「深瀬翠さん、午後の検査の準備してくださいね」
天井を見上げながら、今日から看護実習生の実習が始まることに気づいた。誰かの目にみえる変化を見て感じる度、自分の変わらなさを痛感する。よそよそしい看護師さんの声の違和感から、今日もそれを痛感した。検査用のゆったりとした服に着替え、迎えを待つ。
「すいちゃーん今日はいつもの隣の検査室だから一緒に行こうね」
この看護師さんは私が四歳の時からお世話になっていてもう十年の付き合いになる。先天性の疾患を持ち入退院を繰り返す私にとって唯一友達のような存在。
「長尾さん今日もありがとうございます」
フランクな口調に対して、ずっと苗字でしか呼んだことがない絶妙な違和感に心地よさを感じる。長尾さんは私にいろいろな話をする。病棟であった珍事件の数々やそれを対処した武勇伝、新人看護師さんがかっこいいという一方的な惚気、長尾さん自身の学生時代の話。退院したとしても自宅療養続きの私にとって、その話の全てが輝いて聞こえた。望むことの大半を感じられない人生だとしても、体感した人の話を知識として残せる私の人生は『恵まれている』と分類されるのだろうか。
『入院生活を繰り返している』と聞くと、友達や家族が心配してお見舞いにきてくれる温かい風景がまず思いつくだろう。残念ながら幼稚園すら通えていない私に友達という存在はおらず、家族は私の治療費のために昼夜問わず働いてくれているため、お見舞いに来る余裕などない。病院で知り合った子は皆、完治して退院していくか、私よりも先にいくべき場所にいってしまうかの二択に分かれてしまい、『友達』と言えるまでの時間を過ごすことができなかった。
なんの変わり映えもない、モノクロな日常。
そんな私の日常にある日、彩が生まれた。
朝九時。カーテンを開けて私服に着替える。寝ぼけた視界がサイドテーブルの違和感を捕らえる。真っ白なはずのサイドテーブルにぼやけて紫が映る。汚れでもない、あれは花だ。長尾さんが置いていったのか。ただの置き忘れか。疑うほどタイミングよく長尾さんが朝食を届けにきた。
「あら綺麗なお花ね!すいちゃん朝からお散歩にでも行ってきたの?」
どうやらこの口調から長尾さんが置いたものではないらしい。じゃあ一体誰が。
「いや、私でもないんですよね。起きたらここに置いてあって……忘れ物か何かですかね」
私以外誰もいない病室に忘れ物というのも考え難いことだけれど、とりあえず今はそういうことにしておこう。それにしてもこの花の名前はなんだろう。スマホの画像検索から一致する花を探す。
『サクラソウ』
花をみて綺麗だという安直な感想しか抱いてこなかった私にとって、この花との出逢いは初めてのものだった。初めて花に対して興味が湧いた瞬間だった。紫色の小さくて可愛らしい花。日常に咲いた非日常に愛おしさを覚えた。
そこから毎日私のサイドテーブルには一輪、花が届けられるようになった。
翌日は、フリージア。その次はナナカマド。その次はブッドレア。
届け主こそわからないが、届けられる花をどこか楽しみに待つ自分がいた。花について詳しい知識はあまりない。実際ここまで届けられた花の名のほとんどがその時初めて聞くものだった。
ただ、今日は花よりも楽しみなことがある。隣室に入院する志帆ちゃんの退院最終検査の日。彼女は丁度去年の今頃、この病棟に入院してきた。何度か検査を繰り返し、その度に入院期間が長引いてきたがやっと今日、日常を取り戻す一歩を歩み出すのだ。
「志帆ちゃんやっと今日が来たね」
「前みたいな生活に戻れるといいな。すいちゃんのこと先に外の世界で待ってるね!」
朝に弱い彼女が、軽快なステップで検査室に向かう。その姿を見て彼女の退院を心から嬉しく思った。思い返せば彼女の病室でも何度か花を見たことがある。一瞬だけ自分に届けられている花との関連性を考えるが、さすがに深読みのしすぎだと思考を遮った。そういえばまだ今日の花を見ていない。今日の花は
『アヤメ』
いつも通り花についての深く考えることもせず、昨日の花と差し替える。通りすがった長尾さんに声をかけられた。
「あら、すいちゃんおはよう!悪いんだけど志帆ちゃんのお部屋からハンカチを持って検査室に届けてもらってもいいかな?志帆ちゃん忘れちゃったみたいで」
彼女と私がよく話していることを長尾さんは知っていた。何度か彼女とのことを長尾さんに話したこともあった。きっと唯一、私の中で友達という存在に近い存在が志帆ちゃんなのだと思う。頼まれるがまま、彼女の病室に入りサイドテーブルに置かれたハンカチを取る。顔を上げた時気づいた。無意識に視線が向く。
「アヤメ……?」
窓際に置かれた花瓶に刺してある花。間違いない、私の部屋に届けられた花と同じものだ。さっき一瞬脳裏をよぎった花の関連性が一気に色濃く蘇った。ハンカチを届けた時に彼女に少し尋ねてみよう。
「志帆ちゃんこれ長尾さんから」
「あー忘れてた ありがと!」
「それじゃあ 検査頑張ってね」
他人の部屋に置いてあるものについて問うのは、やはり少し気が引けた。ひとり悶々としながら自分の部屋に戻る。
フリージア、ナナカマド、ブッドレア、そしてアヤメ。色も形も異なるなんの規則性もない花が毎日届けられた。楽しさに隠れていた不審さが浮き出てくる。病院関係者か、だとしたら長尾さんが知らずにいることへの疑問が残る。
あの花の届け主にあってみたいようで、知りたくないようで。
