◇◇◇

「拝ミ座さんは、いったいなにをするつもりなんだろう」

 邸宅の門前までそろって出たあと、甥の辰男が怪訝な様子で声を潜めた。

 着替えを終えた秀昭は、辰男とともに邸宅の門前で待つように雅に言い遣っていたのだ。

 手渡された金属製の蝋燭立てに揺らめく蝋燭の火。

 その火が消えたら、再び邸宅に入ってきてほしい、と。

「きっとよきに取り計らってくれているんだよ。何も心配はいらないさ」

 この屋敷の心霊現象が解消する。

 それはすなわち、少女の霊が空へ行くことを指すのだろう。

 彼女にとってもそれはよいことに違いない。

 いつまでも現状維持を決め込んで、自分の勝手でここに居続けてもらうわけにはいかないのだ。

「あ、伯父さん、蝋燭が」

 はっと我に返った矢先、目の前の蝋燭がふっと消えた。

 蝋燭の先から、名残惜しむような煙が細く上がる。

 さあ、向かうとしようか。数十年前から続いた片思いの終止符を打ちに。

「伯父さん」
「ん?」
「今着てる浴衣……すごく似合ってるよ」
「……ああ。ありがとう」

 潤みを目尻にためている甥の頭を、ぐしゃぐしゃと無造作に撫でる。
 こんなふうにじゃれあうのも思えば何年ぶりだろう。

 心臓が、にわかに騒ぎ始めるのを感じる。

 玄関口の引き戸に手を触れ、普段よりもゆっくりと開いていった。

 中の照明はいつの間にか消えていた。
 傍らの靴棚に手にしていた蝋燭台を置き、ひとまず履き物を脇に寄せる。

「電気、つけてもいいのかな」
「どうだろうなあ」

 言ってはみるものの、この暗がりの中を六十代の目で動き回るのは少しばかり厳しい。

 すぐ近くにある証明のスイッチに手を伸ばし、カチッと指先に力を込める。

 が、何故か廊下の照明がつかないままだった。

「あれ? 伯父さん、電気つかない?」
「ああ、もしかしたらブレーカーが……」

 玄関口で話し込んでいた、そのときだった。
 続く廊下の先に、小さく床の踏みしめる音が響く。
 その音の主を見つめ、秀昭は大きく目を剥いた。

 大広間の雪見障子から差し込む月明かり。

 その淡い白濁に照らされていたのは、一人の女性だった。

 藍色の生地に赤色の牡丹が咲いた、美しい浴衣に身を包んでいる。
 裾から覗く手や足首は月の精を思わせるような白だった。

 艶やかな黒髪が耳下部分にまとめられ、右側から覗くのは牡丹の花を模した可愛らしい髪飾りだ。

「……君、は……」
「もう。待ちくたびれちゃったよ、ヒデちゃん」

 ヒデちゃん。

 自分をそう呼んだのは、後にも先にも彼女だけだった。

 月が雲に隠されたのか、一瞬彼女の姿が暗い闇に閉ざされる。
 慌てて一歩前に踏み出した秀昭だったが、次の瞬間には彼女の姿は忽然と消していた。

「え……え!? 伯父さん、今のって」
「しっ! 辰男、静かに」

 すぐさま口元に指を立てた秀昭に、辰男も慌てて口を閉ざす。

 耳を澄ませると、幼子のような笑い声がかすかに届く。
 先ほど目にした成人女性の姿とはやや食い違いを覚える、無邪気な声色だ。

「わたしのこと、見つけてね」
「あ……」
「知ってるでしょう? わたし、ヒデちゃんとのかくれんぼがいちばん大好きなんだよ!」

 気づいたときには、秀昭は駆けだしていた。

 すると不思議なことに、闇の中で垣間見る住み慣れた屋敷が徐々に年数を遡っていくように思える。

 あの子がまだ生きていたときのこの家に。
 あの子への思いをまだ自覚することのなかった、自分自身に。

「ここか?」

 客間の一つのふすまを、勢いよく開ける。

 しんと静まったその部屋には、覚えのない客人用の布団一式が無造作に広げられていた。

 その光景にしばらく呆気にとられたあと、またかと大きくため息をつく。

 家に秀昭の親たちがいないときに限り、彼女はあの手この手を使っては秀昭の目を欺く罠を仕掛けていた。
 布団一式なんてまだいい方で、時には父の書斎の書籍の山で壁を作ったりするものだから秀昭はいつもハラハラしていた。

