自室まで担がれ布団に身体を放り込まれても、雅は一向に目覚めなかった。
雅はお役目から戻ったら、四半日はてこでも目が覚めない。
床の間の衣紋掛けに雅の紺羽織を丁寧に掛けながら、葉月がどこか愉しげに話す。
身支度を終え用意された朝食を終えた遥は、一人大邸宅をあとにした。
頬を撫でる風は、森の奥から届いたのことを知らせるような緑の薫りがする。
「おい。どこに行くつもりだ」
「ぶーちゃんさん」
いつの間にか後ろをついてきていた猫又に、遥はそっと微笑みかけた。
「あのまま部屋に籠もっていても仕方ありませんから。少しだけ村の皆さんにお話を聞けたらなあ、なんて」
「まさかお主、まだ何か妙なお節介を焼くつもりではあるまいな」
猫又は呆れた調子でため息を吐く。
「葉月も言っていたであろう。確かにお主は自身に憑依させる能力に優れているが、術者の同郷の者を憑依させるのは禁忌だと」
「わかっています。なので、他に何か私にできることがないのかと」
「お主も大概頑固者だな」
自分の唯一の能力を生かした策は、すでに潰えている。
それでもまだ何か、自分にもできることがあるかもしれない。
そんな希望の光を、知らずのうちに目にしたような気がしていた。
「それはそうと、昨日はありがとうございました。玄関で眠ってしまった私を、ずっと温めてくれていたんですよね」
「……ふん」
「肩に乗りますか」
「乗らん」
文句を言いつつも遥の傍らを進む猫又は、やはり優しい。
知らずに笑みを浮かべていた遥は、再び目の前に広がる町並みに視線を向けた。
昨日村を訪れたのは夕暮れ時だったこともあり、さんさんと降り注ぐ陽の光を浴びる光景は違った印象を受ける。
時刻は午前十時過ぎ。
徐々に通りに並ぶ商店が開きはじめ、人々の賑わいも見えつつあった。
「まるで村全体がぱ目を覚ましてきたみたいですね。天気もとても良いです」
「この村で今も眠っているのは、夜通し任にあたっていた術者らと赤子だけであろうな」
「そうですね。お役目は、本当に大変なお仕事なんでしょうね」
深い眠りについた雅のそっと顔が頭をよぎる。
見たところ目立った負傷はなかったようだが、今まで以上に体力をすり減らしているのは容易にわかった。
ぎゅ、と胸が苦しくなる。
賑やかな人々の気配がいつしか遠のいていき、やがてさわさわと木々が葉を擦り合う音が届いた。
「……え?」
何かに、引き留められた気がした。
そっと顔を持ち上げると、歩いてきた道の脇には溢れんばかりの木々が植わっていた。
人家の気配はなく、どこまでも深い緑が隙間なく続いている。
しかしその中に唯一、遥の歩みを止めた先に一筋の地面が見え隠れしていた。
獣道だろうか。
あれ、この道、確か昨日来たときも見たような。
「遥! 止まれ!」
つんざくような呼び声に、はっと我に返る。
気づけば遥のスカートの裾が、足元の猫又に力一杯引かれていた。
「ご、ごめんなさい。あれ? 今私、何をして」
「物の怪の道に誘い込まれそうになっていた。見てみろ。もうあんなにお前を待ち焦がれている」
「え……」
吐き捨てるように告げた猫又に、再度遥は森を見遣る。
そこには、先ほどまで細い獣道だった箇所に、人が二人ほどが優に通れる立派な幅の道が拓かれていた。
「早くここを離れるぞ。お主は本当に好かれやすいおなごだな」
「は、はい。でも、いったいどうしてこんな」
「どうやら、想像以上に可愛らしい人が来てくれたみたいだね」
そよ風のように、耳馴染みのいい声だった。
駆け出し掛けた歩みをピタリと止め、遥は背後を振り返る。
「今の声は」
「遥、下がれ。迂闊に近寄るな」
猫又がすぐさま遥の前に立ち、二股の尾がぴんと天に突く。
