言葉と感情を音楽に乗せるから、それはきっと歌になる。
重なった声は意味を持ち、誰かの耳に届いた。それでもすべての音に正解が用意されてるなら、間違いなくこの歌声は不正解とされるはずだった。
「下手くそ」
「……へ?」
立ち入り禁止の札が名ばかりでかけられた屋上に現れた声は、明らかに美奈へ向けられたもの。
「聞こえなかったのか、下手く」
「あー、もう、聞こえてます!」
遮るように叫びながら声の方へ目を向けると、いつからかフェンスの向こうに見慣れない生徒が座っていた。落ちそうだな、と浮かんだ言葉は飲み込んでおく。
美奈よりも少し歳上、上級生であろう彼はつまらなさそうな目をしながらじっと美奈を見ると、そのままフェンスをよじ登りこちらへと近づいてくる。まるで値踏みされている気分だと、そう思った。
「ねぇ、何組」
「い、一年八組、山岡美奈」
「ふぅん」
自分から聞いて興味がなさそうだと、ついそんな事を思った。それこそ、確認をしただけで最初から知っていたかのように。それよりも彼が気になるのは、別の事らしく。
「で、そんな一年で高校入りたての美奈ちゃんは、どうして立ち入り禁止の屋上にいるわけだ?」
「それは、そっちだって同じです」
「俺はいいんだよ」
例外なんかないのに、と考えた言葉は喉元で押し戻した。まだ出会って数分だが、それでも彼とウマが合わないのは目に見えてわかる。
「で、なんで」
「それ、は……歌の、練習に」
「へぇ?」
なにかを考えるように目を細めた彼は、じっと美奈の顔を覗き込む。歌の練習、だけでは彼の求める答えにならないらしい。それは美奈もわかった話で、どうやら彼はいじわるらしい。
「なんで、こんなとこで下手くそな歌を歌ってたわけ?」
「下手っ……そ、それは」
下手である自覚は、もちろんあった。それでもあからさまに指摘をされるとあまりいい気分でもなく、同時に否定もできず返す言葉に悩む。
自分だって、できる事ならば歌いたくなかった。しかし美奈はここで一人練習してでも、歌わなければいけない理由がある。
「……合唱、コンクールのテスト」
「あぁ、もうそんな時期」
そんな時期、というが合唱コンクールは全校行事だ。
「音楽の成績がだめで、クラスの子からも笑われてる自覚があったから……少しでも、マシにしたくて」
「……ふぅん」
また、名前を聞いてきたように他人事で言われてしまう。
「それで、二ヶ月前からご熱心に立ち入り禁止の屋上で練習を?」
「そ、そうです、悪いですか」
「悪くはないけど、本当に……特徴的な歌声というか」
「さっき下手って言ったのに、いまさらオブラートに包まないでください」
もう、美奈自身も理解はしている。
自分が音痴である事も、下手である事も。
それと同時にこの状況をどうにかしたいとも思っていたはずなのに、一人歌い続けるのは特段上手くなる訳でもない。むしろ悪化している気がするそれに顔をしかめる毎日で、どうやれば少しでも上手くなるのかがわからない。 今だって、そんな事を考えながら目の前の彼を睨んでしまうほど。
そんな美奈の顔を見て、彼はどう思ったのか。一瞬考えるような素振りを見せたかと思うと、そのままねぇ、と言葉を続けてくる。
「歌、上手くなりたくない?」
突拍子もないそれに、美奈は目を丸くする。
あれだけ美奈の事を言っておいた目の前の彼は、自分ならそれができると言わんばかりに笑っていた。
「あぁけど俺は、直接指導をするわけじゃない。ただ聴いててあげるだけ」
「聴くだけで、上手く?」
「観客は多い方がいい、誰かに聴かれているという緊張感はなにかのヒントになるからね」
まるで、そのなにかというのを知っているようだった。けど彼はそれ以上教えてくれる様子もなく、ただ笑っているだけだ。なんだか少しだけ、腹も立つ。
けど、美奈にはそれしか残されていないから。
「……それでも、いいです」
もう、縋るしかないと思った。
そもそも同じクラスの友人達には笑われているのだから、相談する気にもならない。だから誰もいない、この場所で歌っていたのだ。
同じクラス以外なら、誰でもいいと思ってしまったのかもしれない。
「お願いします、私の歌を聴いていてください……えっと、名前は」
「壮馬、同い歳だから敬語じゃなくていいよ。敬語とかそもそも苦手だし」
上級生ではなく、同じ学年だったらしい壮馬は美奈に少しいたずらっぽく笑っていた。
「俺が聴いててあげる、美奈ちゃんの成長ってやつを」
***
歌はどうやら、努力で培われるものらしい。
それを美奈に教えてくれたのは、屋上でフェンスに背中を預けながら大きくあくびをする壮馬だった。あれからフェンスの向こうにいるのは見ないから、真剣に聴いてはくれているようだ。
「才能なんて、結局は固定スキルみたいなもんでどうにもならない……けど努力はどれだけやっても天井がないんだ、だからなににしても、努力をするのは悪くない」
「……けど、音痴は努力してもどうにもならないよ」
「音痴でも、歌えるだけで才能だ。ならそこに、努力をすればいい話だろ」
そんな話をする壮馬の目は、どこか寂しそうだと美奈は思う。
本当に、彼はそう思っているのだろうか。ふと思った言葉は、腹の中に下してなかった事にした。
「壮馬くん、簡単に言ってくれるよね」
「実際そうだろ、美奈ちゃんだって努力の人間だ」
美奈が歌う姿を、壮馬が静かに見ている。
こんな時間も、美奈はすっかり慣れてしまっていた。
壮馬は基本口を出さないがそれでも時折指摘をしたり、それか外れた音をからかったり。自分は歌う事なく、ただ黙って美奈の声を聞いているだけだ。美奈としては最悪でしかなかったその出会いも、今となっては心地よいと思えてしまう。
「……」
「なに、さっきからじっと見てきて」
壮馬の声に、ハッとする。
自分でも気づかないほど、美奈は壮馬の顔を見ていたらしい。
特に、理由があったわけではない。ただ長いまつ毛や静かな姿は絵になるなと思ったのは事実で、けれどもそんな事は口が裂けても言えなかった。
「んん、なんでもない」
小さく首を横に振りながら、スマホを取り出す。
ここ最近の、壮馬のアドバイスを元にしたルーティンだった。
「次に歌うのは……これにしよ」
歌う音源を最初に聴き、頭の中で流す。
音痴である事でも種類が存在するらしく、壮馬いわく美奈は音感がズレているタイプらしい。だからと提案されたのが、このプレイリストを再生する事だった。
正しい音を聴き、その音に身体を慣らす。時間を置かずに自分で歌う事で、普段より音取りがマシになる、というのが壮馬の話だった。
(最初は騙されていると思ったけど、少し音がわかるようになったかも?)
本当のところは、わからない。
ただ自分が錯覚でそう思っているだけかもしれないとも思えたが、考えてみれば壮馬からの指摘やからかう声も最初よりは減っている気がした。
「――そういえば」
美奈が顔を上げると、つられるように壮馬も目を合わせてきた。
「壮馬くんは、歌わないの?」
「んー、なんで?」
「なんでって、それは」
壮馬の歌声も聞いてみたいと、そんな事を言う勇気はなかった。
なにより、壮馬が音楽経験者である事は見るだけでわかる。歌に対する態度や、言葉選び。少し意地悪だとはもちろん思っているけど、それでも彼の言葉や仕草は美奈の興味を惹いて、歌う時の緊張とは少しだけ違う心臓の音が聞こえる気がした。
「……壮馬くん、教えるの上手いから。だから、歌も上手なのかなって」
ごまかすように口を突いて出た言葉は、本心でもある。しかしその本心の中には、美奈の壮馬へ対する純粋な興味もあった。
「俺の歌、聴いてもつまんないよ」
「私の歌を聴いておいて、それ言っちゃう?」
おかしくて、つい頬を緩めた。
そんな表情を、壮馬はどう思ったか。少なくとも悪いものではなかったそれは少し諦めた様子で、それでも嬉しそうに目を細める。
「んー、じゃあ……笑わないでよ」
ゆっくりと立ち上がりながら、ぐっと背伸びをする。何度か喉を鳴らすように咳払いをすると、おもむろに目を伏せた。
「――少しだけだから」
「っ……!」
瞬間、世界が瞬いた。
弾けるように紡がれた音はどれも繊細で、世界に色が一つ一つつけられていくような感覚だった。青い空にまた一つと色が落とされて、消えていく。柔らかくも力強いその声が美奈にはとても心地よいものだった。
(これ、ラブソングだ……)
最近動画がきっかけで流行の、デュエット曲。
声を変えるのは難しいらしくすべて男性パートの声だったそれは、美奈の心を揺さぶるにはじゅうぶんだった。
(すごいな、壮馬くんは)
少しいたずらっぽいところや、掴みどころのないところ。けどその中にある屈託ない笑顔や優しさはこの歌声に映っていて、美奈は心が暖かくなる。自分も優しくなれるような、そんな気がした。
(まるで歌だけじゃなくて、壮馬くんに触れているみたい)
歌声は、その人の心に触れている気分になる。
そんな誰からか聞いた言葉を思い出しながら、また耳を傾けた。
しばらくの間そんな壮馬の歌声に聴き入っていると、どうやらワンコーラスが終わったらしく音が消えていく。青く澄んだ空に溶けるよう終わったその歌につい拍手を送ろうとしたが、その考えは一瞬で消えてしまう。
「まぁこんなもん、ゲホ」
「壮馬くん……!?」
途端に、乾いた嫌な咳が聞こえてくる。
少しだけ苦しそうな表情を浮かべる壮馬に、美奈も手を伸ばす。
「ごめん、肺の変なところに空気が入っちゃったよ……久々に歌うとロクな事もないね」
へらりと笑った壮馬は、もういつもと同じだった。
「ほら、だから言ったでしょ。上手くないって……息継ぎとかそこまでだし、すぐ咳が出るんだ」
どこか悲しそうに笑った気がしたけど、すぐ隠すようにいつものいたずらっぽい表情に戻ってしまう。
「さぁ、俺は歌ったから次は美奈ちゃんだよ」
