1

 轟音が鳴り響いている。
 何かが爆発する音と、何かを撃っている音が色々混じったその場から立ち去りたくなる怖さがある。窓の外には、病院を改装した研究施設が何棟も並んでいて、どれも停電していた。
 花乃(かの)はいま何が起きているのかまるでわからない表情をしていた。成長に対して幼さがより不安感を漂わせている表情――。

「悪いけど、早く逃げなくちゃならない。起きれるか?」
 僕は花乃にそう問いかけると、花乃はゆっくり小さく頷いた。
「力、入らない」花乃は元々、華奢だけど、今はものすごく細くて、起き上がることすらできなさそうだった。
 
 僕は花乃の背中に右手を入れて、花乃をそっと起こした。彼女は軽くやつれた紙切れのような軽さだった。花乃はやせ細った両足をベッドから、床につけた。

「――立てない」
「わかった。背中に乗って」
 僕はベッドの床の高さまで屈み、彼女に背を向けた。
 そして、花乃は僕の背中に乗っかった。彼女は亀の甲羅よりも軽く、発泡スチロールの塊よりも重かった。ゆっくり一歩ずつ、花乃を落とさないように慎重に踏み出した。きっと、今の花乃を落としたら、簡単に骨折してしまいそうだ。
 しっかりと、両足で重心を確認したあと、僕は走り始めた。

 ヘルメットに付いている懐中電灯の灯りは心細く、塩素ビニール製のグレーの廊下を照らしていた。歩幅を踏み出すたびに先の明かりは揺れ、僕の息は冷静にどんどん上がっていく。そんな僕に対して花乃は何も言わなかった。というより、僕に捕まるのもやっとの体力そうだから、状況を把握することが困難なのかもしれない。

 そうして僕と花乃は実験棟から脱出した。



2

 花乃はしばらくの間、入院した。
 その間に両親とも再会し、10年以上凍っていた気持ちを溶かした。精密検査を受け、栄養が入った点滴をし、筋力が落ちて枝のようになった両足のリハビリをして、立つ練習をした。
 
 僕はその間、残務処理に追われながらも、2日に一回程度お見舞いに行った。
 その間、真剣な話はしないで他愛のないことをずっと話した。

 花乃が退院したのは入院してから3ヶ月経ったくらいのときだった。
 
 退院した次の日、僕は自分の家に花乃を連れてきた。築40年以上経つ公営住宅はボロボロだ。オレンジに塗られた外装は補修されないまま剥がれ落ちてコンクリートがむき出しになっている。僕の住居ブロックは5階にある。コンクリートでできた無機質で冷たい階段を登るのに花乃は苦労していた。3階の踊り場で僕は花乃をおんぶして残りの階段を登りきった。
 
 花乃と僕が10年間どのように過ごしていたかを話した。夕日がきれいに差し込んでいて、すべての沈黙が溶けそうな暖かい強さだった。

 17歳のとき研究対象になり、軍に連れ去られ幽閉されたこと、そのまま花乃の意識は研究とともになくなり、視認兵器のエネルギーとして使われていたこと、僕が研究員の一員になり、花乃を救うチャンスを見計らっていたことを酒屋で買った缶ハイボールを三本空にして話しした。時計の針は半周していた。

 花乃は高校生の時と同じように500mlの缶コーラをちまちま飲んでいた。ミックスナッツは2袋分、皿に入れたはずなのに空になっていた。その日、彼女は僕の部屋に泊まった。


3
 
 僕は公職追放処分になってしまった。
 僕は下っ端の研究員だったから、重たい責任追求は問われなかった。ただ、非人道的な兵器の管理、研究を行っていたということが、世間一般にも広がってしまい僕は社会的立場は無いに等しかった。

 北海道の至るところで今まであったものがある日急になくなり、今までなかったものがある日急に出来ていった。
 札幌は、札幌オリンピックで整備されたあと、さほどの進化はなかった。どの建物も老朽化が目立つようになり、地下鉄南北線は湿った匂いが駅構内に充満していた。

 小学校の教科書でこう習った。「1972年の札幌オリンピックで北日本の進んだ近未来的な街並みに西側は驚いた」と言うことと「東ベルリンに並び、社会主義の見本として世界を驚かせた」と洗脳のように教えられた。

