月光を浴びて濡れたように光る回廊を、瑞薛と春燕はそぞろ歩く。
秋とはいえ夜は冷えこんで、春燕は瑞薛に裘を返そうとした。
「私は構いませんから、これは陛下が身につけてください」
「俺には不要だ。動きづらくなるしな。それより燕が着ておけ。風邪でも引かれたら後宮の女たちの目が怖い」
そう悪戯っぽく言われると押し返しづらくなる。春燕は裘のふわふわとした手触りを撫でて、歩を進めた。
逍遥という言葉に違わず、瑞薛は目的もなさげに歩いた。気まぐれのように角を曲がり、過廊を横切り、妃嬪の宮を素通りしていく。
やがて辿り着いた先は楼閣だった。
三階建てで、後宮の高墻越しに外朝を臨み、遥か城市の先まで見通せる。時折、郷愁に駆られた妃嬪や女官がやってくるのだ。今はひと気もなく、ときどき虫の鳴く声が夜陰を震わせるくらいで、周囲は静まり返っていた。
楼閣の楼梯を上りながら、春燕は口を開く。
「……先ほどの、陛下が死なずに済む方法とは、どのようなやり方なのですか」
「気になるか?」
「陛下の命に関わることでしょう。気になるに決まっています」
「簡単な話だ。呪紋が心臓に届く前に、右腕を斬り落とせばいいらしい」
「……は」
春燕の応えは掠れて、冷たい風にさらわれていった。
先行く瑞薛はなんでもないように、
「利き腕だからなるべく残しておきたいが、間に合わなければ斬るしかないだろうな。情勢が不安定な今、俺が死ぬと国が乱れるから」
「そ、れは」
ふらっと足がよろけて、春燕は手摺にしがみついた。ひんやりとした感触が手のひらに伝わる。指先が細かく震え始めた。裘の温かみだけが確かだった。
瑞薛は足を止めることなく、どんどん上へのぼってしまう。
「俺はこの国を平らかにするまで絶対に死ぬつもりはない。生き永らえる方法があるというのに、皇帝である俺が臆するわけにはいかないだろう」
「それでご自身を犠牲にするとしても……?」
「そうだ」
迷いのない答えだった。びゅう、と風が吹きつけて瑞薛の長い髪をなぶっていく。ああ、と思った。彼は楼閣の最上階、この国全てが見渡せる場所に辿り着いたのだ。
「今宵は良い夜だな。静かで」
勾欄に肘を置き、瑞薛が呟く。月影に縁取られた横顔は、天上の生き物のように光を放って見えた。
春燕は奥歯を噛み締める。足に力を込め、残り数段を走って上り切った。
「——ええ、本当に穏やかな、良い夜ですねえ」
瑞薛の隣に並んで、眼下に首を巡らせた。
満天の星の下、どこにも火の手は上がらず、建物は皆安らいで眠っているように映る。ところどころ灯りがついているのは深夜番か、もしくは小酒館か。ここからでは小さくて判別できない。でも、闇の中にぽつんと灯るその光がとても温かな橙色なのはわかった。
どうということはない、かけがえのない、ありふれた一夜だった。
「陛下は、こういうものを守りたくて、皇帝になったのですか」
春燕の囁くような問いに、瑞薛は肩をすくめる。
「さあな。ただ、俺とて眠れぬ夜はある」
そして瑞薛の右手が長剣の柄を掴んだ。
「燕、下がれ」
言われるのと、肩を掴まれて背後に追いやられるのは同時だった。
どん、と腰が勾欄にぶつかる。危うく落ちそうになって、何事かと目を白黒させているうちに全ては終わった。
ついさっきまで春燕の立っていた場所に、暗い色の布衣を着た男が倒れ伏していた。
その胸はざっくりと一文字に斬られ、どくどくと粘っこい液体が流れ出している。それは布衣の胸元を赤く染め、床に溜まり、細い流れを作って勾欄の方へつたっていく。——血だ。
それを冷然と見下ろすのは瑞薛。右手に持った長剣の血潮を拭い、すでに鞘に納めている。白皙の頬に血飛沫が点々と飛んでいた。
「な……何が」
