――……諦めたのは、いや、忘れてしまったのは、いつだったろうか。心の底では、何よりも乞い、求めてやまなかった。
自分だけに向けられた、温かく優しい想い。慈しみあふれる和らかなぬくもり。傷つき荒んだ心も癒えてゆく力……
だが、今、自分の全身で触れ合っている目の前の異種者が、内に秘めたそんな渇望を呼び起こし、その欠片を差し出してくれたような気がした。
……けれど、何故か受け取ってはいけない。そんな怖れもあった。自分が触れたら、たちまち消えてしまう……畏れ多い宝。もしくは、触れてしまえば、二度と元の自分には戻れない、妖の術のような――
春はまだ遠く先の冥闇の中、互いの身体にしがみつくように、異種の生物二人は抱き合ったままだ。そんな二人を見守るかのように、蓮華草の灯は、ふわり……ふわり……と蛍の如く儚く舞い、吸い寄せられるように凪いだ水面に静かに落ちてゆく。
そんな薄紫の仄かな灯火は、死者への遺憾を込めた灯籠のようだったが、手向けられた餞のようにも……映る。
経験した事の無い位の力強い抱擁に、アマリは放心状態になっていた。先程まで自分が何をしていたのかも、何者であったのかも、脳裏から消えている。
暗闇というものは、アマリには忌まわしい記憶の中にしかなかった。独りきりで眠る夜更け。輿入れの夜に入った凍てつく籠の中。
こんなにも仄かに温かく、心を落ち着かせる反面、高揚する暗さがあったのか…… 視界に映る漆黒の世界にただ戸惑い、慣れない感覚に目眩がした。
――これは、何……?
一方、荊祟は、自分がしている事を認識出来ていなかった。ただ、離したくない。離してはいけないという、彼全てを焦がすように、占めていく激情だけが在った。
――こんな感情は、知らない……
身体を密着させる時間だけが、刻々と過ぎてゆくと共に、怖いような安堵するような、矛盾した震えが互いの芯に走った。
――どうしたら……いいの……?
――どうしたら……良いのだ
辺り一面を仄かに照らしていた薄紫の灯が、一つ、また一つと消えてゆき、次第に濃い蒼黒の空間に戻っていく。光を失った蓮華草の花は、朧に溶けゆき、やがて消えていく。
そんな状況を察知した荊祟は、ようやっと我に返り、はっ、と眼を開いた。抱き締めていた腕を解き、彼女の身体を自分から引き離す。
突然消えた温もりに驚いたアマリは、彼を見上げた。無表情な見慣れた顔にある琥珀の眼に、初めて目にする和く艶な熱と、静かな哀しみが交じえている。泣き出しそうだった先程までの激情を、不意に呑み込む。
「悪かった」
「え……」
「こんな事……するべきでない。先程の言葉も……忘れてくれ」
何故、そんなふうに悲しげに謝るのだろう。嫌じゃなかった。怖くもなかった。初めて感じる類の『うれしい』があったのに。
消え入りそうな声で、アマリは口を開き、自身の心の声を絞り出す。
「わ、私は……‼」
さっきとは違う類いの泣きたい思いが、心の中を廻り回る。どう伝えるべきなのか、伝えて良いのか……わからない。伝える事すら、怖かった。
「――『似たような思い』って、何ですか……?」
ぴく、と動揺した彼の手の甲に、アマリはそっ、と触れた。人族と変わらないように見えた彼の皮膚は、少しかさついていて、硬みを感じた。骨張った長い指先には、鋭利な爪が伸びている。
だが、温もりはやはり自分と同じだった。むしろ今は、彼の方が熱く感じる。血の色も自分と、きっと同じ……
きまり悪さを振り切るように、荊祟は白く柔らかな指を払った。
「――『忘れろ』と言ったろう。とりあえず……戻るぞ。すっかり帳が落ちた」
傷ついた心を密かに隠すアマリ。彼にだけは、疎ましく思われて嫌われたくない……
「はい……」
闇が濃くなる中、ゆらり、と差し出された鋭い爪の大きな手。当たり前のように確固して、アマリの目の前に在る。