「わ、私さっきも歌ったよ!?」
「歌は何度歌ってもなくなるものじゃないだろ、ほら歌う」
乾いた咳は、もう聞こえない。
それでも心配になりつつ顔を覗き込むと、なに、と言われ目が合った。
「んん、なんかね」
言葉に悩んだように、目線を落とした。
この言葉を、彼に伝えてしまってもいいのかを。これを聞いたところで、壮馬はどう思うかを。一瞬の躊躇いだったが、小さく首を横に振るとあのね、と言葉を続けた。
「……私、壮馬くんの歌声が好きだよ」
まっすぐに、純粋に言葉を伝えた。伸び伸びとした優しい声が、まっすぐで澱みなく澄んだ声が。そしてなによりも歌が好きだという事が伝わるその声が、好きだと思えた。
そんな気持ちを込めた一言を、彼はどう捉えたのか。
少しだけ驚いたように目を見開いたその表情は、嬉しそうだなと感じた。けどそれも、本当に一瞬の話で。
「――あぁ、知ってる」
またいたずらっぽく、けど本当に知っているかの様子で彼は笑う。
「だって美奈ちゃん、さっき俺の歌を聴いてる時すごく楽しそうだったから」
「たのしそ!?」
顔に出てしまった事を教えられて、咄嗟に頬を両手で隠した。そこまでわかりやすく頬が緩んでいたとは思わず、なんだか恥ずかしさもこみ上げてくる。
けれども壮馬は顔色一つ変えず、どちらかと言えばあの掴みどころがない表情を貼り付けた。
「嘘だよ、美奈ちゃんすごく真剣な顔してた」
「あー、すぐそういう事言う!」
いつものからかいだったとわかり、つい声を張った。
壮馬という存在を知ってから、美奈もそれなりに慣れたつもりだった。けれどもやはりこういった接し方には慣れる事ができなくて、美奈は壮馬の事で頭がいっぱいになるような感覚だった。
「俺も好きだよ、美奈ちゃん」
その言葉がなにを意味したのか、美奈にはわからない。
ただ優しさの中には諦めが色濃くあるような、そんな気がした。
***
「そもそも美奈ちゃんって、なんで音痴なのに歌を練習したいって思ったわけ?」
「……壮馬くん、デリカシーって言葉知っている?」
あまりにも前触れがなかったその話は美奈にとって柔らかい部分のもので、つい声を低くしながら唸るように言葉を投げかけた。
「悪気があって聞いたんじゃない、気分を害したなら謝るよ」
いつも通りの軽い口調のまま、本当に悪気がないと言いたげなそれに美奈はなにも言い返す事ができなかった。
「……最初に言ったけど、合唱コンクールがあるからで」
「本当に、それだけ?」
すべてを見透かしているような、そんな言葉だった。
なにも言い返せないそれに、美奈もつい肩を揺らす。なにもかもを知っているような、底の見えないなにか。じっと美奈を見つめる壮馬がなにを考えているのか、わからない。
そんな時間がどれだけ続いたか、実際には瞬きするほど短い時間だった沈黙の中で、耐えられず美奈は小さく溜息をつく。
「……好きな歌を、歌っている子がいたの」
まるで落としたなにかを拾うように、一つずつ言葉を選んでいく。
「同じ幼稚園の、男の子。名前も知らないその子は歌が上手で、楽しそうに毎日歌っていた……あの子が毎日、私のために歌を歌ってくれた。毎日聴いて、好きだよって言ってた」
だから自分が音痴と言われる部類でも、歌を嫌いになる事はできなかった。
だって、あれだけ伸び伸びと歌っていた名前も知らない彼が、楽しさを教えてくれたから。
「もちろん歌は苦手だし、全然上手くなれなかったけど……それでも楽しいと思っている子がいるってわかっているから、私もあぁやって歌えるようになりたいって心のどこかで思っていたの」
だからこの合唱コンクールで、歌う事に対しての苦手を美奈は克服したいと思った。
そんな時だ、この立ち入り禁止の空間で壮馬に会ったのは。
「だから私、ちょっと楽しいの。少しでも歌が上手くなる毎日に」
屋上という少しだけ非日常な空間で歌うのは、心臓の音もやけにうるさくて、そことは違うどこかにいるような感覚にもなる。けどそれも全部、壮馬が教えてくれた事。
だから、美奈は壮馬に少しだけ感謝をしていた。
「……へぇ」
そんな中で、ずいぶんと興味のなさそうな声が返ってきた。言われた美奈もなんだかいい気分ではなく、不機嫌だと言わんばかりの表情を作りながら目線を向ける。文句の一つでも言おうと思ったはずなのに、まっすぐに重なった視線を見てしまうとなにも言えなかった。
その声とはまったく逆の表情で、優しく目を細めた壮馬は美奈ちゃん、と名前を呼んできた。
「だから、美奈ちゃんは歌を練習するわけなんだね」
歌を好きである事が自分の事みたいに嬉しいようで、壮馬はそれ以上なにも言わず美奈の顔を見ているだけだった。それがなんだか恥ずかしくなり、ふいと視線を逸らす。普段は掴みどころの態度をしてくるからこそ、なんだかずるいと思ってしまう。
「うん……私練習して、もっと上手くなりたい」
「音痴だけどね」
「壮馬くん、一言余分だよ」
ケラケラと屈託なく笑う壮馬の表情は、なんだか見ているだけで心がふわふわしてくる。最初に出会った時からは想像できなかったその気持ちの答えが、美奈にはわからない。
「俺も美奈ちゃんが歌ってくれるの、すごく嬉しいよ」
そうやって笑う壮馬自身の表情も好きである事は、言う事ができなかった。
***
「最近美奈、なんか歌上手くなったよね」
休み時間よりも少し早く音楽の授業が終わった頃、投げられたその言葉につい目を丸くした。
「……私?」
「うちのクラスで美奈はあんただけでしょ、なにかやったわけ?」
「なになに、なんの話?」
ずい、と顔を近づけてくる友人の様子を見て、また他の友人が興味本位で近づいてきた。それがなんだか恥ずかしくて、目を逸らす。
「最近美奈の歌が上手いよねって話、そう思わない?」
「あー、わかる。なんか音が取れているというか、伸び伸び歌っているというか……」
「それ、私が音痴って言っているようなもんじゃん!」
恥ずかしさを紛らわすように笑うと、他の友人もどっと盛り上がる。
自分の歌が、前までは嫌いで仕方がなかった。それなのにあの日の屋上で出会った壮馬のおかげで、人前で歌う事を楽しいと思っている自分がいる。それが美奈には、なんだか不思議な気分だった。
(やっぱりすごいな、壮馬くんは)
彼に出会って、音に色が着いた。それは紛れもなく事実であり、その事を考えるとまた美奈の頬を緩んでしまう。
もう、どれだけ歌を聴いてもらったかはわからない。自分の中では上手くなっているのか疑問だったそれも壮馬にとっては良かったらしく、気づくと美奈の歌を子守唄にしてうたた寝をする事も増えてきた。
(けど、壮馬くんの歌は……)
あの日、お願いをして聴かせてもらった時以降、壮馬は一度も歌っていない。
息の仕方が下手だからと笑った彼の歌声は、少なくとも美奈がこれまで聴いたどの声よりも暖かかった。もう一度聴きたいなんて思う自分の傲慢な気持ちに少し苛立ちもするが、何度消そうとしてもその気持ちは膨らむばかりだ。
考えれば考えるほど、最近の美奈は壮馬の事ばかりを考えている。
それが自分の中で少し恥ずかしくも思えて、同時にむず痒さもあった。
「ちょっと美奈、話聞いてる?」
「あ、ごめんなんだった?」
意識を引き戻すと、目の前で友人達が心配そうに美奈の事を見ている。気づくと、教室にいるのは自分達だけだった。
「次お昼だし、早く教室戻ろうよ」
「そうだね、ちょっと待って」
机に置いてあった自分の教科書とペンケースを抱えて、二人の後を追う。
廊下に出ると他のクラスメイトはみんな教室に戻っているようで、教室から漏れ出てくる授業の声だけが微かに聞こえるだけだった。
「けどあれだよね、歌が上手くなるってそれだけじゃないとか聞くじゃん?」
「あ、知ってるそれ」
「それ……?」
なにを話しているのかわからず、首を傾げた。
歌と彼女達のいうなにかにどんな関係があるのか、ただ壮馬に練習を見てもらっているだけの美奈にはわからない。
「またぁ、カマトトぶっちゃって」
「誰、誰なの?」
「待って、誰ってなんの話」
「なにって、好きな人できたんでしょ? 好きな人を想って歌うと上手くなれるとか言うし」
「まさか、通り越してすでに彼氏!?」
「かれっ!? そんな、違うって!」
突拍子もない言葉に、少し過剰に反応をしてしまう。それだけで、目の前にいる彼女達には楽しい話題の起爆剤になってしまいニヤニヤと顔を近づけてくる。
「あれぇ美奈、なんかあからさまに焦ってない?」
「これはもしかして、もしかしなくても?」
「だから違うよ、そんな関係じゃない!」
「じゃあ、そんな関係になりたい人はいるの?」
「それ、は……!」
自業自得で口を滑らせてしまったそれに、また顔をしかめた。
けど正直、美奈が壮馬に対して持っている感情は美奈自身が一番わかっていなかった。
(壮馬くんとは、そんな関係では……)
壮馬の歌が、声が好きなのはもちろん事実だった。それはきちんと、あの時本人にも伝えている。
しかしその中に他の感情がないのかと聞かれれば、わからなくなってしまう。
屈託なく笑う表情や少しいたずらっ子にも見えるその振る舞いの中で、彼には優しさがあると美奈は思っていたから。
「美奈もしかして……誰かの事考えている?」
「お、これはもしかして……!」
「本当に、そんなんじゃないから!」
からかってくる二人に少しだけ声を張っていると、そのまま教室の並ぶ廊下へ差し掛かった。一年生は、ざっと十二クラス。美奈のクラスである八組はちょうど真ん中辺りに位置しており、九組より後ろの教室を横目に自分のクラスへと戻る事になる。「そういえば……」
(壮馬くん、クラスどこなんだろう)
考えた事もなかった話を、いまさら思い浮かべる。
もうかなりの時間二人で屋上にいるが、クラスの話はほとんどした事がなかった。した事がない、というよりは聞いた事のない方が表現としては正しいのかもしれない。
