王城での時間は飛ぶように過ぎていった。春燕は常に瑞薛のそばに付き従い、官吏たちの「あの男は何者だ?」という疑いの眼差しが薄まってきた頃。
ある夜、春燕は物音で目を覚ました。
牀榻にむくりと起き上がり、周りを見回す。春燕の寝床は、瑞薛の寝房の隣室だった。「共寝はまだ早いか?」などと瑞薛はからかったが、春燕は断固として安らかな睡眠を守った。
漏窓の向こうに浮かぶ三日月が銀の光を房内に降り注いでいる。月光の砕ける音さえ聞こえそうな、静かな夜だった。
春燕は少し考えて、寝衣のまま瑞薛の寝房へ向かった。
「……陛下?」
今しも、瑞薛が寝房の戸をくぐろうとしているところだった。彼は素早く振り向くと「燕か。どうした、眠れないのか?」と柔く笑う。だがその頬の線にどこかこわばったものを見てとって、春燕はぎゅっと寝衣の胸元を握った。
「陛下はどちらへ?」
聞いてから、妃嬪の元へ御渡りになるのかもしれない、と後悔した。ここは後宮だ。皇帝の血を継ぐために作られた人工の花園。瑞薛がどこで何をしようが彼の自由だ。春燕に口を挟む資格はない。
瑞薛はしばらく春燕に視線を注いでいた。居心地悪く俯いて、春燕は、瑞薛の腰帯に長剣が吊るされているのに気がついた。
ふっ、と笑みを含んだ吐息が漏らされる。瑞薛が一歩、春燕の方へ歩み寄った。
「そのような顔をするな。ただの逍遥だ」
「ど、どのような顔ですか」
「うん? 寂しくて仕方ないという顔だったぞ。どんな男でも引き止めてしまえるだろうな」
「何度も申し上げますが、私は男です。男性の袖を引いたって意味がありませんよ」
「へえ? それなら」
瑞薛がさらに一歩、春燕に近づく。後退ろうとして踵がすぐに壁にぶつかった。
瑞薛が身を屈め、背に流した春燕の髪を一房掬い取る。それに口づけるようにしてそっと顔を寄せてきた。
闇色の瞳と、視線が交わる。
「俺以外にそんな顔を見せるなよ」
「なっ……」
低く囁かれ、春燕の頬にカッと朱が差す。とっさに両腕で彼を押し返そうとしたところで、瑞薛はぱっと離れていった。
楽しげに肩を揺らしながら、
「燕は初心だな。本当に両手に余るほど結婚相手がいるのか?」
「おりますとも! へ、陛下が慣れすぎなのです。その手練手管であれば、落とせぬ女性はいないでしょう」
「どうだかな。後宮の人間からは呪われているようだが」
春燕はハッと口をつぐむ。瑞薛の右腕に目をやった。袖に隠されているがその下では今も呪いが彼を苛んでいる。春燕がここに来てからしばらく経つ。呪紋はどこまで広がってしまったのだろう。
「……下手人の手がかりは見つかりませんか?」
「まだだな。だが気にするな。解呪できずとも、死なずに済む方法がある」
春燕はきょとんと目を瞬かせる。それから、訝しく眉根を寄せた。
「本当に? それなら、どうして今までその方法を試していないんです?」
返事はなかった。瑞薛は裘を手に取ると、春燕の肩を黙って包んだ。
「燕も逍遥に付き合え。できるだけ俺から離れるな」
ある夜、春燕は物音で目を覚ました。
牀榻にむくりと起き上がり、周りを見回す。春燕の寝床は、瑞薛の寝房の隣室だった。「共寝はまだ早いか?」などと瑞薛はからかったが、春燕は断固として安らかな睡眠を守った。
漏窓の向こうに浮かぶ三日月が銀の光を房内に降り注いでいる。月光の砕ける音さえ聞こえそうな、静かな夜だった。
春燕は少し考えて、寝衣のまま瑞薛の寝房へ向かった。
「……陛下?」
今しも、瑞薛が寝房の戸をくぐろうとしているところだった。彼は素早く振り向くと「燕か。どうした、眠れないのか?」と柔く笑う。だがその頬の線にどこかこわばったものを見てとって、春燕はぎゅっと寝衣の胸元を握った。
「陛下はどちらへ?」
聞いてから、妃嬪の元へ御渡りになるのかもしれない、と後悔した。ここは後宮だ。皇帝の血を継ぐために作られた人工の花園。瑞薛がどこで何をしようが彼の自由だ。春燕に口を挟む資格はない。
瑞薛はしばらく春燕に視線を注いでいた。居心地悪く俯いて、春燕は、瑞薛の腰帯に長剣が吊るされているのに気がついた。
ふっ、と笑みを含んだ吐息が漏らされる。瑞薛が一歩、春燕の方へ歩み寄った。
「そのような顔をするな。ただの逍遥だ」
「ど、どのような顔ですか」
「うん? 寂しくて仕方ないという顔だったぞ。どんな男でも引き止めてしまえるだろうな」
「何度も申し上げますが、私は男です。男性の袖を引いたって意味がありませんよ」
「へえ? それなら」
瑞薛がさらに一歩、春燕に近づく。後退ろうとして踵がすぐに壁にぶつかった。
瑞薛が身を屈め、背に流した春燕の髪を一房掬い取る。それに口づけるようにしてそっと顔を寄せてきた。
闇色の瞳と、視線が交わる。
「俺以外にそんな顔を見せるなよ」
「なっ……」
低く囁かれ、春燕の頬にカッと朱が差す。とっさに両腕で彼を押し返そうとしたところで、瑞薛はぱっと離れていった。
楽しげに肩を揺らしながら、
「燕は初心だな。本当に両手に余るほど結婚相手がいるのか?」
「おりますとも! へ、陛下が慣れすぎなのです。その手練手管であれば、落とせぬ女性はいないでしょう」
「どうだかな。後宮の人間からは呪われているようだが」
春燕はハッと口をつぐむ。瑞薛の右腕に目をやった。袖に隠されているがその下では今も呪いが彼を苛んでいる。春燕がここに来てからしばらく経つ。呪紋はどこまで広がってしまったのだろう。
「……下手人の手がかりは見つかりませんか?」
「まだだな。だが気にするな。解呪できずとも、死なずに済む方法がある」
春燕はきょとんと目を瞬かせる。それから、訝しく眉根を寄せた。
「本当に? それなら、どうして今までその方法を試していないんです?」
返事はなかった。瑞薛は裘を手に取ると、春燕の肩を黙って包んだ。
「燕も逍遥に付き合え。できるだけ俺から離れるな」