しらけたムードのまま2時間続いた一つ目のオリテが終わり、10分休憩になった。みんな立ち上がったり、隣の人に話しかけたりしていた。
もし、サンドイッチを食べながら聴いていたら、サンドイッチを投げつけたくなるくらい退屈だった。そう思いながら僕はあくびをし、机に置いていたミネラルウォーターが入ったペットボトルを手に取った。そして、右手でキャップを開けて、一口飲んだ。そのとき隣の女、森生が話しかけてきた。
「みんな静かだったけど、いつもこんな感じなの?」
「はい、普段からこんな感じですよ。北日本人は真面目な人多いから」
「おんなじ日本人だね。国は70年も分かれていたけど」
「昔から勤勉だって言いますもんね。こっちの歴史でも富岡製糸工場の話とか、近代化の話は習ってます」
「歴史感は一緒ってことだね」
森生はそう言いながら、炭酸水が入ったペットボトルを開けた。ガスが抜ける音がした。森生は女優のようにそっとペットボトルの口を唇に付け、飲んでるのか飲んでいないのかわからないくらいの量の炭酸水を飲んだ。
「私も異動が多いから今まで大阪、福岡、沖縄、東京からの札幌だから、全国飛び回ってるけど、札幌は札幌で新鮮な感じする」と森生は言った直後に他の社員が休憩が終わったことを告げた。
「そうですか」
僕は早々に話を切り上げたくて、適当な相槌を打った。
6時間のオリエンテーションは終わった。細かなルール通りにやらなければならないのはどの仕事も同じなのかと思った。
もらった資料と筆記用具、飲みかけのペットボトルを一通りかばんに入れた。絵里香が話しかけてきた。
「私も今日はこのまま帰れるから、途中まで一緒に帰らない?」
「えぇ、いいですよ」僕はそう言った。
「失礼だけど、歳いくつなの?」
「27です」
「私と同じだ。タメ口でいいよ」
「先輩なのにいいの?」
「もう、敬語使ってないじゃん」
絵里香はそう言って笑った。
「私さ、敬語って意味わからないだよね。もちろんお客さんの前とか仕事とかでは使うけど、日常的に年上の人とか、先輩とかには敬語で話さなくちゃならないとか、意味わからなくない?」
「言ってる意味はすごくわかる」
「そうでしょ。敬語のままじゃさ一向に親しくなれない気がするし、敬語って頭疲れて、本当の自分のキャラ出せないし、すごく嫌いなの」
「日本の奥ゆかしさとか、謙遜とかも嫌いそうだね」
「うん、よくわかってるね」
「北日本にはあまりいないタイプだね。君は」
「たぶん、南日本にもあんまりいないよ。私みたいな人」
「ねえ、そんなことより、私、北日本に来てから、全然遊んでないの。知り合いっていう知り合いもまだ全然出来てないんだ。どこかでご飯食べない?」
「え?」
海がしけはじめ、仲間が声を出して、海に避難する中、一匹のんびり寝ていたアザラシみたいに、僕は何が起こったのか飲み込めないでいた。
「疲れてたら、全然今度でいいけど」
「いや、ごめん。いいよ。今行こう。美味しいビーフストロガノフの店に行こう」
「いいね。北日本っぽいね」
僕と絵里香は駅前通りを南下し、大通公園を超えた。狸小路の一本手前の道を右に曲がり、路地に入ってすぐのロシア料理店に入った。
ビルの一回に入っていて、このビルは隣のビルより奥に立っていて、空いている空間に5脚の小さなテラステーブルが並んでいた。そして、そのうちの3脚にはまだ誰も座っていなかった。
店に入り、僕はテラス席に座わることを店員に伝え、また外へ出た。
そして、一番店側に近くて、こじんまりしたテラス席に座った。初夏のビル風が弱く熱を逃してくれるのを感じた。
「札幌のビーフストロガノフ食べたかったの」
絵里香は嬉しそうにそう言った。
「ここの店はよく来るんだ。いつも店の中で一人で食べてる」
僕がそう言っているときにベストを着た店員がこっちに来た。店員は無言で、水が入ったアルミ製のグラスを2つ置き、メニュー表を置いていった。最後に小さな声で失礼しますと店員は会釈をせず言った。
「酒も飲みたい気分なんだ。君、飲める?」僕は絵里香にそう聞いた。
「うん、結構飲むよ。私。引くぐらい」
「よかった。引くぐらい飲もう」
手を上げて店員を呼んだ。ビーフストロガノフ2つとビールとモスコミュールを頼んだ。店員は無言で伝票に書き込んで、お待ち下さいと小さな声でぼそっと言い、カウンターへ戻っていった。
「私さ、年下の子にもタメ口でいいよって言っちゃうんだよね。今まで言っていた全員の人にそれはちょっとって断られたの。社会に出てからは同い年の子にも言われて、そんなに悪いことしているのかなって感じした」