美奈自身は、歌っている理由がそもそもクラスの話だからしている事もある。
しかし壮馬から聞くのはだいたいが歌の話か、後は簡単な中身のない世間話のようなものばかり。十二もクラスが分かれているこの学年の中で、話題に上がらなければどのクラスに誰がいるかはわからない話だった。
「……いるかな」
少し、ほんの少しだけ興味があった。
毎日のように屋上で顔を合わせる、それだけでそれ以上でもそれ以下でもない秘密の関係。その相手が普段はどのように過ごしているのか、それが美奈は気になってしまった。美奈自身が知らない壮馬を知りたいと思えるのは、なんだか不思議だった。 キョロキョロと視線だけを動かして、教室を小さな窓から覗き込む。
「なに美奈、彼氏でも探してんの?」
「美奈の彼氏何組?」
「違うって」
二人の言葉を聞き流しながら、また視線を動かした。
美奈は、そこまで他のクラスと交流がある方ではなかった。あるとすれば同じ中学の出身である子や、委員会が一緒の子くらい。部活にも参加をしていない美奈には、それぞれのクラスに聞けるような友人がいないのが悲しい話だった。
「……ここも、いない」
二つの教室を覗いて、肩を落とす。
探している相手の姿はどこにもなくて、どうやら目の前にある教室はどちらも見当違いであったらしい。
だからとまた他の教室に目を向けて、中を覗き込む。最初は茶化してきていた二人も真剣な美奈の表情をどう思ったのか、見守るように後ろからついてきていた。
そんな行動を、何度取ったか。廊下側に座る生徒に変な目で見られた自覚は、もちろんあった。目の前にあるのは自分のクラスである八組、九組までの教室に、壮馬はいない。
「じゃあ、七組より前?」
「ちょっと美奈、誰探してんの」
「あ、えっと……それは、昔の知り合いが同じ学校っぽくってさ、その確認!」
この事を話したら屋上の事がバレてしまうと、それは美奈もわかっていた。壮馬との関係を話すのに必要不可欠であるからこそ、つい美奈は言葉を濁す。
(別に、知り合いである事をごまかすのはしなくてもいいのに)
昔の知り合いという言葉は、咄嗟に出たものだった。
そこまでやましい関係をしているとは思っていないが、それでも自然と隠してしまう。心のどこかで、壮馬との関係に踏み込んで欲しくないという気持ちがあったから。
若干の罪悪感とともにまた探すのを再開して、七組より前の教室を覗いた。しかしどれも正解には程遠く、壮馬の姿を見つける事はできない。
そして、最後の一組も結果は同じで。
「……あれ、やっぱりいない?」
もしかして、また屋上にいるのだろうか。
一瞬だけそんな事を考えたが、どの教室もまだ授業中で体育や美奈達以外で移動教室のクラスもなさそうだ。ならどこにいるのだろうかと、つい首を傾げてしまう。
「え、知り合いなのに何組かわからないの」
「そもそも同じ学校なわけー?」
「同じだよ、それはわかってる」
だって屋上で会ってるからとは、口が裂けても言えなかった。
人脈の少ない美奈に、これ以上探す方法はない。たまたま休みだったのかもしれないなどと考えてふと顔を上げた時に、美奈はある事に気づく。
「なんだ、あるじゃん人脈」
「……美奈?」
じっと、目の前にいる二人の顔を覗き込む。先程から美奈の怪しい一連の流れを見ていた二人は心配して一緒にいてくれたが、二人揃って美奈にとっては貴重な人脈だった。そして、なにより。
「二人って、部活入ってるよね」
「部活というより、私は生徒会だけどね」
部活や委員会よりも生徒の事を覚えていそうな存在である友人は、今の美奈にとっては最早神に近い存在と思えた。
「他のクラスの生徒とか、覚えてる?」
「まぁ、一応? そこまで重要じゃないし会長も覚えてないけど、私は同じ学年みんなと仲良くしたいからなるべく覚えるよう努力してるよ」
願ったり叶ったりだと、そう思えた。
「あのさ、うちの学年で壮馬くんていると思うんだけど……二人は何組か知っている? 壮大の壮に馬で壮馬なんだけど」
だからと理由はなしにして、それだけを聞く。
同じ響きの名前なら、もちろんいるはずだ。けれども同じ漢字となれば話は別で、簡単に書き方を伝える。
「壮馬……?」
ぴくりと、友人のうち生徒会に所属している彼女の肩が揺れた。心当たりでもあるのかと言葉を待っているが、なにかを思い出すように目線を落とし彼女は、しばらく黙り込んでしまう。
「美奈……その人って壮馬って名前であってんだよね?」
「うん、もちろん」
間違える事なんて、絶対ない。
これははっきり、声を大にして言える自信があった。しかし彼女の顔色はさらに曇り、力なく首を横に振るだけだった。
「壮馬って……そんな生徒うちの学年にはいないはずだけど」
「…………え?」
その後、美奈がどう動いたかは美奈自身もよく覚えていなかった。
ただ後ろから聞こえる友人二人の声には振り向かず、手には音楽の教科書を持ったまま廊下を抜けていた。
三階のさらに上、少しだけ階段をあがった先にあるそこは、普段と変わらず名前だけの立ち入り禁止札がかけられていた。それを横目に少し進むと、閉められたドアに手をかける。
普段の彼は、鐘が鳴る前から屋上にいる事もあったから。
「壮馬くん……!」
少しだけ、自分でも力を込めすぎたかもしれないと思った。軋むように悲鳴をあげながら開いたドアは、キイと耳障りで錆び付いた音をあげている。
けど、それだけで。
「……壮馬、くん?」
昼休みを告げる鐘は、澄んだ空を突き抜けるように響いている。
けどそこに、あのいたずらっぽく笑う姿はなかった。
***
壮馬の姿を、見なくなった。
まるで、最初からそこにいなかったかのように。
最初から、壮馬自体が美奈の見ていた幻覚だったかのように。
「美奈、本当に歌上手くなったね」
「そんな事ないよ……」
そんな心のシコリとは反対で、美奈は練習を続けていた。こないとは心のどこかでわかっていながらも、屋上に足を向けてしまう。
ただ、なんとなくの話だった。あそこで、あの屋上で歌えば壮馬がくると思ったから。けど、現実はそうもいかない。もしかしたら会えるかもしれないという不確かな感情のままに足を向け、そのまま会う事もできず一人で歌う毎日。
あれから一週間が経ち週末が明けても、壮馬の姿はどこにもない。一年生の教室を覗き込むのも、日課になってしまった。壮馬はいないのか、そう思い探してしまう自分がいるのは、なんだか女々しいとも思えてしまう。
「歌もそうだけど、なんかはっきり言ったり積極的になったというか」
「それわかる、発声がよくなったのかな?」
(積極的なのかはわからないけど……)
自分でも、少しだけ自信は持てるようになったと思う事がある。
そしてなにより、前以上に歌が好きだと思える。
どれも全部、壮馬がくれたものだった。
(……今日も壮馬くんは、いないのかな)
歌は楽しい、それはこの屋上で彼に出会い知る事ができた。
けど、一人で歌うのは少しだけ寂しいというのを、初めて知った。
(せめて、なにか連絡手段があれば体調がよくないのかとか聞けたのに……)
思えば、壮馬と連絡先の一つも交換していなかった。
屋上での、内緒の関係。どのクラスなのかも知らない彼の事を考えると、また気分が沈んでしまった。会いたいと思うこの気持ちの答えが、美奈にはわからない。
「そういえば美奈は知ってる? 最近話題らしい、保健室の噂」
「噂……?」
名前を呼ばれ意識を連れ戻すが、振られていた話の内容が読めずに首を傾げてしまう。あいにく、美奈は保健室とそこまで縁のある生徒ではない。ケガをあまりしない上に、体調を崩す事も年に一度あるかないか。だから保健室の噂、と言われてもあまりピンとこないのが正直な話だった。
「なに、幽霊でも出るの?」
話を合わせるように、そう聞いてみる。
「幽霊かはわからないけど……最近ね、誰もいないはずなのに声が聞こえるんだって」
「声……?」
「歌声なのかなぁ……喋り声とは違うらしいよ」
「なにそれ、やっぱり幽霊じゃん」
目の前で飛び交う話に、つい耳を傾ける。興味はないはずなのに、と自分でも不思議な気持ちになった。
「けどあそこ、養護の先生いるよね」
「いるいる、だから生徒だとは思うけどそれが上手いらしいよ。ここ一週間で突然聞こえてくるようになったらしいけど、授業の時間になると絶対に聞こえてくるんだって」
「へぇ、少し興味あるかも」
「やめなよ、本当に幽霊だったら怖いじゃん……」
楽しそうに繰り広げられる、確証のないはずの噂話。
それなのに、美奈は腹の底が熱くなるように感じた。
「歌を歌う、誰か……」
誰かなんて、そんな事わからないはずなのに。
たくさんいる生徒の中で、そうであるという確信は一切ないのに。
それなのに、美奈の中でなにかが晴れていくような、そんな気がする。
「けどそれがさ……って美奈?」
「どうした? いきなり立ち上がっちゃって」
自分でも無意識で、その場で立ち上がっていたらしい。
指摘をされて気づいたけど、もう自分自身を止める方法はなかった。
「あ、えっと、お腹痛いって言うか」
「大丈夫? もうすぐ授業始まっちゃうけど」
「大丈夫、だけど」
お腹の調子は大丈夫だった、けど決定的な美奈自身は大丈夫ではない。
高鳴る心と、今すぐにでも教室を飛び出したいという衝動で美奈の中はいっぱいで、その中には彼のいたずらっ子のように笑う顔もある。
「……ごめん、やっぱり大丈夫じゃないから保健室行ってくる!」
「わっ、ちょっと美奈、授業は!?」
「無理そうだったらついてく……って、もういない」
「絶対あれ、仮病でしょ」
遠くで、そんな声が聞こえた。
(うん、仮病だよ)
人生で初めての、仮病。
階段を駆け下りる中で、美奈の心臓はどんどんうるさくなっていく。