 しかし、ソ連が崩壊して、北日本も共産主義から民主主義に転換したため、市場経済を導入したあとから長期的な経済低迷を起こしたとも習った。そして、これまで交流がなかった南日本との貿易が始まったことや、制限はあるけど、南日本人が北日本に来たり、北日本人が南日本に行くこともできるようになったこと、南日本のカルチャー、ブームも一気に押し寄せてきたことも習った。

 僕は渋谷系のミュージックに衝撃を受けた。だから、今もこうして、スマートフォンで小沢健二の『ぼくらが旅に出る理由』を流していた。
 朝から麒麟ラガーを1本飲んで、弱く酔った。プラスチック製のスツールをリビングの窓辺に持っていき、外の景色を見ながらラガービールをちまちま飲んでいた。麒麟ラガーを飲んで研究のことを思い出したり、花乃を救うことだけを人生に捧げてきて、それが達成した今、すっからかんになり、何もかもやるせなかった日々はもう終わったんだと何度も言い聞かせた。しばらく、こうして、僕は僅かな恩給を切り崩して過ごした。

 花乃がやってきたのは昼過ぎだった。
ブザーが二回鳴った。サンダルを履き、左足を一歩踏み出し、エメラルドグリーンの冷たい玄関ドアを開けた。ドアを開けきると花乃が立っていた。

「また来ちゃった」
 花乃は照れくさそうにそう言った。
「何回でもいいよ」僕はそう言って、右足を一歩後ろに下げ、花乃が玄関に入るスペースを作った。花乃は青いジーンズに白い半袖Tシャツだった。
 シンプルでボーイッシュな格好だった。肩より下くらいのセミロング丈の髪だ。髪先はゆるく内巻きになっていた。

 花乃はゆっくりとスニーカーを脱ぎ、一度かがんでスニーカーを揃えた。
 僕は玄関ドアの鍵を閉め、サンダルを脱ぎ、花乃より先に歩いて、リビングまで歩いた。リビングに入り、花乃は昨日と同じようにプラスチック製で安っぽいテーブルの下においてあるスツールに座った。

「なにか飲む?」と花乃に聞くと、小さく頷いた。

 僕は今朝洗ったばかりの昨日使っていたグラスを取り出し、冷蔵庫にあった100%オレンジジュースを入れた。
 花乃にグラスを差し出したあと、僕は窓辺に置きっぱなしのスツールとその上に乗っかている飲みかけの麒麟ラガーの缶をテーブルまで持っていき、花乃の向かい側に座った。

「昨日より顔色良さそうだね」
「うん、退院してからの生活、だいぶなれてきたかも」
 なんにもない昼下がりだった。時計の針は神経質に1秒を教えてくれている。僕はビールを一口飲むと、花乃もオレンジジュースを一口飲んだ。

「ねえ」
「なに?」
「私、10年も本当に意識なかったのかな」
「うん、本当になかったよ。医学的にはね」
 医学的には意識はなかったけど、花乃の意識エネルギーは指向兵器に活用されていた。本当は早く助け出して、南日本に亡命する気だった。早く話したい一心で僕は心を鬼にして、花乃が利用された兵器の研究、運用をしていた。いつかチャンスが来るまでと言い聞かせて――。

「そんな感じしないんだよね。昨日、君が話してくれたようにさ、私は利用されていたのかもしれないけどさ、私にしてみたら利用されてたのかさえわからないくらい不自然なの」
「不自然?どういうふうに?」
「うーん、なんて言えばいいんだろう。記憶はさ、あのときのまんまでさ、そのときのこと、すぐに思い出すことができるんだ。昨日のことみたいに」
「そうなんだ。だけど現実ではその記憶は10年前の出来事で、花乃も俺も27歳になってたってことか」
「うん。なんか、そのギャップに頭がついていけてない気がする」
「悪いようだけど、そうなった当事者にしかわからなさそうな感覚だね」

 僕はビールを飲み干した。
 そして、立ち上がり、ビールのおかわりと備え付けの食器棚にあるポテトチップスを持ってくることにした。

「ねえ、今日も朝から飲んでたの?」
「うん、なんか虚しくてね」
 僕はそう言いながら、食器棚の扉を開け、ポテトチップスを取り出し、扉を閉めた。扉を閉めたとき、思ったより力が入って、雑な音がした。そして、冷蔵庫に向かい、冷蔵庫を開け、350ml缶の麒麟ラガーを取り出した。

