私とて同じです」

 自分の監視役でもある眼前のくノ一を、アマリは思わず凝視した。
 それは理解していた事実だったが、先程の会話の中で感じ取った、彼の内の何かが、自身と共鳴しているような…… そんな自惚れとも誤解しかねない未知の予感があった。
 それが、どうしようもなくアマリを駆り立てていたのだ。それが何という感情なのか、動力なのかもわからないまま……

「貴女様のその心持ちは美徳ではございますが、場合によっては、ご自身を窮地に陥れる要因にもなり兼ねません」
「……ありがとうございます。すみません。こんな事……」

 暫し、気まずい空気が流れたが、改まるように、アマリは願い出る。

「カグヤさん」
「はい」
「あの……早速ですが、明日……少し、ご一緒くださいますか?」


 翌日の昼過ぎ。アマリはカグヤと共に、以前に窓から見た池囲いの庭園を訪れた。暫く外の空気に触れていなかった彼女を案じ、カグヤは了承してくれた。
 離れから少し歩いた先にあり、対岸側は茂みと木々が埋めている。外敵を避ける為か、囚人が逃げ出せないようにする仕様なのか、規模の大きな池だ。だが……

「花が……無いのですね。一つも……」
「あまり華やかに見立てるのは、陰の身である長様の一族の都合上故……でございます」
「そう……ですか……」

 この屋敷や彼の事情をよく知らないアマリには、カグヤの説明が半分も理解できない。

「アマリ様は、花を()でられる御趣味があるのですか?」
「あ、はい。そうです……」

 嘘ではないが、内心慌てた。花能(はなぢから)の事だけは、知られていない状況なので安堵していたのだ。あれだけは、ばれてしまってはまずい……
 話を逸らすように視線を庭に向ける。石造りを基調にした敷地は、静寂に包まれた厳かな空間だ。だが、どこか哀愁が漂う。そんな庭園をぼんやりと眺めた。
 あの冷徹な厄神らしいとは思うが、どこか寂しげで殺風景にさえ見える。余計な世話だが、せめてもう少し緑が増えたら良いのに……と思わずにいられなかった。花や緑という類は、彼には馴染みがないのかもしれない。

「私は少し離れた場所におります。どうぞごゆっくり御観覧下さい」
「あ、ありがとうございます」

 久しぶりの外の景色に夢中になっているアマリに気を利かせてくれたのか、カグヤはそっ、と一人にしてくれた。
 彼女の姿が茂みの陰で見えなくなった頃、ぽつり、と呟く。

「濁りがあまり無い…… 水が綺麗なのね……」

 実家の池に咲いていた(はす)や睡蓮を思い出す。水底の泥までも吸い上げ(かて)にし、それでも美しい花を魅せる。そんな生態が奇妙だと言う者もいたが、そんなたくましい生き様に、アマリは憧れていた。

 そんな中、覚えのある強い視線を感じた。何かを予感しながら首を向けると、少し離れた松の木の陰から、二つの紅珊瑚が見え隠れている。

「また、貴方ね…… 来て?」

 宙を扇ぐように、ふらり、と片腕を差し出す。すると、バサッ、と焦げ茶の翼をはためかせ、その(たか)――黎玄はアマリの側の石積みの置物に留まった。動物が好きなので、少しばかりだが自然と気が明るくなる。少し離れた所にかがんで、澄んだ瞳を見つめた。

「……()()()は……貴方が長様に知らせてくれたのよね? ――レイゲン。綺麗な響き……どんな漢字を書くのかしら」

 黎玄もだが、厄神であり界の長である彼の正式名も、アマリは知らない。微かに苦笑を浮かべ、続ける。

「ずっと私を監視して、あの方に報告していたのでしょう……? 貴方も忠実で、律儀ね」

 主である荊祟(ケイスイ)としか精神感応(テレパシー)を行わない、また出来ないように仕込まれているので、黎玄はずっと直立不動のままだ。澄んだ眼差しを向け、何かを観察し、知ろうとしているのはアマリも(さと)っていた。
 自分が隠している企てや人族の情報なのだろうが、この鷹を見ていると、何とも言えない複雑な思いがわき上がる。あの夜のやり取りの様子だけでも、彼に脅されたり、無理矢理従わされている訳ではないのが判るからだ。