もしかしたらという感情と、少し悪い事をしているという事実に対して。
屋上で歌を歌う時と少し似ているはずなのに、あの高鳴りとはまた違うなにかがある。
校舎の本館、職員室の少し手前。
通る事はあっても健康診断以外で入った事のないそこには、少しだけ可愛いうさぎが書かれたボードがかけられている。不在だから勝手に入って問題ないとあるそれに従い、ドアへ手をかける。遠くからは、すでに鐘の音が聞こえていた。
「っ……」
少しだけ、ほんの少しだけ開けたドアの向こうからなにかが聞こえる。
どこか機嫌のよさそうなその声は、いつだったかに聞いたワンコ―ラスによく似ていた。
「……失礼、します」
部屋の主である養護教諭は、不在とわかっている。
それでも誰かがいる以上、つい頭を下げながら入った。
慣れない保健室は変わらずツンとした薬品の匂いで満たされていて、不在の時用なのか丁寧に絆創膏や消毒液がどこにあるか大きめの字で書かれている。けど、今の美奈はケガをしているわけではない。
「……」
それよりも目に留まったのは、保健室の利用者表だった。
中学生の時友人の代わりで書いた覚えのあるそれは、どの学校でも同じものを使っているらしく個性のある文字達が並んでいる。
その中の、一番下。退室時間が唯一書かれておらず保健室にいるのが彼だけだとわかるその欄には、二年三組竹内壮馬と名前が書かれていた。
(壮馬くん、竹内って言うんだ)
若干他人事のように考えて、そのまま保健室の奥へ進んだ。
数個あるベッドの住民は歌う事に夢中で、美奈には気づいていないらしい。
元々足音は立てていなかったのもあったけど、彼にしてはなんだか不用心だなと思った。
「っ……」
揺れるカーテンの向こうに、人影が見える。
少し弱々しい。けれどもまっすぐな歌声だ。
(……声出すの、なんだか辛そう)
歌わなければいいのになんて、そんな言葉は出なかった。
それを言う権利は美奈にないとわかっていて、なによりも彼が歌を好きだという事に関しては美奈が誰よりも知っているから。
それでも同時に、このまま帰るつもりも一切ない。
「――壮馬くん、なにやってんの」
勢いよくカーテンを開けると、前触れなかったそれにカーテンの向こうで歌っていた壮馬は、驚いた様子で肩を揺らした。
「うわ!?」
「……保健室なのに、やけに元気そうだね」
「それは、もう」
「私、怒ってんだけど」
普段と変わらない掴みどころのない表情が、逆に苛立ちに繋がっていく。
ずいと顔を近づけて、やり場のなくなった視線を泳がせた。なんて言えばいいのか、なにから言えばいいのか正直わからない。けどなにを一番言いたいかと聞かれれば、それはきっとこの苛立ちで一番の元凶である事で。
「…………噓つき」
「え、なにが」
「やっぱり年上じゃん、噓つき!」
「そこ、いやそれはごめん」
さっき見たばかりの、利用者表。初めて見た壮馬の字は、紛れもなく二年と書かれていた。初めて会った時に言った、同い年であるという話。それが嘘だったとわかった事が、今の美奈にとっては怒りの中心にあった。
けど、冷静に考えれば最初からわかっていた話だ。
壮馬は、合唱コンクールに対してもうそんな時期、と言った。経験をしていなければ、出てこない言葉だ。
「……その、壮馬く、じゃなくて壮馬先輩は」
「ふはっ、いいよいつも通りで。元々敬語で言われるのが嫌だったのもあるし」
ぎこちなく言葉を選んだ美奈が面白かったのか、壮馬は楽しそうに笑っている。あまりに面白かったのか長く笑い、ふうと息を吐いた。少し笑いすぎたのか、乾いた咳が聞こえてくる。
「……えっと、久しぶり、美奈ちゃん」
へらりと目を細めたその顔が、美奈には心臓が押しつぶされそうなほど苦しくなる。
「ごめんな、あれからちょっと体調よくなくてさ。言いたかったけど、連絡先知らなかったし」
「……どこが、悪いの」
絞り出すような声で、壮馬に問いかける。
知る権利なんか自分にないと、わかっている。名前も知らなかった、学年だって知らなかった関係。だから壮馬の事を知る権利は、美奈にない。けど、それでも問いかける他に選択はなかった。
そんな美奈を見た壮馬は、一瞬だけ考える。
少し視線を落としながら、答えを探すように。
きっと短いその時間も二人にとってはひどく永いもので、壮馬の方が呼吸を整えて口を開いた。
「――喉の、病気なんだ」
「喉……?」
「うん」
少しだけ寂しそうに頷くと、自分の喉元へ手を当てる。
「腫瘍とか、そういった部類のやつ。喋るのには問題ないけど、そのままにしていると命に関わるから」
「……取るの?」
「うん、取るよ。死にたくないって思えたから」
また、壮馬は笑っている。今度は、どこか力強い表情で。
「元々、この手術があるから教室にも行けていない……出席日数の心配があるから、ほとんどを保健室で過ごしてたんだ……屋上に行っていたのは、気分転換で歌いたくて保健室を抜け出してた」
それだけ歌う事が好きなんだと、容易に想像ができる。
「……あの時、美奈ちゃんと会った時」
「……うん」
「――死のうと、思っていた」
「…………うん」
知っている、知っていた。美奈は、気づいていた。
フェンスの向こうにいるのが、なにを意味するのか。薄らだが、そんな気はしていた。けど、あの時の美奈に言う資格はなかった。
「声が変わるかもしれないなんて、今の歌声が変わるのは嫌だった……ずっと昔に好きな子から歌声が好きだって言われてから大切にしてて、そこから歌が俺の宝物になっていたから」
遠い昔話をする壮馬は、そこで美奈の目を見る。まっすぐ、あの歌声のように。
「けど、そこで聴こえたのが美奈ちゃんの下手くそな歌声だった」
「それ、貶してる?」
「ううん……褒めてる。だって俺を救ってくれたから」
恥ずかしがる様子もなく言われた言葉は、どこか暖かかった。ずっと前から美奈を想っていたように。
「……手術、いつなの。難しいの」
「来週、少し厄介なとこにあるらしくて……正直難しいらしい」
ずいぶん急な話だと出かけた言葉は、そっと押し戻す。美奈は彼を、屋上でしか知らない。ならば、彼のそういった部分を知らないのは当然だから。壮馬にとってはずっと前から決まってたかもしれないそれは、美奈にとって突然の事だった。
(壮馬くんが、どこかに行くなんてやだ……)
きっと彼はそうなった時、ふらりとなにも言わずいなくなってしまうはずだ。それが、たまらなく嫌だったから。
「――デュエット曲」
「え……?」
美奈がなにを言っているのかわからない、と言いたげな壮馬は少し抜けたような声を出していた。
「前にワンコーラス歌ってくれたデュエット曲の女性パート、私練習しておくから、いっぱい練習して待ってるから!」
美奈の言葉に、壮馬は目を丸くした。
なにかを考えるように、その言葉を噛み締めるように。最初は理解が追いついていないような表情だったそれも、ようやく理解できたのか次第に頬を緩めていく。
「じゃあ美奈ちゃん、俺と歌ってくれるって約束してくれるの?」
「――もちろん」
美奈も驚くくらい、はっきりとした声が保健室に響く。
なによりも長い静寂の後、はは、と壮馬の嬉しそうな笑い声が上がる。
「そんな熱烈なお誘いされたら、尚更死ねないじゃん」
「だって、壮馬くんに死んでほしくないから」
心からの、美奈の本心だった。
「ありがとう美奈ちゃん……君は変わらないね」
「へ、変わらない……?」
なにを言い出したかと、今度は美奈が目を丸くする。
「美奈ちゃんって、人に感情を伝えるのは上手いからね……きっと歌も、もっともっと上手くなる」
褒められて、少しだけ恥ずかしい。
だからと目線を逸らそうとしたが、そんなふわふわした感覚はすぐ引き戻される事になる。
「あの時みたいに――幼稚園の時みたいにまた好きだと言ってくれたし」
「それは……ちょっと待って」
身に覚えはあるが場違いなその言葉に、美奈の肩が揺れた。対する壮馬は、種明かしをするマジシャンのように楽しそうだ。
「あの時も今も、俺の歌を好きって言ってくれて、宝物にしてくれてありがとう」
すべてが、あの時に繋がっている。壮馬の今までの態度や、すべてを知っているような言葉が。
小さな手で拍手したあの時に、拙くても優しい歌声を聴いたあの時に。
それを、壮馬の一言ですべて理解した。
「あの時の、なんで、言ってくれなかったの……」
「だって美奈ちゃん、俺だって事忘れてたし」
「それは、そうだけど」
お互いに、面影があるかと聞かれてしまうとわからない。それだけ時間が流れたのだから、当然の話だった。
「美奈ちゃんとこの学校で、あのタイミングに屋上で会えたのは奇跡でしかなかった……もう、会えないと思っていたから」
すべてが、偶然の話だった。美奈と屋上で再会したのも、歌を歌ったのも。けど、壮馬のその言葉を聞いた美奈は小さく首を横に振る。
「奇跡だと思うのは……私の方だよ」
不正解の音に色をつけたのは、間違いなく壮馬だ。
過去の事も今も、すべてが重なってこの歌になる。ならば、あの屋上での瞬間すべてが美奈にとっては輝く宝石のようだから。
(だから、この時間が消えて欲しくないから)
「――あのね、壮馬くんの事が好きなの……歌声も笑顔も、それから優しく笑ってくれるところも」
自然と、溢れるように言葉が出てきた。
今日まであった寂しさや悲しさや虚無感を満たすように、言葉が零れていく。
デュエットだけではない、もっと他に壮馬が帰ってくるきっかけがほしかった。
「ごめん、ごめんね壮馬くん」
次に出たのは、そんな力ない謝罪の言葉。
我ながら重いと、そう感じたから。それなのに壮馬は少しだけ肩を揺らしただけで、嬉しそうに笑ってた。
そして言葉を選ぶ事なく、まっすぐな目で美奈を見つめる。すべてを、歌に乗せて伝えるように。
「俺も好きだよ、美奈ちゃん――美奈ちゃんの全部が、ずっとずっと昔から」