そんな二人の様子を、どこか嬉しそうに笑う気配が届いた。
「随分人間に心を許した猫又だね。安心していいよ。私はこの子やあなたに危害を加えたりはしない」
「信頼できんな。霊体はふとした拍子に黒くも白くも変わる。我らよりもよほど頼りなく不安定な存在だ」
「確かに否定はできない。でも、話くらいは聞いてもらえると嬉しいな」
「ぶーちゃんさん。私は大丈夫です」
遥が、毛を逆立てた猫又を控えめに制する。
すっと小さく息をついた遥は、胸をぐっと張って一歩踏み出した。
霊の姿は遥には見えない。それでも、声の主にはどことなく覚えがあった。
幼いにもかかわらず凜とした落ち着きをまとう声。
明け方の夢の中で出逢った、あの声だ。
「今年もまた、雅はこの村に帰ったきたね。本当、あの子は律儀な子だ」
「雅さんは優しい人ですから。あなたと同じです」
「……ここに来てくれたのが、あなたでよかった」
霊視ができない遥の目に、透明色の子どもがふわりと微笑んだのがわかった。
「劇団拝ミ座の一員、小清水遥さん。あなたにご依頼したいことがあります」
昨夜と同じく日が完全に落ちきった、夜八時。
雅を含めた能力者の人々が、再び高御堂家邸宅前に集っていた。
「それじゃあ、行ってくるね。遥ちゃん」
「はい。雅さん、どうぞお気を付けて」
「……」
「……雅さん?」
玄関先で笑顔で見送ろうとする遥を、雅は何故か無言で見つめる。
「えっと。どうかされましたか」
「……んー。なんだろう。何となく、何かが引っかかるような」
顎を擦りながら、首を傾げた雅が近づいてくる。
小さく芽生えた動揺に、悟られないようにそっと蓋をした。
雅は聡い。こういった展開はすでに想定済みだ。
「なーんだろうなー。なーんか変な感じがするような」
「えっと……それはもしかして、今から行く冥界の穴に、何か変化が……?」
「そういうんじゃなくてねー。何かあった? 遥ちゃん」
ズバリ問われた質問だった。
傍らに控えている葉月や他の能力者の人々も、思わぬ話の矛先に呆気に取られている。
「何か、というのは……?」
「うーん。それを、聞いてるんだけどね」
「何もありません」
「そうなの?」
「はい! 何もありません!」
まずい。ついつい力んでしまった。
笑顔の圧に屈してしまったことを内心悔やむが、今はこのまま押し切るしかない。
視線だけはそらさずに応戦する遥に、降参したのは時間の迫った雅のほうだった。
「うん。それならいいや。でも無茶はしないようにね」
「大丈夫ですよ。私のことよりも、雅さんはお役目のことに集中してくださいね」
「……それはまた、複雑なことを言うね」
雅の手のひらが、そっと遥の頭を撫でる。
その温もりと垣間見える雅の優しい微笑みに、遥は胸がぎゅっと締めつけられた。
溢れ出しそうになった感情は言葉にならないまま、遥の喉元で静かに押し返される。
「それじゃあ、改めて行ってらっしゃい。雅さん」
「行ってきます。待っててね。遥ちゃん」
ほんの僅かに生まれた間を、気づく者はいただろうか。
「はい。雅さんの帰りを待っていますね」
にこりと笑顔を浮かべた遥に、雅はそっと目を細め背を向ける。
辺りに並んだ橙色の灯りに誘われるように、能力者たちは散り散りに村の奥深くへ消えていく。
その最後の人影が見えなくなるまで、遥は玄関先から動かなかった。
細く長い息を吐いた遥が、徐々に膝を折りその場にしゃがみ込む。
ああ、やっぱりままならない。
「最後の最後で、嘘は吐きたくなかったんだけどな……」
ごめんなさい、と心の中でそっと付け加える。
ごめんなさい雅さん。嘘をつきました。
あとで雅に怒られるかもしれない。
でももしそうなればきっと幸福だろう。
