わたくし、シルキーはひどく困っておりました。
洗濯物を干し終えた直後に意地悪なにわか雨が降ったわけでも、庭園に咲き誇る薔薇のトゲで指を刺してしまったわけでも、毎朝お出しする紅茶の葉を都合悪く切らしてしまったわけでもありません。
わたくしが唯一お仕えする主のヴィクトル様が、あろうことか…暴風雨吹き荒ぶ中、邸宅の屋根の上に登ったきり、一向に降りて来ないためです。
「ヴィクトル様!!
いい加減にしてください!
落ちたら怪我どころじゃ済みませんわよ!!」
彼が立っている屋根の位置から最も近いバルコニーに飛び出して、声の限り叫んでみました。
しかし、天気はご覧の通り、馬車も進めないほどの激しい横殴りの雨。か弱いメイドの声は大自然の轟音に掻き消されてしまうのです。
屋根の上に颯爽と立ち、全身で風雨を受けていますのが、わたくしのご主人様にしてこの邸宅の主、ヴィクトル・イングリス様です。
艶やかな黒髪に華奢な体躯。病弱により培った白い白いお肌。領民のお姉様方は口を揃えて「水も滴る良い男」と黄色い声を上げますが、わたくしには理解不能です。
体中から雨水をボタボタと滴らせながら、ヴィクトルはやっとこちらへ顔を向けてくれました。
声を張り上げ、いつになく溌剌としたご様子です。
「シルキー、見ていてくれ!
私の仮説が正しければ、すべて上手くいく!
あとは今日一番の落雷を待てばいい!」
冗談ではありません。わたくしの仮説が正しければ、落雷を食らった人間が無傷で済む確率はゼロです。
邸宅中に飾ってある素敵なお花達を、弔花に総取っ替えしてたまるものですか。
わたくしは靴を脱ぎ捨て、自棄腹な思いでバルコニーの柵によじ登ります。
「馬鹿なことをなさらないで!
今すぐこちらへ戻ってください!!
ほら、手を…!」
シルキーはうら若き17歳の乙女です。
物心ついた頃から、イングリス伯の所有する邸宅に住み込み、ご主人様にご奉仕しております。
炊事掃除洗濯お使い庭木の手入れの繰り返し。何の娯楽も無い、ただひたすらヴィクトル様のお世話に勤しむ毎日。
こんな突拍子もない奇行を繰り返す、深窓の貴公子の身の回りの世話をする毎日。
毎日、毎日、毎日……。
「あっ!」
雨でひどく足場が悪くなっていたことが、最大の不幸でした。
わたくしは、ヴィクトル様が伸ばしてくださった手を掴むことが出来ずに、地上5階のバルコニーから激しく雨打つ石畳の地面へと、頭から真っ逆さまに落ちてしまったのです。
真っ白な一筋の稲妻が、邸宅の屋根目掛けて落ちたのはほぼ同時でした。
「ヴィ………!」
お名前を最後まで呼ぶことも叶わず、落下の強い衝撃とともに、シルキーの視界は真っ暗になりました。
***
一年ほど、時を遡ってみましょうーーー。
ヴィクトル・イングリス伯爵は、ここイングリス領を治める若き領主様でした。
彼は、広々とした邸宅にたったお一人で住まわれています。
といいますのも、ヴィクトル様には奥様もお子様もいらっしゃいません。一人っ子のためご兄弟もおらず、加えて生まれつき病弱な体質が災いし…、
「シルキー。どこだい?」
邸宅のたった一人の使用人である、わたくしシルキーに並々ならぬ依存ぶりを発揮しておりました。
ああ、わたくしのことを呼び立てるベルの音が際限なく聴こえてくる…。
いっそ聴こえないふりでもしてしまおうかと企みますが、その場合ヴィクトル様がどんな人智を超えた手段に出るか分かりません。
わたくしはやりかけの家事もそっちのけで、慌ててご主人様のお部屋へ…。
そうしてドアを開けてみましたら、ああ…!
「な、な、な、なんですこの汚らしい部屋っ!?」
つい半刻前に完璧に整理整頓したはずの書斎は、今や見る影もないほどに物が散乱しているではありませんか。
紙束、溢れたインク、年季の入った大鍋、背表紙が取れかけている文献、蛙の足だかトカゲの尻尾だか、顕微鏡だかフラスコだかよく分からない怪しげなアイテムに埋め尽くされた床。
それらに埋もれながら、なおも熱心に資料と睨めっこし、書き物を続けるヴィクトル様。
シルキーの入室に気づくと、彼は真剣な横顔から一転し、パッと無邪気な笑顔を浮かべました。
「シルキー!