重なった声は意味を持ち、誰かの耳に届いた。それでもすべての音に正解が用意されてるなら、間違いなくこの歌声は不正解とされるはずだった。
「下手くそ」
「……へ?」
立ち入り禁止の札が名ばかりでかけられた屋上に現れた声は、明らかに美奈へ向けられたもの。
「聞こえなかったのか、下手く」
「あー、もう、聞こえてます!」
遮るように叫びながら声の方へ目を向けると、いつからかフェンスの向こうに見慣れない生徒が座っていた。落ちそうだな、と浮かんだ言葉は飲み込んでおく。
美奈よりも少し歳上、上級生であろう彼はつまらなさそうな目をしながらじっと美奈を見ると、そのままフェンスをよじ登りこちらへと近づいてくる。まるで値踏みされている気分だと、そう思った。
「ねぇ、何組」
「い、一年八組、山岡美奈」
「ふぅん」
自分から聞いて興味がなさそうだと、ついそんな事を思った。それこそ、確認をしただけで最初から知っていたかのように。それよりも彼が気になるのは、別の事らしく。
「で、そんな一年で高校入りたての美奈ちゃんは、どうして立ち入り禁止の屋上にいるわけだ?」
「それは、そっちだって同じです」
「俺はいいんだよ」
例外なんかないのに、と考えた言葉は喉元で押し戻した。まだ出会って数分だが、それでも彼とウマが合わないのは目に見えてわかる。
「で、なんで」
「それ、は……歌の、練習に」
「へぇ?」
なにかを考えるように目を細めた彼は、じっと美奈の顔を覗き込む。歌の練習、だけでは彼の求める答えにならないらしい。それは美奈もわかった話で、どうやら彼はいじわるらしい。
「なんで、こんなとこで下手くそな歌を歌ってたわけ?」
「下手っ……そ、それは」
下手である自覚は、もちろんあった。それでもあからさまに指摘をされるとあまりいい気分でもなく、同時に否定もできず返す言葉に悩む。
自分だって、できる事ならば歌いたくなかった。しかし美奈はここで一人練習してでも、歌わなければいけない理由がある。
「……合唱、コンクールのテスト」
「あぁ、もうそんな時期」
そんな時期、というが合唱コンクールは全校行事だ。
「音楽の成績がだめで、クラスの子からも笑われてる自覚があったから……少しでも、マシにしたくて」
「……ふぅん」
また、名前を聞いてきたように他人事で言われてしまう。
「それで、二ヶ月前からご熱心に立ち入り禁止の屋上で練習を?」
「そ、そうです、悪いですか」
「悪くはないけど、本当に……特徴的な歌声というか」
「さっき下手って言ったのに、いまさらオブラートに包まないでください」
もう、美奈自身も理解はしている。
自分が音痴である事も、下手である事も。
それと同時にこの状況をどうにかしたいとも思っていたはずなのに、一人歌い続けるのは特段上手くなる訳でもない。むしろ悪化している気がするそれに顔をしかめる毎日で、どうやれば少しでも上手くなるのかがわからない。 今だって、そんな事を考えながら目の前の彼を睨んでしまうほど。
そんな美奈の顔を見て、彼はどう思ったのか。一瞬考えるような素振りを見せたかと思うと、そのままねぇ、と言葉を続けてくる。
「歌、上手くなりたくない?」
突拍子もないそれに、美奈は目を丸くする。
あれだけ美奈の事を言っておいた目の前の彼は、自分ならそれができると言わんばかりに笑っていた。
「あぁけど俺は、直接指導をするわけじゃない。ただ聴いててあげるだけ」
「聴くだけで、上手く?」
「観客は多い方がいい、誰かに聴かれているという緊張感はなにかのヒントになるからね」
まるで、そのなにかというのを知っているようだった。けど彼はそれ以上教えてくれる様子もなく、ただ笑っているだけだ。なんだか少しだけ、腹も立つ。
けど、美奈にはそれしか残されていないから。
「……それでも、いいです」
もう、縋るしかないと思った。
そもそも同じクラスの友人達には笑われているのだから、相談する気にもならない。だから誰もいない、この場所で歌っていたのだ。
同じクラス以外なら、誰でもいいと思ってしまったのかもしれない。
「お願いします、私の歌を聴いていてください……えっと、名前は」
「壮馬、同い歳だから敬語じゃなくていいよ。敬語とかそもそも苦手だし」
上級生ではなく、同じ学年だったらしい壮馬は美奈に少しいたずらっぽく笑っていた。
「俺が聴いててあげる、美奈ちゃんの成長ってやつを」
***
歌はどうやら、努力で培われるものらしい。
それを美奈に教えてくれたのは、屋上でフェンスに背中を預けながら大きくあくびをする壮馬だった。あれからフェンスの向こうにいるのは見ないから、真剣に聴いてはくれているようだ。
「才能なんて、結局は固定スキルみたいなもんでどうにもならない……けど努力はどれだけやっても天井がないんだ、だからなににしても、努力をするのは悪くない」
「……けど、音痴は努力してもどうにもならないよ」
「音痴でも、歌えるだけで才能だ。ならそこに、努力をすればいい話だろ」
そんな話をする壮馬の目は、どこか寂しそうだと美奈は思う。
本当に、彼はそう思っているのだろうか。ふと思った言葉は、腹の中に下してなかった事にした。
「壮馬くん、簡単に言ってくれるよね」
「実際そうだろ、美奈ちゃんだって努力の人間だ」
美奈が歌う姿を、壮馬が静かに見ている。
こんな時間も、美奈はすっかり慣れてしまっていた。
壮馬は基本口を出さないがそれでも時折指摘をしたり、それか外れた音をからかったり。自分は歌う事なく、ただ黙って美奈の声を聞いているだけだ。美奈としては最悪でしかなかったその出会いも、今となっては心地よいと思えてしまう。
「……」
「なに、さっきからじっと見てきて」
壮馬の声に、ハッとする。
自分でも気づかないほど、美奈は壮馬の顔を見ていたらしい。
特に、理由があったわけではない。ただ長いまつ毛や静かな姿は絵になるなと思ったのは事実で、けれどもそんな事は口が裂けても言えなかった。
「んん、なんでもない」
小さく首を横に振りながら、スマホを取り出す。
ここ最近の、壮馬のアドバイスを元にしたルーティンだった。
「次に歌うのは……これにしよ」
歌う音源を最初に聴き、頭の中で流す。
音痴である事でも種類が存在するらしく、壮馬いわく美奈は音感がズレているタイプらしい。だからと提案されたのが、このプレイリストを再生する事だった。
正しい音を聴き、その音に身体を慣らす。時間を置かずに自分で歌う事で、普段より音取りがマシになる、というのが壮馬の話だった。
(最初は騙されていると思ったけど、少し音がわかるようになったかも?)
本当のところは、わからない。
ただ自分が錯覚でそう思っているだけかもしれないとも思えたが、考えてみれば壮馬からの指摘やからかう声も最初よりは減っている気がした。
「――そういえば」
美奈が顔を上げると、つられるように壮馬も目を合わせてきた。
「壮馬くんは、歌わないの?」
「んー、なんで?」
「なんでって、それは」
壮馬の歌声も聞いてみたいと、そんな事を言う勇気はなかった。
なにより、壮馬が音楽経験者である事は見るだけでわかる。歌に対する態度や、言葉選び。少し意地悪だとはもちろん思っているけど、それでも彼の言葉や仕草は美奈の興味を惹いて、歌う時の緊張とは少しだけ違う心臓の音が聞こえる気がした。
「……壮馬くん、教えるの上手いから。だから、歌も上手なのかなって」
ごまかすように口を突いて出た言葉は、本心でもある。しかしその本心の中には、美奈の壮馬へ対する純粋な興味もあった。
「俺の歌、聴いてもつまんないよ」
「私の歌を聴いておいて、それ言っちゃう?」
おかしくて、つい頬を緩めた。
そんな表情を、壮馬はどう思ったか。少なくとも悪いものではなかったそれは少し諦めた様子で、それでも嬉しそうに目を細める。
「んー、じゃあ……笑わないでよ」
ゆっくりと立ち上がりながら、ぐっと背伸びをする。何度か喉を鳴らすように咳払いをすると、おもむろに目を伏せた。
「――少しだけだから」
「っ……!」
瞬間、世界が瞬いた。
弾けるように紡がれた音はどれも繊細で、世界に色が一つ一つつけられていくような感覚だった。青い空にまた一つと色が落とされて、消えていく。柔らかくも力強いその声が美奈にはとても心地よいものだった。
(これ、ラブソングだ……)
最近動画がきっかけで流行の、デュエット曲。
声を変えるのは難しいらしくすべて男性パートの声だったそれは、美奈の心を揺さぶるにはじゅうぶんだった。
(すごいな、壮馬くんは)
少しいたずらっぽいところや、掴みどころのないところ。けどその中にある屈託ない笑顔や優しさはこの歌声に映っていて、美奈は心が暖かくなる。自分も優しくなれるような、そんな気がした。
(まるで歌だけじゃなくて、壮馬くんに触れているみたい)
歌声は、その人の心に触れている気分になる。
そんな誰からか聞いた言葉を思い出しながら、また耳を傾けた。
しばらくの間そんな壮馬の歌声に聴き入っていると、どうやらワンコーラスが終わったらしく音が消えていく。青く澄んだ空に溶けるよう終わったその歌につい拍手を送ろうとしたが、その考えは一瞬で消えてしまう。
「まぁこんなもん、ゲホ」
「壮馬くん……!?」
途端に、乾いた嫌な咳が聞こえてくる。
少しだけ苦しそうな表情を浮かべる壮馬に、美奈も手を伸ばす。
「ごめん、肺の変なところに空気が入っちゃったよ……久々に歌うとロクな事もないね」
へらりと笑った壮馬は、もういつもと同じだった。
「ほら、だから言ったでしょ。上手くないって……息継ぎとかそこまでだし、すぐ咳が出るんだ」
どこか悲しそうに笑った気がしたけど、すぐ隠すようにいつものいたずらっぽい表情に戻ってしまう。
「さぁ、俺は歌ったから次は美奈ちゃんだよ」
「わ、私さっきも歌ったよ!?」
