心地よく外を歩ける初夏の日々は過ぎ去り、季節は本格的な夏。

 もともと和の様相をまとった劇団拝ミ座の建物は、朝から風通しの良いようにすべてのふすまが開け放たれていた。

「雅さん! いくら暑いからって、そんな格好で歩き回らないでくださいってあれほど言いましたよね……!」

 そんな一室で、小刻みに震えた大声が今日も響く。

 声の主である遥は必死に訴えながらも、視線は完全にあさっての方向を向いていた。

 理由は、叱責の対象が上半身を晒したままけたけたと笑っているからだ。

「ごめんごめん。そろそろ着替えようかと思ってたところに、遥ちゃんが現れたものだから」
「もう! 私はいつもこの時間に通勤しますからねって、何度も何度も言ってるのに……!」

 気のない返事を残し居間をあとにする雅に、遥はふーっと長い息を吐く。

 御護守雅という人物。
 転職先として一ヶ月前から勤めだした、劇団拝ミ座の雇い主。

 以前から薄々感じていたことだったが、彼の日常生活はどうもふわふわ浮き草じみしていた。

 依頼人を前にした雅は、質の良い和装に落ち着いた口調と人柄で、完璧な信頼を築き上げている。

 ところが仕事から離れた途端、何もかもが風のゆくまま気の赴くまま。
 起きる時間も食べる時間も眠る時間もまちまちで、呆気にとられることばかりだった。

「っ、さてと。朝の支度をしなくっちゃ……!」

 ぺちんと自らの両頬を軽くたたき、遥は屋敷内をあちこち動き回る。

 予定の来客をカレンダーで確認したあと、部屋の掃除、食料や備品の確認。
 お茶用のお湯をポットにセットしていると、ようやく身支度を整えた雅が姿を見せる。

 そこに立つ彼はすでに、劇団拝ミ座当主の顔をしていた。

「相変わらず遥ちゃんは朝の支度の手際がいいなあ。まるで魔法使いみたいだね」
「雅さんの変貌ぶりの方がよっぽど魔法使いみたいですよ……。お茶、飲みますか?」
「ありがとう。いただきます」

 円卓の席に着いた雅が、無駄のない所作でお茶を含む。
 そんな仕草一つ一つがとても優雅だ。

 日常との落差は激しいものの、恐らく雅は由緒正しい家の出の人なのではないか、と遥は密かに思っていた。

「遥ちゃんもすっかりここの仕事に慣れてくれたみたいだね」
「雅さんたちが色々とフォローしてくれているおかげです。それに、当日の仕事では私はほとんど身を任せるだけですから」

 遥の仕事は、未練の時を思って彷徨う亡き存在に、身体を貸し出すことだ。

 とても特殊な仕事ではあるが、今のところ差し出した例に身体を悪用されるなどの被害はない。

 そのため、気づけば依頼人の「未練の時」は過ぎ去り、布団の中で目が覚めるのが通常となっていた。

 その特異な感覚は今でも少し困惑するし、きちんと役目を果たせているのかと不安にもなる。

「不安に思うのは当然だよね。でも大丈夫。遥ちゃんの身体を借りた霊たちはいつも、すごく満たされた顔で空に発っていくから」

 雅の穏やかな微笑みに、遥も笑顔で頷く。

 亡き者の声を聞き霊を遥へと憑依させる雅と、その霊を受け容れる遥。

 少し奇妙な信頼関係で結ばれた二人は、同時にお茶を飲み終えた。

「……あれ? そういえば、和泉さんはまだ出勤されていないんですか?」
「和泉なら次の仕事の衣装を仕上げたいって、昨日の夜からずっと作業部屋で缶詰になってるよ」
「それって水分補給も空気の入れ換えも絶対にしていないですよね!? ちょ、和泉さーん!!」

