その後も朝儀はつつがなく進んだ。安尚書のような腐敗官吏を断罪するもの、民のための政策を議論するものなど色々で、春燕の出番はなかった。瑞薛の背後で話を聞きながら、春燕はぼんやりと(……この人になら、雪を任せてもいいかしら?)などと勝手に考え始めていた。
耳にこびりつく安尚書の悲鳴と、瞼の裏で燃える炎の色。見聞きした全てがごちゃごちゃに混ざって、頭が破裂しそうだった。そっと瑞薛の横顔を盗み見る。花窓からの陽光が、その端正な輪郭を浮かび上がらせていた。
浩宇が手を打ち鳴らす音で、春燕は物思いから覚めた。
「本日の朝儀はここまで。各自、決定事項をまとめておくように」
官吏たちがぞろぞろと室を出ていく。これからどうしようか、と棒立ちになっていると、ついと袖を引かれた。
「燕、来い」
瑞薛だった。まごつく春燕にも、苦い顔をしている浩宇にも、微笑ましそうな仔空にも構わず、春燕を連れ出す。
導かれた先にあったのは、花々の咲き誇る亭だった。朱色の柱が瑠璃瓦の葺かれた屋根を支え、その下には大理石の凳子と卓が置かれている。周りには桔梗や竜胆、撫子といった花々が咲き群れ、亭を彩っていた。
「わあ……!」
色とりどりの花弁が風に揺れる光景に知らず声が弾む。桂花の香りが鼻先をかすめ、春燕の口元が綻んだ。
「こちらへ座るといい」
凳子に座った瑞薛が手招く。春燕も卓を挟んでその向かいに腰かけた。
きょろきょろしながら、
「王城にはこんな綺麗なところがあるのですね」
「燕の住んでいた邑にはなかったか?」
「ありませんでした。そんなに綺麗な場所ではなかったのですよ」
春燕は苦笑する。朱一族の邑は山深く、岩場が多かった。花畑、というものはなかったように思う。春になると邸の園林では鈴蘭や水仙がいっせいに可憐な白い花を咲かせたが、これは毒を精製するためだったのであまり心は和まなかった。とはいえ皇帝に全てを捧げる異能者の邑にはこれ以上なくふさわしい花だ。
だから、そう。余計に雪の美しさが春燕の胸を打ったのかもしれない。あの灰色の邑で一番純粋で綺麗だったのは、紛れもなく彼女だったから。
下男がしずしずと近づいてきて、卓に玻璃の器を置く。中には透き通る果実水と、氷が浮いていた。
「こ、氷⁉︎ 氷室からわざわざ切り出したのですか⁉︎」
春燕はぎょっと目を剥く。氷は貴重品だ。毎年冬に巨大な氷塊を作り、一年間氷室で保管するのだ。城市にはほとんど出回らず、皇族や貴族しか口にできない。
それが目の前にある。春燕はあわあわと器に指を伸ばし、また引っ込めた。その様子に瑞薛がおかしそうに笑っている。
「いいから飲め。疲れただろう、労らせてくれ」
「で、ですがこんなに貴重なものを……」
「皇帝が飲めと命じているのに。ああ、それとも飲ませてほしいか?」
「はっ?」
素っ頓狂な声を上げた春燕に、瑞薛は意地悪げに目を細くする。
「お前を膝に乗せて、器を唇まで運んでやろうか? そうしたら拒めないだろう」
「い……っ、いやいや、私は男ですし、そんな趣味はありません! そういうことは、もっと綺麗な女性にですね……」
なんとなく頭に雪の顔が浮かんで、慌ててかき消す。
(こ、こんな不埒な男には、やっぱり雪は任せられないわ!)