何故なら遥はもう、この旅館に戻らないかもしれないのだから。
雅はお役目から戻ったら、四半日はてこでも目が覚めない。
床の間の衣紋掛けに雅の紺羽織を丁寧に掛けながら、葉月がどこか愉しげに話す。
身支度を終え用意された朝食を終えた遥は、一人大邸宅をあとにした。
頬を撫でる風は、森の奥から届いたのことを知らせるような緑の薫りがする。
「おい。どこに行くつもりだ」
「ぶーちゃんさん」
いつの間にか後ろをついてきていた猫又に、遥はそっと微笑みかけた。
「あのまま部屋に籠もっていても仕方ありませんから。少しだけ村の皆さんにお話を聞けたらなあ、なんて」
「まさかお主、まだ何か妙なお節介を焼くつもりではあるまいな」
猫又は呆れた調子でため息を吐く。
「葉月も言っていたであろう。確かにお主は自身に憑依させる能力に優れているが、術者の同郷の者を憑依させるのは禁忌だと」
「わかっています。なので、他に何か私にできることがないのかと」
「お主も大概頑固者だな」
自分の唯一の能力を生かした策は、すでに潰えている。
それでもまだ何か、自分にもできることがあるかもしれない。
そんな希望の光を、知らずのうちに目にしたような気がしていた。
「それはそうと、昨日はありがとうございました。玄関で眠ってしまった私を、ずっと温めてくれていたんですよね」
「……ふん」
「肩に乗りますか」
「乗らん」
文句を言いつつも遥の傍らを進む猫又は、やはり優しい。
知らずに笑みを浮かべていた遥は、再び目の前に広がる町並みに視線を向けた。
昨日村を訪れたのは夕暮れ時だったこともあり、さんさんと降り注ぐ陽の光を浴びる光景は違った印象を受ける。
時刻は午前十時過ぎ。
徐々に通りに並ぶ商店が開きはじめ、人々の賑わいも見えつつあった。
「まるで村全体がぱ目を覚ましてきたみたいですね。天気もとても良いです」
「この村で今も眠っているのは、夜通し任にあたっていた術者らと赤子だけであろうな」
「そうですね。お役目は、本当に大変なお仕事なんでしょうね」
深い眠りについた雅のそっと顔が頭をよぎる。
見たところ目立った負傷はなかったようだが、今まで以上に体力をすり減らしているのは容易にわかった。
ぎゅ、と胸が苦しくなる。
賑やかな人々の気配がいつしか遠のいていき、やがてさわさわと木々が葉を擦り合う音が届いた。
「……え?」
何かに、引き留められた気がした。
そっと顔を持ち上げると、歩いてきた道の脇には溢れんばかりの木々が植わっていた。
人家の気配はなく、どこまでも深い緑が隙間なく続いている。
しかしその中に唯一、遥の歩みを止めた先に一筋の地面が見え隠れしていた。
獣道だろうか。
あれ、この道、確か昨日来たときも見たような。
「遥! 止まれ!」
つんざくような呼び声に、はっと我に返る。
気づけば遥のスカートの裾が、足元の猫又に力一杯引かれていた。
「ご、ごめんなさい。あれ? 今私、何をして」
「物の怪の道に誘い込まれそうになっていた。見てみろ。もうあんなにお前を待ち焦がれている」
「え……」
吐き捨てるように告げた猫又に、再度遥は森を見遣る。
そこには、先ほどまで細い獣道だった箇所に、人が二人ほどが優に通れる立派な幅の道が拓かれていた。
「早くここを離れるぞ。お主は本当に好かれやすいおなごだな」
「は、はい。でも、いったいどうしてこんな」
「どうやら、想像以上に可愛らしい人が来てくれたみたいだね」
そよ風のように、耳馴染みのいい声だった。
駆け出し掛けた歩みをピタリと止め、遥は背後を振り返る。
「今の声は」
「遥、下がれ。迂闊に近寄るな」
猫又がすぐさま遥の前に立ち、二股の尾がぴんと天に突く。
そんな二人の様子を、どこか嬉しそうに笑う気配が届いた。
