厄咲く箱庭〜祟神と贄の花巫女

 激しい罪悪感と自罰的な衝動が、受けた傷よりも深く切りつけ、荊祟の胸の奥を酷く痛ませる。

「……すま、ない……俺、のせい……」

 苦痛を通り越し、感覚が麻痺してきた身体をどうにか動かし、アマリは荊祟の手に触れた。

「……大、じょぶ、です。生気、使って……ません」

 微かに首を振り、アマリは秘めていた()()覚悟を再起させた。さっきの花の具現化には生気を使わず済んだが、荊祟の命を助けるには……
 この方だけでも、助かってほしい。生きてほしい。

「……何、考えてる」
「え」

 そんな彼女の決死の想いが伝わったのか、荊祟の琥珀の眼光が鋭く揺らいだ。先程の咲き誇った花々の効力も意図も、自身の全てで受け取った彼は、()()雪降る夜のアマリの姿を思い起こしていた。

「……自分の命、と代わりに……なんて、許さん…ぞ」
「……け……すい、様」

 決意を見透かされているのにアマリは驚き、少し(おのの)く。尊巫女の禁術の一つと云われる力を使って、彼の命を回復させようと考えていた。
 その様な復活、不滅の意を持つ花は少ないが、確かに存在する。だが、不老不死に近い力を持つ為、アマリ自身の命を捧げるにも等しいのだ。

「……貴方……が、死ぬの……嫌」

 蚊の鳴く様な声がふるえ、アマリの両眼に滲んでいた涙が、血塗れの頬に零れ落ちた。

「……‼ 止め……ろ。お前が、死ぬ」

 焦った荊祟は取られた手を強く握り返す。氷のように冷たい。春はまだ先の、今の深夜の空気よりも。
 油断したらすぐにでも召されてゆきそうな危うさを察した。空前の灯火……又は、朽ちる間際の一輪の花だ。

「生きてくれ。……頼む……から」

 虚無とも異なる光を失った瑠璃の眼を、琥珀の眼で捉え、荊祟は渾身の願いを込める。全身が引き裂かれる程に切実な、心からの()()だった。

「……貴方……生きない、と、だめ。カグヤさん達……います」

 長を失い、一つの界が無くなる。そんな場に生きる彼女達の行く末は危うい。
 災厄を背負う界など無くなって良いと、アマリの一族始める人族は考えるだろう。しかし、禍神とはいえ一つの神界を滅したとして、何かしらの天罰を受けるかもしれない……

()()()を、犠牲にした世など、何だというのだ……」

 長としては無責任で、或るまじき発言だと咎められる考えだ。
 だが、今の荊祟にとっては『アマリが理不尽に死ぬ事で保たれる世』など、無価値な荒野だとまで詰めている。

「……犠牲……じゃ、ないです」
「犠牲で……しかない。それも……厄病神、の為に……」
「私が、望んで……」

 琥珀の眼孔がガッ、と見開き、黄金(こがね)に煌めいた。互いの間に流れる、切迫した空気がふるえる。

「――『愛している』からだ! わからんか!」

 絶え絶えだった言葉はかき消え、遥か昔から人族が尊ぶ常套句が飛び出た。これ以外に、今のこの想いを表現する言語も、方法も見つからなかった。
 いつからか荊祟の胸の奥で芽吹き、ずっと(くすぶ)っていた熱い塊。戸惑いと使命感の鍵で秘められ、行場を閉ざされていた激情が一気に燃え昂り、自然に吐き出ていた。

「……ど、して……」

 信じられない、と言いたげにアマリは茫然とする。彼の口から出た言葉の意味を咀嚼する力すら、今は無くしていた。
 ただ、琥珀の眼差しの温度が上がり、それでいて熱く艶めいた揺らぎを持っている事だけは、冥色の暗闇の中でもわかった。

 そんな彼女に、荊祟は必死に説き伏せる。

「言った……はずだ。どんな地獄……でも守り、生かすのは……義務だと」

 ……が、握られた手にアマリは更に(おもい)を込めた。

「――『意思を、持て』、と」

 あの時交わした、何気ない会話。嬉しかった言葉。今でもアマリの()で、深く息づいている。

「……これが、()の、願い……」

 一寸の間の沈黙の後。はあ、と深いため息を吐く荊祟の姿があった。
 アマリによく見せていた、呆れた様な、それでいて微笑ましげな笑顔を、冷や汗の滲む顔に浮かべる。

「――馬鹿だな」
「はい。――阿呆(あほう)、です」

 いつかの彼の口振りを真似て自虐的に、それでいて幸せそうに眼を細め、アマリは恍惚と笑った。雨上がりに仄かに浮かぶ虹彩(こうさい)の如くそれは、皮肉にも彼女が見せた最上の笑顔だった。
 他の『正しい』はずの選択肢が、全て浅はかで、陳腐なものに感じる程に……

