憑き物が落ちたような女官と別れ春燕は小路を急いでいた。巡邏の宦官に見つからぬよう時折方向を変えながら重いため息をつく。
(私がしたことは……正しかったのかしら)
 女官はしばらくすれば退官する。いずれにせよ柳淑妃の悩みは解決したのだ。燕さまの言う通りにしたら上手くいったと、彼女はますます燕に傾倒するだろう。
 それに異能を他人に知られれば、どう利用されるかわからない。言い当てすぎてもいけないのだ。
 ぎゅ、と袍の胸元を掴む。軋むほど奥歯を噛みしめた。
(でも私は決めたんだ。ここで……後宮で、必ず)
「そこにいるのは誰だ?」
 突如低い声が響いて、春燕はひゅっと息を呑んだ。振り向く暇もあらばこそ、腕を掴まれ足払いをかけられて固い磚の上にひっくり返る。したたかに腰を打ちつけて呻き声が漏れた。
「な……っ」
 とっさに上半身を起こし、素早く頭を上げる。春燕を打ちのめした相手はずいぶん長身で、体つきは鍛えているのか逞しい——まるで、男のように。
 強く風が吹きつける。雲が流れる。月が現れて、銀の光が辺りに降り注いだ。
 月影に照らし出されるのは、世にも美しい白磁のかんばせ。切れ長の瞳は鋭く、すっと通った鼻筋に、形の良い薄い唇が引き結ばれている。恐ろしいほどの美丈夫だった。
 身にまとうのは紫色の長袍、深紅の袴、腰帯に下がる玉佩は翡翠。
 射干玉の髪は一部だけ結われ、残りは背に流されている。前髪の幾筋か目元に垂れ落ちて、妙に﨟たけて見えた。その奥で、底光りする瞳が春燕をとらえた。
 ぞく、と背筋が震える。
 間違いない。こんな装いが許される人間はこの世に一人しかいない。そもそも後宮は男子禁制で、もちろん春燕のように忍びこむ輩もいるけれど——。
 勝手に震え出す体を懸命に押さえ、春燕は呆然と呟いた。
「こ、皇帝陛下……」
 (はく)瑞薛(ずいせつ)。暴虐を振るう父帝を殺し、若くして珀元国の皇帝の座についた男。外朝ではその辣腕で腐敗した宮廷を一掃しているという。情け容赦のないやり方に、ついた二つ名は〈冷徹帝〉。
 瑞薛の眉が持ち上がる。愉快そうに唇の端を吊り上げた。
「さすがに俺の顔は知っていると見える。天眼とやらは教えてくれなかったのか? 後宮に入りこんだ男がどのような末路を辿るのか。なあ、いかさま占い師の燕」
 バレている——。
 春燕は目を閉じる。万事休す。ここから巻き返す方法がわからない。
 瞼の裏に、一人の少女の顔が浮かぶ。灰色の雪景色の中、墨を一雫垂らしたように鮮やかな美貌。春燕より少し年上の、たった一人の親友。
(ごめん、ごめんね、(せつ)。私、あなたの力になりたかったのに。ここまでみたい)
 慕わしい少女の紅唇が動く。最後に会ったとき、彼女はなんと言ったのだったか。可憐な容貌に相反して、凛とした声だった。
『春燕、必ず、あいにきて』
 瑞薛がふっと笑った。慈悲深げな声音で、撫でるように問う。
「お前の行く末を決める前に、一つだけ聞いてやろう。——なぜ、ここにきた?」
 目を開ける。目尻に涙が滲むのを振り払う。思考を巡らせ、なんとかこの場を切り抜ける道を見つけようとする。嘘か? はったりか? 異能か? なんでもいい。助かるためならなんだって使ってやる。
 そう決めてキッと視線を上げ、瑞薛と目があった。彼はずっと春燕を見つめていた。断罪するというよりは、春燕の答えを見守るような眼差しだった。
 とたん、体から力が抜けていく。その瞳に見据えられると、なぜだか虚勢がぽろぽろと剥がれていった。どこか懐かしいような気もして、嘘をつこうと思えなかった。なんでも使うと誓ったのに、口からこぼれたのはただ一つの真実だった。
「——友人に、あいにきたのです。私の大切な、雪という名の女の子に」
 瑞薛の目がわずかに瞠られる。その変化に春燕が眉を寄せる前に、彼の顔には冷え冷えとした翳が被さった。
「ほう?」
 いかにも冷徹な皇帝らしい、重々しい口調で言う。
「ならば、お前には利用価値がある。来い」