「正直、その方が楽だよな。自分が出せるから」
「そう、自分が出せるから、楽なの。ねえ、タメ口になって許される唯一の方法があるの知ってる?」
「方法?」
「うん、方法。答えてみてよ」絵里香はいたずらをする少女みたいな顔でそう言った。
「銃で脅すとかか。助けてくれーって」僕は水を一口飲んだあと、そう言った。
「それ、危険を感じてタメ口になってるだけでしょ」
「それ以外、わからないな」
「酒。酒が一番いい方法なの」
「あー、酔ったフリするってこと?」
「最初の何杯かは酔ったフリするけど、そのあとは完全に酔った勢いで、タメ口キャラになるようにしてるの。職場の飲み会とかでもね」
「なるほどね。みんなも酔ってるからシラフのヤツしか気づかないか」
「そうそう」
「さすが自由主義だな」
「え、それ、北日本じゃ許されないの?」
「うん、100%殴られる」ちょうど店員がやってきて、ビールとモスコミュールをテーーブルに置いていった。
「乾杯」と絵里香は言って、僕の方にモスコミュールが入ったグラスを差し出してきた。僕はビールが入ったジョッキを絵里香のグラスに当てた。乾いた音がした。お互いに一口飲んだ。
「こっちに引っ越してきて、どれくらいなの?」僕は絵里香に聞いた。
「まだ3ヶ月くらいかな。札幌支店準備室ができるのと合わせて赴任したんだ。私が一番下っ端だから、めちゃくちゃこき使われたよ。面倒な書類仕事とか、オリテ準備とか、ホントに2週間前までバタバタで、ようやっと今、落ち着いたって感じ」
「そうだったんだ。大変だったんだな」
「まあね」
絵里香はモスコミュールを一口飲んだあと、中途半端に皿に置いてあるスプーンを右手で握り、ビーフストロガノフのルーをすくってひとくち食べた。
「ハヤシライスに似てるよね」絵里香はそう言った。
「うん、デミグラスソース使ったら、ハヤシライスでトマト缶とサワークリーム入れたら、ビーフストロガノフになるから、牛肉とかマッシュルーム使うのとか、具はあんまり変わらないよね」
僕はそう言って、ビーフストロガノフの牛肉をスプーンですくい、それを食べた。
「それにスープカレーみたいに創作系な感じもあって美味しい」絵里香はもう一口ビーフストロガノフを食べた。
「スープカレーはもう食べたんだ」
「そう、引っ越してすぐに食べたよ。赴任休暇のときに」
絵里香は美味しそうにスプーンを口に運んでいた。そして、しばらく、お互いに食べることに夢中になり、気づいたら、空いた皿が4つ生まれていた。ついでに僕のジョッキも空になっていた。
店員を呼び、僕はスクリュードライバーを頼み、絵里香は店員が持ってきたメニュー表をじっくりみて、ソルティドッグを頼んだ。
5
僕はもともと頭が良いほうだった。
他人にそういうと嫌味のように思われ、いくつもの人から、嫉妬され、妬まれ、そして、羨ましがられた。
だから勉強することは苦ではなく、自分の脳内に取り込むことができた。
だから、コールセンターに入って、思い出したのは11年間通った初等学校のことだ。
初等学校は11年間、初等教育と基礎教育を学び続ける。その後、高校か専門技術校に行くことになるが、人口が少ないこの国では、成績が良ければ、自動的に高校に進学し、大学に行くことが運命づけられていたし、頭が悪いヤツは専門技術校に行き、炭鉱や製紙工場、農業、漁業など自分がやりたい仕事の技術を身につけ、良き労働者になった。
僕は同学年のクラスではいつも成績は一番目になることが当たり前だったし、あまり努力しなくても覚えるべきことは覚えることができた。その代わりに周りからは一歩引いた目で見られていたし、僕はその一線の先に入ることはあまり許されなかった。おそらく周囲からは僕の無邪気さは不自然に見えていたのだろう。だから、間接的にしか関わることを許されなかった。
6
僕は大麻の研究者でもあった。というのも、花乃が利用されていた兵器は大麻を使って、意識を兵器に変換する仕組みだったからだ。
花乃が眠ったのは17歳のときだった。
夏祭りが終わって夏休みに入ったとき、花乃と突然連絡が取れなくなった。
そして、短い夏が終わり、学校に行って、花乃が退学したことを知った。先生に聞いてみても解答はあやふやだったから、花乃の家まで行き、花乃の両親に会った。そこですべてを話してくれた。花乃には特殊な力があり、軍の研究対象になってしまったと。そして、しばらくは面会することはできないし、どうすることもできないと言っていた。突然、子供が連れ去られたのに、淡々とした口ぶりが不自然だった。
