「このお店は和食の居酒屋さんですか?」
董子が尋ねると、カウンターテーブルの向こうで店主が「いえ」と小さく首を横に振った。
「私の好みで、お酒の種類は豊富に取り揃えていますが、お食事は和食だけに限りません」
「そうなんですね」
店の雰囲気からして、和風の創作料理が出てくるのかもしれない。そう思いつつ、董子はおもむろに手を伸ばしてメニューを開く。
そうして「え……?」と、驚嘆の声を溢した。
それもそのはず。黒い革表紙のメニューは、どこまでページを捲っても白紙ばかりなのだ。
メニューに何も書かれていないなんて、あり得ない。
「あの、これ、間違えていませんか?」
真っ白なページを見せながら、董子は遠慮がちに店主に視線を向けた。
「いいえ。そちらが当店のメニューです」
「でも……」
董子が困って何か言おうとすると、店主がそれを制するように切れ長の目をすっと細めた。
「当店に決まったメニューはございません。お客様がお食べになりたいものを作らせていただきます。ただし――」
店主の男が目力の強い眼差しで、董子の顔をじっと見つめてくる。
暖色の照明に照らされる男の瞳は、初めは黒かと思っていたが、よく見ると綺麗な菫色だ。男の眼差しに誘われるように見つめ返していると、彼の形の良い唇がゆっくりと動く。
「お客様の思い出の味に限りますが」
「思い出の味……?」
店主の言葉が、頭の中でうまく像を結ばない。
(この男は、何を言っているのだろう)
きょとんと首を傾げた董子に、店主はふっと笑ってみせた。