「随分人間に心を許した猫又だね。安心していいよ。私はこの子やあなたに危害を加えたりはしない」
「信頼できんな。霊体はふとした拍子に黒くも白くも変わる。我らよりもよほど頼りなく不安定な存在だ」
「確かに否定はできない。でも、話くらいは聞いてもらえると嬉しいな」
「ぶーちゃんさん。私は大丈夫です」
遥が、毛を逆立てた猫又を控えめに制する。
すっと小さく息をついた遥は、胸をぐっと張って一歩踏み出した。
霊の姿は遥には見えない。それでも、声の主にはどことなく覚えがあった。
幼いにもかかわらず凜とした落ち着きをまとう声。
明け方の夢の中で出逢った、あの声だ。
「今年もまた、雅はこの村に帰ったきたね。本当、あの子は律儀な子だ」
「雅さんは優しい人ですから。あなたと同じです」
「……ここに来てくれたのが、あなたでよかった」
霊視ができない遥の目に、透明色の子どもがふわりと微笑んだのがわかった。
「劇団拝ミ座の一員、小清水遥さん。あなたにご依頼したいことがあります」
昨夜と同じく日が完全に落ちきった、夜八時。
雅を含めた能力者の人々が、再び高御堂家邸宅前に集っていた。
「それじゃあ、行ってくるね。遥ちゃん」
「はい。雅さん、どうぞお気を付けて」
「……」
「……雅さん?」
玄関先で笑顔で見送ろうとする遥を、雅は何故か無言で見つめる。
「えっと。どうかされましたか」
「……んー。なんだろう。何となく、何かが引っかかるような」
顎を擦りながら、首を傾げた雅が近づいてくる。
小さく芽生えた動揺に、悟られないようにそっと蓋をした。
雅は聡い。こういった展開はすでに想定済みだ。
「なーんだろうなー。なーんか変な感じがするような」
「えっと……それはもしかして、今から行く冥界の穴に、何か変化が……?」
「そういうんじゃなくてねー。何かあった? 遥ちゃん」
ズバリ問われた質問だった。
傍らに控えている葉月や他の能力者の人々も、思わぬ話の矛先に呆気に取られている。
「何か、というのは……?」
「うーん。それを、聞いてるんだけどね」
「何もありません」
「そうなの?」
「はい! 何もありません!」
まずい。ついつい力んでしまった。
笑顔の圧に屈してしまったことを内心悔やむが、今はこのまま押し切るしかない。
視線だけはそらさずに応戦する遥に、降参したのは時間の迫った雅のほうだった。
「うん。それならいいや。でも無茶はしないようにね」
「大丈夫ですよ。私のことよりも、雅さんはお役目のことに集中してくださいね」
「……それはまた、複雑なことを言うね」
雅の手のひらが、そっと遥の頭を撫でる。
その温もりと垣間見える雅の優しい微笑みに、遥は胸がぎゅっと締めつけられた。
溢れ出しそうになった感情は言葉にならないまま、遥の喉元で静かに押し返される。
「それじゃあ、改めて行ってらっしゃい。雅さん」
「行ってきます。待っててね。遥ちゃん」
ほんの僅かに生まれた間を、気づく者はいただろうか。
「はい。雅さんの帰りを待っていますね」
にこりと笑顔を浮かべた遥に、雅はそっと目を細め背を向ける。
辺りに並んだ橙色の灯りに誘われるように、能力者たちは散り散りに村の奥深くへ消えていく。
その最後の人影が見えなくなるまで、遥は玄関先から動かなかった。
細く長い息を吐いた遥が、徐々に膝を折りその場にしゃがみ込む。
ああ、やっぱりままならない。
「最後の最後で、嘘は吐きたくなかったんだけどな……」
ごめんなさい、と心の中でそっと付け加える。
ごめんなさい雅さん。嘘をつきました。
あとで雅に怒られるかもしれない。
でももしそうなればきっと幸福だろう。
何故なら遥はもう、この旅館に戻らないかもしれないのだから。