お花見当日――。

 私服でもいい、という通達が出ていたので、今日は制服に腕を通さない。
 料理係りは午前九時に集合だった。お花見は正午から始まるというのに、面倒くさい係を押し付けられたがために他の生徒より、早く学校に行かなければならない。
 けれど、授業が始まる時間より遅くいけるという点がまだせめてものの救いかもしれない。授業は八時四十分より開始だ。

 欠伸をかみ殺しながら調理室に足を踏み入れると、他クラスの生徒の姿が目に入った。
 あれ? 自分のクラスの人たちはどこにいるのだろう。なんか淋しいぞ、自分。
 だからすぐさま周囲を見渡すと、風のように微笑んでいる麗子さんを発見した。

「おはよう」と抑揚のない声で挨拶をすると、麗子さんは、「おはよう」とカナリヤのような声で返してくれた。
「前もお話したと思うけれど、若宮さんは私と一緒におにぎりを作る係りね。ご飯が炊き上がったら、隣の試食室に移動になるから。そこでおにぎりを作るの」

 朝っぱらから、なんて鮮やかなんだろう。
 朝っぱらから、なんて爽やかなんだろう。

 やっぱり麗子さんと自分は違う生き物なのかもしれない。同じ人間とはとうてい思えない。

 調理室のガスコンロと机は一クラス一つしか与えられていなかった。だから、おにぎりという火を使わない料理は、隣の試食室で作るに限るそうだ。と麗子さんは説明してくれた。さらに、あと三十分もしたらこの場所には続々と食べ物が並ぶのだ。

 麗子さんがお米を研いで炊飯器にセットしてくれたものだから、あと三十分もしたら第一陣のお米が炊けるらしい。
 麗子さんは九時より早く、調理室に来ていたんだって。料理が好きなのかな。責任感があるのかな。

 さて、気分が来たことで料理係りが全員揃った。
 そこで最終の打ち合わせ。食材は昨日のうちに買い揃えられていた。
 すでに机の上に並んでいる食材。まだ買い物袋の中にいる食材。
 作るものはおにぎりと揚げ物がメインのおつまみ、そして豚汁。少しフルーツもあるよ。それは切るだけで済むので最後でいいだろう。だから未だに買い物袋の中に居座っている。
 それから、場所取り係への差し入れも作らなければならない。
 彼らはまだ少し肌寒いこの気候の中で、あと三時間もじっとしながらも、熾烈な場所取り合戦に参戦しているのだから。
 少しでも隙を見せたら他の人に場所を盗られてしまう、かもしれないでしょ。

 突然ですが、電子音がご飯を炊けたことをお知らせ致します。

 ここから料理係の仕事は一気に忙しくなる。
 炊飯器は一升炊きなので(担任が貸してくれたのだ)、これを四回稼動させなければならなかった。足りなくなるよりは余ったほうがいいだろう、ということで単純に一人一合の計算。炊き上がったご飯をボールに移すと、麗子さんはまたお米を研いで炊飯器にセットした。

 目分量でご飯をサランラップの上にのせていく。少し冷めたら、具をのせていく。そして握るのだ。
 にぎにぎ。にぎにぎ。

 五個目のおにぎりを握っているとき、麗子さんが口を開いた。
「児玉君のこと、どう思う?」
 ただでさえ緊張するこの空間の中で、麗子さんにそんなことを聞かれたらどうしたらいいかわからなくなる。
「どうって聞かれても。どう思うもへったくれもない」
 やっぱりぶっきらぼうに答えてしまった。これはこういう癖だから仕方ないのだ。
 ごめんなさい、麗子さん。けして質問内容に嫌気がさしたわけではない。
 いやいや、質問内容には困ったのだ。けして麗子さんに嫌気がさしたわけではない。

 けれど、麗子さんはにこりと笑んで、
「私、児玉君と同じ中学校なの」
 初耳だ。あのにっくき児玉は、中学時代からこの麗しい麗子さんを見てきたのかと思うと、なおさら得体の知れない気持ちが腹の底からふつふつと沸きあがってきたのだ。
 ふつふつどころか、すでに沸騰寸前である。嫉妬と呼ぶのかもしれない。

「児玉君ね。若宮さんのこと、好きなんだって」

 唐突な告白に、今握っていたおにぎりを危うく潰しそうになってしまった。
 もし牛乳を飲んでいたのなら、麗子さんの美しい顔に吹きかけてしまっていただろう。
 あぁ、牛乳を飲んでいなくてよかった。麗子さんの綺麗な顔が無事でよかった。

