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 墓石に刻まれた彼女の旧姓。

 生前母が好きだった白百合の花と父が好きだった和菓子を供え、線香を立てる。

 ──お父さん、お母さん。私、新しい家族ができたよ。
 ──世界一素敵で優しい旦那さんと、私を本当の娘のように想ってくれるお義母さんが。

  ◇◇◇

 新郎との思わぬやりとりをした日から数日。

 本業の休日に、遥はとある場所へと呼び出されていた。

 劇団拝ミ座の建物から少し歩いた隣町に広がる、閑静な住宅地だ。

 戸建ての多く立ち並ぶ道には所々に花壇が置かれ、少し遠くからは公園から子どもの嬉しそうな声が届く。
 そんな心地の良い町並みの一角、北欧風の可愛らしい外観の一軒家の前で、三人は身を潜めていた。

「……で? 臨時演者の懇願に根負けした結果、こうなってるわけか」
「はいはい和泉、そんな怖い顔しないしない」

 二人の長身イケメンのうち、一方は朗らかな笑顔で、もう一方は迷惑そうなしかめ顔で遥を見下ろしている。

「憑依させる相手のことをもっと知りたい遥ちゃんの考えも尤もでしょう。それだけ自分ごととして考えてくれている証拠だし、無碍にするわけにはいかないよ。というわけで、今日の仕事には遥ちゃんも参加させてもらいまーす」
「それはそうだろうがな、よりによって今日かよ」
「も、も、申し訳ありません、和泉さん……!」

 想像以上の邪険具合に、遥は瞬時に深々と頭を下げる。

 しばらく固まっていると、頭上からため息の気配が届いた。

「まあいい。元はこの馬鹿が了承したのが始まりだからな。別にあんたに謝ってもらうことでもない」
「さすが和泉。ツンケンしてても本当は優しいんだよねー」
「つまり全ての原因はお前にあるってことだわかってんのかてめえは」
「あ、あの、私が言うことではないんでしょうが、どうぞ落ち着いて……!」

 ヘラヘラ笑う雅とその胸元を掴み凄む和泉の姿に、遥は慌てて言葉を重ねた。

 しばらくの間を置き、二人の間に距離が生まれる。
 こんなやりとりもどうやら二人には日常茶飯事なのかもしれない、と遥は思った。

「言っておくがこっちの調査は今日が本丸なんだからな。余計なことだけはしてくれるなよ」
「はい! それはもちろんです」

 素早く返答をしたあと、遥は改めて目前に立つ和泉の身なりに目をやった。

 以前目にした彼は、黒い短髪にやや鋭い目つきが印象的なイケメンさんだった。
 服装も黒シャツにジーンズ姿で、何となく人を寄せ付けない空気をまとっていた印象がある。

 しかし今の和泉は、目つきこそ変わらないものの髪型や服装は比較的柔らかだった。

 毛先は大人しく下ろされ、柔らかなフランネルシャツに薄い色合いのチノパンをまとっている。
 印象的な鋭い瞳も、かけられた眼鏡で印象が和らげられていた。

「今回の依頼以降、和泉にはここの洋裁教室に生徒『川水(かわみず)颯太(そうた)』として潜ってるんだ。今日の格好も、生徒としての念のための変装だね」
「なるほど」

 ごく自然に告げられた雅の説明に納得する。

 確かに潜入調査のためならば、服装や第一印象は変えておいた方がいいのだろう。
 殊に彼は、他者に与える印象が人一倍強い方だろうから。

「ということは、この洋裁教室が亡くなった花嫁さんと何が繋がりがあると?」
「そういうこと。この教室は元々先生がふたり居るんだけどね」
「おい雅。沿道でがやがや騒いで誰かに聞かれたら」
「あら? もしかして颯太くんかしら?」

 曲がり角の向こうから聞こえた女性の声に、遥はびくっと肩を揺らす。

 次の瞬間、凄まじい速さで遥の口は覆われ、身体ごと電柱の影に収められた。

「やっぱり颯太くん! 早かったのね。もしかして待たせちゃったかしら?」
「こんにちは先生。すみません。完成が待ち遠しくて、つい早く着きすぎてしまいました」
「颯太くんの作ってるジャケットもいよいよ完成間近だものね。さあ、どうぞ入って入って」
「ありがとうございます。お邪魔します」

 慣れ親しんだ様子で家に招かれ、「颯太」と呼ばれた青年が洋裁教室へ入っていく。
 愛想がよく爽やかな表情を浮かべたその姿を電柱の影から見送りながら、遥は目を丸くしていた。

