「……な、何だ、何が起きている⁉」

 (おのの)き、ざわめき始めた人族の群集を、斬りつけるが如く睨んだ彼の()は琥珀とも黄金(こがね)とも違う……黄土(おうど)だった。
 暫し続いていた高笑いが、ふと、止まった。瞳孔から黄土の霧が漏れ、うねりながら(うごめ)いている。次第に辺りを漂い、人族が集まる場にまで覆い始めた。
 軽く飛翔し、かまいたちのような音と共に、対峙していた場から人族の群までの距離を、あっという間に詰める。「ヒィッ」という悲鳴が、群集から次々に漏れる。

 厄界の者達は戸惑いながらも、()()()()を察していた。忍の護衛隊長が「まずい」と軽く舌打ちし、瞬速に移動して止めに入る。が、荊祟を護るように囲み出した烈風に、いとも簡単に吹き飛ばされた。
 カグヤ始め、数名の忍の部下が瞬発的に傍に駆ける。苦しげに起き上がった隊長は、覆面越しでも判る、険しい顔つきで重々しく告げた。

「――変貌が、始まっておられます」

 その場にいた厄界の者もざわめき、(おのの)いた。我が(あるじ)のもう一つの禁忌の姿。標的は人族のみと聞いていたが、何が起こるのか、どんな影響が出るのかは知らない。人族と共鳴があるのなら、神界にも多少の被害があるかもしれない。
 そんな未曾有の事態が起こった事に、最早、種族の壁など無関係に、その場は騒然となっていた。

 少し離れたアマリの耳にもその衝撃は届き、意識が遠退く。もしかしたら、と感じた嫌な予感が当たった事が受け入れ難い。
 以前、カグヤから聞いた荊祟のもう一つの姿。彼本人も複雑な思いで負っていた事態が、今、具現化し出したのだ。


 地から少し浮遊した状態のまま、一連の流れを傍観していた厄神明王の二人は、さすがに難色を滲ませた口調で呟く。

「兄上。久方ぶりに御目にかかりましたな」
「うむ……稀では無いが、難儀な。このまま祟られるか? 荊祟殿」


 ビキッ……メキッ……と、筋肉の割れる音が響き、元の倍に膨れ上がるそれは、荊祟が着ていた漆黒の羽織や藍鼠の着物をはち切らせ、破り捨てた。濃灰の髪は瞬く間に伸び、(つた)(たこ)の触手のようにうねり始めている。
 最早、誰の声も、言葉も、耳に入っていない。修羅と化していた。

「――け……い、すい様‼」

 呆気なく姿形をどんどん変えていく彼を目にし、考えるよりも先に、アマリはいとしい名を呼んでいた。
 小麦色の肌は泥のような質感の灰色に変わってゆき、全身に血の色をした呪言の文様が、禍々しい入れ墨の(ごと)く浮き出始める。顔立ちはおどろおどろしい般若の様に変わり、見え隠れする程度だった牙は拡大し、猛獣の鋭利な凶器になった。

 止めなければいけない、何をしてでも。目を覆いたくなる光景に心は既に縮れていたが、アマリは彼の元へ駆け出そうとした。瞬時に飛んできたカグヤが、彼女の腕を掴み、止める。

「なりません! 既に……自我を無くしておられます」

 悲痛な面持ちで、カグヤは告げた。信じたくない言葉に、アマリの心が千切れる。
 彼女らの傍にやって来た隊長までが、重苦しい声音で続ける。眉根に(しわ)を寄せる三白眼の眼差しは、『絶望的』と語っていた。

「妖厄神という神でも人族でも無い、ただ人族を呪い祟る為だけに生きる、『祟神(たたりがみ)』になられる」
「う……そ、そんな、のって……」

 悲鳴のような乾いた嘆きが、アマリの口からこぼれた。

「少なくとも歴々では、祟神となった妖厄神が元に戻った例は無いとある」
「……‼」

 少しずつ、いつの間にか芽生えた想いだった。が、確かに惹かれ、好いた荊祟という者は、もう何処にもいないという事だろうか。
 ……信じたくない。信じられなかった。つい先程、変わらない声で皆に話していて、自分の名を呼んでくれた、あの方が――

「……あぁ……長様……」
「後継も無い今、この界はもう終わりじゃ……」

 荊祟の側近が虚しく嘆く声を耳にし、アマリは自分達一族がきっかけで起きた、この最悪の顛末に罪悪を抱いた。吸い付かれるように、すっかり彼女が知る面影を失くした荊祟――祟神を見入る。

 いつの間にか、元の数倍の巨大な泥塗れの人形のようになっていた。腕も伸び、その先の手も鬼の如く肉付き、骨張る。
 何倍も巨大化した右手の先端に伸びた、鎌のような五本の爪。その切っ先に自らの眼から漏れる黄土の(もや)を絡め取っていく。最中、再びニヤア、とした不気味な笑みを浮かべ、剣技の型なのだろうか何度か腕を振り、獣が応戦するが如く構えをとった。
 人族への攻撃態勢に入っているようだ。