どきどきと脈打つ心臓を押さえて、器を口に運ぶ。顔が熱い。口元に瑞薛の視線を感じてひりひりした。
冷たくて甘い果実水が喉を滑り落ちていく。それでやっと、熱を持った体が冷やされる気がした。
「……おいしい、です。ありがとうございます」
ぽつんと言う春燕に、瑞薛が自分の分の果実水を飲みながら、
「気は休まったか? 朝儀の間、俺を見ていただろう。何か話したいことがあるなら聞くぞ」
「えっ?」
春燕の胸が跳ねた。物思いに耽っていたのがバレていたらしい。慌てて頭を振った。
「いえ、大したことではありませんから」
「そうか、言いたくなったらいつでも言え」
春燕の瞳を覗きこみ、表情を和らげる。それは先ほどの朝儀の場で見せた冷厳な面差しとはまるで違っていて、春燕はなんだか背中がこそばゆくなった。
春燕がもじもじしているのを不思議そうに眺めながら、瑞薛が訊ねる。
「それにしても、安尚書の裏帳簿を見つけたのはさすがだったな。あれはどうやったんだ?」
「あ、ああ。あれは簡単なことですよ。尚書は明らかに太り過ぎの見た目をしていました。それなのに腕を大きく振り回してもしんどそうではないし、料紙に書いた体重と見た目が合致しませんでしたから。きっと肌身離さず身につけているんだろうって」
嘘である。異能によって読み取った情報に後付けで理由をくっつけているだけだ。
果実水を口に含みながら、瑞薛を見やる。彼は感情を窺わせない声色で「そうか」と呟いた。
耳にこびりつく安尚書の悲鳴と、瞼の裏で燃える炎の色。見聞きした全てがごちゃごちゃに混ざって、頭が破裂しそうだった。そっと瑞薛の横顔を盗み見る。花窓からの陽光が、その端正な輪郭を浮かび上がらせていた。
浩宇が手を打ち鳴らす音で、春燕は物思いから覚めた。
「本日の朝儀はここまで。各自、決定事項をまとめておくように」
官吏たちがぞろぞろと室を出ていく。これからどうしようか、と棒立ちになっていると、ついと袖を引かれた。
「燕、来い」
瑞薛だった。まごつく春燕にも、苦い顔をしている浩宇にも、微笑ましそうな仔空にも構わず、春燕を連れ出す。
導かれた先にあったのは、花々の咲き誇る亭だった。朱色の柱が瑠璃瓦の葺かれた屋根を支え、その下には大理石の凳子と卓が置かれている。周りには桔梗や竜胆、撫子といった花々が咲き群れ、亭を彩っていた。
「わあ……!」
色とりどりの花弁が風に揺れる光景に知らず声が弾む。桂花の香りが鼻先をかすめ、春燕の口元が綻んだ。
「こちらへ座るといい」
凳子に座った瑞薛が手招く。春燕も卓を挟んでその向かいに腰かけた。
きょろきょろしながら、
「王城にはこんな綺麗なところがあるのですね」
「燕の住んでいた邑にはなかったか?」
「ありませんでした。そんなに綺麗な場所ではなかったのですよ」
春燕は苦笑する。朱一族の邑は山深く、岩場が多かった。花畑、というものはなかったように思う。春になると邸の園林では鈴蘭や水仙がいっせいに可憐な白い花を咲かせたが、これは毒を精製するためだったのであまり心は和まなかった。とはいえ皇帝に全てを捧げる異能者の邑にはこれ以上なくふさわしい花だ。
だから、そう。余計に雪の美しさが春燕の胸を打ったのかもしれない。あの灰色の邑で一番純粋で綺麗だったのは、紛れもなく彼女だったから。
下男がしずしずと近づいてきて、卓に玻璃の器を置く。中には透き通る果実水と、氷が浮いていた。
「こ、氷⁉︎ 氷室からわざわざ切り出したのですか⁉︎」
春燕はぎょっと目を剥く。氷は貴重品だ。毎年冬に巨大な氷塊を作り、一年間氷室で保管するのだ。城市にはほとんど出回らず、皇族や貴族しか口にできない。
それが目の前にある。春燕はあわあわと器に指を伸ばし、また引っ込めた。その様子に瑞薛がおかしそうに笑っている。
「いいから飲め。疲れただろう、労らせてくれ」
「で、ですがこんなに貴重なものを……」
「皇帝が飲めと命じているのに。ああ、それとも飲ませてほしいか?」
「はっ?」
素っ頓狂な声を上げた春燕に、瑞薛は意地悪げに目を細くする。
「お前を膝に乗せて、器を唇まで運んでやろうか? そうしたら拒めないだろう」
「い……っ、いやいや、私は男ですし、そんな趣味はありません! そういうことは、もっと綺麗な女性にですね……」
なんとなく頭に雪の顔が浮かんで、慌ててかき消す。
(こ、こんな不埒な男には、やっぱり雪は任せられないわ!)
どきどきと脈打つ心臓を押さえて、器を口に運ぶ。顔が熱い。口元に瑞薛の視線を感じてひりひりした。
冷たくて甘い果実水が喉を滑り落ちていく。それでやっと、熱を持った体が冷やされる気がした。
「……おいしい、です。ありがとうございます」
ぽつんと言う春燕に、瑞薛が自分の分の果実水を飲みながら、
「気は休まったか? 朝儀の間、俺を見ていただろう。何か話したいことがあるなら聞くぞ」
「えっ?」
春燕の胸が跳ねた。物思いに耽っていたのがバレていたらしい。慌てて頭を振った。
「いえ、大したことではありませんから」
「そうか、言いたくなったらいつでも言え」
春燕の瞳を覗きこみ、表情を和らげる。それは先ほどの朝儀の場で見せた冷厳な面差しとはまるで違っていて、春燕はなんだか背中がこそばゆくなった。
春燕がもじもじしているのを不思議そうに眺めながら、瑞薛が訊ねる。
「それにしても、安尚書の裏帳簿を見つけたのはさすがだったな。あれはどうやったんだ?」
「あ、ああ。あれは簡単なことですよ。尚書は明らかに太り過ぎの見た目をしていました。それなのに腕を大きく振り回してもしんどそうではないし、料紙に書いた体重と見た目が合致しませんでしたから。きっと肌身離さず身につけているんだろうって」
嘘である。異能によって読み取った情報に後付けで理由をくっつけているだけだ。
果実水を口に含みながら、瑞薛を見やる。彼は感情を窺わせない声色で「そうか」と呟いた。