魅入っているうち、彼の眼に胸元を向けている状態に気づき、慌ててアマリは前に向き直る。

「それなら……良かった、です。……すみません」

 内心動揺していたが、荊祟も我に返り、態勢を立て直した。

「……薬を塗る。少し滲みるが堪えろ」

 背中にひやり、とした感触とじわじわ、とした痛みが混じって、アマリの思考を少し冷ました。自分の存在で、慕う人を困らせている状況。同時に、ひりつく患部に薬が滲みていく様が、次第に和らげていく安堵感。
 この方は……薬草のようだわ、とアマリは思った。苦味や痛みを伴うが、いつの間にか自身の傷を治癒してくれる。心地良くて離れ(がた)いけれど、よりによって自分のような者が独り占めしては、周りにも彼自身にも迷惑になる……

 ――いつまでもこうしていてはいけないのに…… 甘えてしまっていいの……?

 だからといって、自分に選択肢も決定権も無い。『傍にいたい』という本音が叶うか否かは、荊祟の言動次第だ。
 だが、彼から離れるのは怖い。いつから、こんなに狡く、我儘になってしまったのだろう……


「終わったぞ。もう……良い」

 気恥ずかしさで居た堪れなくなり、襦袢を急いで着直しながら、何気なく視線を動かす。部屋の片隅の屏風(びょうぶ)が目に入った。銀箔が貼られた地に、壮大な山々とソメイヨシノと思われる桜の木が幾つも描かれている。
 界の主の部屋に飾るには、やや控えめ過ぎるが、荘厳さの中に安寧を感じる見事な仕様だった。この屋敷付近で初めて花の姿を見たアマリは、思わず問いた。

「――桜……お好きなのですか?」
「ん? ああ……この界には咲かぬが……あれは好ましい。……人族の里で……見た事がある」

 後半は少し言い淀みながらも、荊祟は柔らかな口ぶりで答えた。アマリに花の趣向はあった事、そして花能(はなぢから)を思い出す。彼女も好みそうだと、ふと感じた。

「お前は、どうだ?」
「……! そうですね。淡い薄紅が儚くも優麗で、うつくしく、て……好き……です、が」

 一瞬、間があいた後、アマリは珍しく早口で語り、やがて段々とか細く、拙い口調に変わった。後ろ姿からでも動揺しているのが判る。

「……何かあるのか」
「……少し、苦手……で」
「どういう事だ」

 思わずアマリの顔を覗き込むと、さあっ、と青白くなった。血色が失われていく、かつて無い彼女の変化に、荊祟は狼狽え、動揺した。

「無理に話さずとも良い」
「いえ。大丈、夫……」

 言葉が途切れ、息を呑み込む。身体が震えた。だが、アマリの奥底から何かが這い出そうとしている。明らかに挙動がおかしい自分を、荊祟は心配そうに見つめてくる。あの琥珀の眼差しで。
 彼の声は、言葉は、眼差しは、アマリの心をぐずぐずに溶かし、無理矢理廃棄していた感情や意思の『残骸』までが、姿を現してしまう気がした。そんなモノ、彼にだけは晒したくない。

「……っ」

 つうっ――と、淡い瑠璃の眼から熱い(しずく)が垂れ落ちた。そんな自身に驚き、慌てたアマリは手の甲で拭う。だが、止まらない。ぐしゃぐしゃになった心の蓋の欠片が、ぽろぽろ、と両の眼から零れる。

「……ふっ……う……」
「――苦しいのか。楽になるなら……聞くが」

 荊祟の赦しの言葉が、アマリの護りを弱くする。いつの間にか、すぐ傍で座り込んでいた二人は向き合い、互いの息遣いや温もりを感じられる位置にいた。
 アマリの白い頬に濡れ残った滴を、荊祟は長い指の節で拭う。

 ――言ってもいいのかもしれない。他でもない、この方になら……

「昔、の話ですが」 
「ああ、構わん」

 彼の落ち着いた返しが、溶け跡に残った残骸を拾い上げる背を押した。

「異能で……召喚した事があるのです。桜の、花」

 アマリにとって無かった事にしてしまいたい、忘れたいのに忘れられない、忘れてはならない思い出。

(とお)になった年……尊巫女に成る試験で、初めて花能(はなぢから)を披露しました。――己の親に『施す』という課題でした」

 荊祟の顔色は変わり、真顔になった。何かを聞き間違えたかと疑いたくなる位、衝撃的な未知の世界。存在するのが当たり前のように、彼女の口から、今、語られている。

「一番(ちか)しい者の心中すら理解出来ぬなら、治癒の花巫女として務まらないから、という理由でした」

 呼吸する事すら忘れ、荊祟の瞳孔はいつの間にか開いていた。

「私の父母は、両家の利害関係で婚姻しました。その為だけではなかったようですが……不仲で、いつも険悪でした。陰で互いを罵り、不満を口にし、父は母含め、私達姉妹にも無関心になりました」