死にたくなった。死にたくなったのは花乃の方だと思うけど、僕も死にたくなった。
花乃の父は軍医で真駒内国軍病院に勤めていた。
だから、花乃の実家は金があり、棚の上や棚には高そうな装飾品と、大量の本が置いてあった。本は医学書がメインで、南日本から輸入されたものやロシア語のタイトルの本がそれぞれ並んでいた。壁にかけてあるシカの頭の剥製など、いちいち置いてあるもので金を余していることを感じさせた。
花乃の父から、花乃を諦めるのも君の自由だし、花乃を追うのも君の自由だと言われた。
正直、そう言われてもと思ったし、不自然な感じがした。
何か知っているのであれば聞きたいと伝えたところ、花乃は真駒内駐屯地内にある研究施設に幽霊されていることを父は言った。
追うなら、大麻のことを研究するのが一番だと言われた。僕はよくわからなかったけど、言われたとおり大麻を研究することを決意した。
花乃にはすぐに面会することができた。
僕はそこから猛勉強をして、北大の薬学部に合格し、薬学から大麻を専攻した。
そして、ある程度、大麻ゼミで研究成果を上げることができた。そして、大学院に行くことになると思っていたが、思わぬところから声がかかった。軍の特殊戦術研究所からだった。僕はすぐに花乃と関係ある場所であることは出勤初日にプロジェクトの概要と目的を聞いたからだ。
「要は簡単なことで、大麻から魔を吸い出し、それを軍事利用しているだけだ」
「諸君らのプロジェクトは構成国の未来、戦局を左右する重大な任務を背負っていることを肝に銘じてほしい」技術少将がそういった。
要は簡単なことで、大麻には魔法を使う原料が入っているということだ。そして、実際に大麻から抽出した魔を使って、兵器を運営していた。その兵器を運転するには大麻から抽出した魔を出力する魔女が必要で、そうした魔女は眠らされ、一方的に軍事利用された。
そして、その眠られている魔女の中に花乃もいた。
花乃は研究対象ではなく、徴兵されたも同然だった。僕は別になにも感じなかった。警察も賄賂を渡さなきゃ動かないこの国では、こんなことが起きても、腑に落ちるし、仕方ないとしか言いようがない。
こんな国だから、亡命によって人材流失も深刻だった。だから、僕みたいに大学出てすぐの若造の手を借りなければ、こうした施設は運用できないのだ。特にこうした特殊な研究施設では深刻な人材不足に陥っていると、噂で聞いたことがあった。さらに、もともとこの国は、インテリ層がさほどいない状態でスタートしているから、知識層の育成は、すべてソ連とロシアからの教育によって成り立っているも同然だった。
そして、この兵器は機密情報扱いだった。末端の研究者は大麻から魔を抽出することと、魔をエネルギーとして貯蓄すること、そして、その兵器は魔女たちを眠らせ、魔女たちの思念で魔のエネルギーをコントロールし、兵器を運用していることしか知らなかった。
だから、その兵器がどのようなもので、どのように動かしているのかということは僕ら末端研究者は知る必要はなかったし、知ったらおそらく消されることになるのは簡単に理解できた。実際の兵器開発や運用はもっと偉い博士たちがやっていればいい話なのは最初からわかった。だから、僕は薬学的な大麻の基礎研究も担当させらながら、彼女たち200人以上の生体管理や魔のエネルギー管理を行うことになった。
魔女たちが眠る病室を巡回をするとき、必ず花乃の様子も見ることになった。最初、病室を巡回をして、花乃を見た時、よくわからない無の気持ちがブラックホールに吸い込まれるような感覚が襲った。触れたかったけど、今は触れることができない。家に帰って、ビールを飲んでいたら、涙が止まらなくなった。
7
花乃の家の前に車をつけた。ハザードの音が面倒暗そうにぶっきらぼうな音を立てていた。89年製のトラバントはけたたましくアイドリングしている。すでに花乃は外に出ていた。白の半袖Tシャツの上に紺色のワンピースを重ね着していた。弱い風が長い髪の裾を揺らしている。花乃はトラバントのドアを開けた。
「おまたせ」
「ありがとう」花乃はそう言いながら、シートに座り、ドアを閉めた。
「暑いね」花乃はシートベルトを締めながらそう言った。
「今日のビールはきっと美味いよ」
「ビール飲まないからわからないよ」花乃は笑いながらそう言った。
「この車、だいぶガタ来てるから、酔わないように気をつけてね」
「大丈夫。私、こう見えても車酔いしないタイプだから」
