豆子と直之はすぐにエレベーターから降りたが、窓ガラスが割られる音や怒鳴り声が階下から届く。
 直之はオフィスフロアの一階下にある警備室に豆子を避難させた。慌ただしく行き来する人たちに巻き込まれないよう体で庇いながら、部下からの報告を受ける。
「落ち着いて聞いてください、豆子さん」
 震えている豆子に、直之は両肩に手を置いて話した。
「ここは安全です。でも合図があるまで、ここから出てはいけない」
「な、にが……」
「虎林組の襲撃です」
 直之は淡々と豆子に説明する。
「正確には、虎林組の下部組織のチンピラ連中ですね。武器は金属バットにナックル、あと火炎瓶といったところです。火は既に鎮火しました。防火扉も降りています」
 監視カメラでひととおりの様子を確認してから、直之は豆子を見た。
「怖がるのは当然の感情です。でも僕らは虚勢を張ってなんぼですから」
「に、逃げ……ないと」
「できません。僕は若頭。白鳥組を守る立場の責任者です」
 断言した直之は大して年も離れていないはずなのに、豆子は遠い世界の住人のように感じた。
「いいですね。ここでじっとしていてください。僕はもう行かないと」
「直之!」
 豆子には直之を留めることはできなかった。直之は警備室から上階のオフィスフロアにつながる階段を足早に上って行く。
 警備室では組員たちが怒鳴り合っていて、豆子を気遣うような者は他にはいない。
「上階に奴らを近づけるな!」
 ビルのあちこちに設置された監視カメラの映像がモニターに映っていて、豆子は恐る恐るそれらを見上げる。
 続々と武器を持った男たちがビルの中に入ってくる。要所に設置された分厚い鉄の扉は開けないようだが、エレベーターは無防備で、その前で白鳥組の組員たちと争いになっているらしい。
 怖がってばかりでは駄目だ。考えないといけない。豆子は忙しなく監視カメラの映像をみつめて、今どこで何が起きているかを把握しようとした。
 けれど物が壊れる音や人同士が争う声だけで体が震えてしまって、満足にカメラを見ることもできない。
 こんな世界は嫌だ。外に出たら二度とこの世界にかかわらないと誓うから、どうか許してほしい。部屋の隅で頭を抱えてうずくまりながら、切に願った。
 暴動が始まってどのくらい経ったのか、誰かが電話を取って叫んだ。
「不破の兄貴からだ。退路を確保した。組員は非常階段を使って速やかに外に出ろとのこと!」
「逃げろってことですか!? 兄貴がまだ上階にいらっしゃるのに!」
「兄貴は皆の避難を見届けてから、非常階段で脱出されるそうだ。早くしろ!」
 逃げていい。その言葉は天の助けのように思えた。
 やっとこの暴力の渦から逃れられる。そう思っただけで呼吸が楽になった気がする。
 実際、組員たちは次々と非常階段から外へ脱出していく。豆子はがくがくする足を叱咤して立ち上がると、どうにか自分も非常階段に向かおうとした。
 でもそのとき、モニターに映った一つの光景が目に焼き付いた。
「あ……」
 上階のオフィスフロアのエレベーターを、武器を持った三人の男たちが降りた。
 ……不破と直之が危ない。
 豆子は立ち竦んで、次の瞬間には走り出していた。非常階段、その上へ。息を切らしながら、とにかく全力で駆けあがる。
 上階の扉を開いて室内に滑り込む。勢い余って転んで、豆子はソファーの後ろに倒れた。
 そこに二人の男が昏倒していてぎょっとする。豆子は飛びのこうとしたが、怒鳴り声で我に返った。
「頭はどいつだ? まさか頭も尻尾巻いて逃げたんじゃねぇだろうな!」
 物陰から様子をうかがうと、興奮した様子で男が叫んでいた。
 その手には黒い金属がある。
 ……拳銃と、豆子は認めがたい事実を目にする。
 室内には既にその侵入者と、直之、そしてもう一人しかいない。
 不破が直之を制して前に出る。
「俺が頭だ」
 不破は静かに告げて侵入者をにらみつけた。
 侵入者はつばを吐き出して叫ぶ。
「武器を捨ててこっちに来い!」
 侵入者は自分が頭を支配下に入れているということに、優越感の混じった声で言った。
 不破は懐から銃を捨てて、ゆっくりと男に近づいていく。
 不破の銃が床を滑っていって……豆子の数歩先で止まった。
 豆子の目の前が点滅する。
 どうする。今考えていることは、悪いことだ。この世界にかかわるべきじゃないと先ほど思い知ったはずじゃないか。
 でもと豆子はソファーの後ろから食い入るように不破を見る。
 落ち着き払った不破の様子が、らしくないと思った。背筋を伸ばして堂々と若頭の振りをするのは、豆子の知っている不破じゃなかった。
 だったらどんな不破を知っているの。自分に問いかける。