 口にする度、胸元を絞める苦しさをやり過ごしながら、少しずつ、アマリは拾い上げた残骸と向き合い、涙声で淡々と続ける。

「何も知らず、解らず幼かった私は、心を美しくしたら関係が良くなるのではと、考えたのです。尊巫女の在り方として、両親がいつも私に説いていたから…… 浅はかでした」

 項垂(うなだ)れ、自身の掌をきつく握る。一際、重苦しい口調に変わった。

「――酷く……叱られました。『我らの心が醜いとでも言うのか。親をそのように見るなど恩知らずの所業だ。恥を知れ』と……」

 桜の花能……精神(こころ)の美。純潔。非常に徳の高い力を持つ難術だった故、召喚にも時間がかかった。そして、幼いアマリの心身への負担も多大だった。それでも……

「両親に仲睦まじくなって欲しかったのです。そして……認められたかった。これだけの難術を使えるのなら、きっと褒めて貰えると……愚かな願いでした」

 それ以来、喚んだ事は一度も無い。何を(もっ)て、心が美しいと言えるのか知りもしないで、とアマリは己を責めた。『心を操る』という禁忌に値する起来があるからと、依頼者に『施す』事も禁じられた。

「花能を使う資格など、本来、私には無いのです。どんな心持ちで……在り方なのか……殆ど知らないのに」

 桜だけではない。他の花も同じだ。効力は知っていても、実際の意味を体感した経験は、ほんの僅かだった。

「……その、召喚した桜は、どうしたのだ」

 ようやく、荊祟は実感の無い、重い口を開き、問い返した。

「淡く拙い姿……完全体で無かった為、私の体内に戻しました。花能としては使用出来ないので…… 後日、改めて試験は行なわれ、両親其々(それぞれ)が望みそうな別の花を召喚し、辛くですが……合格しました」

 鋭利な眉をひそめ、哀しげな眼差しに変わった荊祟は、ごく、と密かに詰めていた息を下した。

「資格はあるだろう」
「え……?」
「いくら完全体で無かったとはいえ、挑んだが末、徳の高い力を()んだのだ。花巫女としての素質はある」

 彼女が文字通り、精魂を費やして果たした偉業が、(おご)った私情により無きものにされてしまった。それはあってはならない……赦し難い事だと、荊祟は憤っていた。

「……私は……私の在り方、全てが……嫌いなのです。本来は、賞賛して頂けるような存在では……ありません」
「何故、そこまで卑下する」

 感極まり声を荒げた荊祟を、アマリは見上げた。微かに黄金(こがね)の炎を宿した琥珀の眼差しが、哀しく労るように自分を包んでいる。
 だが、自身でも驚く程、冷めた抑揚の無い声色で、言い放っていた。

「皆様が褒めてくださる、私の美徳と言われるものは…… いつか貴方様も仰られた、他者によって培養された、作りもの――『(まが)いもの』なのです」
「……擬い、もの」

 以前、自身が彼女に放った台詞が、改めて荊祟に問いかけてくる。

「……人族としての正しい生き方や美徳の教えを、沢山説かれてきました。そして、尊巫女としてそれらを努め行う事を……命じられました」

 関を切ったように過去、心情を吐露(とろ)している今の自分は、自分では無い。他の誰かが語っている。そんな錯覚を、ふとアマリは感じた。

「……教えは素晴らしいものばかりでした。慈悲ある心を持つ事、聡明である事、常に他者を思い遣る事、気高くある事…… 尊巫女でなくとも、こんな人族でありたいと願える、夢や希望あふれるものばかりでした」

 幾多の能持つ花を生み出す為、其々(それぞれ)の力の効力、知恵も浴びるように学んできた。
 境遇を哀れんでか、普段は交流の無かった姉や祖父が、こっそり優しくしてくれた幾つかの温かな記憶。その僅かな経験で得た『想い』で、人族としての『アマリ』が、かろうじて成り立っていると自覚する。

「ですが、真の意味では、その半分も……理解していなかったのです」

 在り方だけではない。人族としても尊巫女としても、自分は決して()ではない事実の哀しさと虚無感。アマリの奥底で、最も重く滞留している()()だった。