◇◇◇
和佳子に出逢ったのは一年前の春だった。
礼儀作法をわきまえないちっぽけな悪霊のいざこざに巻き込まれ、手傷を負った。
特に問題はない。舐めておけばそれもじきに治る。
そんな自分をめざとく発見したばかりか、お節介にも世話を買って出たのが北園和佳子というおなごだった。
和佳子はいつも時間に追われていた。
朝早く起き、手際よく準備を整え、出社し、帰宅し、ベッドに倒れ込む。
家に棲みついてからは、自分にすり寄り撫でることも不本意ながら習慣に加えられていた。
ずっと夢見ていたプロジェクトが決まったのだと、ある日和佳子は言った。
心底どうでもよかったが、手に持つ電子機器に表示されたおなごの集団を、何とも嬉しそうに見せつけてくる。
これからともにプロジェクトとやらを進める仲間らしい。
しかしそのプロジェクトというものが始まって以降、和佳子の多忙はさらに極められていた。
夜遅くまで自宅で電子機器を叩く音が続き、和佳子の目元にはおどろおどろしいくままで見られた。
なんでも、メンバーの仕事を和佳子がこうして補っているらしい。
どうしてだ。
メンバーとは仲間のはずであろう。
どうして、和佳子が一人で苦しんでいる。
そんな様子を見かねて、自分から和佳子にすり寄ってみた。
和佳子ははっと息をのんだあと、みゃうと小さく鳴いた自分を胸の中に抱きしめた。
その肩は小さく震えていた。
──大丈夫。このプロジェクトの山は、明日にちゃんと越えられるから。
──そうだ。明日は大好物の猫缶を買ってくるね。いつも見守ってくれている感謝の印に。
別に見守ったつもりはない。
ただ外をうろつくよりも雨風しのげる場所のほうが居心地がよかった。
それだけの、はずだった。
そろそろ、頃合いか。
電車の光が行き交う、線路沿いの一角。
夜分にもかかわらずここは特にチカチカと街灯が眩しく、何度目かわからず顔をしかめる。
しかし、それも今回で終わりだ。
あの電子機器に映っていたおなごたちの全員に、罰を与えるのも。
前回は妙な邪魔が入ってしまった。
そのときすぐに居合わせた男は実に妙な気配だったが、どうやら自分の気配までは察しきれなかったらしい。
昔から猫は忍び足が得意なのだ。
今も慌ただしく行き交う人間の足を難なくすり抜け、とある建物の前に立つ。
和佳子が通っていた社屋の入るビルだ。
どこまで続いているのかわからぬほどに背が高い。
見上げるたびにいつも首を痛くする。
ふん、と鼻を鳴らし、前回と同様、脇に植えられた苗木の一つに身を潜める。
あとは獲物が来るのを待てばいい。
前回は突発的に別人に傷を負わせることになったが、今度は間違いなく当人に始末をつけさせる。
そのとき、ビルのドアにおなごの姿が薄く映り、自動で開いた。
「……、な、に……?」
久方ぶりに口に出た声だった。
姿を見せたおなごは、亡くなったはずの和佳子だった。
そんなわけはない。そんなわけはない。
幾度となく繰り返しながらも、追いかける足が止まることはなかった。
目の前を進んでいくおなごを食い入るように見つめる。
似ている。
姿形も、歩き方も、鞄の持ち方もだ。
そんなわけはない。
和佳子は死んだ。
ならば、目の前のあれはいったい何だ。
すぐに駆けだして正体を暴けばいい。
しかし、どういうわけかその一歩が先ほどから全く出てこない。
気づけばおなごは迷うことなく自宅マンション前の通りまで進み、件の歩道橋に足をかけた。
「っと。いけないいけない」
小さな独り言だったが、その声色は確かに耳に届いた。
懐かしい声だ。
自分を呼ぶ、温かい声。
階段に掛けていた足を降ろし、人物は足早に近くの小規模な店舗に入っていく。
すぐに目的はわかった。
「わらわの、好物を買うために……?」
「うん。そうだね」
ごく自然に打たれた相づちに、はっと大きく息をのむ。
毛を逆立てながら振り返った先には、闇夜に溶け込むように一人の男が立っていた。
肩に掛けた紺色の着流しが、夜風にふわりとはためく。
中には灰色の着物を身にまとい、着流しに施された金糸の刺繍がきらきらと瞬いていた。
明るい茶色に染められた髪は、控えめな半月の光にもかかわらず透き通るように美しい。
まるで死に神のような男だ、と思った。
「あの日の彼女もそうだった。君の好物の猫缶を購入するために、彼女は帰宅直前にあのコンビニに向かったんだ」
「何者だ。貴様は」
「ああほら。もうすぐ彼女が出てくるよ」
朗らかに笑う男が指を指す。
確かに、先ほどと同じ出で立ちのおなごが店舗をあとにするところだった。
店舗の光に照らされて、面差しがはっきり映る。
和佳子だ。
間違いない。
間違えるはずがない。
「っ、あ……!」
白いビニル袋に収まったものを確認しながら、和佳子は今度こそ歩道橋の階段を上っていく。
嬉しそうに笑みを浮かべてはいるが、その足取りはどこかふらふらと危うげに見える。
ああ、そうだ。
あの夜も、和佳子はこちら側の階段を上っていた。
そして、頂上まで上りきったと思った瞬間、身体が大きく傾いて、そのまま。
「和佳子!!」
