――……何処か遠くに置き去りにして来た、もう一人の小さな『アマリ』が泣いている。
 愛してほしい。抱きしめてほしい。何者でもない、ただの私を認め、受け入れてほしいと叫んでいる。
 ほんの一時(ひととき)でもいい。自分は確かに愛されているのだと感じたかった。
 その()が、どんなものかもわからない、実在するのかさえも知らないのに、そんな事を、今も切望している……


 互いの温もりある存在を味わっているうちに、いつの間にか二人は崩れるように倒れ、荊祟の身体はアマリに覆い被さり、彼女の背が畳に密着する形になっていた。それでも止まらない焦燥にまかせ、頬や額にも唇をあてる。
 首筋にも口付けようと、アマリの着物の襟に指を滑り込ませようとして、鋭利な爪先が白い鎖骨付近に触れた。

「い、た……」

 微かな悲鳴にはっ、と醒め、荊祟は我に返った。

「すまない。……怪我は?」
「大丈夫、です。少し……驚きましたが」

 彼女と違う造りの身体を、荊祟は初めて恨めしく感じたが、アマリは頬を薄紅に染めながら、鎖骨付近に手をやった。その眼は煌めき、潤んで揺れていた。瑠璃の万華鏡のように。

「やり過ぎた。……不快だったか?」

 ばつの悪そうな眼差しの奥に、雄の本能なのか、妖艶にぎらつく黄金(こがね)が垣間見えている。気づいた瞬間、アマリの頬は更に熱くなった。

「貴方様と、こうしているのは…… 嫌じゃ、ありません。……心地よい、です」
「……そうか」

 か細くも恍惚としたアマリの返答に安堵し、高揚した荊祟は、もう一度触れたくなった。が、自然に動いた指先を制した。ごく、と熱い塊を呑み込み、代わりに彼女全てを見つめる。
 いつか贈った麹色(こうじいろ)の着物に包まれている華奢な身体が、(だいだい)の灯りに照らされている。妙に(なまめ)かしく映り、(いざな)い、魅せられるような衝撃が襲ってきた。

 ――……この眼で見たい。この布の下に隠されている、この娘の素肌…… さぞかし美しいだろう……

「荊祟様……?」

 不安気なアマリの眼差しに、はっ、と我に返る。『何を考えている』と生まれたばかりの煩悩(ぼんのう)を追い出した。

「何でもない。ぼんやりしていた。俺とて、このような行為は慣れていない」
「そう、なんですね……」

 それが本当なのは、先程の一連の触れ合いでわかった。激した情と気遣いが代わる代わる垣間見えるという相反した戯れは、どこか覚束(おぼつか)なさを感じた。だが、自分を相手にしてくれた事が嬉しかった。
 もっと先に、互いに一糸纏わぬ姿で触れ合う行為がある事は、漠然と知っている。時には情の有無は別に、伴侶となった者と契る行為である事も…… 生涯に一度だけでも、好いた相手とそんな経験をしたい。密かに望んでいた事の一つなのかもしれない。
 我ながらはしたない……と自省したが、そうでなくとも、ただの『アマリ』という、一人の女として生きたかった。傍にいられさえいればいいと思っていたはずなのに、いつからこんなに欲張りになってしまったのだろう……


「冷えてきたな。――着ろ」

 春は近いが、まだまだ夜は寒い。アマリの背の傷跡を避けながら抱え起こした後、荊祟は自分の漆黒の羽織を被せた。

「……ありがとうございます」

 一族の長という高い身分でありながら、荊祟は着物に(こう)を焚き込んでいない。いつ誰に狙われるか分からない、陰の一族だからだろう……と、アマリは察した。香り一つで危険に晒される事もある。
 それでも、仄かに鼻腔を(くすぐ)()の香りが、喜びと安堵を呼び起こした。

「……不思議な気分だ。こんな緊迫した時分であるのに、妙に落ち着く」
「はい。私もです」

 彼も同じ気持ちなのが、嬉しかった。宵に落ちるまでの、泡沫(うたかた)の夢だというのに。

「――いつかお前に、地獄とは()の世だと言ったが」

 唐突に、以前アマリに放った持論を、荊祟は再び口にした。

「その地獄にお前がいたという現実が、未だ()せぬ」
「荊、祟様……?」
「よく……生きていてくれた」

 アマリの視界が揺らぎ、眩しくてふるえた。この神様は、どうして怖いくらいに光をくれるのだろう。

「……人形か、(しかばね)のように、生き長らえていただけです」

 そんな狭く閉ざされた籠の身であった中でも見聞きした、人族の界の災厄を思い出す。そして、元凶の一つと忌まわれていた、この厄界で生きる荊祟やカグヤの苦難。

「私だけでなく、様々な生命が集まり生きている場では、程度の差はあれど苦行は避けられないと存じます。情ある生き物なら尚更……」
「……その中を、お前はこれからどうする? 灼熱にやられるか、耐えるか、(したた)かに(しの)ぐか、自らが番人と化すか」
「わか、りません…… ただ、どんな過酷な場所にも、花は咲きます。焼かれたらその灰が糧になり、長い時を経て、また次の命が芽吹く」

