今までの()()を保とうと必死なアマリに対し、荊祟は覚えある威厳が薄れ、アマリが知る『一族の長』の姿を欠いていた。実は側近が寄越した影武者ではないか、と疑いたくなる程に。

「すまない。せめて、お前が安寧に暮らせるよう、なるべく条件の良い話を持ってくるよう努める。――それと」

 余程動揺しているのか、彼らしかぬ言い(よど)みを隠さないまま、一寸躊躇(ためら)いを見せ、然りと告げた。

「今夜から、俺にも警護が付く。()()夜の護衛隊長だ」
「……‼」

 アマリは勿論、これにはカグヤも愕然となった。無表情のまま事態の衝撃に耐えたが、ふらつきを感じる。

「大方、警護という名の監視だろう。俺を信用してはいるが、()()()()()があっては……遅いからだと」

 どこか自嘲気味に吐き捨てる荊祟は、アマリから視線を逸らしている。話の意味が解るようで、今ひとつ把握出来ないアマリは、彼が自分から目線を外す度、心が縮む思いだ。

「近頃、人族の界で不穏な動きがある故、用心も兼ねての事だと」
「私の、せいですね。本当に……申し訳ありません。今更でございますが」

 ようやく、実感の無い渇いた口を開いて詫びをしたが、遠退きそうな意識が、目眩を起こしそうだった。

「俺こそ……手助けするから厄界(ここ)で生きる道を探せば良い等と豪語しておいて…… 力に成れず、すまぬ」

 目を伏せ、項垂(うなだ)れる荊祟に、霞んだ意識をアマリは奮い起こす。

「そんな。荊祟様は、本当に良くして下さいました。私こそ……板挟みという立場に追いやってしまったのです。今、生きている事さえあり得なかった身でしたのに……感謝しております」

 声を荒げ、(わめ)き立てるように口にする言葉は、建前ではなく、本心だ。その間に知り得た喜びの数々が、ほんの少し、自身の秘めた欲を引き出してしまっただけ。

有難(ありがた)いが…… まぁ、人族……特にお前には、あちらの界の方が過ごしやすく、好ましいやもしれぬ。気候も土壌も比較的良い方だ。様々な花が薫り咲き、実りも高い。民の目も多少は緩まるから、身軽にもなろう」
「そんな。そんな風に言わないで下さい。こちらに来てから頂けた……沢山の喜びがあります!」

 どこか自嘲気味に、優しく励ます界の長に、アマリはもっと具体的に反論したかった。だが、突き詰め理由を聞かれたら困る故、もどかしさに焦れる。
 一番の喜び……幸せは、貴方と過ごした時間にあった、なんて言えない。

「……そうか」

 哀しげな眼差しは変わらないが、厄神はどこか嬉しそうに微笑む。見知らぬ(いわ)く付きの男に輿入れする身だった尊巫女が、他界に行くのだけは嫌だと叫び出しそうなのを、必死に堪えているとは知らない。
 どんな条件の話……次にゆく相手の顔が判ろうとも、たとえ妾ではない本妻の待遇だろうとも、今のアマリには響かないのだ。


 一方、初めて見る長の微笑に驚いたカグヤは、使命感に近い覚悟をした。

「夕餉を、少し遅らせるよう、申して参ります」
「……頼む」

 荊祟の返事を機に立ち上がり、一礼して部屋を後にする。襖の音が清閑に響いた瞬間、何かの合図のような、静粛な空気が流れる。
 曇りがちだった外は、宵に落ちかけていた。障子窓からは、微かな月明かりすら無い。行灯の橙を一層、鮮明にしている。

「なら、せめてもの……やりたい事や欲しい物は無いか。お前が望む、何か。出来るに限るが……最後に叶えよう。思い出作り、というやつだ」

 突然の提案に、アマリは重い脳を動かし、考え込む。未だにその部分を意識するのは慣れない。鈍くも思考が回るが、何も浮かばなかった。
 今、望む事は、たった一つしかない……

「……では、荊祟様と……また出掛けたいです。監視付きでも構いません」
「……わかった。場所は限られるが、考えよう。他には?」
「他……」

 優しい声色で了承された事で、哀しみ反面、更に高揚した想いは、アマリを少し正直にした。

「――わるいこと、がしたいです」
「……悪い、事?」

 アマリと出逢ってから覚えた、間の抜けた声で、荊祟は問い返す。

「はい。皆様には危害が無い位の…… 例えば、見苦しく見える位、お酒を(たしな)んだり、好む物だけを沢山食べたり」
「それは、悪事とは言わんだろ……」

 呆れつつ、微笑ましく思った。この娘は、どこまで……

「そう、ですね…… ただ、何かに少し逆らってみたいのです。後で咎められたり、罰を受けても良いので」

 極端過ぎる一方、ささやかで、いとけなく、切実な願い。今なら何でも赦してしまいそうな衝動に駆られる。

「要するに……少々、羽目を外したいのか?」
「……そう、ですね。何と言いますか……普通の……女の人がする事が、してみたい、のです」
「……女?」

 お前は女だろう、と心の中で無粋な疑問が飛び出た。

「はい。よくわからないのですが、甘味やお酒を嗜みながらお友達とお喋りしたり、陽の下を気ままにお散歩したり、お洒落をしてお出掛けしたり、好いた方と文を交わしたり……」

