そして向かえた、八月の第二土曜日。

「花火大会には絶好の天気ですね」

 見上げた空には、まん丸の月が浮かぶ。

 少し離れたところには月の明かりに負けじと瞬く星の姿も見え、雲は一筋も見られなかった。

 嬉しそうに縁側に立つ雅に、邸宅の主秀昭も目を細めた。

「本当ですね。この日は夜道にも子どもたちの賑やかな声が響いて、街中に小さな明かりが点るようです」
「昔から続く伝統が現代にも息づいている。素敵な街ですね」

 話ながら、用意された座布団に戻る。

 東堂家の邸宅を訪れた劇団拝ミ座三人は、依頼人の辰男と伯父秀昭と改めて対峙した。
 背筋を伸ばした辰男が、静かに口を開く。

「拝ミ座さん。今日は件の心霊現象を解決したいというお話でしたが」
「ええ。恐らくこの日に再現するのが、彼女も最も望むところだろうと判断しました」
「彼女というのは、やはり……」
「はい。秀昭さんの幼なじみ、野村里子さんです」 

 雅がそう断じると、秀昭の喉がわずかに動いた。
 少なからず動揺もあっただろうが、秀昭は努めて冷静に続く話に耳を傾ける。

「我々が心霊現象を解決する場合、霊となった人物が一等心残りとしている瞬間を再現いたします。舞台はこの邸宅。幸い役者は揃っているのでこのままで。秀昭さんには、お手数ですがこちらの着物にお着替えいただけますか」
「はい。それは構いませんが……」

 雅から手渡されたものは、白いたとう紙で丁寧に包まれていて中身は窺いしれない。
 甥の辰男と短く顔を見合わせたあと、秀昭はそっと席を立った。

「ではすぐに着替えて参ります」
「お願いします。それから準備のため一室我々に貸していただけますか。姿見があると助かります」
「もちろんです。私は自室で準備を。拝ミ座さんは隣の客間をご利用ください」

 てきぱきと答えた秀昭により、拝ミ座三人も準備のため隣の客間へ移る。

 入ってすぐに和泉が素早く組み立てたのは、部屋を二分する大きな仕切りだった。

「新入り、これがお前の今日の衣装だ」
「はいっ」

 衣装のこととなると目の色を変える和泉の早口指示に、遥も思わず声を張る。

 白のたとう紙に包まれた衣装を、遥は慎重に受け取った。

 かさり、と音を立てるたとう紙をめくった遥は、大きく目を見張る。

 なんて素敵な浴衣だろう。

 夜空のような藍色の生地に、牡丹の花が幸せそうに赤色の花弁を広げている。
 触れてみるとよりわかる、心の込められた手縫いの文様だ。

「少女の母親はすでに亡くなっていたが、その友人から話を聞くことができた。亡くなった年の花火大会前に、彼女は浴衣を新調していたらしい。牡丹をあしらわれた、少しお姉さんらしく見えるものが欲しいと言われて」

 和泉の話に、そうだったのかと納得する。
 確かに亡くなる一年前の花火大会の少女は、桃色が基調の別の牡丹柄の浴衣をまとっていた。

 はじめて二人きりで約束していた花火大会。
 新調した浴衣。

 少女の期待に弾むような胸の内を想い、遥は温くも切ない気持ちでいっぱいになる。

「着替えを急げ。最終的な直しは俺がやる」
「はい」

 仕切りの向こうに身を移すと、遥は着ていた洋服をさっと脱ぎさった。

 簡単に横に畳んだのち、作り手の和泉に感謝しながら遥は浴衣に腕を通した。

 夏の蒸し暑さが残る夜に、さらりと肌触りのいい布地が肌を撫でる。
 肩の位置を確かめると、腕の長さはいつもながら遥の身体にぴったりのサイズにあつらえられてた。

 裾を引きずらない長さに調整した遥は、傍らに用意していた白の腰紐を手に取る。
 あわせを整えながら腰紐を腰元に結び、余った着丈部分はおはしょりとして形を整えていった。

 姿見で全身をくまなく確認したあと、遥は和泉の名を呼ぶ。

「和泉さん。終わりました」
「入るぞ」

 すぐに応じた和泉がこちら側に入り、最終調整に入る。
 慣れた手つきで遥の浴衣をあちこち整えたあと、仕上げに用意されたものに遥は目を見張った。

「それはもしかして、#兵児帯__へこおび__#ですか?」
「ああ。少女の希望だったらしい」

 柔らかな布地が、ふわりと腰元に渡される。

 腰元を彩るそれは子どもの浴衣姿によく用いられる、柔らかで扱いやすい生地が特徴だ。
 色合いが様々に織り交ぜられた兵児帯は、いつしか大きなまん丸の花のように象られた。

「兵児帯は昨年と同じものをと彼女が希望していたそうだ。誰かにとても似合うと褒められたから、今年もこの帯がいいと」
「そうでしたか……ありがとうございます、和泉さん」
「俺の仕事だからな」

 素っ気なく告げられた言葉にも、遥は浮かぶ笑顔を隠しきれなかった。

 先日、物置小屋で里子が落とした牡丹のかんざし。

 それに触れたときに垣間見た彼女の生前のひとときは、可能な限り拝ミ座の二人にも話し伝えていた。

 それでも、残りわずかな締め切りまでにさらに細かく調べ上げ、少女の母親の友人にまで会いにいってくれていた。

 和泉はあらゆる手を用いて、今日の衣装を完璧に近づけてくれたのだ。

「和泉、遥ちゃん、そっち行くよー……わあ。いいねえ遥ちゃん。すっごくよく似合ってるよ」
「あ、ありがとうございます」
「顔動かしてんじゃねえよ。前向け前」
「あっ、すみません!」

 いつも通り飄々とした笑みを浮かべた雅も、いつの間にか纏いに変わっていた。

 灰色の着物姿に、肩に掛けられた紺色の着流し。
 この世を彷徨う者たちを導く、劇団拝ミ座当主の最正装。

 目にするたびに、きゅっと身が引き締まる思いがする。

「これで終いだ」
「はい」

 和泉の言葉に、姿見を真っ直ぐ見据える。

 整えられた髪型の一カ所に向けて、牡丹のかんざしが静かに差し込まれた。

「和泉、準備は終えた?」
「ああ。いつでもいい」
「雅さん。私もいつでも問題ありません」
「よしきた」

 あとのことは、きっとまた二人から伝聞してもらうことになるのだろう。

 その内容がきっときっと、かつて命を通した彼女の笑顔につながっていることを切に願う。

「それじゃあ劇団拝ミ座、今日も仕事を始めようか」