「貴方のご主人様は……本当に、不思議な方ね……」

 少なくとも一人の従者……そして、物言わぬ利口な動物にまで、こんなに慕われて信頼されている。そんな妖厄神への不可思議さや違和感が拭えないまま、彼の判断を待つしかない……
 いつまでこんな日々が続くのだろう……という不透明感、不安定さが、再びアマリを追い詰め始めていた。


 翌日の夕刻前。『本日、長様がいらっしゃいます』と朝にカグヤから聞いていたアマリは、以前とは違った意味で身構え、同じ身仕度、離れの部屋で、荊祟と再び対峙(たいじ)していた。
 自分の処遇について、今度こそ何か言われるかもしれないという不安。そして、彼と話がまた出来る機会への期待めいたものが、何故か淡く入り交じるという、矛盾した思いが交錯する。

「この屋敷に、だいぶ慣れたようだな」
「は、はい」
「庭園はどうだった。見たのだろう?」

 やはり……と複雑な思いがわき、(うつむ)く。予想通りだが、改めて面と向かって直視すると、無表情ながらも澄んだ琥珀の()が、とっくに全て見抜いているのではないか……という錯覚を起こす。

「お前の考える通り、黎玄を(かい)し監視していた」

 そんなアマリの心情を代弁するように、長は続ける。

「お前の処遇についてだが…… 未だ家臣と揉めている。亡き者にしても生かしても、何も変化が起こらないとなれば、人族が仕掛けて来るだろうからな」

 何と答えたら良いか判らず、きつく唇を結ぶ。いずれにしろ、自分に決定権は無い…… 彼の判断を受けるしかないと、梅鼠(うめねず)の羽織の裾を握り締めた。

「――お前の異能は、何だ」

 反射的に、思わず顔を上げた。彼の表情は変わらないままだ。いつかは問われるだろうと予測はしていたが、突然、核心部を突かれ固まり、息が詰まる。

()えて、わざわざ此処(ここ)に送り込む。我らに加担するはずも無い。何かの先攻術の類いでは……と、色々と推測したのだがな……」

 絶対に言えない。言ってはいけない、とアマリは気を引き締める。だが、このまま黙っていたら、さすがに拷問されて吐かされるかもしれない…… 口内が渇き、額に冷や汗が滲んだ。
 そんな彼女を、眼前の厄神は(あご)に掌をあて、じりじり、と炙るように観察していた。
 どくどくどく、と心臓が痛い位に暴れている。全身の血管が縮んだように感じる。この危機をどうやり過ごすべきか判らず、アマリは沈黙していたが、やがて、ずっと聞きたかった疑問……違和感を、口から漏らした。

「貴方様、こそ…… 何故、人族の地を荒らすのですか……?」
「災厄でも起こさねば、人族の者共は次第に図に乗るだろう? 自分達が世で最も高尚で、選ばれた生物だと(おご)り、界の富を好き勝手に使い始める」

 自問を()らされた事など何でもないようにかわし、荊祟は言い放った。

「それを戒めるには、自然の厳しさや目に見えぬ存在の脅威を見せつけるしかなかろう? それでも時が経てば忘却し、再び似たような事を始め出すが」

 学んだ歴々の知識しかなかったが、彼が言いたい事、主張は理解出来なくはなかった。だが、一人の尊巫女として見てきた現実が、アマリにもある。

「……だからと言って、その為に、何も罪の無い方々の命が苦しみ、奪われても良いとは……思えません」
「……そうだな。出来るなら俺も、そんな者達を殺したくはない。だが……」

 腰元の日本刀の(つば)をチン、と鳴らし、(さや)に左手をかけたと思った瞬間、俊敏な手さばきで、荊祟はアマリの首筋に鋭利な切っ先を当てた。鈍く光る危うい殺気、鋼の冷たさが、彼女の柔い素肌にひやり、と主張する。

「もし、お前が今、俺に殺されなければ…… そうだな…… 例えば大火を起こすと言ったら、お前の同族はどう出るかな」
「それ、は……」

 首筋に感じる感触と同じく、痛切な厄神の問いが、アマリの言葉と息を止めた。