 うっかり本心まで明かしてしまいそうになり、急いで「何でも良いのです」と、俯きながら付け加える。いつの間にか、荊祟としたい事ばかり挙げていた。

 そんなアマリを目にした荊祟の奥底で、永らく固く()じていた(ほころ)びが緩んだ。何十年もの間、己を滅し続け、自らの手を汚してきた厄神の、苛烈で甘い欲求が、ささやかな(ずる)さに変わり、濃く滲み出す。

「……なら、やってみるか? ――俺と」
「荊祟様と……ですか?」

 意外な返事に嬉しくなったが不審に思い、アマリは戸惑う。

「ああ。他の奴らに、害は起こらない」
「そんな事、出来るのですか? 貴方様にご迷惑はかかりませんか?」
「問題無い。ただ、少しお前の徳が下がるだろうが……」

 生気と引き換えにする花能(はなぢから)しか使えない今の自分は、尊巫女として生きる(すべ)が無い。他界の長の伴侶となるのは無理だと理解していたアマリは、哀しみを含ませつつ、然りと答えた。

「……構いません。もう、尊巫女としては生きられませんから」

 刹那、荊祟は、『亜麻璃(アマリ)』を切なげに、かつ真摯に凝視した。すり寄るように近づき、少しずつ距離を詰める。衣擦れの音が、反響した。

「荊祟、様……?」

 傍に座り込んだ荊祟は、戸惑う瑠璃の眼を見つめた。そのままゆらり、と腕を伸ばし、彼女の白く柔い頬に触れる。鋭い爪で傷つけないよう気をつけながら、指先で紅紫(こうし)に透ける髪をすいた。少し癖のある、ふわふわした感触が指先で擽り、心地好いと思った。
 義務的に恭しく結われた位で、撫でられた事が無い自分の髪。優しくも意味ありげに慕う男に(いじ)られ、狼狽えたアマリはびくっ、と硬直する。

「あ、の」
「……不快なら、止める」
「いえ……! どういう事かわからないだけ、です……」

 彼の意図が解らず、アマリは頬を薄紅に染め、俯くしかなかった。

「……婚姻していない者と、こういう事をするというのは、どうだ?」
「こうい、う……?」
「男女の、(むつ)……戯れだ」

 何かを聞き違えたのかと、耳を疑う。これこそが、(あやかし)の術なのだろうか。彼本来の姿が囁く、過ちへの誘惑。

「たわ……あ、の」
「嫌ならしない。……どうする」

 これは所謂(いわゆる)、男女の駆け引きというものなのだろうか。明らかに困惑しているアマリに、少しばつが悪くなった荊祟は手を離し、視線を逸らした。

「すまない。忘れてくれ。初めは好いた相手とするべきだ。人族の……特に、女には特別なのだろう? 一生に一度、と聞いた事がある」

 不意に心が縮まり、全身がふるえた。()の一生に一度、という特別な事が、今、叶うのだろうか。儚くも、一時の間だけ。

「それなら……大丈夫です。貴方様に害にならないのなら」

 ゆらり、と、黒い影がアマリを覆った。まだ微かに痛む背中に荊祟の腕が巻かれ、華奢な身体が引き寄せられる。再び、柔い頬に掌を添えられた。

「――害など、無い」

 掠れた熱ある声が、重く響く。微かに震える桃色の唇が琥珀の眼に映った瞬間、高低差のある二つの鼻先が触れ合った。

「あり得ない」

 淡い瑠璃の眼に真白な牙が映った刹那、それはアマリの視界から消えた。変わりに温かく柔らかなものが口元を包み込む。刹那、驚きで眼孔が開いたが、次第にゆるり、と濡羽の睫毛(まつげ)が伏せ、(まぶた)が下りた。

 ――理由なんて、何でも良かったのだ。このアマリという(いのち)に触れられるのなら。柔らかな温もりと、確かな息遣いを感じられるのなら、この地獄もそんなに悪くない。後で、酷く苦しむ事になろうとしても……
 我ながら、馬鹿でくだらない感傷だと自嘲しつつ、厄神は亜麻の花を丁重に(ついば)む。決して口に出来ない、してはいけない一言があった。それを伝え切れないもどかしさが高まり、更に、少し強引に抱え込む。

 湿度を含む熱い吐息が口元に纏い、じわじわ、とアマリを酔わせる。付いては離れる彼の激した感触にもどかしさが交じる中、鋭利な牙が口内に当たらないよう気遣ってくれている様が、堪らなく嬉しい。
 この行為が『悪い事』なのだとしたら、神様の罰を受けてもいいとすら思えた。固まっていたはずの心が、どくどく、と熱く脈打っている。『幸福』という名の衝撃が全身に駆け巡り、ふるえている。
 これが、色恋の真似事や仮初めの行為でも構わない。ようやっと、()()の、生身の人族(ヒト)として、形だけでも活きられた気がする。

 ふと、『恋なんてろくなものじゃない。女を弱くして可怪(おか)しくする毒でしかない』そんな事を、母や侍女が言っていた事を思い出す。
 今ではわかる気がした。心を虜にし、病みつきにする……麻薬が、甘い糖に包まれ、口元から全身に注がれている気がする。だが、それでも良いと思う。今がおかしな状態だというのなら、それまでの自分の方が、余程、狂っていた。

 いつの時からか芽生え、拙くも育っていた想いが、涙に濡れた実りを果たしている。