別の()()に憑かれたままのアマリの喉奥からは、今まで考えもしなかった……いや、口にするのが恐ろしかったはずの問いが、飛び出した。

「荊祟様。……私の邪念は、見えませんか?」
「……⁉」

 一瞬、何を言われたのか解らなかった荊祟は、らしくなく思考が停止し、息を詰めた。百年以上存在した彼が、一度も耳にした事のなかった問いかけだ。

「貴方様は、人族の負の邪念を受けると、祟神(たたりがみ)に成られるのでしょう?」
「――聞いたのか」

 無意識だったが、彼女にだけは知られたくなく、あえて口にしなかった事だと、荊祟は打ちのめされながら気づく。黄金(こがね)の炎は消え、漆黒の陰が落ちた。

「私も、人族……人間です。聖人君子でも、神の乙女でもありません……!」

 悲痛な叫びだった。時には羨まれる肩書きではあるが、アマリにとっては呪縛でしかない。

「醜い心がお分かりなら、ご遠慮なく変貌して下さい。尊巫女は普通の人間だと証明して下さい。恐ろしくなどありません。私は、自分自身の方が、余程、不気味なのです……」

 昔、誰かに言われた言葉が甦る。人間らしい情がなく、不気味で怖いと。尊巫女という理由だけではない、自身の在り方の問題だとも感じていた。

「私は……空っぽです。空虚しか無く、何も……ありません。真の自我どころか、まともな心すら無いのです」

 予測外な願いに、荊祟は瞳孔を開き唖然とする。アマリの切実な願いは、彼にとっては残酷な所業だ。醜く変貌した姿を晒すのだから。
 だが、初めて感じるむず痒い瞬きが弾け、胸中に風穴を開けた。涙に濡れた淡い瑠璃の眼に、自身の姿が映っている。自分は人族から見れば忌まわしき化け物同然だが、彼女の世界()では……

「――アマリ」

 神妙で、重い。が、どこか優しい声音で初めて名を呼ばれ、烈に興奮していたアマリの心に、瑞風(みずかぜ)が吹いた。

「それなら、俺も……マガイモノだ」
「……え」
「真っ当な神でも無ければ、完全な人族でも無い。その血をひく者は、(いわ)く付きの出だ」

 淡々と、改めて出自を語る荊祟に、アマリに憑いた()()はさあっ、と引いていき、我に返る。入れ替わるように、酷い事を強請(ねだ)ってしまったと、激しい後悔が襲った。

「好ましい(モノ)さえ、不可抗力で壊滅させるかも知れぬ力を持つ。そんな存在(バケモノ)だ」

 奥の銀箔の屏風に描かれた桜を哀しげに見遣り、ふ、と嘲笑う彼の姿に、アマリの視界が揺れた。もしかしたら、『好き』という情を自分は(いだ)けない、抱く資格が無いと、彼は考えているのではないか……

「……荊、祟様」
「だが、これが俺だ。己が望んだ在り方でも無いのにな」

 アマリの言葉に合わせるように、戸惑う彼女を見つめながら、ゆっくりと続ける。

「お前から伝わるのは、静かな悲しみ、憤り、絶望、諦め、嫌悪…… それも(わらべ)が無垢に抱く程度のものだ。変貌する(ちから)に足るには、何分の一にもならんな」
「……そう……です、か……」

 哀しく苦笑しながらも、どこか微笑ましげな口ぶりで答える彼に、返す言葉が見つからなかった。困惑し座り込んだまま、再び俯いてしまったアマリに、荊祟は逆に問いた。

「……その教えとやらを、実際に……特にお前に対し、行う者はいたか?」

 見据えたように言い当てられ、アマリの脳内に稲妻が落ちる。

(いびつ)自尊心(プライド)を持つ者は、口先はどうあれ、本心は変わりたくないのだ。今までの己を否定する事になるからな。慢心して(おご)り、他者を非難している方が楽に生きられる」

 辛辣な物言いに反射的に顔を上げ、一瞬、両親や一族の者を庇いたくなった。が、また別の()()がアマリを止めた。
 そんな自分をどうしたら良いか判らず、確かめるように彼の琥珀の眼を見た。

「お前一人が、理念理想を具現化してあれば良かったのだ。人族は弱い。時に耳障りの良い、都合の良い言葉のみを乞い、慰めにする。縋るに足る存在なら尚更なのだろう。悪い事では無いが……過ぎると怠慢だ」

 胸が潰され、苦しくなったが、少し居た堪れなくもなった。荊祟の言葉一つで安心したり、傷ついたりする自分が、今、此処(ここ)()る。

「我が界の根も葉もない悪評が広がったのは、母の一族と癒着していた奴らのせいだけでは無い。吹聴した内容が、元々我らを疎んでいた人族にとって都合が良かったからだ。鵜呑みにして拡張し、事実無根と疑う者はいなかった」