「アル中になって手ブルブルになるよ」花乃は弱く笑いながらそう言った。
「いいんだ。俺はもうアル中だ」僕は左手を激しく揺らした。ポテトチップスがそれに合わせてシャカシャと音を立てた。

「ねえ、27歳まで楽しかった?」
「うーん、それなりだったよ。それなりに飲み歩いたりしたし、それなりに勉強したし、研究もした。研究者にしては遊んでる方だったと思うよ」
「ふーん、それなりね。私が寝てる間に酒飲みになって、研究者になって、それなりに遊んでたんだ」
「なんか、嫌味っぽいなぁ。あ、遊んでるって言っても夜遊びは酒だけしかやってない」
「ホントかなぁ」
「ホント、ホント。褒めてよ。俺の10年間」
「偉いね」
「ありがとう」
 僕は缶のブルリングを引き、缶を開けた。宇宙船で気密ブロックのドアコックを開けて気圧が急激に減圧したときくらい、美味しそうな音がした。僕は少しだけ溢れた泡を吸いながら、新しいビールを一口飲んだ。

「だけど、今はもう、研究者じゃなくなった。しばらく、今までやってきたことを活かせる仕事がこんな形でなくなるとは思わなかった。どんな形でも研究はできるかと思ってた俺は甘かったんだよ」
「なんか、つらいね」
「俺の10年、そんなもんさ」
「ねぇ、その10年、長かった?」
「ううん、あっという間だったよ」僕はまたビールを飲んだ。
「ねえ」
「何?」
「ポテチ開けていい?」花乃は笑いながらそう言った。
「あ、ごめん、忘れてた。食べよう」僕は少し顔が熱くなった。
「顔、赤いよ。回ってるんじゃない?」
「いや、ポテチの所為だよ」
「そういうところ、変わってないね」花乃はポテトチップスを右手の親指と人差し指でそっと持ちながらそう言った。

「なあ、花乃。10年間、本当に感じてないのか」
「うん、一瞬に近いかも。瞬間冷凍されたみたいな感じ」
「瞬間冷凍か。意識はどこに行ってたんだろうな」
「わからないよ。私はこのまま高校に戻っても違和感ないくらい、一瞬だったよ」
「そうなんだ」
「うん、ねぇ。最後にさ、水風船で遊んだの覚えてる?」
「うん、覚えてるよ。あのとき、すごい濡れた」
「たぶんね、私の方がその時のこと鮮明に覚えてると思うよ」
「待って。俺が先に思い出せること言うから、聞いて」
「いいよ」花乃は両手をテーブルにベタッとくっつけ、前かがみになった。

「あの日は、そうだ。祭りの日だ。北海道神宮の祭りで、俺と花乃は祭りでなぜか水風船をくじで当てた」
「お、いいね。続けて」
 花乃はまるでボリショイサーカスの自転車に乗るクマを見るように僕を見てニヤニヤしていた。

「それで、えーと。祭りに飽きたんだよ。それで、中島公園から地下鉄乗って、降りて、駅の近所の公園に寄った。それで、その公園は誰もいなかった。午後の昼下がりなのに、誰もいないから、ベンチに座って話ししてたんだよ。それで花乃がいなくなって、少ししたら、後ろから急に水風船投げられて、俺はびしょびしょになった。だから、俺も水飲み場まで行って、水風船何個か作って、反撃した」
「うん、8割あってるよ」
「お、マジか」
「やるじゃん」
 花乃は得意げにそう言った。

「じゃあ、残りの2割教えてくれよ」
「いいよ。まず、水風船は紐くじで当てて、くじ屋のおじちゃんに夏だねぇって言われた。そして、水風船もらったあと、出店でピロシキ買って食べて、中島公園のボート乗り場の近くの木陰でピロシキ食べようとしたら、ピロシキが出来たてで、君は舌をやけどしたって言ってた。それで、暑い日なのに、熱々のピロシキ食べたあと、私が座りたいって言ったから、地下鉄乗って帰ることにした。それで、地下鉄降りて公園に行った。あとはほとんど合ってたよ」
「すごいな。本当に数ヶ月前みたいな話し方だな」
「言ったでしょ。それだけ10年経ったって感じしないの」
「うん、すごく今、腑に落ちたよ」
「私の人生利用されたって言われても、まだ実感わかないの。10年分、人生を利用されたってことが。私さ、だからまだ気持ちは高校生のままな気がするんだ。だけど、私が眠っているうちにみんなは卒業して、大学とか職業訓練学校に行って、就職して、結婚して、もしかしたら子供も生まれててって言うのがまだ信じられないの。私さ、取り戻せるかな。私の10年」
「それはわからない。だけど、花乃も10年生きたことは確かだよ。花乃が眠っている間も花乃が存在していることを俺はずっと見てた。他の人たちは花乃のこと忘れても。ジュース入れるよ」
 僕は空になったグラスを持ち、冷蔵庫に向かった。そして、冷蔵庫からオレンジジュースを取り出し、グラスに注いだ。