 知らない。知ろうともしなかった。豆子は怖くて、不破に近づかなかったのだから。
 永遠に知らないまま終わるかもしれない。そう思った瞬間、豆子は明日さえ黒く塗りつぶされる思いがした。
 不破が男に、あと一歩のところまで迫ったときだった。
 豆子は不破が捨てた銃に飛びつく。男が物音に気づいて振り向く前に、銃を力いっぱい投げた。
 銃は男の頭に猛スピードでぶつかって、落ちた。
 男は目を回して、ぐらりと倒れる。
 豆子はそれをみとめて、どっと汗があふれた。
「はぁ、はぁ……っ!」
 豆子はソファーの後ろから肩を上下させて這い出る。けれど膝が笑って、みっともなく転んだ。
 不破が豆子に気づいて声を上げる。
「豆子!? どうしてここに?」
 倒れこんだ豆子を不破が駆け寄ってきて助け起こす。
 ああ、私のこと、覚えててくれた。それだけでいいような気がした。
 豆子は不破を見上げて言う。
「弾を撃ったら悪いこと……だけど、銃を投げるだけならギリギリセーフ……だよね……?」
 限界まで強張った顔にちょっとだけ笑みを浮かべて、不破にたずねる。
 辺りは静かになっていた。騒乱がぴたりとやんでいる。近づいてくる足音ももう無かった。
 直之も豆子に駆け寄ろうとしたが、彼のポケットで携帯が鳴る。
 直之は通話に出ると、短く通話した後にそれを切って言った。
「不破。うちの組員は全員、ビルから脱出したそうです」
 直之は続けて安心させるように笑う。
「このビルに猫元組の正規組員も駆けつけて、チンピラたちを連れて行ってくれました。……もう大丈夫ですよ」
 豆子は大きく息をついた。不破も直之と顔を見合わせて安堵の表情を浮かべる。
 それが最後の記憶。
「……豆子っ?」
 そのまま、豆子は意識を失った。





 それからしばらくは小競り合いもあったらしいが、猫元組が間に入ったことで落ち着いて来たらしい。
 豆子は首を傾げて不破にたずねる。
「でも不破はまだ忙しいんじゃないの?」
「こら。ちゃんと寝てろ」
 豆子が病院のベッドの上でごろごろ転がっていると、不破に叱られた。
 例の騒乱後に、豆子は失神した。すぐに病院に連れて行かれて精密検査を受けさせられたが、どうやら極度の緊張が原因だったらしい。
 病気や怪我ではないと診断された。だが一時は危ういほどの貧血があったらしい。それくらいに豆子はギリギリの緊張の中にあった。
 豆子は肩を回して文句をつける。
「だってもう全然悪いところないのに。寝てばっかなんかつまんないよ」
「そう言うな。一応明日は退院だろ」
 不破は包みを出して豆子の膝元に置く。
「ほれ、土産だ」
「わ、大福! これ全部食べていいの?」
 豆子は思い知った。自分は多少ふてぶてしいが、それでも不破たちとは世界が違う。チンピラたちが押し寄せてくるのを見て、震えて足も立たなかったくらいに。
 豆子は口いっぱいに大福をほおばって、ちらと不破をうかがう。不破は傍らのパイプ椅子に座って、豆子が食べるのをじっとみつめていた。
 不破はふいに口を開いて言う。
「豆子」
「ん、何?」
「俺はな、一時迷ってた」
 不破は自嘲気味に笑って言葉を吐き出す。
「俺はもっと牙を持つべきなんじゃないかって。金の世界でもこの業界でも、上を目指して然るべきだと」
 豆子は黙って聞く。それに促されるようにして、不破は続けた。
「だが気づいた。そんな野心はちっぽけだ。もっと正直に自分のやりたいことをやればいい。尊敬する若を育てることは、俺が心から望んでることだ。それが最高の野心なんだと」
 ふっと頬を緩めて不破は豆子を見た。
「お前を見てたら、そう思ったんだ。お前、実は相当怖がりなんだな。でも倒れずに自分のやりたいことをやってる。それってすごいことなんだぞ? だから……」
 不破は言いよどんで、でも意を決したように告げた。
「その、お前の真っ直ぐさが……日の当たるところで認められてほしいと思ったんだ。だから金をやってでもこの世界から足を洗わせたかった」
 不破は懐から紙包みを取り出して封を開くと、中身を豆子に示した。
 中には分厚い万札の束が入っていた。豆子の目が止まる。
 不破は頼み込むように言う。
「お前は怒るだろうけど、これが俺のできる精一杯の応援なんだ。ちゃんと綺麗な金だから安心してくれ」
 豆子はそれを聞いてぶるぶると震える。
 やがてぴたっと止まると、一言つぶやいた。
「……か」
「ん?」
 不破が聞き返したとき、豆子は叫んだ。
「ばかー!」
 豆子は札束を不破に投げつける。不破は驚いて、その戸惑った顔がますます幼く見えた。
 不破は訳が分からないという風にたずねる。