やっとのことで絞り出した声は、情けないほど震えていた。すうっと血の気の下がる感覚がしてその場にへたり込む。裘が肩からずり落ちた。夜風が急に冷たく体を撫でる。
瑞薛が淡々と言った。
「兇手だ。寝房にいるときから殺気を放っていた。そんなことより、燕に怪我はないか?」
「へ……」
瑞薛がこちらを向く。その長袍に血が一面にしぶいているのが夜目にもわかって、春燕は息を呑んだ。
思わず裘をしっかり体に巻きつける。春燕には血の一雫さえも触れていない。——庇われたのだ、瑞薛に。
恐らく、寝房を出たのも楼閣に兇手を誘い込むためなのだろう。四囲を勾欄に囲まれ、天にそびえる楼閣には逃げ場がない。自らを囮にして返り討ちにしたのだ。初めから斬り合いになるとわかっていたから裘も身につけなかった。一方で、逍遥に誘うときに離れるなと言い置いたのは春燕を守るためで——。
春燕はわななく唇を動かして、たどたどしく言葉を紡いだ。
「わ、私は平気です。その、ありがとうございました」
「怪我がないようで良かった。燕は先に寝房に戻れ。俺は後始末をするから」
「しかし……これは呪いと関係があるのではないですか? 私もいた方が」
「無関係だろうな。この布衣には見覚えがある。吏部侍郎の子飼いの兇手だ。次の朝儀では吏部侍郎を更迭する予定だから、その前に兇手を送り込んできたのだろう。まったく、うんざりするほど短絡的だ」
「そうなのですか……」
春燕はごくりと唾を飲み込む。改めて、彼の座る玉座がいかに危うい均衡を保っているのか身に沁みた。
それでも、瑞薛は決してその座を降りないのだろう。
春燕の頬に瑞薛の指が伸べられる。だがその爪が赤く濡れているのに気づいて、瑞薛はすぐに手を引っ込めた。
瑞薛の顔に、自嘲の笑みが滲む。
「自分ではわからないだろうが、燕は真っ青だぞ。今にも倒れそうだ。頼むから早く休んでくれ。——それでまた、明日の朝会おう。いつも通りの顔をして」
秋とはいえ夜は冷えこんで、春燕は瑞薛に裘を返そうとした。
「私は構いませんから、これは陛下が身につけてください」
「俺には不要だ。動きづらくなるしな。それより燕が着ておけ。風邪でも引かれたら後宮の女たちの目が怖い」
そう悪戯っぽく言われると押し返しづらくなる。春燕は裘のふわふわとした手触りを撫でて、歩を進めた。
逍遥という言葉に違わず、瑞薛は目的もなさげに歩いた。気まぐれのように角を曲がり、過廊を横切り、妃嬪の宮を素通りしていく。
やがて辿り着いた先は楼閣だった。
三階建てで、後宮の高墻越しに外朝を臨み、遥か城市の先まで見通せる。時折、郷愁に駆られた妃嬪や女官がやってくるのだ。今はひと気もなく、ときどき虫の鳴く声が夜陰を震わせるくらいで、周囲は静まり返っていた。
楼閣の楼梯を上りながら、春燕は口を開く。
「……先ほどの、陛下が死なずに済む方法とは、どのようなやり方なのですか」
「気になるか?」
「陛下の命に関わることでしょう。気になるに決まっています」
「簡単な話だ。呪紋が心臓に届く前に、右腕を斬り落とせばいいらしい」
「……は」
春燕の応えは掠れて、冷たい風にさらわれていった。
先行く瑞薛はなんでもないように、
「利き腕だからなるべく残しておきたいが、間に合わなければ斬るしかないだろうな。情勢が不安定な今、俺が死ぬと国が乱れるから」
「そ、れは」
ふらっと足がよろけて、春燕は手摺にしがみついた。ひんやりとした感触が手のひらに伝わる。指先が細かく震え始めた。裘の温かみだけが確かだった。
瑞薛は足を止めることなく、どんどん上へのぼってしまう。
「俺はこの国を平らかにするまで絶対に死ぬつもりはない。生き永らえる方法があるというのに、皇帝である俺が臆するわけにはいかないだろう」
「それでご自身を犠牲にするとしても……?」