いなくなってしまったかと思った!
あぁ良かった、安心した。」
「ええ、おりますとも。家事をほったらかしてどこへ行けるものですか。
…それで?ご用件は?」
「え?そんなものは無いけど?
ただ顔が見たくなっただけだ。」
なんという身勝手さでしょう。
わたくしは怒鳴りたい衝動を無理矢理抑え込み、必死に言葉を選びます。
「どこかの誰かさんが呑気にご趣味に没頭できますのは、シルキーが朝から晩まで駆けずり回ってお屋敷を管理しているおかげということをお忘れですか?」
わたくしとしたことが、言葉が選びきれませんでした。
そんなシルキーに対してヴィクトル様は、へらへらとした笑顔を少しも変えません。
「ああ、とても感謝している。
いつもそばにいてくれてありがとう、シルキー。」
「………。」
まったく、なんて調子の良いお方なのでしょう。
わたくしがこんなに苛立っているのに、そんなことは意に介さず、お礼を惜しみなく口にできてしまうなんて。
ヴィクトル様が笑えば笑うほど、わたくしは口うるさくなってしまうというのに。
「あんまり散らかされては困るのです!
こんな地獄の釜の底みたいなひどい部屋、誰が片付けると思ってらっしゃるの?」
「シルキーだね。
なぜなら私は手が離せない上に、体が弱いんだ。」
ご自分の立場をよく分かってらっしゃるのも、本当に本当に腹立たしい!
今にも沸騰しそうな感情のお鍋に蓋をして、シルキーは渋々書斎のお片付けに取り掛かります。
その脇で、ヴィクトル様はなおもあっちをガサゴソ、こっちをガサゴソ…。
片付けるそばから散らかされるのでは、無限ループもいいところ。
わたくしは眉根を寄せて怖い顔を作りながら訊ねました。
「今日は何のおまじないを調べてらっしゃるんです?」
訊ねながら、本の下から見つけ出した、干からびた蛇の抜け殻を摘み上げます。
これらの悪趣味なアイテムや小難しい器具類はすべてヴィクトル様のご趣味です。決して領主のお仕事ではありません。
病弱なあまり、長時間の商売などはできませんから、もっぱら領民の方々からの地代を頼りに生活しているのです。
「先日は、不老不死伝説について調べてましたわね。
その前は、錬金術にまつわる歴史書を延々と読まれて、その前は確か…東洋の果ての島に伝わる人形の髪がどんどん伸びるまじない…でしたっけ?」
正直に申しますと、わたくしはオカルトの類にはこれっぽっちも興味関心がありません。
魔術だの、呪いだの、不死だの、そんな夢物語に思いを馳せる暇もないくらい忙しいのですから。
もし魔術のひとつでも使えたなら、この自分勝手自由奔放人間なヴィクトル様が、もう少しばかり正気になってお部屋を散らかさないよう、まじないをかけますのに。
ヴィクトル様は鉄のお皿に乗せた枯れ草に、長いマッチで火をつけながら答えます。
「シルキー。
私は少しばかり死のうと思うんだ。」
「へえ、そうですか。
それはまた手の込んだ実験で……
……ッ!?」
あまりに聞き慣れない単語を耳にして、わたくしは目を剥きました。
枯れ草は水分を含まないのでよく燃え盛っています。もし周囲の紙の山に燃え移れば、この邸宅はたちまちキャンプファイヤーに早変わり。
「そ、そ、そんな早まらないでくださいまし!!
悩み事があるならシルキーがお聞きします!
ですから!命は大切になさって!!」
主従ともども無理心中なんてごめんです。
手近に転がっていた、冷たい陶磁器製の人形を押し付けて、わたくしは枯れ草の炎上を直ちに鎮圧しました。
「まったく、信じられませんわ!!
また不死だの何だのの実験ですか!?
