◇◇◇

 薄く滲んだ風景に、ゆっくりとピントが合っていく。

 見覚えのある和室の天井。どうやら、劇団拝ミ座に運ばれたらしい。

「目、覚めた?」

 傍らから静かに言葉を掛けられる。

 視線を向けると、遥が横たわる布団のすぐ隣に着物姿の雅が座っていた。

 灰色の縞模様の着流しに、紺色の羽織を肩に掛けている。
 その居住まいはどこか儚げで、遥は一瞬見惚れてしまっていた。

「大丈夫? どこか調子の悪いところはない?」
「はい……大丈夫です。ほんの少し、頭がぼーっとするだけで」

 話しながら、徐々に意識が覚醒していく。

 ああそうだ。
 自分はウエディングドレスをまとって、花嫁の、綾那にこの身体を。

 気づけば遥は、がばりと上体を持ち上げていた。

「あ、あの。綾那さんの挙式は、無事に終えたんでしょうか?」
「うん。滞りなく終わったよ。素敵な挙式だった。新郎と義理母さんも、そして花嫁さんも、君に感謝していたよ」
「そう、ですか……よかった……」

 ふにゃりと顔を緩めた遥が、再びぱたりと布団に身を預ける。

 まぶたを閉ざし記憶の欠片をそっと探ってみる。
 それでもやはり、憑依されていたときの記憶は残ってはいなかった。

 ただ、水彩絵の具を一滴垂らしたような淡い幸福が、僅かに胸の中に残っている。

 この温かな感覚が花嫁の残した想いであれば本当によかったと、遥は小さく息を吐いた。

「花嫁の霊は、無事に空に逝ったよ。そのあと遥ちゃんはその場で気を失ってね。ここに運んで休んでもらって、今は翌日のお昼だよ」
「そうでしたか……いろいろとありがとうございました」
「こちらこそ、今回は遥ちゃんの協力なしでは成り立たなかったよ。ありがとう」

 深く頭を下げた雅に、遥も慌てて布団を這い出て頭を下げた。

 同時に、もうここに来る理由はなくなってしまったのを実感し、遥はきゅっと口を結ぶ。

「起きたのか」
「うん。たった今ね」
「和泉さん」

 すっと襖が開き、廊下から和泉が雅と同様の着物姿で現れた。

 もともと白肌の黒髪に端整な顔立ちの彼には、濃紺の着物と着流しがとてもよく似合う。

「今ちょうど目が覚めて、昨日のお礼を言っていたんだよ。あそこまで花嫁を受け入れてくれるなんて、和泉だって思わなかったでしょ」
「まあな」
「え? あそこまでっていうのは」

 気になる言葉を尋ねた遥に、和泉を傍らに据えた雅が口を開いた。

「実はね、昨日花嫁の霊を下ろしたときの君は、生前の花嫁の姿そのものだったんだ」
「え?」

 言われた意味がよく分からず、首を傾げる。

「えっと。それはいったいどういう……?」
「通常の憑依の場合、言葉や動作、表情の細かな癖は、霊の意志によるものだから生前と重なることも多い。でも君はそれだけじゃなかった。声も、顔も、俺が今まで視てきた彼女に瓜二つだったんだよ」
「声も顔も、ですか?」

 思いがけない事実に、遥は目を瞬かせた。

 もともと和泉の施したメイクで、ある程度対象人物に似せてはいる。
 それでも、元は別人の身体のため当然生前と全く同じとはいかない。

 ところが遥は、生前深い関わりのあった二人をもってしても見分けがつかないほどだった。
 それはもう、不思議なほどに。

「でもそれは、いったいどういうことでしょう?」
「一度憑依させないと分からなかったことなんだけどね。遥ちゃんは恐らく、他人を受容しやすい人なんだ。感情や記憶だけじゃない。その性質や性格、そして外見をも」

 雅の言葉が徐々に、でも確実に遥の中にすとんと落ちていった。

 ものに触れることで他人の想いを見ることがあった。
 会話の中に隠された本音がはっきり耳に届くことがあった。

 それらは全部全部、自分の特異な体質のせいだったということだろうか。

「大変だったよね」

 気づけば雅の手が、遥の頭にそっと乗せられていた。

「遥ちゃんが人に真摯になろうとすればするほど、溢れるような他人の気を受け止めてきたんだろうね。それは幸せを運ぶこともあるけれど、きっとそれだけじゃないはずだから」
「みやび、さん……」
「でも、君のその優しさのお陰で、一人の女性が確実に心癒やされ助かったんだ。本当にありがとう。遥ちゃん」