和佳子に出逢ったのは一年前の春だった。
礼儀作法をわきまえないちっぽけな悪霊のいざこざに巻き込まれ、手傷を負った。
特に問題はない。舐めておけばそれもじきに治る。
そんな自分をめざとく発見したばかりか、お節介にも世話を買って出たのが北園和佳子というおなごだった。
和佳子はいつも時間に追われていた。
朝早く起き、手際よく準備を整え、出社し、帰宅し、ベッドに倒れ込む。
家に棲みついてからは、自分にすり寄り撫でることも不本意ながら習慣に加えられていた。
ずっと夢見ていたプロジェクトが決まったのだと、ある日和佳子は言った。
心底どうでもよかったが、手に持つ電子機器に表示されたおなごの集団を、何とも嬉しそうに見せつけてくる。
これからともにプロジェクトとやらを進める仲間らしい。
しかしそのプロジェクトというものが始まって以降、和佳子の多忙はさらに極められていた。
夜遅くまで自宅で電子機器を叩く音が続き、和佳子の目元にはおどろおどろしいくままで見られた。
なんでも、メンバーの仕事を和佳子がこうして補っているらしい。
どうしてだ。
メンバーとは仲間のはずであろう。
どうして、和佳子が一人で苦しんでいる。
そんな様子を見かねて、自分から和佳子にすり寄ってみた。
和佳子ははっと息をのんだあと、みゃうと小さく鳴いた自分を胸の中に抱きしめた。
その肩は小さく震えていた。
──大丈夫。このプロジェクトの山は、明日にちゃんと越えられるから。
──そうだ。明日は大好物の猫缶を買ってくるね。いつも見守ってくれている感謝の印に。
別に見守ったつもりはない。
ただ外をうろつくよりも雨風しのげる場所のほうが居心地がよかった。
それだけの、はずだった。
そろそろ、頃合いか。
電車の光が行き交う、線路沿いの一角。
夜分にもかかわらずここは特にチカチカと街灯が眩しく、何度目かわからず顔をしかめる。
しかし、それも今回で終わりだ。
あの電子機器に映っていたおなごたちの全員に、罰を与えるのも。
前回は妙な邪魔が入ってしまった。
そのときすぐに居合わせた男は実に妙な気配だったが、どうやら自分の気配までは察しきれなかったらしい。
昔から猫は忍び足が得意なのだ。
今も慌ただしく行き交う人間の足を難なくすり抜け、とある建物の前に立つ。
和佳子が通っていた社屋の入るビルだ。
どこまで続いているのかわからぬほどに背が高い。
見上げるたびにいつも首を痛くする。
ふん、と鼻を鳴らし、前回と同様、脇に植えられた苗木の一つに身を潜める。
あとは獲物が来るのを待てばいい。
前回は突発的に別人に傷を負わせることになったが、今度は間違いなく当人に始末をつけさせる。
そのとき、ビルのドアにおなごの姿が薄く映り、自動で開いた。
「……、な、に……?」
久方ぶりに口に出た声だった。
姿を見せたおなごは、亡くなったはずの和佳子だった。
そんなわけはない。そんなわけはない。
幾度となく繰り返しながらも、追いかける足が止まることはなかった。
目の前を進んでいくおなごを食い入るように見つめる。
似ている。
姿形も、歩き方も、鞄の持ち方もだ。
そんなわけはない。
和佳子は死んだ。
ならば、目の前のあれはいったい何だ。
すぐに駆けだして正体を暴けばいい。
しかし、どういうわけかその一歩が先ほどから全く出てこない。
気づけばおなごは迷うことなく自宅マンション前の通りまで進み、件の歩道橋に足をかけた。
「っと。いけないいけない」
小さな独り言だったが、その声色は確かに耳に届いた。
懐かしい声だ。
自分を呼ぶ、温かい声。
階段に掛けていた足を降ろし、人物は足早に近くの小規模な店舗に入っていく。
すぐに目的はわかった。
「わらわの、好物を買うために……?」
「うん。そうだね」
ごく自然に打たれた相づちに、はっと大きく息をのむ。
毛を逆立てながら振り返った先には、闇夜に溶け込むように一人の男が立っていた。
肩に掛けた紺色の着流しが、夜風にふわりとはためく。
中には灰色の着物を身にまとい、着流しに施された金糸の刺繍がきらきらと瞬いていた。
明るい茶色に染められた髪は、控えめな半月の光にもかかわらず透き通るように美しい。
まるで死に神のような男だ、と思った。
「あの日の彼女もそうだった。君の好物の猫缶を購入するために、彼女は帰宅直前にあのコンビニに向かったんだ」
「何者だ。貴様は」
「ああほら。もうすぐ彼女が出てくるよ」
朗らかに笑う男が指を指す。
確かに、先ほどと同じ出で立ちのおなごが店舗をあとにするところだった。
店舗の光に照らされて、面差しがはっきり映る。
和佳子だ。
間違いない。
間違えるはずがない。
「っ、あ……!」
白いビニル袋に収まったものを確認しながら、和佳子は今度こそ歩道橋の階段を上っていく。
嬉しそうに笑みを浮かべてはいるが、その足取りはどこかふらふらと危うげに見える。
ああ、そうだ。
あの夜も、和佳子はこちら側の階段を上っていた。
そして、頂上まで上りきったと思った瞬間、身体が大きく傾いて、そのまま。
「和佳子!!」