あなたのお父様もよくそういったオカルト趣味を嗜まれていましたが、血筋ですね!」
“お父様”とは、先代のイングリス伯爵のことです。
ヴィクトル様はなぜか、褒められた子どものように「へへへ」と頬を掻くばかり。
「いや、父上には敵わないさ。
私はまだまだ勉強不足だ。
父上の功績にはあと少し届かない。」
「確かに大旦那様は、このお部屋の比ではないくらいのオカルトコレクションを溜め込んでいらっしゃいましたね!困ったことに!」
まあもっとも、それらの軌跡は今では、屋根裏の物入れに隙間なく仕舞い込まれていますが。シルキーの手によって。
「…だがね、もう少し。もう少しなんだ。
あと少しで完成するんだよ。
あとは何か、強いエネルギーがあれば…。」
ヴィクトル様は再び、オカルト資料との睨めっこを始めてしまいました。
譫言のように呟かれる「もう少し」という言葉。それがどんな意味を持つかなど、わたくしには分かりません。知りたいとも思いません。
「…ヴィクトル様、そろそろお休みになっては?
昨日も寝てらっしゃらないのではありませんか?」
ヴィクトル様の目元には、薄っすらと隈が浮かんでいます。
珍しいことではありませんでした。
彼はご趣味のこととなると、寝食を惜しんで没頭される悪癖があるのです。乱雑な部屋に対して、綺麗にベッドメイキングされたままの寝台。一睡もされていないことは明白でした。
あまりに寝室をお使いにならないので、わざわざ書斎にもベッドを用意しましたのに。無用の長物でしたわ。
「ヴィクトル様。
またお薬を飲まれていませんね?」
ベッドサイドには、手付かずのままの水差しと、常用のお薬の包みがあります。毎日きちんと飲むようにと、お医者様にも言われていますのに…。
近頃のヴィクトル様は、いつにも増して無茶が酷い。
ご自分のお身体が丈夫でないことを、本当にご承知なのかしら。
…ひょっとすると、ご自身の体の弱さを克服する手段を見つけるために、これほどたくさんの資料をかき集めているのかしら。かといってこんな、非科学的でファンタジーな方法に縋ろうとしているのは、決して健全とは言えませんけれど。
呼び掛けても、ちっとも返事をしてくださらず、ちらりとも視線を寄越さないご主人様。わたくしは胸が締め付けられる思いでした。
「ヴィクトル坊っちゃん…。」
大旦那様が亡くなったのも、ちょうど暖かな今くらいの気候の頃でした。
研究に没頭するあまり、お身体を酷使して、寝る間も惜しんでいたのです。
シルキーが何を言っても、何度申し上げても聞き入れてはくださらない。
「もう知りません」と、ほんの半刻ほど目を離した隙に、大旦那様はこの書斎で亡くなってしまわれた。
ヴィクトル坊っちゃんと同じ、不治の病によるものでした。
「…大旦那様…。」
もう会えない大旦那様のお顔を思い浮かべます。
ああ、どうして誰も、シルキーの言うことを聞いてくださらないの。どうしてシルキーを独りぼっちになさるのでしょう…。
悲しい気持ちになり、俯きます。書類が散乱した足元に目を落としました。
「シルキー。」
それが、どうしたことでしょう。
さっきまであんなにわたくしを放置していたヴィクトル様が、いつの間にか、こんなにもすぐ近くに歩み寄って来られたではありませんか。
シルキーの曇った目を拾い上げるヴィクトル様が、お顔いっぱいに優しい笑みを浮かべているではありませんか。
「大丈夫。私は君を独りぼっちにはさせないよ。約束する。」
ヴィクトル様の大きくて温かい手の平が、シルキーの絹のような髪を撫でてくださいます。
壊れ物を扱うように、大切に、大切に…。
「ヴィクトル様…。」
ずるい方。いつもわたくしが口うるさく言っても聞いてくださらないのに、わたくしの元気が無い時ばっかり、こうして優しくしてくださるのだから。
「…シル…………。」
それは、目まぐるしく変わる嵐の海のようでした。
たった今笑顔を見せていたヴィクトル様でしたが、わたくしが瞬きをした次の瞬間には、お顔を真っ青にしてその場に頽れてしまったのです。
「……ヴィクトル様…?
…あ、あぁっ、ヴィクトル様?
坊っちゃんっ!?」
わたくしの頭は真っ白になります。
どうしましょう。どうしたらいいのでしょう。なぜ倒れてしまったの?ひどく具合が悪そう。呼吸も乱れて、今にも死んでしまいそう。
死んでしまう?
大切なヴィクトル様が、死んでしまう?
だめ、それはだめだわ、許されない。
「坊っちゃん、あぁ、発作が…!