「歌は何度歌ってもなくなるものじゃないだろ、ほら歌う」
乾いた咳は、もう聞こえない。
それでも心配になりつつ顔を覗き込むと、なに、と言われ目が合った。
「んん、なんかね」
言葉に悩んだように、目線を落とした。
この言葉を、彼に伝えてしまってもいいのかを。これを聞いたところで、壮馬はどう思うかを。一瞬の躊躇いだったが、小さく首を横に振るとあのね、と言葉を続けた。
「……私、壮馬くんの歌声が好きだよ」
まっすぐに、純粋に言葉を伝えた。伸び伸びとした優しい声が、まっすぐで澱みなく澄んだ声が。そしてなによりも歌が好きだという事が伝わるその声が、好きだと思えた。
そんな気持ちを込めた一言を、彼はどう捉えたのか。
少しだけ驚いたように目を見開いたその表情は、嬉しそうだなと感じた。けどそれも、本当に一瞬の話で。
「――あぁ、知ってる」
またいたずらっぽく、けど本当に知っているかの様子で彼は笑う。
「だって美奈ちゃん、さっき俺の歌を聴いてる時すごく楽しそうだったから」
「たのしそ!?」
顔に出てしまった事を教えられて、咄嗟に頬を両手で隠した。そこまでわかりやすく頬が緩んでいたとは思わず、なんだか恥ずかしさもこみ上げてくる。
けれども壮馬は顔色一つ変えず、どちらかと言えばあの掴みどころがない表情を貼り付けた。
「嘘だよ、美奈ちゃんすごく真剣な顔してた」
「あー、すぐそういう事言う!」
いつものからかいだったとわかり、つい声を張った。
壮馬という存在を知ってから、美奈もそれなりに慣れたつもりだった。けれどもやはりこういった接し方には慣れる事ができなくて、美奈は壮馬の事で頭がいっぱいになるような感覚だった。
「俺も好きだよ、美奈ちゃん」
その言葉がなにを意味したのか、美奈にはわからない。
ただ優しさの中には諦めが色濃くあるような、そんな気がした。
***
「そもそも美奈ちゃんって、なんで音痴なのに歌を練習したいって思ったわけ?」
「……壮馬くん、デリカシーって言葉知っている?」
あまりにも前触れがなかったその話は美奈にとって柔らかい部分のもので、つい声を低くしながら唸るように言葉を投げかけた。
「悪気があって聞いたんじゃない、気分を害したなら謝るよ」
いつも通りの軽い口調のまま、本当に悪気がないと言いたげなそれに美奈はなにも言い返す事ができなかった。
「……最初に言ったけど、合唱コンクールがあるからで」
「本当に、それだけ?」
すべてを見透かしているような、そんな言葉だった。
なにも言い返せないそれに、美奈もつい肩を揺らす。なにもかもを知っているような、底の見えないなにか。じっと美奈を見つめる壮馬がなにを考えているのか、わからない。
そんな時間がどれだけ続いたか、実際には瞬きするほど短い時間だった沈黙の中で、耐えられず美奈は小さく溜息をつく。
「……好きな歌を、歌っている子がいたの」
まるで落としたなにかを拾うように、一つずつ言葉を選んでいく。
「同じ幼稚園の、男の子。名前も知らないその子は歌が上手で、楽しそうに毎日歌っていた……あの子が毎日、私のために歌を歌ってくれた。毎日聴いて、好きだよって言ってた」
だから自分が音痴と言われる部類でも、歌を嫌いになる事はできなかった。
だって、あれだけ伸び伸びと歌っていた名前も知らない彼が、楽しさを教えてくれたから。
「もちろん歌は苦手だし、全然上手くなれなかったけど……それでも楽しいと思っている子がいるってわかっているから、私もあぁやって歌えるようになりたいって心のどこかで思っていたの」
だからこの合唱コンクールで、歌う事に対しての苦手を美奈は克服したいと思った。
そんな時だ、この立ち入り禁止の空間で壮馬に会ったのは。
「だから私、ちょっと楽しいの。少しでも歌が上手くなる毎日に」
屋上という少しだけ非日常な空間で歌うのは、心臓の音もやけにうるさくて、そことは違うどこかにいるような感覚にもなる。けどそれも全部、壮馬が教えてくれた事。
だから、美奈は壮馬に少しだけ感謝をしていた。
「……へぇ」
そんな中で、ずいぶんと興味のなさそうな声が返ってきた。言われた美奈もなんだかいい気分ではなく、不機嫌だと言わんばかりの表情を作りながら目線を向ける。文句の一つでも言おうと思ったはずなのに、まっすぐに重なった視線を見てしまうとなにも言えなかった。
その声とはまったく逆の表情で、優しく目を細めた壮馬は美奈ちゃん、と名前を呼んできた。
「だから、美奈ちゃんは歌を練習するわけなんだね」
歌を好きである事が自分の事みたいに嬉しいようで、壮馬はそれ以上なにも言わず美奈の顔を見ているだけだった。それがなんだか恥ずかしくなり、ふいと視線を逸らす。普段は掴みどころの態度をしてくるからこそ、なんだかずるいと思ってしまう。
「うん……私練習して、もっと上手くなりたい」
「音痴だけどね」
「壮馬くん、一言余分だよ」
ケラケラと屈託なく笑う壮馬の表情は、なんだか見ているだけで心がふわふわしてくる。最初に出会った時からは想像できなかったその気持ちの答えが、美奈にはわからない。
「俺も美奈ちゃんが歌ってくれるの、すごく嬉しいよ」
そうやって笑う壮馬自身の表情も好きである事は、言う事ができなかった。
***
「最近美奈、なんか歌上手くなったよね」
休み時間よりも少し早く音楽の授業が終わった頃、投げられたその言葉につい目を丸くした。
「……私?」
「うちのクラスで美奈はあんただけでしょ、なにかやったわけ?」
「なになに、なんの話?」
ずい、と顔を近づけてくる友人の様子を見て、また他の友人が興味本位で近づいてきた。それがなんだか恥ずかしくて、目を逸らす。
「最近美奈の歌が上手いよねって話、そう思わない?」
「あー、わかる。なんか音が取れているというか、伸び伸び歌っているというか……」
「それ、私が音痴って言っているようなもんじゃん!」
恥ずかしさを紛らわすように笑うと、他の友人もどっと盛り上がる。
自分の歌が、前までは嫌いで仕方がなかった。それなのにあの日の屋上で出会った壮馬のおかげで、人前で歌う事を楽しいと思っている自分がいる。それが美奈には、なんだか不思議な気分だった。
(やっぱりすごいな、壮馬くんは)
彼に出会って、音に色が着いた。それは紛れもなく事実であり、その事を考えるとまた美奈の頬を緩んでしまう。
もう、どれだけ歌を聴いてもらったかはわからない。自分の中では上手くなっているのか疑問だったそれも壮馬にとっては良かったらしく、気づくと美奈の歌を子守唄にしてうたた寝をする事も増えてきた。
(けど、壮馬くんの歌は……)
あの日、お願いをして聴かせてもらった時以降、壮馬は一度も歌っていない。
息の仕方が下手だからと笑った彼の歌声は、少なくとも美奈がこれまで聴いたどの声よりも暖かかった。もう一度聴きたいなんて思う自分の傲慢な気持ちに少し苛立ちもするが、何度消そうとしてもその気持ちは膨らむばかりだ。
考えれば考えるほど、最近の美奈は壮馬の事ばかりを考えている。
それが自分の中で少し恥ずかしくも思えて、同時にむず痒さもあった。
「ちょっと美奈、話聞いてる?」
「あ、ごめんなんだった?」
意識を引き戻すと、目の前で友人達が心配そうに美奈の事を見ている。気づくと、教室にいるのは自分達だけだった。
「次お昼だし、早く教室戻ろうよ」
「そうだね、ちょっと待って」
机に置いてあった自分の教科書とペンケースを抱えて、二人の後を追う。
廊下に出ると他のクラスメイトはみんな教室に戻っているようで、教室から漏れ出てくる授業の声だけが微かに聞こえるだけだった。
「けどあれだよね、歌が上手くなるってそれだけじゃないとか聞くじゃん?」
「あ、知ってるそれ」
「それ……?」
なにを話しているのかわからず、首を傾げた。
歌と彼女達のいうなにかにどんな関係があるのか、ただ壮馬に練習を見てもらっているだけの美奈にはわからない。
「またぁ、カマトトぶっちゃって」
「誰、誰なの?」
「待って、誰ってなんの話」
「なにって、好きな人できたんでしょ? 好きな人を想って歌うと上手くなれるとか言うし」
「まさか、通り越してすでに彼氏!?」
「かれっ!? そんな、違うって!」
突拍子もない言葉に、少し過剰に反応をしてしまう。それだけで、目の前にいる彼女達には楽しい話題の起爆剤になってしまいニヤニヤと顔を近づけてくる。
「あれぇ美奈、なんかあからさまに焦ってない?」
「これはもしかして、もしかしなくても?」
「だから違うよ、そんな関係じゃない!」
「じゃあ、そんな関係になりたい人はいるの?」
「それ、は……!」
自業自得で口を滑らせてしまったそれに、また顔をしかめた。
けど正直、美奈が壮馬に対して持っている感情は美奈自身が一番わかっていなかった。
(壮馬くんとは、そんな関係では……)
壮馬の歌が、声が好きなのはもちろん事実だった。それはきちんと、あの時本人にも伝えている。
しかしその中に他の感情がないのかと聞かれれば、わからなくなってしまう。
屈託なく笑う表情や少しいたずらっ子にも見えるその振る舞いの中で、彼には優しさがあると美奈は思っていたから。
「美奈もしかして……誰かの事考えている?」
「お、これはもしかして……!」
「本当に、そんなんじゃないから!」
からかってくる二人に少しだけ声を張っていると、そのまま教室の並ぶ廊下へ差し掛かった。一年生は、ざっと十二クラス。美奈のクラスである八組はちょうど真ん中辺りに位置しており、九組より後ろの教室を横目に自分のクラスへと戻る事になる。「そういえば……」
(壮馬くん、クラスどこなんだろう)
考えた事もなかった話を、いまさら思い浮かべる。
もうかなりの時間二人で屋上にいるが、クラスの話はほとんどした事がなかった。した事がない、というよりは聞いた事のない方が表現としては正しいのかもしれない。