「そうなんだ。知らなかった」
「うん。君の車に乗るの2回目だからね。1回めは私、起きたばっかりだったし」
「ドライブって感じじゃなかったからな。よし、行くか」僕はウインカーを左に出し、ハザードを消した。左足でクラッチを踏み、右足を踏み込んでいたブレーキを緩めるとゆっくり動き出した。
碁盤の目状にきれいに配置された住宅街を抜け、環状通とぶつかった。
当然のように信号は赤になっていた。片側3車線の広い道路には無数のトラックや車が高速で通り過ぎ、排気ガスでグレーになっていた。左ウインカーの金属音と低音で唸るエンジンの音が3分くらい車内を支配した。ようやく信号は青になり、車を交差点の中央まで進めた。左折するために対向車を何台か通り過ぎるのを待ち、環状線の右車線、真ん中に入った。道の先に藻岩山の裾の緑が見えた。
南19条大橋を抜け、そのまま、藻岩山麓通りに入った。山を縫うように超えていき、円山動物園の裏側を通り過ぎた。そして、国道5号線に入った。
「10年ぶりの海、どう?」僕は花乃に聞いた。
「いいね。最高」花乃はそう言った。遠くに見える海の水面は白く輝き、コーラが飲みたくなるくらい涼しそうだった。
車は小樽市に入り、朝里や銭函を通過していった。
小樽市街には寄らず、海岸沿いを走った。何隻かの貨物船やフェリーとロシア軍の軍艦が停泊しているのが見えた。ヨットは床にこぼした胡椒のように散らばって停泊していた。
埠頭に車を止め、海を眺めることにした。
心地がいい波打つ音が聞こえた。持ってきたペットボトルのコーラを開け、乾杯した。
「だいぶ元気になったね」
「おかげさまでね。この間、久しぶりに服買いに行ったの」
「似合ってるよ」
「ありがとう」
「ねえ、私、つまらなくなってない?」
「どういうこと?」
「だってさ、車の中であまり話せなかった。10年前まではそんなんじゃなかったのに」
「そんなことないよ。これぐらいで自然だよ。大人になったら」
「なんか、昔より面白いって感じることも少なくなったし、面白く話すこともできなくなった気がするんだ。最近」
「そんなことないよ。ほら、こうすれば、面白くなる」
僕は花乃が持ってるコーラを奪い取り、海に向かって放り投げた。ボーリングのピンよりはるかに高く、きれいな放物線を描き、コーラは水しぶきもあげずに海に刺さるようにきれい着水した。
「嘘でしょ」
花乃を見ると驚いた表情をしていた。コーラは海面に横になり、気持ちよさそうにぷかぷか浮いていた。
「飲みなよ」
僕は左手で持っていた自分のコーラを花乃に渡した。
「え、ヤバすぎでしょ」花乃はそういったあと笑い声を上げた。
「軍にいたとき、研究職でも1年に一回は訓練させられたんだ。銃の撃ち方とかそういうの。俺さ、投擲だけはなぜか成績よかったのさ」
「とうてきって、手榴弾投げるヤツ?」
「そう、膝をバネにして、腕も極力地面スレスレに下げて、勢いをつければ、あーいう感じで、飛ぶよ」
「投げるコツ、誰か教えてくれたの?」
「いや、オリジナルで考えたフォームだよ」
「変なの得意だよね」
「面白いっしょ?」
「面白い」花乃は左手で僕の背中を軽く叩いた。遠くで何匹かのカモメがおもちゃみたいな声で鳴きながら飛んでいた。弱く風が通り過ぎ、潮の油っぽさが辺りを包んでいた。
「残念だけど、俺らももう、大人になったんだよ」
「寝てるあいだに?」
「そう、寝てるあいだに季節はしっかり巡ったし、いろんなことが起きたんだよ。残酷だけど。だから、気持ちは高校生のままでも周りと自分は大人になっていた。自分は大人だと思ってないのに。気の毒だと思うよ。君のこと」
僕はそう言ったあと、花乃の顔を見た。花乃は無言で海を見ていた。
「―――だからさ、これから面白くなればいいし、これから面白いこと増やそう。そしたら、花乃の不足感も徐々に消えていくよ」
「ありがとう。私、結構つらいかも」
「今までつらさも感じられなかったんだから、悪いことじゃないよ。つらいことは」
「君の言う通り、私はまだ高校生のままなんだよね。記憶も気持ちも。だから、27歳なんて大人だし、落ち着いてて当たり前だよね。だけど、何もかもまだ追いついてないよ。自分の歳に」
「仕方ないよ。まだ起きたばっかりだしさ。ゆっくりなれるよ。きっと」
「―――そうかもね。今は私がわからないし、捉えられないや」
「散歩したら、気が晴れるよ。車停めて、街の中、散歩しに行こう」
「わかった。ありがとう」僕らは二つ目でライトグリーンのトラバントに戻った。
8