お、お医者様を…!」
わたくしは右往左往してしまいます。
こういう時こそ落ち着かなければ。そう頭では分かっているのに、どうしても体の節々が軋んで上手く言うことを聞きません。
足よ、腕よ、頭よ、動いて、動いて、動いて。
わたくしは震える手で、なんとかベッドサイドに置かれていた水差しを持ちます。
水を大量に溢しながらもグラスになみなみと注ぎ、ヴィクトル様がいつも飲まれているお薬の袋を掴みました。
「坊っちゃん、坊っちゃん…!
こちらを、早く…!!」
うずくまるヴィクトル様に縋り付くようにして、シルキーは手元のお薬を、ご主人様の口に無理矢理詰め込みました。
手はもはや辛うじてグラスを握っている状態。ぶるぶる震えるのに合わせて、水がボタボタと零れ落ちます。
「坊っちゃん…お願い、飲んで、くださいまし…っ!」
ヴィクトル様は唇を真っ青にしながらも、水とお薬で一杯になった口を決して開かず、ゆっくり微かに、しかし確実に喉をごくり、ごくりと動かします。
とても長い時間をかけて、ヴィクトル様はお薬を飲み込みました。
お部屋の片付けはちっとも進んでいない。けどそんなことはもうどうでもいい。
わたくしはヴィクトル様の頭を抱き締め、ただひたすらに神様に祈ります。
どうか、どうか、坊っちゃんを連れて行かないで。シルキーの宝物を奪わないで。
大旦那様のように…。
***
やがて、わたくしがベッドメイクしたふかふかのベットの中で、ヴィクトル様は目を覚ましました。
睡眠不足も解消して、目元の隈はすっかり薄くなりました。3日間も眠り続けたのだから当然です。
ヴィクトル様が目覚めるまでの3日間で、書斎はすっかり片付けられていました。
当然、シルキーの手によるものです。
目に見える床には塵ひとつ落ちていません。
ヴィクトル様はまだ夢現なぼんやりとしたお顔で、窓辺を見て、書斎全体を見て、それから傍らで花瓶の薔薇を取り替えるシルキーを見ました。
わたくしは薔薇が好きなのです。真っ赤な薔薇は満開で、この華々しさを見ましたら、きっとヴィクトル様も元気になってくれるはずです。
「おそようさま。
待ちくたびれましたのよ。」
そんな嫌味をぶつけてみると、ヴィクトル様は「はぁ…」と深い溜め息を吐いて返します。
「…良かった。私は生きているんだね。」
「死のう、と口になさった舌の根も乾かぬうちに、何をおっしゃいますか。
もうあんなご無理はやめてくださいましね。」
「ああ……。」
その「ああ」が承諾の意味でないことは明らかでした。
ヴィクトル様の目はなおも、部屋の隅に寄せ集められたオカルト品へと注がれています。
「…シルキーには理解できませんわ。
なぜあそこまで熱中なさるのか。
ヴィクトル様も、大旦那様も…。
ヴィクトル様は血眼になって、一体何を探していらっしゃるの?」
わたくしは、薔薇の棘が無いかを確認しながら訊ねます。
「永遠の命だよ。」
端的に呟くヴィクトル様。
その声に、悪ふざけの色は感じられませんでした。
ばかばかしい。おとぎ話だわ。
そんなもののために、大旦那様は亡くなってしまったというの?そしていずれは、坊っちゃんまでも…。
「なぜ?永遠に生きて、何の得があるのです?
今ある限られたお命をすり減らしてまで、そんなに執着なさること?
