「バイバイ、千翔君」

 宮本は涙を浮かべながら笑い、そのまま蝶に導かれながら、消えていった。

 夜の帳が完全に下りて、僕一人になる。

 知らなかった。

 僕のことを、あんなにも必要としてくれていた人がいたなんて。

 僕は、なんて愚かなんだろう。

「答えは見つかったかい、少年」

 宮本の周りを飛んでいた蝶が、人の姿になる。

 僕と同じくらいか、少し年上くらいの女性だ。

 初めは彼女に少年と呼ばれることに違和感を抱いていたが、慣れてしまった今では、そんなことどうでもよかった。

「……わかりません」

 僕は、生きることに疲れてしまっていた。

 たくさんの人と関わりたくて、いろいろなことをしてきたことが裏目に出て、いつの間にか僕の周りには敵が増えていた。

 気付かないうちに、僕は嫌われたらしかった。

 それでも人と関わることをやめられなくて、信頼を取り戻そうとしていたけれど、僕は信頼なんてものは築けていなかったらしかった。

 それに気付いてから、すべてがどうでもよくなった。

 馬鹿らしくなった。

 そして、人と関わることをやめてしまうと、生きる意味すら失ってしまったような気がして、僕は生きることをやめるという選択肢をとった。

 しかし上手くいかなかったようで、生きているのか死んでいるのかわからない、曖昧な存在になってしまった。

 彼女と会ったのも、そんなときだった。

『少年はまだ死ねない。だが、少年自身が生きたいと思わなければ、身体には戻れない』

 なかなか残酷なことを言う人だと思った。

 生きたくないからこんなことになっているのに、死なせてもくれないなんて。

『だったら、僕はずっとこのままってことですね』

 彼女はため息をつくばかりで、教えてくれなかった。

『少年はもっと、視野を広げなければならないらしい。ついてきな』

 それから僕は、彼女について行って、いろんな人の死の瞬間を見た。

 たくさんの人に慕われていて、夢も目標もあったのに、交通事故で死んでしまった男子大学生。

 病気がちで、外で遊ぶことに憧れを抱き続けるも叶わず、病死してしまった少女。

 与えられた時間を最後まで生きて、幸せそうに死んでいったおじいさん。

 ほかにもたくさん、いろいろな死を見た。

 それでも僕は、”生きる”という選択肢を選べなかった。

 生きることに意味があるとは思えなかった。

 どうせ死ぬのなら、死ぬ勇気を持った今、死なせてほしかった。

 もう、誰の死も見たくない。

 そう思い始めたころだった。

 彼女が誘導したところに、宮本が立っていた。

 信じられなかった。

 宮本が死んだことはもちろんのこと、彼女に自殺者と言われたことが、一番信じられなかった。

 だけど、その理由は宮本と話してみて、なんとなくわかった。

 宮本は、僕の後を追ったのかもしれない。

 少なからず、僕が自殺未遂をしたことは、噂程度に広まっていたはずだ。

 その話題が出てこなかったのは気になるけれど、もしそれを知ってその選択をしてしまったのだとしたら。

 僕は、なんて愚かなことをしてしまったのだろう。

「少年。死ななければよかったと思っているだろう?」

 彼女はにやりと笑って言う。

 見透かされたことが面白くなくて、僕は答えない。

「生きる意味なんてないんだよ、少年。でも、それでも生きなければならないから、誰もが生きる意味を無理矢理見つけて、前を向いている」

 そんな綺麗ごとは聞いていられなくて、聞こえないふりをする。

「宮本薫にとっては、少年が生きる意味だったのかもしれないな」

 それを認めてしまうと、僕が宮本の命を奪ったと認めてしまうような気がして、否定したくなる。

 だけど、心のどこかで僕もそう思っているから、声が出ない。

「少年、自分のことは嫌いかい?」

 彼女は蝶に姿を変え、僕の周りを飛ぶ。

 月明かりに照らされて、その舞を美しいと感じた。

「……そうですね。僕は、僕という存在が嫌いだ」
「でも、宮本薫は成海千翔が好きだと言った」
「それが理解できないんですよ。こんな八方美人の僕の、どこがいいんでしょう」

 陰で言われているのを何度も聞いた。

 軽く殴られただけの痛みは、次第に鋭利なナイフで刺されるような痛みに変わった。

 そして、僕は耐えられなくなったのだ。

「それは宮本薫しか知らない。だが、少年は知ることができるはずだ。少年が少年の人生を歩めば、きっと」

 それを見つけられていたら、こんなことにはなっていない。

 そう返したかったけれど、堂々巡りになるような気がした。

『今日会えて、すごく嬉しかった』

 宮本の幸せそうな笑顔が、頭から離れない。

 宮本が見つけていた、僕のいいところ。

 僕は、それを知るべきだ。

 そして願わくば、宮本が好きだと言ってくれた僕を、好きになりたい。

『千翔君、好きだよ』

 きっとこの言葉は、僕の心の支えになってくれる。

「……僕、生きます。生きて、自信を持って、宮本に言わないと。好きになってくれてありがとうって」

 蝶は楽しそうに舞う。

「それでいい、少年」

 満足そうな彼女の声を聞きながら、僕は静かに目を閉じた。



 目を開けると、僕は病院にいた。

 カーテンの隙間から差し込む朝日が眩しい。

「千翔……?」

 聞こえた声は親のものではなく、友人のものだった。

 目が合うと、友人は泣き出した。

「お前、心配させやがって」

 本当に、僕は視野が狭まっていたらしい。

 こんなにも僕のことを心配してくれる人がいることすら、見えていなかった。

「ごめん。もうしない」
「当たり前だ、バカ」

 窓の外で、黒い蝶が舞っているのが見える。

 大丈夫。

 もうしばらくは会わないよ、蝶。

 ありがとう。