「そうだ」
迷いのない答えだった。びゅう、と風が吹きつけて瑞薛の長い髪をなぶっていく。ああ、と思った。彼は楼閣の最上階、この国全てが見渡せる場所に辿り着いたのだ。
「今宵は良い夜だな。静かで」
勾欄に肘を置き、瑞薛が呟く。月影に縁取られた横顔は、天上の生き物のように光を放って見えた。
春燕は奥歯を噛み締める。足に力を込め、残り数段を走って上り切った。
「——ええ、本当に穏やかな、良い夜ですねえ」
瑞薛の隣に並んで、眼下に首を巡らせた。
満天の星の下、どこにも火の手は上がらず、建物は皆安らいで眠っているように映る。ところどころ灯りがついているのは深夜番か、もしくは小酒館か。ここからでは小さくて判別できない。でも、闇の中にぽつんと灯るその光がとても温かな橙色なのはわかった。
どうということはない、かけがえのない、ありふれた一夜だった。
「陛下は、こういうものを守りたくて、皇帝になったのですか」
春燕の囁くような問いに、瑞薛は肩をすくめる。
「さあな。ただ、俺とて眠れぬ夜はある」
そして瑞薛の右手が長剣の柄を掴んだ。
「燕、下がれ」
言われるのと、肩を掴まれて背後に追いやられるのは同時だった。
どん、と腰が勾欄にぶつかる。危うく落ちそうになって、何事かと目を白黒させているうちに全ては終わった。
ついさっきまで春燕の立っていた場所に、暗い色の布衣を着た男が倒れ伏していた。
その胸はざっくりと一文字に斬られ、どくどくと粘っこい液体が流れ出している。それは布衣の胸元を赤く染め、床に溜まり、細い流れを作って勾欄の方へつたっていく。——血だ。
それを冷然と見下ろすのは瑞薛。右手に持った長剣の血潮を拭い、すでに鞘に納めている。白皙の頬に血飛沫が点々と飛んでいた。
「な……何が」
やっとのことで絞り出した声は、情けないほど震えていた。すうっと血の気の下がる感覚がしてその場にへたり込む。裘が肩からずり落ちた。夜風が急に冷たく体を撫でる。
瑞薛が淡々と言った。
「兇手だ。寝房にいるときから殺気を放っていた。そんなことより、燕に怪我はないか?」
「へ……」
瑞薛がこちらを向く。その長袍に血が一面にしぶいているのが夜目にもわかって、春燕は息を呑んだ。
思わず裘をしっかり体に巻きつける。春燕には血の一雫さえも触れていない。——庇われたのだ、瑞薛に。
恐らく、寝房を出たのも楼閣に兇手を誘い込むためなのだろう。四囲を勾欄に囲まれ、天にそびえる楼閣には逃げ場がない。自らを囮にして返り討ちにしたのだ。初めから斬り合いになるとわかっていたから裘も身につけなかった。一方で、逍遥に誘うときに離れるなと言い置いたのは春燕を守るためで——。
春燕はわななく唇を動かして、たどたどしく言葉を紡いだ。
「わ、私は平気です。その、ありがとうございました」
「怪我がないようで良かった。燕は先に寝房に戻れ。俺は後始末をするから」
「しかし……これは呪いと関係があるのではないですか? 私もいた方が」
「無関係だろうな。この布衣には見覚えがある。吏部侍郎の子飼いの兇手だ。次の朝儀では吏部侍郎を更迭する予定だから、その前に兇手を送り込んできたのだろう。まったく、うんざりするほど短絡的だ」
「そうなのですか……」
春燕はごくりと唾を飲み込む。改めて、彼の座る玉座がいかに危うい均衡を保っているのか身に沁みた。
それでも、瑞薛は決してその座を降りないのだろう。
春燕の頬に瑞薛の指が伸べられる。だがその爪が赤く濡れているのに気づいて、瑞薛はすぐに手を引っ込めた。
瑞薛の顔に、自嘲の笑みが滲む。
「自分ではわからないだろうが、燕は真っ青だぞ。今にも倒れそうだ。頼むから早く休んでくれ。——それでまた、明日の朝会おう。いつも通りの顔をして」