獏の呪いを解いた後。千早たちは夜明け前に内裏に戻っていた。一晩中獏と立ち回ったせいで、今日も眠い。しかし同じように(いや、千早よりよっぽど)動き回っていた伊織はあくびひとつしない。完全に気が抜けてしまっている己を叱咤して手の甲をつねると、痛みにぱっちり目が覚めて、伊織が受けている報告の内容も効くことが出来た。

「左大臣の家では呪詛返しにより当主が臥せったままとなり、この状態では執務を遂行することは不可能かと」

「そうだな、それに左大臣の悪事を裁かないわけにはいかない。本人が回復したら左大臣を大宰府に流刑とする。それから麗景殿の女御だが、本人の積極的関与はないとはいえ、父親の罪は免れない。本日をもって離縁をし、速やかに後宮から立ち去るよう、私の名で命じよ」

蔵人は伊織の言葉に御意、と頭を下げた。

「さて、それでは千早のことだな。此度の活躍を労いたい。何か望みはあるか」

「とんでもございません。本来それがしのようなものが、主上にお目通り頂くことは不可能でありました。これ以上の望みなどございません。お会いできただけで身に余る光栄でございます」

千早が額を畳に擦りつけて応えたが、伊織は案外残念そうではなかった。

「そんなことを言われるかと思ってな。あらかじめ用意しておいた」

にこにこと微笑んだ伊織がポンポンと手を叩くと、蔵人が恭しく着物を掲げもって入って来た。しかしその品を見た時、千早は困惑した。

桐の箱に入っているのは、どう見ても女ものの着物である。目の前に置かれてまじまじと見るが、紅の小袿に淡紅の袿、白の単その他のひと揃えだった。他にも淡萌黄の小袿に濃萌黄の袿、紅の単など、後から後から千早の前に運ばれてくる。

「ちょちょ、待ってください、主上! これらは全て女ものではございませんか。それがしは立派な……」

「千早。俺を騙したまま(・・・・・・・)、事を成しえうると思うのは、間違いだぞ。俺の力は『破壊と創成』。つまり、悪やまやかしを跳ね除け、物事を正しく成していくことだ。悪はお前の助力で跳ね除けることが出来た。では、俺の目の前のまやかしは、どうだ?」

己をじっと見つめる伊織の視線に、千早はがくっと項垂れた。そうだ。今の今まで、伊織の目にまやかしをうつしていた千早の罪は重い。

「……申し訳ございません……。それがし……、いえ、私は男になり切らないと、生きてこられなかったのです……」

「そうだな。お前は必死に生きてきた。それは認めよう。お前が男として歩み出すことを止めなかった、俺にも責任がある」

責任? 何のことだろう。

「お前が髪を切る時に、求められるまま、はさみを貸してしまった。市井で生き抜くためとはいえ、女(め)の子に辛い選択をさせたと思う」

そう言われてはっと気づく。千早が髪を切ったことを知っているのは、千早が子供の頃に逃げ込んだ寺の入道だけだ。

「伊織さま。もしやあの時の入道さまでいらっしゃいますか!?」

「そうだ。俺もまたこの力ゆえ、人々から怖れを抱かれ、寺に入れられていた。神力は己と一体。しかし力を否定されたことで、己を否定されたような気持ちになったこともあった。しかしお前が女を捨てても生きることを選んだのを見て、俺も力を認められなくとも生きようと思うことが出来たのだ。あの時の出会いを、今、天に感謝をしたい」

やさしく千早を見つめてくる伊織は、確かにあの時の入道の眼差しが重なった。

「なんとお礼を申したらいいか分かりません……。あのときはさみを架してくださって、ありがとうございました。おかげで生き延びることが出来ました」

「そうだな。あの時はお前が生き抜くために必要な事だった。しかし、これからはその人生、俺の傍で生きてくれないか」

穏やかな声で言う伊織を、千早は目を真ん丸にして見た。

「……は?」

「嫌か」

嫌か嫌でないか、という問題ではない。千早は平民だ。とんでもないことである。

「無理です! 私は何処か分からないほど田舎の農村の出ですよ!? それに、夢接ぎの仕事にも誇りを持っております。辞めるなんてありえません」

「ところが、お前が取り戻してくれた俺の未来視によれば、お前がもしここを出て市井に戻ったら、その先に待っているのは死のみだぞ」

え。

伊織のあまりの非道な未来視に呆然とする。

「……脅しですか?」

「なにを言う。俺の未来視を取り戻してくれたお前を大事にしろという、天のお告げだろう」

お告げ……。

そう言われてしまうと、何もかもを受け入れそうになってしまう。

「ふふ……。そういう大義名分をもって求婚するのって、どうなんでしょうね?」

「不満か」

「いいえ」

伊織の言うことが本当に未来視なのか、天からのお告げなのか、はたまたはったりなのかは分からない。でも、千早の身分を考えたら、そういう理由がないと、駄目なんだろう。そう千早は理解して、微笑んだ。

「人生は分からないものですね。あの日まで、私は伊織さまどころか、内裏だって縁遠い生活をしていたのに」

「それゆえに、選んで歩んでいけるのだろう。俺はお前を選んで歩んでいきたい。お前はどうだ、千早」

「私も、ここに繋いでくれた縁を大事にしたいと思います」

こうして千早は凰鱗帝の後宮に入ることとなった。

凰鱗帝の御世は、夢見にて未来を指し示す帝と、その夢を守る皇后の活躍で、平和な世の中であったと後の人たちが語ることとなる。