「な、なんだよ。だからこれは汚い金じゃねぇって」
「不破はなんっにもわかってない!」
 豆子は手当たり次第に物を投げつけて叫ぶ。金だけでなく、タオルやコップまで飛ぶ。
「乙女心を踏みにじって、この、この!」
「痛ぇ、やめろ! おい!」
「なんでちょっとくらい待ってくれないの、不破!」
 豆子は肩を怒らせて不破の胸倉をつかむ。
「私の本名知ってる? あずさだよ。でもあずきでもいいよ。豆が大好きなんだ、私」
 ぶんぶんと不破の胸倉を揺すりながら、豆子は言う。
「あずきは将来、最高に甘いお菓子になるんだ。私だってそのうちに絶対、いい女になる。この大福のように。だから待ちなさい!」
 畳みかけるように話す豆子に、不破は目を回していた。
 ああもう、と豆子は叫ぶ。
「わかんないかな! ……私は好きなんだ! 不破のこと! 不破は私のこと好きじゃないの?」
 あーあ、言ってしまった。豆子は自分に頭を抱えたかった。
 こんなこと言ったら、つけこまれる。心を開いたら、傷つく可能性だってある。
「金なんか自分でどうにかする! それより、不破の行く所どこでもついていく!」
 でも、駄目だ。怖くたって、傷ついたって、豆子は気づいてしまった。
 この頼りなげで無神経な男が豆子は好きで、そして……幸か不幸か、彼は豆子を思ってくれるのだから。
 豆子は不破を突き飛ばすと、振りかぶって丸い何かを投げつける。
 ぽかんと不破の頭に大福がぶつかって、地面に落ちた。
 たぶんそれで、不破の頭はおかしくなってしまったのだろう。
 一瞬の沈黙の後、不破は笑い出した。
 呼吸困難になるくらいに全力で。笑いの種が弾けるようで、いつまでも尽きることがない。
 やがて不破はうめくように言った。
「お前って、趣味悪いのな」
 お手上げというように、不破は目の端に滲んだ涙を拭う。
 不破はベッドの上に立ち上がった豆子を見上げる。
「で、それは俺もなんだ。……一緒に暮らすか、豆子。お前が好きなんだ」
 豆子がその言葉の意味を理解するまで、あと数十秒。




 後日、豆子が不破とホームセンターを歩いていたときのことだった。
 豆子は不破を急かして言う。
「不破、何してんの。早く早く!」
「お前、荷物持ちさせといてそれか」
「だって不破ん家汚すぎるよ。掃除道具も全然無いじゃない」
 豆子が文句をつけると、不破は目を逸らしてうなずく。
「まあ、掃除してくれてるのはありがたいと思ってる」
「ほら、次お風呂コーナー! スポンジに手袋にカビ抹殺!」
 不破にカートを押させて、豆子はどんどん前に進んでいく。
 ふいに豆子は短く声を上げて足を止めた。
「あ」
「どうした」
 不破は横に並んで問いかける。
 豆子の視線の先に、見覚えのある男女の姿があった。線の細い女性と涼やかな面立ちの男性が、仲が良さそうに手をつないで歩いている。
 男性の方が女性を振り向いて優しく問う。足らないものや欲しいものはありませんか。
 女性はおずおずと棚を見やる。口ごもる彼女を、男性は急かすことなくみつめている。
 これ、かわいいですね。女性が指差したのは、うさぎの形をしたシャンプー容器だった。
 そうでした、うさぎが好きでしたね。男性はそう言ってほほえむ。子どもっぽいでしょうと恥ずかしそうにうつむいた女性に、男性は喉を鳴らしてくすくすと笑った。
 それは月岡と婚約者の女性だった。二人の様子を見ていて、豆子はすとんと理解する。
「……好き合ってるんだね、月岡さんとお嬢さん」
 不破はやれやれという風に肩を回して言う。
「あっちもようやく同居の準備か。ホームセンターの似合わないカップルだなぁ」
 不破は声を潜めて豆子に言う。
「月岡はお嬢さんが好きで好きで……お嬢さんが欲しくて組を取っちまったのさ」
「そっちが先だったんだ」
「実はな。月岡は、お嬢さんはコーヒーみたいだってずっと言ってた。自分には、お嬢さんがいない人生なんて考えられないって」
 月岡と婚約者の女性が交わし合う視線、空気。そういうものがとても温かくて、豆子は不破が二人の結婚を祝福した理由がわかった。
「豆子」
 ああいう甘い空気、私と不破じゃ無理だろうな。豆子が遠い目をしたら、不破に声をかけられた。
 ふっと不破との距離が近くなる。次の瞬間、かすめ取られるようにキスしていた。
「余所見すんなよ」
 不破は憮然として顔を離すと、背中を向けてさっさと行ってしまう。
 豆子は数秒間沈黙して、やがて胸をいっぱいにする一つの気持ちに気づいた。
「……大好き!」
 豆子は噴き出すように笑って、その丸まった背中に飛びつく。
 不破の頬にキスを返して、豆子はぎゅっと大好きな人を抱きしめた。