「それでね、私さ、その客にわからないものはお答えしかねますので、お客様ご自身で考えてください。って言って、こっちから切ったんだ。クレームにならなかったから誰にもバレなくて済んだけど、それぐらいしないと話がわからない客っているんだよ。世の中には。そういうヤツは、カスタマーサポートみたいな弱いところでは強がるところがないんだろうね」絵里香は珍しく、仕事の愚痴を言っていた。
「北日本じゃ、そんなのあまりいないな」
「嘘だぁ。絶対いるよ。根性が悪いヤツ。普段の生活で満たされないから、立場が自分より弱いところに電話して、憂さ晴らしして、自分の醜い心を満たしてるヤツなんて、国境越えてもいるでしょ」そう言って、絵里香は5杯目のカクテルをまた一口飲んだ。絵里香の顔は真っ赤になっていた。
「だって、そもそも、北日本じゃ顧客センターに問い合わせるなら、客が低姿勢にしないといい加減な対応されることわかってるから、そんなこと絶対にしないよ」
「そっか、北日本はしっかりしてるよ。ホント。南の人たちをどうかしつけてやってください」
「冷たいサービスしていいってこと?」
「それはダメだよ」
「なんだ。仕事が楽になると思ったのに」
僕はコークハイを一口飲んだ。
「ねー、なんでこんなに仕事って楽じゃないんだろう?」絵里香はそう言った。
「楽じゃないから、仕事なんだよ」
「ねぇ、楽にするにはどうすればいいの?」
「手を抜くしかないでしょ」
「手抜きしたら怒られるよ」
「怒られないようにやるのが手抜きなんだよ。この国の人はそういうの得意だぜ?」
「いいなぁ、そういうふうになりたい」
「手抜きしてもつまらないものはつまならいけどね」
「はぁ。なんで仕事ってつまらないの?」
「生活のための奴隷なんだからつまらなくて当たり前だよ」
「えー、もっと楽に暮らしたいよ。私だって。なんでこんなに1、2年に一回は引っ越ししなくちゃならないワケ?」
「配属の希望出せないの?」
「そりゃ、出せないよ。全国社員になったら、次はここねって言われたら、はいって言うしかないんだもん」
「ふーん。そういうものなんだ」
「なにが、ふーんよ。私はどうせ、結婚もなにもしないまま、全国たらい回しにされるだけの運命なんだよ。どうせ」絵里香は5杯目を飲み干した。そして手を挙げ、ボーイを呼んだ。
「飲み過ぎじゃないか?」
「今日はやけに回ってるだけだから!」絵里香はカシスオレンジを頼んだ。
「それに明日、休みだからいいの。このまま飲み続けてしまえば。君も休みなの知ってるんだからね。私は」ニヤニヤしながら絵里香はそう言った。
「はぁ、せっかく北海道に来たのにさ、札幌以外のところ私、知らないんだよ」
「免許持ってないの?」
「うん、持ってない。だからドライブもできないし、なにもできないの」
「小樽ぐらいは行けそうだね。電車一本ですぐに着く」
「それはそうだけどさ、私、ひとりで小樽に行って、一体何するの?」
「そっか。寂しいな」
「失恋して、一人旅したみたいじゃん。それ」
「今までいい人いなかったの?」
「いたけど、私がこんなに全国転勤繰り返しているから、全部ダメ。疎遠になっちゃう」
「付き合ったことは?」
「もちろんあるよ。大学生のときにね。就職したあとも付き合ってたけど、遠距離になってすれ違って、ダメになった」
「どれもそんな感じか」
「うん。スマホじゃ埋めれない溝だよ。ホントに」
「だから、私だって結構学習したんだよ。この会社にいる限り、いい感じになることなんてありえないって」
「どうして会社を続けるんだ?」
「奨学金の返済のために続けなくちゃならないの。それに会社辞めたら、住む場所もなくなっちゃう」
「社宅だから?」
「うん、社宅じゃなくて、会社が契約してる賃貸会社のアパートなんだけど、会社辞めたら原則、すぐに引っ越さなくちゃいけないんだよね。そこに住み続けられないようになってるの」
「なんでそんなに南日本って面倒なんだ?」
「私が聞きたいよ。なんでこんなに面倒なの」ボーイがぼそっとカシスオレンジですと言って、カシスオレンジを置いていった。僕はついでにラムコークをボーイにもう一杯頼んだ。
「私なんて、誰にも愛されないで、淡々と仕事して、そしてひっそりと死んでいくんだよどうせ」
「悲観するなよ。まだ27だよ」
「もう27なんだよー。このまま危機感持たないでズルズル行ったらあっという間にアラフォーになってるんだよ。どうせ」
絵里香は泥酔した。