「……なら、愚か者同士、共に罰されに……()こうか」

 同じく眼を細め、哀しくも温かく微笑(わら)う荊祟の眼差し。遥か昔、自身に向けられた、二種の温かく澄んだ光とどこか似ている……とアマリは思った。

「……はい」

 力無くも嬉しそうに、アマリは頷く。その動きで、瑠璃の眼に溜まった涙が、再び青白い頬をつたい、その地に零れ落ちた。

 誰にも赦されない想いと、情に溺れた末の愚かな決断だと自嘲し、二人は覚悟した。召された後、地獄でどんな罰を受けるのか。あちらでは引き離されてしまうかもしれない……

 最期の力を振り絞り、荊祟は彼女を抱き寄せ、ゆっくりと眼を閉じた。一滴の涙が、彼の琥珀の眼から同じ場に染み落ち、交じ入る様に溶ける――


 少し離れた場で終始傍観しているしかなかった、厄界の重鎮と忍の護衛隊、アマリの一族始め人族の群集は、()()が変わった事を察した。
 虫の息で細々とした声音の二人が、何を会話し決断したのかは把握出来ない。
 ただ、祟神は『鎮まり』、二人の間に『愛しているからだ』という言葉が、悲痛な声音で響いた事。元の妖厄神には戻ったが、荊祟は重傷な事。アマリに至っては命を落としかけている事だけは理解した。

 二人の関係性をよく知るカグヤは、声を出さないまま泣いていた。また大切な者を助けられないという現状に打ちのめされている。
 勘の鋭い忍の隊長、これまでの経緯をよく知る家臣達に至っては、主が自らを鎮めた尊巫女と共に死を選んだ事を察した。重傷だが荊祟だけでも助けられる可能性はある。だが、今の長はそれを拒むだろう……と皆、悟っていた。
 このままでは先代と同じく、心奪われた人族の女に滅されるようなものだ。後継する世継ぎも無いまま――
 だが、今は不思議と、そんな絶望的で禍々しい顛末を忘れさせる程に圧倒されていた。
 少し離れた場で倒れている二人の()()は、圧倒される程に清廉で尊明な……神々しい存在(もの)にしか映らなかった。少なくとも、アマリの一族以外には。


 同じく静観していた厄神明王の二人が、互いを庇うように抱き合いながら、重く横たわる異種の男女の姿を目にし、ようやく口を開いた。

「……兄上。間もなく彼らは息絶えます。いかが致しましょう。尊巫女はともかく……禍神(まがかみ)と言えど、一つの神の血が途絶えますぞ」

 (いか)めしい顔つきを崩さないまま、不動明王が重々しく兄に問いかける。

「――愛し合う(かんなぎ)と厄神、か」
「兄上!?」
()を知り得た尊き(つがい)を見殺しにするなど…… 愛染明王の名が(すた)ろう」

 神妙な面持ちの中、愛染明王はどこか含み笑いを混じえた。()()という煩悩を肯定し、『救い』の一種と掲げる仏の神は、敢然と言い放つ。

「まさか…… 厄払いの力を、禍神の為に使うのですか。いくらなんでも異常で……珍妙過ぎますぞ」
「その禍神……厄神が()などという情を抱いた事自体が、稀なのだ。仕方あるまい。まあ、其なりの代償は頂戴するがね」

 元来、自分と異なる考えを持つ兄の決断に、不動明王は言葉を呑んだ。彼は、あらゆる煩悩こそが、人族を不幸にする原因だという信念を持っている。そこには性愛は勿論、情愛も関係ない。
 そして、不幸になった者達を叱咤し、煩悩を捨てさせるのが『救い』だと考え、世の不条理に(いか)るのが役目だ。

 だが、この厄神と尊巫女は、その理不尽で不条理なものに翻弄され、犠牲となり、互いの存在が唯一の『救い』となった――


「……代償、は如何(いか)ほどに?」
「巫女殿に少々、ご協力願おう。妖厄神殿が起こした災厄は、我らが祓い、人族は救えば良いのだ。……今まで通り」

 阿吽(あうん)の呼吸で、弟の了承を察した愛染明王は、間もなく夜明けを迎える厄界の黒々とした空を見渡し、どこか(まじな)いめいた声色で、放った。

「どんなに世が狂おうとも『愛』が消え失せた地からは、豊かな命は生まれぬ。これは我らにとっても赦されぬ事ではない」

 二人の明王は携えていた刀を抜き、カシャン、という音と共に重ね、天に差し出した。紅と蒼の二種の光が放たれ、交じり合い、アマリと荊祟の身体を包む。

 黒々とした雲に覆われた天の裂け目から、薄明が差し込み、辺りを包み始めた。長かった一夜が終わり、時も明らんでいく。
 微かな陽光で朝ぼらけの紅掛空色(べにかけそらいろ)に透けたアマリの髪は、次第に濡羽玉(ぬばたま)の黒髪に変化していった。

 二種の涙が交じり落ちた地から、いつの間にか苗木らしき物が芽吹いている事には、誰も気づいていない。
 淡い虹彩の灯火を掲げた松明のように、その生命(いのち)は確かに燃えていた。