人は寿命があるから尊く生きることができるのでしょう?」
ヴィクトル様は、シルキーの目を見ずに言いました。
「なら私は、人でなしでいいさ。」
「………。」
ヴィクトル様、あなたは自分勝手な人。
シルキーの想いを軽んじてらっしゃるわ。
いつもどんなに心配しているか。どんなに胸を痛めているか。
「シルキーは、坊っちゃんが好きですわ。」
すべてはその気持ちに終着するのです。
「私もだよ、シルキー。」
広い広い邸宅には、わたくし達二人だけ。
ヴィクトル様のお命が続く限りの、特別な時間。それが、シルキーの今の宝物。
***
「ーーー………あ…。」
長い夢を見ていました。
気づけば、シルキーは真っ黒な雲に覆われた空を見上げていました。
雨足はだいぶ弱まってきたようで、頬を打つ雨の音が微か。
遥か上の方に、わたくしが足を滑らせたバルコニーが見えます。が、視界の半分は真っ暗でした。どうやら落下の衝撃で、どこかに片目を落としてしまったよう。
地べたに寝転ぶなんて、はしたないので起き上がりたい。そう思うのに、体がいうことを聞きません。
脚も動かない。腕も指も。どうか、動いて、動いて…。
辛うじて動くのは、眼窩に残ったガラス製の右目のみでした。
限られた視界をぐるりと見回せば、わたくしの腕や脚は、胴体とを繋ぐ関節の辺りから割れて粉々になっていました。
無数の陶磁器の破片が、シルキーを中心として四方八方に飛び散っています。
ヴィクトル様が撫でてくださった、大旦那様が一本一本植えてくださった絹糸の金髪も、雨水と泥に浸っていました。もう元のような手触りは期待できないでしょう…。
「………。」
わたくしは無性に泣きたくなりました。こんな惨めでお行儀の悪い姿…。いくら使用人の身でも、心は年頃のレディなのです。
けれど、涙は出ません。なぜならシルキーの体は、陶磁器でできた人形なのですから。
ざり、ざり、ざりと足音がします。
そちらへ目を向けますと、ヴィクトル様がこちらへ歩み寄って、わたくしのことをじっと見下ろしていました。
不思議です。雰囲気がいつもと全然違う。
髪型も、背格好も、お顔の形もヴィクトル様そっくり。しかしそのお体は、紛れもなく陶磁器製のお人形でした。
シルキーと同じ。糸もないのにひとりでに歩き回る人形。それでも、シルキーにはこの方が“ヴィクトル様”だとすぐに分かりました。
頬には薔薇色が塗られ、目の隈は名残さえもありません。雨水を全身に伝わせながら、穏やかな笑みを浮かべる、生まれ変わったお姿のヴィクトル様。
「水も滴る良い男」…その言葉に、シルキーは初めて同感しました。
「シルキー、成功したよ。」
「……? なにがです?」
「最後のエネルギー。落雷だったんだ。
私の仮説はやっぱり正しかった。
人形の器に生きた魂を移植するにはどうすればいいか、ずっと研究していたんだ。
成功例はただ一度…。
父上が24年前に、君を作った時が最後だ。
当時の文献を必死に読み解いて、やっと方法を見つけたんだよ。」
頭がぼんやりするシルキーには、何のお話だかよく分かりません。
坊ちゃんは本当に、オカルトがお好きなのね。
大旦那様とおんなじ…。そっくりですわ…。
ヴィクトル様はわたくしの残った胴体を片腕で抱え上げます。
なんて力持ちでしょう。今まで、一冊の本より重たい物なんて持ち上げたことがないくらい、お体が弱かったのに。
いいえ、もしかすると、両腕両脚と片目を失くしたわたくしは、とてもとても軽いのかもしれません。だってシルキーの中身は空っぽなのですもの。
「体は痛むかい?」
「いいえ…なんともありませんわ。」
「そう。良かった。
書斎に予備のパーツがある。
すぐに直してあげるからね。」
そう言いながら、ヴィクトル様は邸宅の中へと歩き出します。
大きな腕、長い脚。生前の、24歳のヴィクトル様を忠実に再現しているのでしょう。
「…昔はあんなにお小さかったのに。」
昔はシルキーの身長の半分も無かったのに。
背を越されてしまったのは、ヴィクトル様が14歳の頃だったかしら…。いえ、15歳…?
ああ、だめだわ。頭が上手く働かない。きっとひどく、ひどく疲れてしまったせい。わたくしは働きすぎなんだわ。
「シルキー、心配をかけてすまなかったね。
今日はゆっくりお休み。」
ヴィクトル様はいつにも増して上機嫌なようでした。
もう片方の手で、シルキーの取れてしまったガラスの目玉を、お召し物に当てて汚れを拭ってくださいます。
でも、その泥に汚れたお召し物も…あとでシルキーが洗いますのよ。
シルキーのぽっかり空いた眼窩に目玉を嵌め込みながら、ヴィクトル様は言います。
「これからは…私が永遠にそばにいるから、今まで尽くしてくれた分、なんでも我が儘を言うといいよ。」
「そうですか…。」
ガラスの目玉からじんわりと伝わる温もりを噛み締めながら、わたくしはぼんやりと考えます。
ずっとずっと考えていたことです。
もし、まじないが使えたなら、絶対に叶えたかったこと。
「では、坊っちゃん。
あの地獄の釜の底のようなお部屋を片付けてくださいまし。」
〈了〉