彼女を送ろうにも住所もわからない始末だった。僕は仕方なく、タクシーで自分の家に絵里香を連れて行くことにした。こんなに飲むなよとため息をついた。タクシーが自宅前に着き、運転手に金を払った。運転手は妙にニヤニヤしていて、少し腹が立った。絵里香を担いで、家に入った。
絵里香は夢との間にいるように時折、笑ったかと思ったら、すぐに眠ったり、ろれつが回らない意味不明な言葉を話し、僕になにか伝えようとしたが、何もわからなかった。
絵里香をベッドの上にのせ、布団をかけた。彼女は瞼を閉じたまま、ニヤニヤした表情で何かを言ったが、アルコールの匂いしかしなかった。僕は仕方なく、リビングのソファで寝ることにした。時計は2時を指していて、まだ意外に時間が立っていなかったことに驚いた。
9
身体が痛くて目が覚めた。まだ、7時だった。まだ、絵里香は寝ていた。僕はトイレに行き、歯磨きをしたあと、ベーコンエッグを作った。2枚のパンにバターを塗り、オーブンですぐにトーストできるようにした。そして、ヤカンでお湯を沸かし、そのお湯でインスタントコーヒーを溶かした。
テレビをつけたら、朝のニュースがやっていた。コーヒーを飲みながら、それをぼんやりと眺めていた。別に面白いこともなかった。ほとんど、南日本と併合関連のニュースだった。国営放送が南日本のNHKという放送局に吸収されることが決まったとか、国営工場、鉄道局、道路公団、国営炭鉱は民営化される可能性が高いとか、そういうことだった。
物音がして、ふと後ろを向くと、絵里香が立っていた。
「おはよう」
「おはよう。すごく頭痛い」
僕は立ち上がり、台所まで行き、グラスに水を入れた。そして、リビングに戻り、絵里香に渡した。絵里香は水を一気に飲み干したあと「ありがとう」と言った。
「洗面台に歯ブラシあるから、歯磨きしてきなよ」僕はそう言った。
「洗面所どこ?」
「ここの扉開けて、通路まっすぐいったところだよ」
「わかった。トイレも借りるね」絵里香はグラスを僕に渡して、洗面台の方へ歩いていった。
僕はコーヒーが入ったマグカップと絵里香のグラスを持ち、また、台所に行った。テーブルにマグカップを置いた。グラスに水を入れ、グラスもテーブルに置いた。パン2枚をオーブントースターに入れ、2分タイマーをセットし、電熱線がオレンジ色になったことを確認して、リビングに戻った。戸棚から、薬箱を出し、ウコンの粉末剤を一つ取り出し、それをテーブルに持っていき、絵里香が座る方にそっと置いた。そのあと、オーブントースターのタイマーが鳴ったから、トーストをそれぞれの皿に載せ、皿をテーブルに持っていった。
絵里香がリビングに戻ってきた。「とりあえず、むこうで朝ごはん食べよう」とテーブルの方を左手で指しながら僕はそう言った。絵里香は頷いた。僕と絵里香はテーブルに行き、それぞれ安っぽいプラスチックの椅子に座った。
「あ、飲み物忘れてた。コーヒー飲む?」
「うん、飲む」絵里香はウコンを見ながらそう言った。
「ウコンの粉末剤、まずいけど飲んで。二日酔いに効くから」僕はもう一つのマグカップを台所の上にある食器戸棚から出し、マグカップにコーヒーを入れた。
「ありがとう。私、結構飲んでた?」
「割とね。疲れてたんじゃない?」
「そうかも。久々に記憶ないや」絵里香はそう言ったあとため息をついた。僕はコーヒーを絵里香の方に置いたあと、席に座った。絵里香はウコンの粉末剤を軽くふったあと、袋を開けて、一気に粉末剤を口に入れた。そして、すぐに水を飲んだ。
「めっちゃ苦そうな顔してる」
「苦い」絵里香は渋い顔をしながらそう言ったあと、微笑んできた。その微笑みは苦味が残っていた。
「ねえ、私誘わなかった?」
「え?」
「酔ってたとき」
「あー、何言ってるかわからなかったから寝たよ。眠かったし」
「意外と冷たいんだね。そういうところ」
「いいから、食べなよ。俺は意外にロジカルなんだよ。物事については」
「へえ、助かった。いただきまーす」絵里香はトーストを手に取りちまちま食べ始めた。
「今日が休みでよかったな」
「休みだから飲んだんだよ。覚えてないけど」絵里香は笑いながらそう言った。
「ねえ。私、誘ってた?」
「酔い過ぎて、何言ってるかわからなかった」
「魅力的じゃなかったの?私のこと」
「そういうわけじゃないけど、フェアじゃない。こういうのは」僕はコーヒーを飲んで口に蓋をした。
「硬いなぁ」絵里香はそう言って、僕に合わせるように、コーヒーを一口飲んだ。
「私さ、何回か失敗しているんだよね」
「失敗?」
「そう、酒でね。知らない間に嫌なことになってる朝って、どんな気分だと思う?」