「え……今の……和泉さん……颯太くん……ええ?」
「はは、わかるわかる。落差が激しいんだよねえ、和泉の演じる好青年は」

 くくっと肩を揺らした雅は、電柱の影に収めていた遥の身体をそっと離した。
 雅の機転のお陰で、先ほどの女性に遥の姿は見られなかったようだ。

「今の女性がこの洋裁教室の先生の一人で、この家の持ち主だね。世話好きで人当たりのいい人だって『颯太』くんが言ってたよ」
「和泉さんもさすが劇団の一員ですね。演技の瞬発力が凄いです……」

 というか、人格が変わりすぎてなかなか空恐ろしい。

「和泉自身は、演者は本職じゃないって言ってるけどね。もともと和泉は、一日中服作りをしてても苦にならない洋裁馬鹿だから」

 和泉は、劇団の活動に必要な衣装の制作を一手に担っているらしい。

 亡き人が未練を残したときの姿形を、極限まで再現させる。
 そのことに、彼は深いこだわりを持っているのだという。

 その信念の強さは、彼の瞳の強さにそのまま表れているような気がした。

「さっき、この洋裁教室には元々ふたりの先生がいるって話したでしょう。そのもう一人の先生が、実は今回の花嫁の義理のお母さんなんだ」
「えっ」

 思わぬ報に、自然と身体が前のめりになる。

 義理の母ということは、先日の花婿さんの母親ということだ。

「そういえば私、夢の中で見ました。花嫁さんと花婿さん、そのお母さんの三人で仲良くお話ししている姿を。その中で花嫁さんが、お義母さんにウエディングドレスを作ってもらう約束をしていました……!」
「へえ、すごい。遥ちゃんの夢見の力は思った以上だね」

 目を見張る雅が、さらに話を続ける。

「その通り。お義母さんは今回、花嫁のウエディングドレスを制作したんだ。そのドレスのデザイン画はここに保管されていてね、ここに潜り込んだ和泉が、早い段階で確認することができたんだよ」
「だから、ウエディングドレスはすでに制作が済んでいたんですね」

 それにしてもウエディングドレスまで手がけることができるなんて、花嫁の義理母も和泉も想像以上の腕前だ。

「本来ならドレスが完成することでここへの潜入調査は終わるはずだったんだけどね。実はお義母さんは花嫁に内緒でもうひとつ、プレゼントを作っていたらしいんだ」
「プレゼント、ですか?」
「うん。そしてそれをサプライズで渡すため、お義母さんは式の前日に花嫁さんに連絡した。花嫁さんは幸せな予感を抱えながら急いで家を飛び出したらしい」
「……! まさか、それを受け取りに出た先で、花嫁さんは……」

 静かに頷いた雅に、遥の胸が潰されるような心地に襲われる。

 花嫁の喜ぶ姿を楽しみに何かを制作した義理母と、幸せいっぱいに受け取りに出た花嫁。

 その直後に、もう二度と会えなくなる未来が待っているなんて、一体誰が想像できただろう。

 じわりと滲みそうになる涙に気づき、そっと目頭に力を込めた。
 ここでぐずっていても、誰の役に立つわけではないのだ。

「その事故以来、お義母さんは新郎以上に塞ぎ込んでしまったらしい。家から滅多に出なくなって、洋裁教室にも顔を出さなくなったんだ。作ったプレゼントも、心配で家を訪ねたもう一人の先生に預けたままだと」
「そんなことがあったんですね……」
「でも先日、お義母さんから洋裁教室に連絡があったらしい。今日もしかしたら、ここに立ち寄るかもしれないってね」
「え!」

 ぱっと表情を明るくした遥が、即座に雅を見上げる。

 そんな遥を待っていたかのように、雅が柔らかな笑みを浮かべた。

「和泉はね、花嫁を、本来まとうはずだったはずの花嫁姿にしてあげたいんだ」

 ふわり、と青い初夏の薫りが、風に乗って届けられる。

「プレゼントが仕舞われた場所までは知っているけれど、その紙袋は頑丈にテープで閉ざされていて中身を確認できていない。お義母さんが丹精込めて作ってくれたプレゼントまで揃えば、花嫁さんもきっと喜んでくれるはずだよね」
「そうですね。でも、いったいどうやって中身を確認すれば……、あっ」

 言葉が終わるよりも早く、遥は通りを飛び出した。
 向かう先には小さな川が流れ、朱色に塗られた短い橋が架かっている。

 その袂には、一人の女性が苦しそうに呼吸を乱してうずくまっていた。