 熱中症待ったなしの状況に気づき、遥は慌てて作業部屋へ駆け出す。

 そんな遥に雅は面白そうに肩を揺らし、中から出てきた和泉は想像通り酷い顔色で出迎えた。

 自分がいない間、この人たちは一体どんな生活を送ってきたのだろう。

 劇団拝ミ座として不可欠な能力を持つが、生活力がまるでない二人を前に、今日も遥はがくりと肩を落とした。



 本日の予定は、午前十一時より。

 閑静な住宅街を進んでいくなか、遥の歩みは少しぎこちなかった。

 今遥がまとっているものは、先日完成したばかりという着物だ。

 和泉いわく訪問着として使うらしいそれは薄水色を基調としており、細かな白の花の刺繍が裾から広がるように施されている。

 着物に袖を通すのは成人式以来だ。
 遥は着ること自体に恐縮しきりだったが、「拝ミ座の正装は本来和装だ」と言う和泉に押し切られた。

 確かに、雅と和泉の二人は、来客の予定があるときは決まって和装に身を包んでいる。 
 特に未練のときを再現する『本番』の日は、例え下が洋装であっても雅は紺色の着流しを肩に掛けていた。

 かくして一度まとった着物は想像以上に肌なじみがよく、真夏の気候もかえって心地よいくらいだった。

 きっと素材も細かく選定してくれたのだろう。
 さすが劇団拝ミ座の衣装係を一手に引き受ける彼の設えだ。

 というわけで無事正装に身を包んだ三人は、以前劇団拝ミ座にて前相談を受けていた依頼人の元へと向かっていた。

「今から行く訪問先は、依頼人本人の自宅じゃあないんだけどね。元は依頼人の祖父母の自宅で、今は相続した伯父さんが一人で暮らしてるんだって」
「なるほど。その家を話し合いの場に選んだということは、今回の依頼内容はその家に関係があるんでしょうか」
「さすが遥ちゃん、察しが良いね。依頼人は#東堂__とうどう__##辰男__たつお__#さん、三十二歳。結婚して今は近隣のマンション暮らし。親族の中でも伯父との交流が特に深いみたい」

 そんな伯父が、半年前に病を患った。

 命に別状こそないものの、年齢も考慮すると大きな屋敷に一人暮らしを続けるのは徐々に辛くなっていく。

 伯父を含めた親族で話し合った結果、今の屋敷や土地を売却し、伯父は辰男と同じマンションの空き部屋へ越すのはどうかと話がまとまったのだ。

「ところが、ここで思いも寄らない障害があらわれた」
「#奴__やっこ__#さんのご登場ってわけか」

 隣をぼんやりと歩いていた和泉が、こともなげに口を開く。
 同時に、睡魔と戦っていたらしい短いあくびも漏れ出た。

「そういうこと。売却手続きのため不動産業者に屋敷内を見てもらったときに、担当者がことごとく謎の人影を見ているんだって。本来いないはずの、少女の影をね」
「少女の影……」
「繰り返し現れるその影が幽霊なのか、そうだとしたらこれからどうするべきか。それを辰男さんは相談しに劇団拝ミ座にやってきたんだよ」

 その屋敷に現れる少女の影。

 今回の売却がうまくいかないことも、彼女が何かしら影響しているのだろうか。
 だとしたら、それは一体どういった理由だろう。

「というわけで、今回は早速現場を見てみようというわけで、屋敷に赴こうとなったわけだね。もし今日の一回の訪問で解決できればそれに超したことはないけれど、どうかなあ」
「仮に土地や建物に憑いた霊となれば、そう簡単にいくとも思えねえがな」
「そうなんですか?」

 和泉の言葉に、遥はぱっと顔を上げた。

「地縛霊って言葉を聞いたことがあるだろう。身体をなくした霊体は不安定な存在だからこそ、本来あるべき空に向かう者がほとんどだ。それがこの世にあるもの──今回で言えば土地や屋敷だな。そういった現存する媒体に執着すると、途端に霊としての存在を安定させるものがいる。そこから無理矢理に切り離そうとしても、苦労することが多い」
「なるほど、なんとなく理解できました」

 真面目な顔で頷いた遥に、和泉は無言でまぶたを閉じる。
 そんな二人の前をいく雅は、「ここだね」と歩みを止めた。

「さてさて。ここからは『相手側』のテリトリーだよ。二人とも、気を引き締めてね」

 発言とは裏腹な甘いウインクを飛ばした雅に、遥は困惑し、和泉はため息を吐いた。