 ──だいじょうぶ、だいじょうぶ。だって、あとでヒデちゃんも一緒にもとに戻してくれるでしょ?

「……いや、出した君がきちんと片付けてよ」

 自然と口についた台詞は、そんな彼女の奇行を目にするたび口にしていたものだ。

 良家に生まれ育ち、親からの言いつけを何の疑問を持つことなく育っていた秀昭にとって、彼女の弾むような好奇心は酷く眩しかった。

 それに気づいたのは、その光をなくしたあとだった。

「布団の中は……やっぱりいないか」

 念のため床の布団の中も律儀に確かめたあと、秀昭は別室のふすまを開け放つ。

 その後も彼女が仕掛けたであろう様々な罠をかいくぐり、徐々に選択肢は狭まっていく。

 それにしても、先ほどの人影は本当に彼女のものだったのだろうか。

 自分の中で確信を抱いてはいるものの、疑問に思うことはいくつかある。

 まず、彼女の享年は八歳だったはずだ。
 それなのに先ほど目にした彼女の姿はどう見ても成年を達した女性だった。

 次に、どうして今になって自分の目の前に出てこようと思ったのか。

 それこそ数十年間ともに同じ屋敷に身を寄せていて、ただの一度も現れなかった彼女なのに、一体何故。

「客間は全部見た。手洗いも風呂場も台所も。あとは……」

 独りごちながら、秀昭の足はぴたりとある部屋の前で止まった。

 そこは、邸宅の奥にひっそり設えられた物置部屋だ。

 彼女はこの部屋に隠れるのが好きだった。
 中のものを自由自在に積み上げて、即席の壁を作って自分の身を隠すのだ。

「ここに、いるのか?」

 扉に手を掛けながら、秀昭は静かに問いかける。

 開かれた先は自分でも見慣れた木製の棚だ。
 それでも、明らかに何かの手が加えられたような気がしてならない。

 ドキン、ドキン、ドキン。こんなふうに心臓が存在を主張するような感覚はいつぶりのことだろう。

 秀昭はこの部屋がこのかくれんぼの終着点だとわかっていたのかもしれない。
 だからこそ他の部屋をくまなく探ってきたのだ。
 このかくれんぼを、少しでも長く続けるために。

「ここにいるのはわかってるぞ」

 本当は、自分が八歳の夏にも彼女をこうして探したかった。

 彼女を失うことを知っていたのならば、熱に浮かされた重い身体を引きずってでもこの邸宅に戻ったのに。

「いったいどこに……、あっ」

 室内の違和感の正体に気づいた。

 床に置かれていた木箱の類いが、よく見ると階段状に並べられていたのだ。

 秀昭の視線が、自ずと天井へ向かう。
 すると、並んだ天井板の一部に細く入った光の線が見えた。

 屋根裏部屋?
 こんなところに?

 五十五年住んでいて初めて知った事実に、秀昭の胸が歓喜に沸く。

 並べられた木箱へ慎重に足を掛け、先ほどの天井板をそっと持ち上げる。
 広がるのは大人が動き回るにはかなり狭いが、子どもならば心弾む隠れ部屋になるような空間だった。

 辺りを見回し、徐々に暗闇に目が慣れてきた、そのときだった。

 きし、と何かがきしむ音が届いたかと思うと、背中に誰かの温もりが飛び込んでくる。

 腹部分に回された腕は、藍色の浴衣生地を纏っていた。

「へへ。やっと……やっと探し出してくれたね。待ちくたびれちゃったよ」