 そんな哀しい姿を、アマリは泣き出したい衝動と痛みに耐えながら見ているしかなかった。が、変わり果てた太い指が目に入った瞬間、恐怖も悲哀も消し飛んだ。
 その指先にぎらつく、あの鋭利な五本の爪。その色は変わっていなかった。最後に二人きりで過ごした逢瀬の時、彼女の肌に触れ、少し痛みも感じた、気遣いある、優しい象牙(ぞうげ)色の――

 ――……嫌。あの手が、()()のは。

 粉々になりそうだった心が奮い立ち、アマリはある覚悟をした。


「な……何だ、あれは‼」
「ほ、ほら、やはり化け物ではないですか‼」

 アマリの両親始め、人族の群から(おそ)れ忌む、侮蔑の言葉が飛んできた。

「――構えろ‼」

 (やしろ)の護衛部隊の隊長らしき男の命令を合図に、次々と弓に矢を装着し、標的に向けて構える。
 一族の破魔(はま)術でもある邪気祓い――祓詞(はらえのことば)が刻まれた札が、矢尻(やじり)付近に貼られているのを目にしたアマリは青ざめた。ただの矢では妖厄神……神族は殺せないどころか、打撃すら与えられないかもしれないと踏んだ彼らは、念を入れたのだろう。

 ぎりりっ、と弦が(しな)る怨念めいた()が連なり響き、アマリを追い詰めた。いくら荊祟でも、多少の損傷を負うかもしれない――

「――‼ や、め、てぇー‼」

 固まっていた喉が開き、ようやく大声をあげた。どこにそんな力があったのだろうか。動けないでいた身体が、腕を掴んでいたカグヤを振り払い、瞬発的に荊祟に向かって走り出した。

「放て‼」

 一斉に無数の矢が宙を飛び、妖厄神――祟神に目掛け、集中攻撃する。

 ドスッドスドスドスッ……

 標的に鈍く突き刺さる音と共に、鮮血の飛沫が吹き出し、辺り一面に赤い滴が舞い散った。

 矢を幾本か受け、重く痺れるような激痛が全身に広がるのを感じた荊祟は、苦々しげに顔を(しか)めた。
 ……が、同時に濡羽色の長い髪がふわり、と黄土の視界に広がるのを見た。
 その髪の主――人族の女は、眼前で瑠璃の瞳孔を見開き、苦悶(くもん)の表情を浮かべ、顔を歪める。刹那、ふわ、と自分に向かって微かに微笑んだ直後、崩れ落ちた。

「――‼ アマ、リ、さまぁー‼」

 絶叫する女――カグヤの声、ざわめく厄界、人族の群集を他所に、荊祟――自我を無くした祟神は、足元に転がっている数本の矢が刺さった血塗れの女を、般若の形相でじいっ、と凝視した。
 自身も札付きの矢を何本も受け、弁慶(べんけい)の如く立ち姿のままだが、その苦痛よりも女の方が何故か気になる。
 夕暮れの僅かな陽光に透け、所々の毛髪が紅紫(こうし)に煌めいている。身に着けている麹色(こうじいろ)の着物が、彼女の身体から流れる血でじわり、と紅に染まっていく。
 独特の生臭さが漂い、刺繍されていた薄紅の花は、たちまち濃い紅に変わり――

「……グッ、グアアッッ……アアアアアアーッ‼」

 突如、荊祟は再び雄叫びをあげ、人族の群の方に身体ごと振り被り、黄土の眼光を放つ。今度は高笑いでは無く、怒号混じりの慟哭だった。

「なっ……術が効かぬ‼ 皆の者、もう一度――」

 更なる祟神への攻撃命令が発せられようとしている。
 フーッ、フーッ、と憤怒ごと吐き出し呼吸した後、荊祟は俊敏な動きで蟷螂(カマキリ)の如く構えをとった。人族の群集に向かって、地を深く踏み固める。今度こそ、人族の群に襲撃する態勢に入っていた。

 ――刹那、彼の足元の赤黒い塊に化した女から、微かな音がした。

「……け、すい……ま」

 それは、確かに、祟神――荊祟の耳に届いた。動きが止まり、眼孔が揺れる。社の弓部隊の者達も驚愕し、同じく視線を向けていた。

「――お……け、怪我……は……」

 思考も失ったまま、惹き寄せられるように声の主を改めて凝視した。視線が合い、瑠璃の光に絡め取られる。

 途切れ途切れの吐息混じりのアマリも、憤怒の色にぎらつく黄土の眼を見つめた。脳裏に()()を呼び起こす、恐ろしい般若の顔。だが、その眼差しは哀しく……優しかった。

『――……アリマス』

 記憶もとうに無くしたはずの荊祟の耳元で、澄んだ()――言の葉が咲いた。

『――(いばら)ニモ、花能(はなぢから)ガ、アリマス』

 続けて奏でられる音の波動に震え、黄土の(もや)(まみ)れた眼から、大粒の水滴が零れた。

『……アナタハ、本当ニ、私ノ不幸ノ中ノ、救イ……デス』

 気づけば、自分に向かって伸ばされた小さな手を、何倍もの手……数本の指で包み取っていた。