天井を見上げながら、今日から看護実習生の実習が始まることに気づいた。誰かの目にみえる変化を見て感じる度、自分の変わらなさを痛感する。よそよそしい看護師さんの声の違和感から、今日もそれを痛感した。検査用のゆったりとした服に着替え、迎えを待つ。
「すいちゃーん今日はいつもの隣の検査室だから一緒に行こうね」
この看護師さんは私が四歳の時からお世話になっていてもう十年の付き合いになる。先天性の疾患を持ち入退院を繰り返す私にとって唯一友達のような存在。
「長尾さん今日もありがとうございます」
フランクな口調に対して、ずっと苗字でしか呼んだことがない絶妙な違和感に心地よさを感じる。長尾さんは私にいろいろな話をする。病棟であった珍事件の数々やそれを対処した武勇伝、新人看護師さんがかっこいいという一方的な惚気、長尾さん自身の学生時代の話。退院したとしても自宅療養続きの私にとって、その話の全てが輝いて聞こえた。望むことの大半を感じられない人生だとしても、体感した人の話を知識として残せる私の人生は『恵まれている』と分類されるのだろうか。
『入院生活を繰り返している』と聞くと、友達や家族が心配してお見舞いにきてくれる温かい風景がまず思いつくだろう。残念ながら幼稚園すら通えていない私に友達という存在はおらず、家族は私の治療費のために昼夜問わず働いてくれているため、お見舞いに来る余裕などない。病院で知り合った子は皆、完治して退院していくか、私よりも先にいくべき場所にいってしまうかの二択に分かれてしまい、『友達』と言えるまでの時間を過ごすことができなかった。
なんの変わり映えもない、モノクロな日常。
そんな私の日常にある日、彩が生まれた。
朝九時。カーテンを開けて私服に着替える。寝ぼけた視界がサイドテーブルの違和感を捕らえる。真っ白なはずのサイドテーブルにぼやけて紫が映る。汚れでもない、あれは花だ。長尾さんが置いていったのか。ただの置き忘れか。疑うほどタイミングよく長尾さんが朝食を届けにきた。
「あら綺麗なお花ね!すいちゃん朝からお散歩にでも行ってきたの?」
どうやらこの口調から長尾さんが置いたものではないらしい。じゃあ一体誰が。
「いや、私でもないんですよね。起きたらここに置いてあって……忘れ物か何かですかね」
私以外誰もいない病室に忘れ物というのも考え難いことだけれど、とりあえず今はそういうことにしておこう。それにしてもこの花の名前はなんだろう。スマホの画像検索から一致する花を探す。
『サクラソウ』
花をみて綺麗だという安直な感想しか抱いてこなかった私にとって、この花との出逢いは初めてのものだった。初めて花に対して興味が湧いた瞬間だった。紫色の小さくて可愛らしい花。日常に咲いた非日常に愛おしさを覚えた。
そこから毎日私のサイドテーブルには一輪、花が届けられるようになった。
翌日は、フリージア。その次はナナカマド。その次はブッドレア。
届け主こそわからないが、届けられる花をどこか楽しみに待つ自分がいた。花について詳しい知識はあまりない。実際ここまで届けられた花の名のほとんどがその時初めて聞くものだった。
ただ、今日は花よりも楽しみなことがある。隣室に入院する志帆ちゃんの退院最終検査の日。彼女は丁度去年の今頃、この病棟に入院してきた。何度か検査を繰り返し、その度に入院期間が長引いてきたがやっと今日、日常を取り戻す一歩を歩み出すのだ。
「志帆ちゃんやっと今日が来たね」
「前みたいな生活に戻れるといいな。すいちゃんのこと先に外の世界で待ってるね!」
朝に弱い彼女が、軽快なステップで検査室に向かう。その姿を見て彼女の退院を心から嬉しく思った。思い返せば彼女の病室でも何度か花を見たことがある。一瞬だけ自分に届けられている花との関連性を考えるが、さすがに深読みのしすぎだと思考を遮った。そういえばまだ今日の花を見ていない。今日の花は
『アヤメ』
いつも通り花についての深く考えることもせず、昨日の花と差し替える。通りすがった長尾さんに声をかけられた。
「あら、すいちゃんおはよう!悪いんだけど志帆ちゃんのお部屋からハンカチを持って検査室に届けてもらってもいいかな?志帆ちゃん忘れちゃったみたいで」
彼女と私がよく話していることを長尾さんは知っていた。何度か彼女とのことを長尾さんに話したこともあった。きっと唯一、私の中で友達という存在に近い存在が志帆ちゃんなのだと思う。頼まれるがまま、彼女の病室に入りサイドテーブルに置かれたハンカチを取る。顔を上げた時気づいた。無意識に視線が向く。
「アヤメ……?」
窓際に置かれた花瓶に刺してある花。間違いない、私の部屋に届けられた花と同じものだ。さっき一瞬脳裏をよぎった花の関連性が一気に色濃く蘇った。ハンカチを届けた時に彼女に少し尋ねてみよう。
「志帆ちゃんこれ長尾さんから」
「あー忘れてた ありがと!」
「それじゃあ 検査頑張ってね」
他人の部屋に置いてあるものについて問うのは、やはり少し気が引けた。ひとり悶々としながら自分の部屋に戻る。
フリージア、ナナカマド、ブッドレア、そしてアヤメ。色も形も異なるなんの規則性もない花が毎日届けられた。楽しさに隠れていた不審さが浮き出てくる。病院関係者か、だとしたら長尾さんが知らずにいることへの疑問が残る。
あの花の届け主にあってみたいようで、知りたくないようで。