「わからないな。そのときにならないと」
「冷たいなぁ。最悪に決まってるでしょ。あー、またやっちゃったって思うの。そして、自分を責めたくなる。そんなつもりないのに」
「そんなつもりないところがね」
「そうそう、そんなつもりないの。全くね。けど、そのときはきっとそんなつもりあるんだよ。私の中に。だから、最悪になるんだと思う」
「今日は最悪?」
「ううん、そうでもない」
「そうでもない?」
「うん、確証はないけど、ここにいる時点でとは思ってる」
「君の住所、わからなかったんだよ。酔い過ぎてて、聞き出そうにも聞き出すことできなかった。だから、ここに連れてくるしか選択肢がなかった。これでどう?」僕はそう言ったあと、箸でベーコンエッグの黄身をつついた。卵の黄身は溶岩のようにゆっくりと流れ出た。
「まるで記憶がないや。そんなにろれつ回ってなかったの?」
「うん、宇宙人みたいだった」
「ふーん、そうだったんだ。宇宙人にご飯を食べさせる気分はどう?」
「最高だね」僕は箸でベーコンを切り、一口食べた。
10
「なにこの車。超かわいい」
「いいでしょ。89年製のトラバント」
「トラバント?」
「そう、東ドイツ製の大衆車だよ」
「へえ。丸いライト、かわいい」
「だいぶガタ来てるけど、丈夫なんだ」
「丸っこくて、いいね。写真とってもいい?インスタにあげたい」
「いいよ」
絵里香はバッグからiPhoneを取り出し、いろんな角度からトラバントを撮った。一通り、写真を撮ったあと、立ったまま、iPhoneを夢中でいじっていた。エフェクトをつけて遊んでるのがすぐにわかった。
「見て。かわいくない?」
絵里香は僕の方に寄り、iPhoneを見せてきた。写真は本物のトラバントより、緑が鮮明になり、きれいなエメラルドグリーンになっていた。そして、光量も少し落としていて、落ち着いていて、シックな自分の愛車がそこに写っていた。
「いいね」
「かわいいでしょ?」
「うん」
「かわいいでしょ?」
「ああ」
「かわいいって言ってよ!」
「――かわいいね」
「北日本の人ってホントリアクション薄いよね。かわいいならかわいいって言うんだよ。わかった?」
「これ、叱られてるのか?」
「うん、ガチなやつ」絵里香は笑いながら、iPhoneをショルダーバッグにしまった。そのあと絵里香はトラバントの左側に向かおうとした。
「あ、これ、左ハンドルの車」僕はそう言ったら、絵里香が振り向いた。
「そっか、右側通行だから逆なんだ」絵里香は感心したようにそう言って、助手席の方に向かった。僕も運転席のドアまで行き、鍵を開け、僕と絵里香はそれぞれ車に乗り込んだ。
エンジンをかけるとトラバントは最初から全力でけたたましい音を出した。絵里香の方をみると、絵里香はめずらしそうに車の隅から隅まで見ていた。
「家、どこ?」僕は絵里香に聞いた。
「円山ってところ」絵里香が答えた。
「わかった。シートベルト締めた?」
「締めたよ。この車、最高におしゃれだね」
「初めてそんなこと言われたよ。車出すよ」僕はそう言って、右手でシフトレバーを1速にして、左足のクラッチの緩めて車を発進させた。車をしばらく走らせている間も、絵里香はもの珍しそうに車内を見渡していた。車はあっという間に、環状線とぶつかる交差点に入り、僕は右にハンドルを切った。土曜日の朝だからか、環状線は比較的空いていた。
.
「この車、最高だね」絵里香はそう言った。
「最高でしょ。運転は面倒だけどね」僕は右手でシフトレバーを3速にしてそう言った。
「君のこと、信じても良さそうだね」
「そう思うなら、そう思ってくれていいよ」
「別に嫌味で言ってるわけじゃないんだよ?」
「わかってるよ。俺は俺なりに生きているってことだよ。俺の尺度で勝手にね」
「だから、信じれるんだよ。何もなかったって」僕はちらっと右側を見た。絵里香と目が合った。
しばらくの間、トラバントのエンジン音が車内を支配した。なんてこともなさそうな土曜日だった。
11
研修が終わり、実践に入り、それが2週間もしたら、日常になった。レーニン像が大通公園の1丁目に堂々と立っていたのと同じように仕事は退屈なのが当たり前のようになっていた。その間にレーニン像は撤去され、今まであった当たり前は当たり前ではなくなり、国は日本になるために必死で、今まであった赤色な常識を塗りつぶしていた。
大日本帝国が解体されたときと同じようなことが今まさに起きていると考えると、妙に感じた。今までの教科書はまともに使えているのだろうか?