 彼が心配してくれているのが伝わる。自分でも今後の行く末が見えず、不明瞭で混沌とした闇しかない。稀な能持つ尊巫女と(うた)われ、皆に持て(はや)されてきたが、それは()()()自分の力では無い気がしていた。

「泥水さえも吸い上げて花咲かせる種、僅かな水分を糧に生き延びる種、自ら毒を体内に生み出し身を守る種もあります。……ずっと、そんな花になりたいと願っていました」

 意思も生命力も無い。そんな弱々しい自分が嫌いだった。逞しく強く生きる力が欲しかった。けれど……

「ですが、耐性の無い花も同じくらい、いとしいと思っていたのです。……矛盾してますよね」
「……食うか食われるか、と言われるのが常な世だからな」

 生易(なまやさ)しい理想論を語るアマリを案じてか、少し皮肉めいた口振りで荊祟は返す。

「確かに……()でるだけの花など生きる糧にならないと、仰る方もおられます」
「命には、必ず終わりがある。皆、死に向かって生きているようなものだろう。……だが、生き抜いて花実咲かせる命と、死んで初めて()()()命は違う」

 ふと、荊祟はアマリを称する花を思い出し、足元の畳に触れた。

「耐え忍び、懸命に生き…… 尚、邪に腐らず、蘇る命は尊い」
「はい。どんな花も滋養ある蜜を他種に分け与え、やがて実が成り、枯れた後は種を残します」

 子供の頃から信じてきた、アマリの確固たる理念だった。人族(ヒト)を始め、あらゆる生物の体を養い、活かす為の(すべ)に成る。

「――同じだ。お前と」

 いつになく真摯な荊祟の眼差しにアマリは射貫(いぬ)かれ、胸が甘く高鳴った。だが、心は晴れない。

「私、は……強くも尊くもありません。何の花にもなれなかった」

 空っぽな奥底には負が巣食い、然りと根付いている。それらの情が芽生える度に摘み取り、踏み棄てた残骸。それは、毒にも糧にもなれないまま積もり、無駄に重くなるばかりで…… 言うなれば、足枷だ。

「――亜麻璃(アマリ)

 反射的に彼を見た。……が、まるで違う者の名のように聞こえた。

「お前の名の由来……亜麻」
「はい」
「花咲く時間は短い。が……残された茎や繊維は、麻という生命を支える(もと)となる」
「何故、知っておられるのですか」

 人族の界でも同じだった。そして、どの(やしろ)でも、注連縄(しめなわ)や神事に使用する神具にも使われる。神に携わる身として生まれた自分の、もう一つの名の由来でもある。

「これでも一つの世界の長だ。民の生活を念頭にしている。衣食住全てに麻は欠かせない。今、俺達を支えている、この畳もそうだ」

 屋敷の畳はい草ではなく、一族のこだわりで、あえて麻を使っている。

「ある異国では、月を織る花と云われると耳にした事がある」
「月……?」

 心細さに堪らなくなった夜は、いつも離れの部屋の障子窓から月を見ていた事を、アマリは思い出す。毎夜、仄かな明かりで心を慰め、姿形を変えて時の流れを教えてくれた。

「月光の(ごと)く輝く繊維は、(しな)やかな頑丈さを持つ。そのような形で強さを発揮する種があっても良い。……いや、無くては困る」
「荊祟様……」
「どんな形であろうと……生き延びてくれた。だから、出逢えた。必要とするならば、どんな環境……地獄でも生きられるよう手助けするのが、利用し搾取する側の義務だと、俺は考えている」

 既に凝視していたアマリを、更に覗き込む。これからの彼女に、必死に言い聞かせるようだった。利用や搾取などと神らしい尊大な表現だが、確固たる誠実さ、優しさ溢れる激励だと、アマリは感じた。
 それくらい、彼の言葉、眼差しには光明(こうみょう)があった。これが神力(じんりき)か、(まじな)いであっても良いと思うくらいに。

「だから、助けた。これからも、生きていて欲しい」
「ありが、とう……ございます……」

 いっそ本物の亜麻になりたいと、密かに願う。紬糸(つむぎいと)となり、月を編みたい。そうしたら、彼の姿を遠くからでも見ていられる。寂しいけれど、きっと心強い……

 ――嗚呼(ああ)…… けど、このお慕いする気持ち……『すき』という情は、消えてしまうのだわ……

 この飢えて干上がった胸の奥に、温かな水が降り注がれる感覚。一時(ひととき)の事とはいえ、沁みて満たされてゆく心地良さも知らず、ただ宙に存在するだけの物体になるのだ。
 情故に弱くなり、愚かにもなる一方で、強くも賢者にも、善人にもなれる。どこで、何が分かれ道になるのだろう。
 人族(ヒト)というのは、本当に難儀な生き物だと、異種の二人は同じ事を考え、耽っていた。

 別れの時が、刻々と近づいている。悲壮感に潰されそうな心に苦しみ喘ぎながらも、今までには無かった力が生まれ、(みなぎ)り始めた自分を、アマリは感じていた。