拒否された直後の、いつもの優しさに戸惑いながら見上げた彼の顔には、また違う陰を落とした琥珀の眼が、宵闇の中で切なげに揺れていた。
その妖艶な光に惑いつつ掌を差し出すと、彼女の手はしっかりと握られる。たちまち胸の奥が熱くなり、再び全身が震える。
――こんな事、いけないのに…… 私、どうしたの……
尊巫女は、どんな時も……例え依頼人に激しく非難されたとしても、民の前で情を乱してはいけないと、幼い頃から厳しく躾られた。
それなのに今の自分は、どんなに抑えても、我慢しても、荊祟という厄神の眼差しを受けただけで全身が沸騰し、精神がおかしくなってしまう。
ずっと自分が自分でなくなっていくのが怖かったが、今の変化は明るみも感じる。その事が嬉しくも……どこか哀しかった。
一言も言葉を交わさない気まずい状態で、荊祟に手を引かれるがまま屋敷に帰って来たアマリは、放心状態で離れの畳部屋に戻った。
「おかえりなさいませ。長様の御反応はいかがでしたか」
部屋で待っていたカグヤは、ゆるゆる、と襖を開けた彼女の姿を見た瞬間、真っ先に尋ねた。手助けしたものの、やはり色々と心配だったのだ。
「……は、反、応……⁉ えっ、と……特に何も、なかった、なくて……」
先程の出来事をどう捉えたらいいのか、彼女に話していいか判らないでいたアマリは動揺し、頓珍漢な答えを返した。
「……舞の、でごさいますが」
神楽舞の感想を聞いていなかった事に、アマリはようやく気づいた。が、一連の出来事を思い出すだけで狼狽え、硬直してしまう今は、とても頭が回らない。
明らかに挙動不審、様子のおかしい彼女に、カグヤは勘づく。思い当たる事は、一つしかない。
「何か、ありましたか。……長様と」
くノ一の真剣な面持ちと、どこか艶にほのめかした物言い。そして、荊祟と同じく心許した琥珀の眼に心配そうに見つめられ、アマリはたどたどしくも、話し始めた――
アマリの話は、カグヤが大方予想していた展開だった。最近の二人の様子を間近で見ていた彼女には、『遂にきたか』という印象の出来事…… そして、花能の変化以上に驚愕したのが、別の事だった。
「――笑われた、のですか」
無表情の彼女には珍しく瞳孔が開き、ぽかん、と唇を無意識に開けていた。
「……はい」
そんなにおかしな事だろうか、とアマリは不思議そうに返す。
「アマリ様……何かお辛い事をまた思い出されたのですか?」
「いいえ……?」
続けて問われる内容に、ますます混乱する。
「どんな風に、笑われたのですか」
「……えっ、と……私を誂われて…… こう、吹き出された後、軽く喉を鳴らしておられました」
あの時の荊祟の仕草を思い出しながら、口元に手の甲をあて、少し嬉しそうに再現する。表情を怜悧に戻したカグヤは、神妙な面持ちで発した。
「――アマリ様」
改まった、凛とした重厚な声色に、はっ、と異界の者でもある彼女をアマリは見遣る。言わなければいけない、重大な秘密を明かす予兆が漂う。
「『厄神が笑う』事の意味を、ご存知でしょうか」
「――え」
「厄神が楽しげに笑うのは、人族の負の念を目の当たりにした時のみ、です」
知らずにいた、彼の秘密。いや、真の在り方を再び感じたアマリの脳裏に、自分がこの界に来た理由が、不穏に霞める。
「傲り故の怨念や憎悪に狂った人族の念を受けた時、それが強力であればある程、長……妖厄神様の力は、更に脅威的になります」
言い淀みながらも然りと、最後の宣告をくノ一は放った。
「高笑いと共に全身に痣が現れ、より凶暴化した……祟り神に変貌されるのです」
「……‼」
信じ難い真実が、忌々しくアマリを再び襲った。円窓の外は冥闇に染まっている。既に夜が更けたばかりの刻。出来るなら、このまま明けないでほしいと、切に願った。
あの温かな漆黒の世界に、いつまでも包まれていたかったから。