「だから、取り戻そうとしなくていいんじゃないかな。次の10年、俺と一緒に楽しく過ごそうぜ」僕は花乃にグラスを渡した。
「そうだね。これだけは言わせて。助けてくれてありがとう」
 僕は残り少しになった缶ビールを右手で握り、花乃の方に差し出した。花乃もグラスを持ち僕の缶ビールにグラスを軽くあてた。



4
 ネットで求人情報を眺めている。どれもまともな職業はないように感じた。テレビのニュースでは北日本が併合して、通貨を対等交換した影響で旧北日本地域の経済がぐちゃぐちゃになっていると言っていた。
 そして、公営会社の倒産などによって失業者も増えているとも言っていた。そして、今まで合法だった大麻が南日本の法律に合わせて禁止になったことも伝えていた。今まで研究してきたものが禁止になるのは寂しく感じた。
 
 今はビールを飲んで気を紛らすことにした。
 いざとなったら、どんな仕事でもやらないと行けなくなるかもしれない。だけど、ブルーカラーの仕事はやったことがないから想像できなかった。スーパーマーケットで品出しをしたり、レジをしたりすればいいのか。それともまだ稼働している炭鉱まで行って、夕張とか、幌内で石炭堀をすればいいのか。求人情報を見るたびに堂々巡りした。

 そして、僕は新しくできるコールセンターのスタッフになることにした。

 面接を受けに行ったら、すぐに採用が決まった。研究職を失った理由を聞かれて、国がなくなった影響だと伝えたら、それ以上は聞かれなかった。

 そして、その場ですぐに採用になった。1週間後から9時~18時で研修が始まるらしい。僕はそこのコールセンターの一期生になった。コールセンターは別な会社から依頼された問い合わせを受けるコールセンターだった。僕が働くことになった部署は比較的に規模が大きいネットショップの部署に配属された。それ意外の部署ではテレビショッピングの注文受付やネット回線の契約、開通の問い合わせ、スマホ、タブレットの使い方の問い合わせの部署があった。

 研修室の後ろで研修が始まるのを待っていた。何人か集まっていて、みんないつものようにじっと押し黙っていた。

「隣座ってもいい?」と女が話しかけてきた。
「どうぞ」と僕は言った。

 女の格好は南日本っぽいかっこうをしていた。パステルカラーを基調にした春みたいな格好をしていた。
 
 徐々に席が埋まり、オリエンテーションが始まった。前に立っている社員が自己紹介をはじめ、何人かの社員も近くの席に座っていると言った。僕の横に座った女も社員だった。レクチャーをする社員が紹介された。5人が上手い具合に離れて座っていた。

「社員だったんですね」
「そうなの。よろしくね」森生絵梨香(もりおえりか)が、はにかみながらそう言った。

 入社した会社の概要がパワーポイントで紹介された。
 もともと、北日本があったとき、北日本の新時代産業受託コンペに内定し、北日本の助成金をもらって札幌に進出したみたいだ。北日本は崩壊してしまったけど、南日本に併合されることになったのであれば、そのまま準備していたことを継続して、支店をオープンすることにしたそうだ。
 だから、国が崩壊してまだ3か月しか経っていないのに、他の企業に比べていち早くオープンすることができたと言っていた。

 パワーポイントを使って説明をしている社員もにやにやし、時々、つまらないジョークを交えて説明するのが新鮮に感じた。北日本のほかの会社ではあまりないようなことだ。
 だから、この会場に集まっている一期生のほかの従業員もどのようにリアクションをとればいいのかよくわからない雰囲気が流れていた。北日本人は基本的に口数が少なく、社会に出たら、あまり笑うことはない。

 社会で笑うと馬鹿にしていると取られたり、関係が浅い人に対して、フランクな態度をとると、何か裏があるんじゃないかと気味悪がられる。
 おそらく、南日本のこの社員はそうした北日本の独特な温度を感じることができていないように思った。