「相談されたのよ」

 麗子さんの天使の微笑みは悪魔の微笑みに見えた。

「若宮さん、今まで気づかなかったの?児玉君、若宮さんに何度も告白しようとしたらしいのよ。けれど、うまく交わされてしまって。そろそろ心臓がもたないから、私に間を取り持ってもらいたいって。まったく、弱虫なんだから」
 麗子さんは一人ぼやく。

 気づくわけがないだろう。
 だって、相手はあの児玉だ。人を組長と呼び始めた元凶、あの児玉だ。
 あぁ、目眩がしてくる。まるで、炎天下の中、小一時間校長先生のお話を聞いたときのように、ぐらぐらしてくる。

「あのね、若宮さんは自分のことどう思っているのかしら?異性から好かれていることに自覚はあるの?」
「れ、麗子さん。急に、一体、何を」
 あぁ、麗子さんが言っていることがよくわからない。
 麗子さんみたいな美人さんが男性から好かれていることはよくわかっている。
 けれど、自分が? 異性から? 児玉のような男性から?
 あぁ、一体どういうことなのだろう。あぁ、わからない。
 夢ですか? 幻ですか? それとも神様に好かれてしまったがために、今も遊ばれているのですか?

「若宮さん。男性から、まるで日本人形のようだ、って言われているわよ」
 まるで西洋人形のようだって言われていますよ、麗子さんは。
「私は西洋人形、若宮さんは日本人形。対照的ね、私たち」
 あぁ、知っているんですか。
「児玉君、入学式のときに若宮さんに一目ぼれしたんですって。だけど、若宮さん、可愛いから絶対ライバルが多いと思ったらしいの。だから、他の男の人に盗られないように、いろいろとちょっかいを出し始めたのよ」
 まるで小学生のようよね、好きな人をいじめてしまうなんて。と、さらりと付け加える。
 小悪魔だ。ここに小悪魔がいる。
「若宮さんは、見た目が華奢でしょ。けれど柔道をやらされると、自分より体格の大きい人にも男性にも向かっていくところに心を打たれたらしいのよ」
 柔道部の中には自分と同じくらいの体格の女性がいないのだから、練習は必然とそうなってしまう。
 柔道が好きだったけれど、柔道をやっている自分を知られることが嫌いだった。だって、小さな頃から中学生の頃まで「男女(おとこおんな)」って呼ばれてきたから。
 だからと言って、高校に入って辞めようとは思わなかった。だって、柔道は好きだから。

 柔道部に入部した頃、練習の休憩中にやはり休憩中の児玉とばったり水のみ場で出会った。
 へぇ、お前柔道やってんの?って。悪いか、って答えたら、いいんじゃねぇの?胴衣、似合ってるよ、って。
 けれどその後、児玉は自分のことを組長と呼び始めたのだ。中学時代に学級委員長をやっていたという理由で。
 本当は、あの時の言葉が嬉しかったのに。

「児玉のせいで、余計人間不信になってしまったよ」
 そう言葉を吐き出すと、麗子さんはびっくりした様子。
「人間不信というよりは、男性不信かな」
 言葉を続けた。
 麗子さんは興味津々と言った感じで、話を聞きだそうとしてくる。
 まるで誘導尋問にあっているかのように、麗子さんに今の今までのことを全て打ち明けてしまった。
 出会い、それから組長と呼ばれ始めたころ、そして心の中にふつふつと沸き起こった児玉に対する憎らしさ。
 さらに、麗子さんのような女性になりたかった、ということまでも。

 麗子さんは、若宮さんとこんな風にお話したかったのよ、と女神のように微笑んだ。
 きっと、麗子さんが児玉と同中(おなちゅう)ということを聞いて湧き上がった感情は、麗子さんにたいする嫉妬だったのかもしれない。
 ごめんなさい、麗子さん。こんなに素敵な麗子さんに嫉妬するなんて。
 あれ? 待てよ。麗子さんに嫉妬するということは。
 いやいや、これ以上考えることはやめよう。認めてしまったら、悔しい気がするから。
 もしかしたら、自分は麗子さんの手の中で踊らされていたのかもしれない。

 第一陣のおにぎりが出来上がった。麗子さんは、場所取り係りにおにぎりを持っていくようにと言ってきた。
 そこに、児玉がいるらしいのだ。

「いい?若宮さん。これは児玉君に渡すのよ。私が作ったの、食べてね。って、きちんと言うのよ」
 これではまるで、世話焼きおばさんではないか。西洋人形が台無しだ。
 場所取り係用のおにぎりとは別に包んだ一口サイズのおにぎり。
 場所取り係のおにぎりはもちろん、麗子さん作。
 そしてその一口サイズのおにぎりはもちろん、自分が作った。