美奈自身は、歌っている理由がそもそもクラスの話だからしている事もある。
しかし壮馬から聞くのはだいたいが歌の話か、後は簡単な中身のない世間話のようなものばかり。十二もクラスが分かれているこの学年の中で、話題に上がらなければどのクラスに誰がいるかはわからない話だった。
「……いるかな」
少し、ほんの少しだけ興味があった。
毎日のように屋上で顔を合わせる、それだけでそれ以上でもそれ以下でもない秘密の関係。その相手が普段はどのように過ごしているのか、それが美奈は気になってしまった。美奈自身が知らない壮馬を知りたいと思えるのは、なんだか不思議だった。 キョロキョロと視線だけを動かして、教室を小さな窓から覗き込む。
「なに美奈、彼氏でも探してんの?」
「美奈の彼氏何組?」
「違うって」
二人の言葉を聞き流しながら、また視線を動かした。
美奈は、そこまで他のクラスと交流がある方ではなかった。あるとすれば同じ中学の出身である子や、委員会が一緒の子くらい。部活にも参加をしていない美奈には、それぞれのクラスに聞けるような友人がいないのが悲しい話だった。
「……ここも、いない」
二つの教室を覗いて、肩を落とす。
探している相手の姿はどこにもなくて、どうやら目の前にある教室はどちらも見当違いであったらしい。
だからとまた他の教室に目を向けて、中を覗き込む。最初は茶化してきていた二人も真剣な美奈の表情をどう思ったのか、見守るように後ろからついてきていた。
そんな行動を、何度取ったか。廊下側に座る生徒に変な目で見られた自覚は、もちろんあった。目の前にあるのは自分のクラスである八組、九組までの教室に、壮馬はいない。
「じゃあ、七組より前?」
「ちょっと美奈、誰探してんの」
「あ、えっと……それは、昔の知り合いが同じ学校っぽくってさ、その確認!」
この事を話したら屋上の事がバレてしまうと、それは美奈もわかっていた。壮馬との関係を話すのに必要不可欠であるからこそ、つい美奈は言葉を濁す。
(別に、知り合いである事をごまかすのはしなくてもいいのに)
昔の知り合いという言葉は、咄嗟に出たものだった。
そこまでやましい関係をしているとは思っていないが、それでも自然と隠してしまう。心のどこかで、壮馬との関係に踏み込んで欲しくないという気持ちがあったから。
若干の罪悪感とともにまた探すのを再開して、七組より前の教室を覗いた。しかしどれも正解には程遠く、壮馬の姿を見つける事はできない。
そして、最後の一組も結果は同じで。
「……あれ、やっぱりいない?」
もしかして、また屋上にいるのだろうか。
一瞬だけそんな事を考えたが、どの教室もまだ授業中で体育や美奈達以外で移動教室のクラスもなさそうだ。ならどこにいるのだろうかと、つい首を傾げてしまう。
「え、知り合いなのに何組かわからないの」
「そもそも同じ学校なわけー?」
「同じだよ、それはわかってる」
だって屋上で会ってるからとは、口が裂けても言えなかった。
人脈の少ない美奈に、これ以上探す方法はない。たまたま休みだったのかもしれないなどと考えてふと顔を上げた時に、美奈はある事に気づく。
「なんだ、あるじゃん人脈」
「……美奈?」
じっと、目の前にいる二人の顔を覗き込む。先程から美奈の怪しい一連の流れを見ていた二人は心配して一緒にいてくれたが、二人揃って美奈にとっては貴重な人脈だった。そして、なにより。
「二人って、部活入ってるよね」
「部活というより、私は生徒会だけどね」
部活や委員会よりも生徒の事を覚えていそうな存在である友人は、今の美奈にとっては最早神に近い存在と思えた。
「他のクラスの生徒とか、覚えてる?」
「まぁ、一応? そこまで重要じゃないし会長も覚えてないけど、私は同じ学年みんなと仲良くしたいからなるべく覚えるよう努力してるよ」
願ったり叶ったりだと、そう思えた。
「あのさ、うちの学年で壮馬くんていると思うんだけど……二人は何組か知っている? 壮大の壮に馬で壮馬なんだけど」
だからと理由はなしにして、それだけを聞く。
同じ響きの名前なら、もちろんいるはずだ。けれども同じ漢字となれば話は別で、簡単に書き方を伝える。
「壮馬……?」
ぴくりと、友人のうち生徒会に所属している彼女の肩が揺れた。心当たりでもあるのかと言葉を待っているが、なにかを思い出すように目線を落とし彼女は、しばらく黙り込んでしまう。
「美奈……その人って壮馬って名前であってんだよね?」
「うん、もちろん」
間違える事なんて、絶対ない。
これははっきり、声を大にして言える自信があった。しかし彼女の顔色はさらに曇り、力なく首を横に振るだけだった。
「壮馬って……そんな生徒うちの学年にはいないはずだけど」
「…………え?」
その後、美奈がどう動いたかは美奈自身もよく覚えていなかった。
ただ後ろから聞こえる友人二人の声には振り向かず、手には音楽の教科書を持ったまま廊下を抜けていた。
三階のさらに上、少しだけ階段をあがった先にあるそこは、普段と変わらず名前だけの立ち入り禁止札がかけられていた。それを横目に少し進むと、閉められたドアに手をかける。
普段の彼は、鐘が鳴る前から屋上にいる事もあったから。
「壮馬くん……!」
少しだけ、自分でも力を込めすぎたかもしれないと思った。軋むように悲鳴をあげながら開いたドアは、キイと耳障りで錆び付いた音をあげている。
けど、それだけで。
「……壮馬、くん?」
昼休みを告げる鐘は、澄んだ空を突き抜けるように響いている。
けどそこに、あのいたずらっぽく笑う姿はなかった。
***
壮馬の姿を、見なくなった。
まるで、最初からそこにいなかったかのように。
最初から、壮馬自体が美奈の見ていた幻覚だったかのように。
「美奈、本当に歌上手くなったね」
「そんな事ないよ……」
そんな心のシコリとは反対で、美奈は練習を続けていた。こないとは心のどこかでわかっていながらも、屋上に足を向けてしまう。
ただ、なんとなくの話だった。あそこで、あの屋上で歌えば壮馬がくると思ったから。けど、現実はそうもいかない。もしかしたら会えるかもしれないという不確かな感情のままに足を向け、そのまま会う事もできず一人で歌う毎日。
あれから一週間が経ち週末が明けても、壮馬の姿はどこにもない。一年生の教室を覗き込むのも、日課になってしまった。壮馬はいないのか、そう思い探してしまう自分がいるのは、なんだか女々しいとも思えてしまう。
「歌もそうだけど、なんかはっきり言ったり積極的になったというか」
「それわかる、発声がよくなったのかな?」
(積極的なのかはわからないけど……)
自分でも、少しだけ自信は持てるようになったと思う事がある。
そしてなにより、前以上に歌が好きだと思える。
どれも全部、壮馬がくれたものだった。
(……今日も壮馬くんは、いないのかな)
歌は楽しい、それはこの屋上で彼に出会い知る事ができた。
けど、一人で歌うのは少しだけ寂しいというのを、初めて知った。
(せめて、なにか連絡手段があれば体調がよくないのかとか聞けたのに……)
思えば、壮馬と連絡先の一つも交換していなかった。
屋上での、内緒の関係。どのクラスなのかも知らない彼の事を考えると、また気分が沈んでしまった。会いたいと思うこの気持ちの答えが、美奈にはわからない。
「そういえば美奈は知ってる? 最近話題らしい、保健室の噂」
「噂……?」
名前を呼ばれ意識を連れ戻すが、振られていた話の内容が読めずに首を傾げてしまう。あいにく、美奈は保健室とそこまで縁のある生徒ではない。ケガをあまりしない上に、体調を崩す事も年に一度あるかないか。だから保健室の噂、と言われてもあまりピンとこないのが正直な話だった。
「なに、幽霊でも出るの?」
話を合わせるように、そう聞いてみる。
「幽霊かはわからないけど……最近ね、誰もいないはずなのに声が聞こえるんだって」
「声……?」
「歌声なのかなぁ……喋り声とは違うらしいよ」
「なにそれ、やっぱり幽霊じゃん」
目の前で飛び交う話に、つい耳を傾ける。興味はないはずなのに、と自分でも不思議な気持ちになった。
「けどあそこ、養護の先生いるよね」
「いるいる、だから生徒だとは思うけどそれが上手いらしいよ。ここ一週間で突然聞こえてくるようになったらしいけど、授業の時間になると絶対に聞こえてくるんだって」
「へぇ、少し興味あるかも」
「やめなよ、本当に幽霊だったら怖いじゃん……」
楽しそうに繰り広げられる、確証のないはずの噂話。
それなのに、美奈は腹の底が熱くなるように感じた。
「歌を歌う、誰か……」
誰かなんて、そんな事わからないはずなのに。
たくさんいる生徒の中で、そうであるという確信は一切ないのに。
それなのに、美奈の中でなにかが晴れていくような、そんな気がする。
「けどそれがさ……って美奈?」
「どうした? いきなり立ち上がっちゃって」
自分でも無意識で、その場で立ち上がっていたらしい。
指摘をされて気づいたけど、もう自分自身を止める方法はなかった。
「あ、えっと、お腹痛いって言うか」
「大丈夫? もうすぐ授業始まっちゃうけど」
「大丈夫、だけど」
お腹の調子は大丈夫だった、けど決定的な美奈自身は大丈夫ではない。
高鳴る心と、今すぐにでも教室を飛び出したいという衝動で美奈の中はいっぱいで、その中には彼のいたずらっ子のように笑う顔もある。
「……ごめん、やっぱり大丈夫じゃないから保健室行ってくる!」
「わっ、ちょっと美奈、授業は!?」
「無理そうだったらついてく……って、もういない」
「絶対あれ、仮病でしょ」
遠くで、そんな声が聞こえた。
(うん、仮病だよ)
人生で初めての、仮病。
階段を駆け下りる中で、美奈の心臓はどんどんうるさくなっていく。