あのあと、絵里香と仕事で会うけど、ご飯に誘うのが気まずくなった。というより、絵里香から避けられているようにタイミングがすれ違った。そして、絵里香は会社でそれなりにこき使われているように見えた。実践に入ってから、目に見えて絵里香が忙しく働かされているように見えた。研修中のほうがよほど暇っだったんじゃないかというくらいだ。
だから、退勤時間も合わなくなった。僕ら新入りは全員契約社員というポジションだから、定時で上がるよう言われた。もっとも、北日本では定時に上がるのは当たり前の話だから、定時で上がろうともしない南日本から来た正社員のことを理解するのが難しかった。
そして、仕事が忙しいからと言い訳して、花乃ともこの2週間くらい会っていなかった。だから、仕事から帰って、ちまちまビール飲みながら、本を読んで、眠くなったら寝た。それでも疲れは全然取れないし、無限に生えているたんぽぽを摘みとって捨てることを繰り返すくらい仕事は何もかも面白くなかった。
そんなとき、彼女からメールがとどいた。
メールの内容は研究所への誘いだった。彼女は研究所を退所後、南日本の筑波で大麻の研究をしているようだ。それは引き抜きみたいな形で、彼女は研究熱心だったから、すぐに向こうへ行ってしまった。そして、その研究所で人が足りないから僕に声をかけたみたいだ。
一瞬、気持ちが揺れた。じっと、メールの文面を何度も読んだあと、そっと、メールを閉じた。
12
花乃がまた海を見たいと言った。だから、また小樽に連れ出すことにした。
車で花乃を迎えに行ったあと、しばらくは無言のまま、国道5号線を走っていた。左側の対向車線にトラックが道端でオーバーヒートしていて、エンジンルームを開けっ放しにしていた。
「この10年、俺はさ、必死だったんだよ。いつになるかわからない日を待って、君が目覚める瞬間を待っていたんだ。おかげでそれは達成された。そのかわりに10年間やってきたことはすべてなくなった。仕方なく信じていたことが音を立てて崩れて、君以外、何もかもなくなった。だから、ロスタイムに入ったような気分なんだよ」
波がコンクリートの埠頭にあたる音が僕と花乃しかいないことを際立たせ、海風が北からの海風が時折冷たく肌を刺しさ。
「辛くなかった?私のためにすべて動いて」
花乃のベージュのロングスカートが風で揺れた。裾が右側に流れ、風は足をなぞるように直線的な皺を作った。
「辛かったよ。終わりは見えなかったから。そばにいるのに救い出せないし、むしろ君を苦しめているんじゃないかって思った」
「苦しめてる?」
「ああ、君を利用する研究をしていたし、君を利用する実務を毎日してたんだ。君以外にも多くの少女を利用してることが苦しくて、気が狂いそうだった。というより、もう気が狂ってたかもしれない。――俺は海に沈んでしまってもいいのかもな」
僕は埠頭の先端の方へ歩きだした。
「――いかないで」
風が弱く通り過ぎ、辺りは僕と花乃だけ、瞬間冷凍されたような世界だった。
僕は立ち止まった。
「――どこにも行かないよ。ずっとようやく二人になれたんだ」
「ねえ、私のこと待てる?ずっと幼いと思ってるでしょ。私だって、幼さを感じてて、でも、それを取り返すにはどうすれまいいのか全くわからないの」
「急ぐ必要はないよ。時間が解決してくれるよ。俺はただ、この10年間が虚しくて、やるせなかっただけだ」
「その10年の差が私には大きいの。大きくて辛いよ」
「仕方ないだろ。もともと、こうなることはわかってたんだ。気の毒だけど」
「なんで、君はいつもそうやってクールなの。なんで私から距離を取ろうとするの。これは私とあなたの問題でしょ。私を切り離さないでよ」
花乃は大粒の涙を流しながら、埠頭に響き渡るくらい大きな声で叫んだ。
「ごめん。悪かった」
僕は花乃の方に歩み寄り、花乃を抱きしめた。花乃は声を出して、泣き始めた。わざとらしく感じるくらい、激しく泣いている。僕はなにか忘れていたような気がした。
それは遠い過去のことで、モノクロームに隠れてしまうような淡さが感情の記憶として残っているだけだった。
「私にはあなたしか居ないの。――どこにもいかないで。お願いだから」
花乃は僕の胸に突っ伏したまま弱くそう言った。
だから、僕は花乃のほうへ歩み寄り、そっと花乃を抱きしめた。
これから先、どうなるかなんてわからないけど、僕はただ、花乃のことを守りたい気持ちは変わらないと、ふと思った。