「じゃあ、秀昭さんは幼い頃からずっとあのお屋敷に住まわれているんですか」
「ええ。六歳頃に引っ越してきてからですから、もう五十五年近くになりますね」
「わあ、もうそんなに長いんですね」

 拝ミ座の居間兼接客室に、掛け時計がポーンポーンと四時を告げる。

 お茶と茶菓子を置いた座卓を挟み、遥と秀昭は穏やかに会話を交わしていた。

「この拝ミ座の建物も深い歴史が感じられますね。遥さんはここではもう長いのですか」
「いいえ。実は私は先月前職を退社したばかりで、ここに勤め始めたのはごく最近なんです」
「そうでしたか。雅さんたちとも打ち解けていらっしゃる様子でしたので、古くからのお付き合いなのかと」
「そう感じていただけたのなら、きっと雅さんと和泉さんのお陰ですね」

 雅は初対面のときから親しみやすい朗らかな人柄で、縮こまりがちな遥の心をそっと解してくれる。

 和泉は無愛想な反面あの竹を割ったような物言いが、かえって遥の不要な遠慮を取り払ってくれていた。

「遥さんの温かな人柄も、同じくらい拝ミ座と二人に必要とされていると思いますよ」

 柔らかく目尻を下げながら、秀昭は湯飲みをゆっくりと口につける。

「正直、今日こちらに向かうことは直前まで悩んでいました。連絡を入れていないことも勿論ですが、何より私自身、心が決まり切れていなかったのだと思います。この歳になってお恥ずかしいことではありますが」
「そんな、恥ずかしいことなんてありません。大切なことほど真剣に悩むのは当然のことですし、そのことに年齢なんて関係ありませんから」

 開かれた雪見障子の向こう側から、薄橙色の日差しが室内にそっと差し込む。

 短い沈黙のあと、秀昭はふっと口元に微笑みを讃えた。

「やはり、今日ここに来て正解でした。もしかしたら貴方相手になら話せるかもしれない……そう思っていましたから」
「え?」
「はは、いいえ。今のは年寄りの戯れ言としてご容赦を」

 目を瞬かせる遥に、秀昭は小さく居住まいを正した。

「先日自宅でお話ししたときにはお話しできませんでしたが、実は私、今回現れたという少女の霊に思い当たるものがあるのです」
「はい」
「彼女の名は、#野村__のむら__##里子__さとこ__#。私がまだ子どもだった頃の、幼なじみです」

  ◇◇◇

 東堂家は、秀昭が幼い頃より、周囲から羨望と尊敬の目で見られる大屋敷だった。

 そのことに子どもの時分の秀昭もまた喜びと誇り、そして少しの苦みを感じていた。

 自分の家に来るものは皆、自分ではなく大きな屋敷そのものを目に焼き付けていく。
 まるで自分には何も価値がないと言われているようで、子どもながらに心が痛んだ。

 ──ねえねえ。あなたのおうち、あの大きな『東堂さんち』って本当?

 里子との、初めての会話だった。

 最初は「またか」と内心苦虫を噛みしめつつ、秀昭はこくりと頷いた。
 少女は瞳をきらきら輝かせた。

 ──いいねえ。かっこういいねえ。わたし、里子っていうの。あなたのお名前は?
 ──秀昭、だけど。
 ──じゃあヒデちゃんだ。わたしのことはサトちゃんって呼んでいいよ。
 ──え。
 ──ね。わたしたち、お友達になろう!

 秀昭はあれよあれよという間に友達の称号をもらった。

 何故か懐かれてしまった秀昭も、無邪気で活発な里子に徐々に心を開いていった。

  ◇◇◇

「彼女はよく私の家に遊びに来ていました。彼女はかくれんぼが大好きで、隠れる場所が無数にあの屋敷がとても羨ましかったそうです」
「ふふ。確かにお部屋もとてもたくさんありますし、一室一室がとても素敵な造りでしたもんね」

 一人で暮らしているにもかかわらず、その部屋の一つ一つが綺麗に整えられ、美しい花まで飾られていた。

 秀昭のあの屋敷は、里子にとってまさにかくれんぼをするにはうってつけの、魅力溢れる場所だったのだ。

「ある日、近隣の公園で夏祭りが開催されました。近所の子どもたちや家族連れが賑わう恒例の祭りです。私は前日まで遠方の親戚の家に宿泊の予定でしたが、当日に彼女と一緒に夏祭りに行く約束をしました」

 夏祭り。

 その単語が耳に触れ、遥ははっと息をのむ。

 業者の人が見た、和装姿の少女の霊。
 もしかしたらそのまといは、浴衣だったのではないだろうかと。

「しかし、私は滞在先で夏風邪をこじらせましてね。予定だった日に自宅に帰ることができず、数日間ずっと親戚宅で床に伏せってしまっていた」
「……」
「それからようやく回復して自宅に帰った矢先……彼女の訃報を耳にしたのです」

 葬式のときにはじめて秀昭は、里子が肺を患っていたことを知った。
 ぜん息と言っていたが本当は症状も深刻で、それを悪化させてのことだったという。

「その悪化の原因は、この私です」

 秀昭は静かに、はっきりと言った。

「彼女は待ち合わせ場所だった我が家の前で、私の帰りを待っていたんです。恐らく、祭りが終わる刻限までずっと。その日は夜風も強く、帰宅したときにはすでに酷い咳が出ていたそうです。深夜に救急病院に向かったものの、そのまま、彼女は……」

 秀昭は座卓に肘をつくと、両手にそっと顔を伏せた。

「私があのとき、体調なんて崩さなければ。いや、そもそも旅行直後の約束なんて結ばなければよかった。熱で朦朧としていた私は、彼女との約束をすっかり失念していた。こんなに重大な事態になるなんて夢にも思わずに」
「秀昭さん」
「彼女の霊がうちの屋敷にいることの確証はありませんでした。それでも私はずっと、あの屋敷を離れる気にはなれなかった」
「……今でもあのお屋敷は、客間までとてもきれいにされていますよね」

 遥の言葉に、ゆっくりと両手から秀昭の顔が持ち上がる。

 感情を必死に抑えているものの、その瞳は在りし日の幼なじみの姿を見つめている。
 彼の前には未だに現れようとしない、彼女の姿を。

「今回の一連の騒動は、彼女があの屋敷を離れたくないという意思の現れだと、私は思っています」

 秀昭は静かに告げた。

「それが彼女の意向であれば、私は無理にあの屋敷を他人に譲りたくない。彼女の側にいたいんです。たとえ姿が見えずとも」
「それが、秀昭さんのご意向なんですね」
「はい。お伝えするのが遅れてしまい、本当に申し訳ございません」

 深々と頭を下げる秀昭に、大きく首を横に振る。

 ずっと胸の内に秘めていた秀昭の想いは、亡き幼なじみに手向けられた花束のように感じられた。