 温かく笑った雅が、ゆらゆらと不安定に揺れて映る。

 滲んだ涙の膜をきゅっと奥に押し込み、遥も笑った。

「ありがとうございます。こちらこそ、こんなに素敵なお仕事に協力することができてとても光栄でした」

 彷徨える霊と語らい、その未練を解き、一丸となってその未練の一時を演じきる。

 彼らはきっとこれまでも、たくさんの霊たちを救ってきたのだろう。その度に縛られていた悲しみや苦しみから心を解き、温かな幸福と感謝を蘇らせる。

「少し、寂しいです」
「え?」
「いつの間にか私、ここに来て皆さんといることが楽しみになっていましたから」

 照れくささを覚えながら話す遥に、雅と和泉が目を瞬かせる。

「今の職場に入ってから私、何度も先輩がたに注意されていました。あまり深く考えすぎないように。感情移入しすぎないように。貴方は人の感情に呑まれすぎるから、と」

 その指摘に悪意はない。心身共に辟易としていた遥を心配しての言葉で、それは遥も十分理解していた。

 でも、理解することと実践することはまったく違うものだ。

「それ以来、仕事中は意識的に感情の蓋を半分くらい閉じるようにしていたんです。でも、ここではそんな必要はなかった。普段通りの私のままで、お二人と花嫁さんの力になることができました」

 それがとても心地よく、嬉しかった。幸福をもらったのは遥も同じだったのだ。

「だから、本当にありがとうございました。もしまたなにか私で力になれることがあれば、いつでも声を掛けてくださいね」
「……」
「……雅さん?」
「遥ちゃん」
「おい待て、雅」

 零れるように名を呼ばれたところで、和泉が雅の肩をがしっと掴んだ。

「お前、いつもの気紛れじゃあねえんだろうな」
「いやいや。だって今のは俺が会話誘導したわけじゃないよね。遥ちゃんの完全な自由意志だよね。それに遥ちゃんが劇団拝ミ座に残ってくれたらってことは、かなり序盤から考えてたんだよ? でも被憑依者だなんて特殊な仕事には違いないし、遥ちゃんの意向を無視したくないしさ。でも遥ちゃんがここでの仕事を望んでくれているのなら、こんなにシンプルな話はないと思わない?」
「え、ええっと……?」

 その後も小声でやりとりを交わす二人に困惑する。もしかしたらまたなにか余計なことを言ってしまったのだろうか。

「よし。決めた。遥ちゃん」
「は、はい!」
「君も、俺たち劇団拝ミ座の正式なメンバーになってほしいんだけど、どうかな」
「……」

 いつもの穏やかな笑顔で告げられたのは、思いも寄らない提案だった。

 目を剥いたまま固まる遥に、雅はなおも続ける。

「君の受容する力は、今まで見たことがないほどの才能だ。加えて、他者に対する思いやりも人一倍強い。今まで数え切れないほどの人に憑依役の演者をお願いしたけれど、どちらも兼ね備えている人なんてそうはいなかった」
「は、はあ」
「君のような子をずっとずっと探してたんだ」

 そう言うと、雅がそっと遥の左手を掬い上げた。

 大きな手に恭しく握られた手に、心臓がきゅっと握られるのを感じる。

 手を握られたまま迫ってくる端正な顔に息をのんでいると、目の前に容赦ない鉄拳が落ちた。

「い、ででで!」
「暴走すんな雅。ひとまず落ち着け」

 拳を戻した和泉により、雅との間に程よい間ができた。遥は密かに安堵の息を吐く。

「自由意志に任せるにしてはグイグイ行き過ぎなんだよ。こいつだって、今勤めている会社もあるんだろ」
「あ、収入のほうなら心配要らないよ。収入も蓄えもきちんとあるし、遥ちゃんにもしっかりとお給金は出せるから」
「あ、はい」
「遥ちゃんはデスクワークが得意なんだよね? 事務仕事は俺も和泉もかなり苦手な分野だから、是非お願いしたいな。もちろん、必要があれば今回のような被憑依者としての仕事も。もし遥ちゃんが望まないなら、別の仕事の割り振りも当然考えるし」
「あ、はい」

 ニコニコと業務内容の説明をする雅を、遥は呆気にとられながら眺めていた。

 確かに事務仕事は好きだし、被憑依者としての仕事もやりがいがある。

 でも、こんな話が急に降ってくるだなんてあっていいのだろうか。

 夢か、幻想か、それとも雅さんのわかりにくい冗談か?

「突飛な話だと思うけれど、俺は本気だよ」

 声のトーンを落とすと、雅はこちらをじっと覗きこむ。

 淡い茶色がかった色彩に繊細な光が見え、強く引き込まれるのを感じた。

「前にも約束した通り、何があっても俺が命懸けで君を守る。約束するよ」
「雅さん」
「だから、お願い遥ちゃん。俺たちの仲間になって……俺のパートナーになって」

 端から見れば、かなり危うい誘いだと笑われるかもしれない。

 それでも、今胸に湧きあがる感情に遥はどうしようもなく満たされていく。
 ありのままの自分を人から必要とされる幸せと、再び誰かの幸せに寄与できるかもしれない喜びを感じていた。

 亡き花嫁が好きだった桜がすっかり青葉に姿を変えた、五月初旬。

 劇団拝ミ座に数年来の新規団員加入が決まったのだった。