もしかしたらという感情と、少し悪い事をしているという事実に対して。
屋上で歌を歌う時と少し似ているはずなのに、あの高鳴りとはまた違うなにかがある。
校舎の本館、職員室の少し手前。
通る事はあっても健康診断以外で入った事のないそこには、少しだけ可愛いうさぎが書かれたボードがかけられている。不在だから勝手に入って問題ないとあるそれに従い、ドアへ手をかける。遠くからは、すでに鐘の音が聞こえていた。
「っ……」
少しだけ、ほんの少しだけ開けたドアの向こうからなにかが聞こえる。
どこか機嫌のよさそうなその声は、いつだったかに聞いたワンコ―ラスによく似ていた。
「……失礼、します」
部屋の主である養護教諭は、不在とわかっている。
それでも誰かがいる以上、つい頭を下げながら入った。
慣れない保健室は変わらずツンとした薬品の匂いで満たされていて、不在の時用なのか丁寧に絆創膏や消毒液がどこにあるか大きめの字で書かれている。けど、今の美奈はケガをしているわけではない。
「……」
それよりも目に留まったのは、保健室の利用者表だった。
中学生の時友人の代わりで書いた覚えのあるそれは、どの学校でも同じものを使っているらしく個性のある文字達が並んでいる。
その中の、一番下。退室時間が唯一書かれておらず保健室にいるのが彼だけだとわかるその欄には、二年三組竹内壮馬と名前が書かれていた。
(壮馬くん、竹内って言うんだ)
若干他人事のように考えて、そのまま保健室の奥へ進んだ。
数個あるベッドの住民は歌う事に夢中で、美奈には気づいていないらしい。
元々足音は立てていなかったのもあったけど、彼にしてはなんだか不用心だなと思った。
「っ……」
揺れるカーテンの向こうに、人影が見える。
少し弱々しい。けれどもまっすぐな歌声だ。
(……声出すの、なんだか辛そう)
歌わなければいいのになんて、そんな言葉は出なかった。
それを言う権利は美奈にないとわかっていて、なによりも彼が歌を好きだという事に関しては美奈が誰よりも知っているから。
それでも同時に、このまま帰るつもりも一切ない。
「――壮馬くん、なにやってんの」
勢いよくカーテンを開けると、前触れなかったそれにカーテンの向こうで歌っていた壮馬は、驚いた様子で肩を揺らした。
「うわ!?」
「……保健室なのに、やけに元気そうだね」
「それは、もう」
「私、怒ってんだけど」
普段と変わらない掴みどころのない表情が、逆に苛立ちに繋がっていく。
ずいと顔を近づけて、やり場のなくなった視線を泳がせた。なんて言えばいいのか、なにから言えばいいのか正直わからない。けどなにを一番言いたいかと聞かれれば、それはきっとこの苛立ちで一番の元凶である事で。
「…………噓つき」
「え、なにが」
「やっぱり年上じゃん、噓つき!」
「そこ、いやそれはごめん」
さっき見たばかりの、利用者表。初めて見た壮馬の字は、紛れもなく二年と書かれていた。初めて会った時に言った、同い年であるという話。それが嘘だったとわかった事が、今の美奈にとっては怒りの中心にあった。
けど、冷静に考えれば最初からわかっていた話だ。
壮馬は、合唱コンクールに対してもうそんな時期、と言った。経験をしていなければ、出てこない言葉だ。
「……その、壮馬く、じゃなくて壮馬先輩は」
「ふはっ、いいよいつも通りで。元々敬語で言われるのが嫌だったのもあるし」
ぎこちなく言葉を選んだ美奈が面白かったのか、壮馬は楽しそうに笑っている。あまりに面白かったのか長く笑い、ふうと息を吐いた。少し笑いすぎたのか、乾いた咳が聞こえてくる。
「……えっと、久しぶり、美奈ちゃん」
へらりと目を細めたその顔が、美奈には心臓が押しつぶされそうなほど苦しくなる。
「ごめんな、あれからちょっと体調よくなくてさ。言いたかったけど、連絡先知らなかったし」
「……どこが、悪いの」
絞り出すような声で、壮馬に問いかける。
知る権利なんか自分にないと、わかっている。名前も知らなかった、学年だって知らなかった関係。だから壮馬の事を知る権利は、美奈にない。けど、それでも問いかける他に選択はなかった。
そんな美奈を見た壮馬は、一瞬だけ考える。
少し視線を落としながら、答えを探すように。
きっと短いその時間も二人にとってはひどく永いもので、壮馬の方が呼吸を整えて口を開いた。
「――喉の、病気なんだ」
「喉……?」
「うん」
少しだけ寂しそうに頷くと、自分の喉元へ手を当てる。
「腫瘍とか、そういった部類のやつ。喋るのには問題ないけど、そのままにしていると命に関わるから」
「……取るの?」
「うん、取るよ。死にたくないって思えたから」
また、壮馬は笑っている。今度は、どこか力強い表情で。
「元々、この手術があるから教室にも行けていない……出席日数の心配があるから、ほとんどを保健室で過ごしてたんだ……屋上に行っていたのは、気分転換で歌いたくて保健室を抜け出してた」
それだけ歌う事が好きなんだと、容易に想像ができる。
「……あの時、美奈ちゃんと会った時」
「……うん」
「――死のうと、思っていた」
「…………うん」
知っている、知っていた。美奈は、気づいていた。
フェンスの向こうにいるのが、なにを意味するのか。薄らだが、そんな気はしていた。けど、あの時の美奈に言う資格はなかった。
「声が変わるかもしれないなんて、今の歌声が変わるのは嫌だった……ずっと昔に好きな子から歌声が好きだって言われてから大切にしてて、そこから歌が俺の宝物になっていたから」
遠い昔話をする壮馬は、そこで美奈の目を見る。まっすぐ、あの歌声のように。
「けど、そこで聴こえたのが美奈ちゃんの下手くそな歌声だった」
「それ、貶してる?」
「ううん……褒めてる。だって俺を救ってくれたから」
恥ずかしがる様子もなく言われた言葉は、どこか暖かかった。ずっと前から美奈を想っていたように。
「……手術、いつなの。難しいの」
「来週、少し厄介なとこにあるらしくて……正直難しいらしい」
ずいぶん急な話だと出かけた言葉は、そっと押し戻す。美奈は彼を、屋上でしか知らない。ならば、彼のそういった部分を知らないのは当然だから。壮馬にとってはずっと前から決まってたかもしれないそれは、美奈にとって突然の事だった。
(壮馬くんが、どこかに行くなんてやだ……)
きっと彼はそうなった時、ふらりとなにも言わずいなくなってしまうはずだ。それが、たまらなく嫌だったから。
「――デュエット曲」
「え……?」
美奈がなにを言っているのかわからない、と言いたげな壮馬は少し抜けたような声を出していた。
「前にワンコーラス歌ってくれたデュエット曲の女性パート、私練習しておくから、いっぱい練習して待ってるから!」
美奈の言葉に、壮馬は目を丸くした。
なにかを考えるように、その言葉を噛み締めるように。最初は理解が追いついていないような表情だったそれも、ようやく理解できたのか次第に頬を緩めていく。
「じゃあ美奈ちゃん、俺と歌ってくれるって約束してくれるの?」
「――もちろん」
美奈も驚くくらい、はっきりとした声が保健室に響く。
なによりも長い静寂の後、はは、と壮馬の嬉しそうな笑い声が上がる。
「そんな熱烈なお誘いされたら、尚更死ねないじゃん」
「だって、壮馬くんに死んでほしくないから」
心からの、美奈の本心だった。
「ありがとう美奈ちゃん……君は変わらないね」
「へ、変わらない……?」
なにを言い出したかと、今度は美奈が目を丸くする。
「美奈ちゃんって、人に感情を伝えるのは上手いからね……きっと歌も、もっともっと上手くなる」
褒められて、少しだけ恥ずかしい。
だからと目線を逸らそうとしたが、そんなふわふわした感覚はすぐ引き戻される事になる。
「あの時みたいに――幼稚園の時みたいにまた好きだと言ってくれたし」
「それは……ちょっと待って」
身に覚えはあるが場違いなその言葉に、美奈の肩が揺れた。対する壮馬は、種明かしをするマジシャンのように楽しそうだ。
「あの時も今も、俺の歌を好きって言ってくれて、宝物にしてくれてありがとう」
すべてが、あの時に繋がっている。壮馬の今までの態度や、すべてを知っているような言葉が。
小さな手で拍手したあの時に、拙くても優しい歌声を聴いたあの時に。
それを、壮馬の一言ですべて理解した。
「あの時の、なんで、言ってくれなかったの……」
「だって美奈ちゃん、俺だって事忘れてたし」
「それは、そうだけど」
お互いに、面影があるかと聞かれてしまうとわからない。それだけ時間が流れたのだから、当然の話だった。
「美奈ちゃんとこの学校で、あのタイミングに屋上で会えたのは奇跡でしかなかった……もう、会えないと思っていたから」
すべてが、偶然の話だった。美奈と屋上で再会したのも、歌を歌ったのも。けど、壮馬のその言葉を聞いた美奈は小さく首を横に振る。
「奇跡だと思うのは……私の方だよ」
不正解の音に色をつけたのは、間違いなく壮馬だ。
過去の事も今も、すべてが重なってこの歌になる。ならば、あの屋上での瞬間すべてが美奈にとっては輝く宝石のようだから。
(だから、この時間が消えて欲しくないから)
「――あのね、壮馬くんの事が好きなの……歌声も笑顔も、それから優しく笑ってくれるところも」
自然と、溢れるように言葉が出てきた。
今日まであった寂しさや悲しさや虚無感を満たすように、言葉が零れていく。
デュエットだけではない、もっと他に壮馬が帰ってくるきっかけがほしかった。
「ごめん、ごめんね壮馬くん」
次に出たのは、そんな力ない謝罪の言葉。
我ながら重いと、そう感じたから。それなのに壮馬は少しだけ肩を揺らしただけで、嬉しそうに笑ってた。
そして言葉を選ぶ事なく、まっすぐな目で美奈を見つめる。すべてを、歌に乗せて伝えるように。
「俺も好きだよ、美奈ちゃん――美奈ちゃんの全部が、ずっとずっと昔から」