春燕が室を退出したあと、瑞薛は背板にもたれて深々と息を吐いた。
心臓が強く脈打っている。呪いに侵された右腕の痛みも気にならなかった。
こんなに長く、あの愛おしい少女と話したのは実に十年ぶりだった。
(まさか『雪』のために、本当に後宮にやって来るとは。手紙で別れを告げたのに)
かつて朱一族の邑で過ごした日々が蘇る。あのとき瑞薛は、皇子による放伐を疑った父帝に殺されそうになり、「雪」という少女になって王城を落ち延びたのだ。
父帝によって滅ぼされる城市、困窮に喘ぐ民、父を討つには力の足りない自分。何もかもが苦しい中で、無邪気に自分に懐いて、くるくると表情を変える春燕は救いだった。ずっと一緒にいたい、と場違いな望みを抱いてしまうほどに。
皇帝になってからも春燕のことを忘れられず、雪の従者のふりをして四季折々に手紙を送り、時折食糧を届けた。郷里を失った春燕が、賭場の下働きとして辛い生活を送っているのを知りながら、何もできないのがもどかしかった。それなのに春燕は雪からの手紙を嬉しそうに読み、宝物のように胸に抱きしめる。何度さらってしまいたいと思ったことか。
だが、瑞薛には皇帝であることを捨てられない。それは恋や愛のために投げ捨てられるほど軽いものではない。
だから十八歳になって、成人を迎えた春燕の手を離したのだ。もうこれ以上自分に縛りつけておくことはできなくて。
瑞薛の口元に憫笑が浮かぶ。
(一度は逃がしてやろうと思ったのに)
男占い師になるなんて誰が思いつくだろう。男装の春燕はすっきりとした美少年で、それが謎めいた雰囲気をまとわせているのだから、妃嬪や女官が騒ぐのも無理はなかった。
唇を指先で撫でる。春燕が出ていった戸を鋭く見つめ、独りごちた。
(自ら俺の元にやってきたのは春燕の方だ。もう躊躇いはしない)
そのとき、室の奥に隠された扉が開いて、二人の男が姿を現した。
「陛下。なんです、あの男は? 胡散臭いにもほどがあるでしょう。信用なさるのですか?」
険しい声で言い立てるのは魯浩宇。きつい顔立ちの青年で、冢宰として瑞薛にも遠慮なくものを言う。
「まあまあ浩宇殿。陛下の決めたことですから。それに僕は、あまり悪い印象は受けませんでしたよ。占いの方法も面白いですし、好きな女の子のために頑張る健気な人じゃないですか」
一方なだめるように言うのは楊仔空。瑞薛の侍従で、垂れ目がちの目が柔和な雰囲気を漂わせている。
二人は室の外に作られた隠し部屋で待機して、一部始終を聞いていたのだ。
腕に抱えた銀盤を、仔空がそばの卓に置く。銀盤には薬湯がなみなみ満ちていて、つんとした香りが室に漂った。
「陛下、腕を失礼しますね」
仔空が薬湯に手巾を浸し、瑞薛の腕に巻きつけていく。呪いの進行を抑えるための処置だった。
それを見ながら浩宇が訊ねる。
「……呪いには、あとどれくらいの猶予があるのですか」
「一月ほどだろう、と呪術師は言っていたな」
「それなのに、あんな怪しい占い師にかかずりあっている場合ですか⁉︎ 後宮を虱潰しに探して片端から尋問すれば……」
「そのような分別のない方法は取らない。それに、騒ぎに乗じて逃げられても困る」
ぐぬ、と浩宇が押し黙った。仔空がてきぱきと処置を進めながら、
「陛下のやり方も一理あるんじゃないですか? 呪いには呪いをぶつけるんですよ。呪詛返しを恐れた呪術師が尻尾を出す可能性も十分ありますし」
「だが、こんな不確実な……」
「二度言わすなよ、浩宇。それに俺のことを心配する必要はない。呪いが解けずとも、死なない方法はある」
浩宇の顔が歪む。仔空もさっとおもてを俯けた。
「陛下、あのやり方を取るおつもりですか? 私は大いに反対ですよ」
浩宇の言葉に、仔空も顔を上げる。
「僕もです。あれは最悪の手段です」
二人の視線を受けて、瑞薛は肩をすくめた。
「この国はまだ落ち着いたとは言い難い。俺という皇帝が必要だろう? 簡単に死んでやるわけにはいかない。生き延びるためなら何だってするさ」
そう語る声の底には烈しいものが流れていて、浩宇と仔空は何も言えずにただ頭を下げる。浩宇が口惜しそうに拳を握った。
「私は引き続き、後宮の人間の調査を進めます」
「僕は呪術について調べます。府庫の古文書にあたってみます」
「ああ、よろしく頼む」
瑞薛は手を振って二人を下がらせた。
しん、と室に静寂が広がる。右腕を上げて、手を閉じたり開いたりを繰り返した。仔空の処置のおかげでだいぶ痛みは軽減されていた。
この呪いのことを、そう深刻にとらえたことはない。二人は大反対するが死なない方法はあるのだ。
だが春燕の力を借りて解呪できるなら、瑞薛は一度に二つのものを手に入れられる。自分の命と、春燕とを。
とはいえこれは危うい賭けだ。春燕の身を危険に晒しかねない。絶対に自分から離れるなと言いつけたのもそのためだ。いつでも守れるよう、目の届くところにいてもらいたい。
それにしても、と瑞薛は目を上げた。
(なぜ春燕はわざわざ男になりすましたんだ。普通は女官でいいだろう)
瑞薛は知らなかった。この後宮は徹頭徹尾父帝の好みで構成されていることを。彼は践祚してから一度も後宮に足を踏み入れたことはなかったし、興味もなかったのだ。