 どこか遠い眼差しをしている荊祟は、見えぬ何かに吐き出すように続ける。

「不思議なものだ。正の力は尊いが儚く、瞬く間に散る。が、負の力は簡単に広まり、しぶとく根付く」

 荊祟が語る人族の像は、異種族が語るものとは思えない位、同調できるものばかりだ。彼が見てきたものは、実は同じだったのではないかと、アマリは感じた。

「元来、清廉と真逆の気質、むしろ疎む者が、よりによって神職者として生じた。望んだ在り方では無い……奴らも俺と同じか」

 最早、彼女に語る訳ではなく、独り言のように、荊祟は呟く。

「傷つき、虐げられたという大義名分で、全てを憎み、怨んで見当違いな対象にまで攻撃する者もいるが」

 いつかの雪の夜に見た、自身を犠牲にする道しか選べなかったアマリの姿を思い出す。

「悲しみ嘆きはしても、恨み続けるのは苦しいのだろう。お前は」
「……荊祟……様」
「皮肉だが……そんな素質だから会得出来たのだろう。実直で繊細、慈悲ある気質を活かし、努めて得た(ちから)には誇りを持てば良いと……俺は思う」

 不覚だが、そんなアマリだから惹かれた自分がいる。あの雪の夜、自らの命を断つ為に喚んだ、白い花にさえ……

「教養にしろ武道にしろ……いくら教え込んでも、端から学ぶ気の無い者、素質の無い者には付け焼き刃程度にしかならん。そんな部下を大勢見てきた」

 言い切った後、少しきまり悪く付け足す。

「まぁ……その動機は身勝手極まりない故、お前自身は不本意な所業だと思うにも仕方ないだろうが……」

 語られ続ける荊祟の言葉に、別の()()が打ちふるえているように、アマリは感じた。自分に言われている実感があるようで、無い。

「この界では尊巫女の花能など必要無い。皮肉だが……どんな影響が出るか危険だからな。まぁ、万人にとって何が尊く美しいと称するのか……俺にはよく解らんが」
「――元々、花は強く美しい生き物だと、それだけは、思います。地に然りと根を張り、逞しく生きる瑞々しい様には……敵いません」

 花と関わりながら生き、苦しみもしたアマリが唯一、主張できる持論。

「そうだな。真に生きる命にかしかない、尊いものはある。――だが」

 そっ、と荊祟はアマリを抱き寄せた。衝動的でも焦燥的でも無い。自然のまま動いていた。
 両の腕と鋭利な爪先で護り、身体で温め、いとおしむ。それが当たり前かのように。

「この『アマリ』という(いのち)が生んだ力にしかない、特別な何かがあるのだろう」
「……荊……祟、様……」
「踏まれ蹴られても腐らず、歪だろうと懸命に生き続けた花が、(とうと)くない訳がなかろう?」

 静かで温かな衝撃に、固まった身体がふるえ、両の眼が再び熱くなった。耳元で何かの(まじな)いの言葉が聞こえる。遥か遠すぎて、心に入って来ない。

「まあ…… 魂まで削らなく生まれた花の方が、俺は好ましいが」

 ――すき。この方が……すき

 全てが(すす)がれ、それだけが、残った。厳しく、激しく、美しい。そして、なんて残酷な神様なのだろう。
 どんなに慕っても、傍にはいられないのに、心の穴を真綿(まわた)で埋めてくれる。

「……蓮華草なら、お目にしています。魂鎮(たましず)めの舞で喚んだ……」
「ああ…… 確かに、あれは綺麗だった。何と言うか……今まで見た中で、一番……和んだ」

 驚きでアマリの眼孔が静かに見開いた。彼は蓮華草の花能を知らないはずだ。
 この想いは知られていない。知られてはいけない。けど、精一杯の感謝の気持ちは、伝わっていたのだろうか。

「私も、貴方様の眼差しを受けると……心が和らぎます」

 彼の眼に呪いの力があったとしても、なかったとしても……

「……そうか。なら、良かった」

 穏やかな低音に落ち着き、甘やかな安堵感に包まれたアマリの意識は、次第に柔らかな世界に入っていった。暮明の視界に更に幕が下り、全身の力が抜けていく。

 寄り添うように抱えていた彼女が、急に重く伸し掛かる様に、荊祟は動揺した。

「……アマリ?」

 返事の代わりに聞こえてきた、ささやかな呼吸音に、更に慌てる。

「おい。ここで寝るな。カグヤが戻るまでは起きろ」

 軽く揺さぶるが、眠りに落ちた身体はぴくり、とも動かない。眉尻を下げ、荊祟は静かに溜息を吐いた。


 慎重に床に寝かせ、羽織っていた漆黒の羽織を、月明かりと行灯で仄かに浮かぶ襦袢姿の身体に被せる。
 麻の畳に散り広がる、ゆるやかな長い黒髪。白い掌から伸びた細い指先には、桜貝が五枚飾られている。先程まで開いていた、憂いが混じる淡い瑠璃の眼差しは、常に真っ直ぐで……

 ――『うつくしい』……な

 微熱を帯びたため息を、密かに洩らす。だからこそ、すぐに消えてしまう事を、荊祟は嫌と言うほど知っている。

「俺は厄病神で……()でもあるのだぞ」

 苦笑し、困ったように眉をひそめる。

「無防備過ぎる」


 胡座(あぐら)をかき、暫しの間、頬杖をついたままアマリの寝顔を眺めていた中、背後の襖越しの気配に気づいた。

「入って来て良い」

 黎玄と共に、忍びやかに部屋に足を踏み入れたのは、左腕に包帯を巻いたカグヤだった。