◇◇◇

「それじゃあ、あの屋敷の売却のお話はなくなったんですか?」

 夏祭りの日から数日後。

 劇団拝ミ座まで足を運んだ辰男の話に、ともに立ち会った遥は思わず身を乗り出した。

「ええ。もとはその話から拝ミ座さんにご厄介になりましたので、ご報告しなければと思いまして」
「では、秀昭さんが引き続きあの屋敷にお住まいに?」
「はい。老朽化も進んでいますので、屋敷全体をリフォームすることにしたんです。伯父一人でも過ごしやすいように、リノベーションも兼ねまして」
「そうですか。きっと秀昭さんも喜んでいらっしゃるでしょうね」
「はい。それもこれも拝ミ座さんのおかげです。本当にありがとうございました」

 深く頭を下げた辰男に、雅と遥も頭を下げる。

 夏祭りのあの日、遥の身体を借りた里子は、とても幸せそうな顔で空へ向かったらしい。

 例によって遥が意識を取り戻したときは拝ミ座の床についており、その後秀昭と顔を合わせる機会はなかった。

 それでもきっと秀昭も、彼女と同じ幸せを胸に宿すことができたのではないかと思う。

「それから、遥さん」
「はい」
「伯父が、あなたにこちらを是非受け取っていただきたいと」

 そう言って鞄から辰男が取り出したのは、白い和紙で作られた長方形の箱だった。

 辰男に促され、遥はそっと目の前の箱の蓋に手を伸ばす。
 中に佇んでいたものを目にして、はっと息をのんだ。

「伯父貴の初恋の相手の形見だそうです。ずっと大切に仕舞っていたものですが、よければ遥さんに是非と」
「で、でも。そんな大切なものをいいんですか?」
「今回のこと、伯父は遥さんにとても感謝していました。あなたのおかげでずっと仕舞っていた想いと、ようやく向き合うことができた。初恋の相手も、今回お世話になったあなたに是非と言っていた──と」

 里子ちゃんも?

 口に出かけたその名をそっと呑み込み、遥は再び目の前の贈り物に視線を落とした。

 牡丹の花が象られたかんざし。

 そっと手を触れてみても、里子の想いは流れ込んでこなかった。
 それは嬉しいようで、どこか切ない。

「ありがとうございます。大切に、大切にしますね」

 遥は熱いものがこみ上げるのを感じながら、頭を下げる。

 その感謝の言葉が、秀昭と里子の二人に届きますようにと切に祈った。



「雅さん。お茶、入りましたよ」
「ありがとう、遥ちゃん」

 辰男が拝ミ座をあとにし、二人は向かうあうようにして再び座布団に腰を下ろす。

 お茶で喉を潤したあと、遥は円卓に置いてあるかんざしをそっと手に取った。

 牡丹のかんざしは、生前の里子が東堂家の屋根裏部屋に誤って落としてしまっていたらしい。
 その後霊体となって現れた里子は、思いのこもったかんざしを胸に密かに邸宅内に棲みついていたのだ。

「こんなに素敵なかんざしを贈られるなんて恐縮ですけれど、お二人からの感謝の気持ちがこめられていて、とても嬉しいです」
「うん。今回の依頼解決も、遥ちゃんの心根の優しさのおかげだよ」

 そう言うと、雅はおもむろに座布団から腰を上げ、遥の後ろに座り直した。

「雅さん?」
「貸してみて。かんざし、髪に挿してあげる」
「あ……、はい」

 言われるままにかんざしを手渡し、遥は鏡台の前に向き直った。

 雅の指がそっと遥の髪に触れる。
 優しい指櫛で髪をとかれる感覚に、遥の心に気恥ずかしさがこみ上げてきた。

 喜びのような緊張のような感情がおり混ざって、心音がドキドキといたずらに駆けだしていく。

 鏡に映る自分の頬の色に気づき、ますます鼓動が逸る。
 雅に気づかれてはいないだろうか。

「あ、あの。雅さん」
「うん?」
「雅さんの心根も……優しいですよ。とても」

 遥の髪をとく手が、動きを止める。

「唐突にごめんなさい。でもどうしても、伝えておきたくて」
「……」
「雅さんは、卑怯な人なんかじゃありません。困っている人を放っておけない、助けるために一生懸命になることのできる……優しい人です」

 ずっと引っかかっていた。雅が自身を明確に卑下した、「卑怯者」というあの言葉のことを。

 出逢ってまだ間もない遥には、雅の告げるところの本質はきっとわかっていないのだろう。

 それでも、空に向かえず困惑する人たちに手を差し伸べることは、決意の浅い親切心では決してできないことだ。

「はは。ごめんね。妙なことを言ったから、心配掛けちゃったかな」
「そ、そういうわけでは」
「ありがとう遥ちゃん。でも俺の優しさは、そういう純粋な優しさとは違うんだ」
「え……」
「そういうのは全部置いてきちゃったんだ。十歳のときに」

 鏡越しに見た雅の瞳には、薄暗い影がかかっていた。

 遥はそれ以上言葉が続けられず、見たことのない雅の面差しをただ見つめる。

 いつも太陽のようにきらきら輝いている。
 そんな彼が、当たり前のことのように思っていた。

「……って、何話してるんだろ。遥ちゃんはただ、俺を励ましてくれただけなのにね」

 一瞬目を見張った雅は、すぐにぱっと顔を上げ笑顔を浮かべる。

「はい、できたよ。見てみて」
「あ……」

 促された遥が鏡台に映った自分に視線を移す。

 髪はいつの間にか綺麗に後頭部でまとめられ、里子と秀昭から贈られた牡丹のかんざしがこっそりと姿を見せるように差し込まれていた。

「ん。よく似合ってる」
「……雅さん」
「うん?」
「っ……」

 自分の無力が情けない。

 雅がいつも人のために身を粉にしているのは知っている。
 遥も和泉も、きっと今まで彼と関わりあってきた依頼人の全員がそうだ。

 それなのに、肝心の本人だけがそのことに気づいていない。

 先ほど雅は、十歳のときと言った。

 遥には到底手出しなどできはしない、遠い遠い過去のとき。

 そのとき、いったい雅に何があったというのだろう。

「遥ちゃん? どうしたの……」

 歪んだ視界の中で、雅がこちらを見つめているのがわかる。

 ほら。こんなときにまで、彼の優しさを感じている。

「遥ちゃん……泣かないで」

 頬を伝う熱い感触が、雅の指先にそっとせき止められていく。

 牡丹のかんざしで結われた髪を崩さないように、遥の身体は優しい温もりに優しく包まれていた。