春燕の誤解が解ける日は遠い。
心臓が強く脈打っている。呪いに侵された右腕の痛みも気にならなかった。
こんなに長く、あの愛おしい少女と話したのは実に十年ぶりだった。
(まさか『雪』のために、本当に後宮にやって来るとは。手紙で別れを告げたのに)
かつて朱一族の邑で過ごした日々が蘇る。あのとき瑞薛は、皇子による放伐を疑った父帝に殺されそうになり、「雪」という少女になって王城を落ち延びたのだ。
父帝によって滅ぼされる城市、困窮に喘ぐ民、父を討つには力の足りない自分。何もかもが苦しい中で、無邪気に自分に懐いて、くるくると表情を変える春燕は救いだった。ずっと一緒にいたい、と場違いな望みを抱いてしまうほどに。
皇帝になってからも春燕のことを忘れられず、雪の従者のふりをして四季折々に手紙を送り、時折食糧を届けた。郷里を失った春燕が、賭場の下働きとして辛い生活を送っているのを知りながら、何もできないのがもどかしかった。それなのに春燕は雪からの手紙を嬉しそうに読み、宝物のように胸に抱きしめる。何度さらってしまいたいと思ったことか。
だが、瑞薛には皇帝であることを捨てられない。それは恋や愛のために投げ捨てられるほど軽いものではない。
だから十八歳になって、成人を迎えた春燕の手を離したのだ。もうこれ以上自分に縛りつけておくことはできなくて。
瑞薛の口元に憫笑が浮かぶ。
(一度は逃がしてやろうと思ったのに)
男占い師になるなんて誰が思いつくだろう。男装の春燕はすっきりとした美少年で、それが謎めいた雰囲気をまとわせているのだから、妃嬪や女官が騒ぐのも無理はなかった。
唇を指先で撫でる。春燕が出ていった戸を鋭く見つめ、独りごちた。
(自ら俺の元にやってきたのは春燕の方だ。もう躊躇いはしない)
そのとき、室の奥に隠された扉が開いて、二人の男が姿を現した。
「陛下。なんです、あの男は? 胡散臭いにもほどがあるでしょう。信用なさるのですか?」
険しい声で言い立てるのは魯浩宇。きつい顔立ちの青年で、冢宰として瑞薛にも遠慮なくものを言う。
「まあまあ浩宇殿。陛下の決めたことですから。それに僕は、あまり悪い印象は受けませんでしたよ。占いの方法も面白いですし、好きな女の子のために頑張る健気な人じゃないですか」
一方なだめるように言うのは楊仔空。瑞薛の侍従で、垂れ目がちの目が柔和な雰囲気を漂わせている。
二人は室の外に作られた隠し部屋で待機して、一部始終を聞いていたのだ。
腕に抱えた銀盤を、仔空がそばの卓に置く。銀盤には薬湯がなみなみ満ちていて、つんとした香りが室に漂った。
「陛下、腕を失礼しますね」
仔空が薬湯に手巾を浸し、瑞薛の腕に巻きつけていく。呪いの進行を抑えるための処置だった。
それを見ながら浩宇が訊ねる。
「……呪いには、あとどれくらいの猶予があるのですか」
「一月ほどだろう、と呪術師は言っていたな」
「それなのに、あんな怪しい占い師にかかずりあっている場合ですか⁉︎ 後宮を虱潰しに探して片端から尋問すれば……」
「そのような分別のない方法は取らない。それに、騒ぎに乗じて逃げられても困る」
ぐぬ、と浩宇が押し黙った。仔空がてきぱきと処置を進めながら、
「陛下のやり方も一理あるんじゃないですか? 呪いには呪いをぶつけるんですよ。呪詛返しを恐れた呪術師が尻尾を出す可能性も十分ありますし」
「だが、こんな不確実な……」
「二度言わすなよ、浩宇。それに俺のことを心配する必要はない。呪いが解けずとも、死なない方法はある」
浩宇の顔が歪む。仔空もさっとおもてを俯けた。
「陛下、あのやり方を取るおつもりですか? 私は大いに反対ですよ」
浩宇の言葉に、仔空も顔を上げる。
「僕もです。あれは最悪の手段です」
二人の視線を受けて、瑞薛は肩をすくめた。
「この国はまだ落ち着いたとは言い難い。俺という皇帝が必要だろう? 簡単に死んでやるわけにはいかない。生き延びるためなら何だってするさ」
そう語る声の底には烈しいものが流れていて、浩宇と仔空は何も言えずにただ頭を下げる。浩宇が口惜しそうに拳を握った。
「私は引き続き、後宮の人間の調査を進めます」
「僕は呪術について調べます。府庫の古文書にあたってみます」
「ああ、よろしく頼む」
瑞薛は手を振って二人を下がらせた。
しん、と室に静寂が広がる。右腕を上げて、手を閉じたり開いたりを繰り返した。仔空の処置のおかげでだいぶ痛みは軽減されていた。
この呪いのことを、そう深刻にとらえたことはない。二人は大反対するが死なない方法はあるのだ。
だが春燕の力を借りて解呪できるなら、瑞薛は一度に二つのものを手に入れられる。自分の命と、春燕とを。
とはいえこれは危うい賭けだ。春燕の身を危険に晒しかねない。絶対に自分から離れるなと言いつけたのもそのためだ。いつでも守れるよう、目の届くところにいてもらいたい。
それにしても、と瑞薛は目を上げた。
(なぜ春燕はわざわざ男になりすましたんだ。普通は女官でいいだろう)
瑞薛は知らなかった。この後宮は徹頭徹尾父帝の好みで構成されていることを。彼は践祚してから一度も後宮に足を踏み入れたことはなかったし、興味もなかったのだ。
春燕の誤解が解ける日は遠い。